第五章 戦後と戦前Ⅶ
第五章 戦後と戦前Ⅶ
【十四】
そんななかでのことである。
駐伊フランス大使のドラクロワは、ヴェネツィア宮殿に足を踏み入れた。
彼は、ポーランドの亡命政府代表に冷笑を浴びせたその人だった。
「気持ちはわかるが、言っていいことと悪いことがある」
「これはどちらですか?」
「当然、後者である。外交問題になっているんだぞ」
「亡命政府との外交問題など、問題のうちに入りませんよ」
窘めた上司も、これには参ってしまった。
頭がいいのは確かなのだが、ポーランドへの手前もある。
さりとて表立って左遷するのも本人の将来に関わるだろう。
そこでイタリアだった。
ドイツとの協調を掲げる同国は、今や最重要国家のひとつである。
ついでにローマの風呂でゆっくりしてこいと、こういうわけだった。
だがドラクロワが着任して少しすると、ドイツがフランスへ侵攻した。
戦況は伝聞でしかないが、かなり悪いらしい。
そうなると、わからないのがイタリアである。
演習と称して部隊を移動するのはよくある手だが、ドイツと呼応するわけでもない。
イギリス大使などはこれをして「きみの国が弱るのを待っているんだぜ。ドイツの勝ち馬に乗りたいのさ」などとうそぶいた。
一国の大使にしては非礼な態度であるが、イギリス人に目くじらを立てていたら目がいくつあっても足りやしない。
だが、こうしてヴェネツィア宮殿に呼びつけられると、いよいよ来るべきときが来たかと思う。
宣戦布告を手交されるなど、人生で何度もあることじゃない。
楽しみというのは少し違うが、妙な昂揚があった。
応接室に通されると、ガレアッツォ・チアーノ伯爵がうやうやしく出迎えた。
イタリアの外務大臣にして、ムッソリーニの娘婿である。
端的にいえば、超大物だ。
「大使、お呼び立てして申し訳ありません」
「いえ、ヴェネツィア宮殿はいつ来てもすばらしいところです」
形ばかりの挨拶を交わすと、勧められるままに腰かけた。
すかさず紅茶が用意される。色と香りが妙に濃く、上品さはない。
これから敵国になる大使には、安物で十分ということか。
「これは今、わたしが気に入っている紅茶でしてね。高級品ではありませんが、疲れた頭によく効くんです」
そう言ってチアーノが、砂糖とミルクを入れた紅茶を、ぐっとあおる。
そのさまを見て、ドラクロワの喉が我知らず鳴った。
渋々という態度で口をつけると、第一印象の通りの味がした。
混ぜものに負けない飲み応えがあって、脳に沁み込む感じがあった。
「これは、なんというか……すごいですね」
「でしょう。日本産らしいんですが、今やこれが無くては仕事になりません」
なるほどと思う。
優雅な嗜好品というよりも、燃料とか薬と呼ぶべき代物だ。紅茶にも、まだまだ知らないことがある。
しかし。
紅茶のカップをテーブルに置く。ことり、と静かな音が部屋に響いた。
「伯爵。今日はお茶のご相伴にお招きいただいたというわけですか?」
ドラクロワはチアーノを見据えて、訊ねた。
チアーノが、じっとドラクロワを見つめ返す。彼もまた、カップから手を離した。
「わがイタリアは、貴国の現状を深く憂慮しているのです」
「……お気づかい、痛みいります」
「ところで、いかがでしょうな?」
「なにがです」
「今どきのアルプスからの眺めというのは」
チアーノは微笑を浮かべてそう言った。
アルプス山脈は伊仏国境を隔てる、天然の要害である。
声が出そうになるのを、ドラクロワはなんとか呑みこんだ。
「……この時期は、まだ雪が残っているでしょう。あまりおすすめは致しませんね」
「なるほど。しかし越える方法は、無いわけではないでしょう」
ドラクロワは、伯爵、と声を絞りだす。
「もしも貴国が本気であれば、われわれはお茶を飲み交わすこともなかったでしょう」
チアーノの鋭利な視線が、ふっとやわらぐ。彼は破顔していった。
「いや、失敬。貴殿が宣戦布告でも受けとるような顔でいるものだから、ついからかいたくなりましてね」
「……悪いお人だ」
「お詫びといってはなんですが、これだけは伝えておきましょう」
「なんですか」
「わがイタリアは、貴国と戦いたくはない」
平静を装って、ドラクロワは紅茶を口にした。
戦いたくはない? 戦いたくはないと言ったか?
チアーノの真意がわからない。彼は再び微笑を浮かべている。
イタリア軍の能力は未知数だ。
ここ数年は実戦を重ねており練度も向上しているというが、大きく見積もってもドイツの半人前がいいところだろう。
それでも死に体の祖国にしてみれば、半人前でも十分なのだ。
国土の荒廃に拍車がかかり、復興には長い時間を要するだろう。
だからこそ「戦いたくはない」というチアーノの言葉は、ドラクロワがもっとも引き出したいひと言だった。
だがこれは外交官の会談である。
慈悲と善意が言わせているのでないとすれば、それなりの代償が必要だった。
「……わたしは、なにをすればよろしいですか」
「さすがはドラクロワ大使、話が早い」
微笑を浮かべたまま、チアーノはカップを取った。
ず、と紅茶をすすり、カップを置いて、ドラクロワへ向き直る。
「貴国とドイツとの協議について、細大漏らさず、かつ即時お伝え願いたい」
「そんなことが……」
できるわけない、と言いかけた。
ドイツとの協議といえば、当然休戦や停戦――つまりは降伏の話になるだろう。
おいそれと他国に流すたぐいのものではない。
だがチアーノは、口角だけで笑っている。
「そんなことでもできるはずです。祖国を救うためですからね」
今の祖国フランスは、「降伏する」という情報すら売らねばならない状況だった。
貧乏ゆえに家財を二束三文で売り、さらに貧しくなっていくようなものだ。
それでも今日を生きるために、その二束三文が必要なのだ。
しかし。
ドラクロワは祖国の利害を代表する人間だ。
手札は驚くほど少ないが、人生は配られた札で勝負するしかない。
「しかし、わがフランスはいまだ持ちこたえております」
「さよう。よく戦っておられる」
「イギリスへ逃れた兵たちを帰還させれば、パリの守りは盤石のものとなりましょう」
フランスの防衛をパリの維持へ言い換えることで、その健在ぶりを主張する。
同時にダンケルクからドーバー海峡を渡った将兵も、手札にしてみせた。
だがチアーノは、返事をせずに紅茶を飲んだ。
その札では戦えませんね、と。
そう。帰還させればなどとは言うが、帰還させる方法はない。
装備はダンケルクに置いてきた――からドイツ軍に接収されているだろう。
代わりにチアーノは目を閉じて、悔やむように言った。
「ああ、そう、ダンケルクですか。あれは残念なことでありました」
「……どういうことです」
「わが義父はヒトラー総帥にお伝えしたのです。英仏将兵に格別の配慮をするように、と」
「な……!?」
ドラクロワは言葉を喪った。
ダンケルクを包囲したヒトラーは、攻撃を一時停止していた。
三十三万の将兵を、英仏政府との交渉材料にしていたのだ。
ドラクロワは、まさにその交渉に当たっていた。
ヒトラーの甘言に乗るふりをして、将兵の脱出準備を進めていた。
実際もう数日の時間を稼げれば、「半分以上」ではなく「全員」を脱出させることができたはずだ。
そしてそれは、なかば成功していたのである。
だがヒトラーは気が変わったように、交渉を一方的に打ちきった。
なにがあったか、そのときはわからなかった。
チアーノの言が事実であるならば、ムッソリーニが要らんことを言ったおかげで、ヒトラーの気が変わったことになる。
「ドゥーチェの諫言を無視して、ドイツ軍は英仏軍に対して包囲殲滅の戦いをした。勝敗は決しているのに、まったく無益なことです」
「きさまらのせいで死ななくていい将兵が死んだのだぞ!?」
「いやいや、大使。言いがかりはよしてください」
「言いがかりなどと……」
いきり立つドラクロワに、チアーノは手のひらを見せて制した。
そのままゆっくりと手を動かして、落ち着くようにと促した。
そして、言い聞かせるように、おだやかに言う。
「われわれは、ドゥーチェは“やるな”と申しあげたのです。“やった”のはヒトラーです」
ドラクロワは、めまいを覚えた。
ここで倒れてしまえたら、どんなに楽だろう。
だが今や自らの一挙手一投足が祖国の運命を左右するのだ。
寝ている暇などない。
カップの紅茶を、ぐっと飲み干す。
カフェインが脳を酩酊させて、目に血流が走るのを感じる。
「――では、伯爵。わが祖国を憂う貴国の友情に、わたしは全力でお応えしましょう」
「貴国は必ず立ち直るでしょう。そのときは、わがイタリアも協力を惜しみませんよ」
「友情ついでに、もうひとつお願いを聞いていただけませんか」
肚が決まって、ドラクロワも興が乗ってきた。
そんなようすを見てか、チアーノも楽しそうに返事をする。
「構いませんよ。――“艦隊”のことでしょう?」
「さすがは伯爵、話が早い」
おかわりの紅茶に口をつけながら、ドラクロワは言った。
艦隊というのは、もちろんフランス海軍の艦隊である。
フランス海軍は大きな海戦をやったわけではない。
戦艦数隻を含む艦隊は、その能力を維持できていた。
「貴国がどのような決断をするにせよ、艦隊は最後の切り札になる」
「ええ。ドイツは艦艇を欲するでしょう。であれば、そこに交渉の余地があります」
「だがイギリスにしてみれば、自国に引き入れるか――それが叶わなければ無力化を試みるでしょうな」
「おそらく、イギリスは容赦しないでしょう」
ふうむ、とチアーノが唸る。
ドラクロワが言を継ぐ。
「わがフランス艦隊は、長らく貴国艦隊の好敵手を務めて参りました。われわれが脱落すれば、地中海の軍事的均衡は大きく傾くことになりましょう」
「――地中海の留守を預けていただけるわけですか」
「さいわい、海外の植民地は維持しております。ツーロンなり、あるいはインドシナまで行ってもいい」
ドラクロワ個人で言えば、アジアの高温多湿が大嫌いだった。
だがこれは旅行先を選んでいるわけではない。
それにチアーノは別のことが気になったようだった。
「インドシナまで行けば、日本も目の前ですな」
「日本、ですか」
日本が近代化を目指したとき、まず師に仰いだのがフランスだった。
しかし日本はその過程で陸はドイツ、海をイギリスに学ぶこととした。
外交官として通り一遍のことはわかるものの、それ以上の思い入れは特になかった。
だがチアーノにとっては、少し事情が違うらしい。
「じつは、わが海軍には日本の将校が来ています」
「ほう。変わったご縁をお持ちですね」
「はみ出しもの同士ですので」
ドラクロワは少し居心地が悪くなる。
日本もイタリアも、好んで“はみ出しもの”になったのでない。
英仏やアメリカが、そのように線を引いたのだ。
それを見て、気づかうというよりも満足したように、チアーノは話題を変えた。まあ、日本のことは置いておくとして。
「貴国の艦隊には最大限の配慮をいたしましょう」
「ありがとうございます。――ときに、伯爵」
「なんでしょう」
「貴国がフランスに攻め入らないという保障をいただきたいのですが」
ドラクロワは、笑顔を消して言った。
チアーノは、あいかわらず薄く微笑を浮かべている。
「国際情勢に保障などはございませんよ。それは貴国が一番よくご存じでしょう」
言われるまでもない。フランスはポーランドの安全を保障する立場だった。
それを反故にしておいて、今度は自国の安全を保障しろと言う。
端から聞けばとんでもないやつである。
フランス人は面の皮が厚いと言われるのも、理解できてしまう気がした。
それでも。それでもこれは必要なことなのだ。
「もちろん、よくよく承知しております。それでもこれは必要なことなのです」
「さすがはフランス人ですね」
チアーノは、面の皮が厚いですね、とまでは言わなかった。
「われらの友情にかけて、保障いたしましょう」
「それは光栄ですが、少し弱いですかね」
これはまた手厳しい、とチアーノが笑う。
では、と笑みを消して声を潜めた。
「義父の墓にかけて、というのはどうですか」
「……正気ですか」
「ええ、本気ですよ」
チアーノの義父――ムッソリーニは当然存命である。
その独裁者の墓に誓うなど、軽々に言えることではない。
チアーノは、ドラクロワの前で危険を背負ってみせたのだ。
独裁国家であるがゆえに、そのひと言には重みがあった。
ドラクロワは、冷めた紅茶を一気に飲み干した。
「お茶をご馳走さまでした」
「お気に召したようでなによりです」
「ええ。けっこうなお点前でした」
「よければ、少しお分けしましょうか。あとで届けさせましょう」
「ありがとうございます。これも友情の証というやつですか」
「それもありますが――」
「なんですか」
「これから、さらに忙しくなるでしょうから」
イギリスの引き留めにもかかわらず、フランスはドイツとの休戦協定に調印した。
フランスには、親独親伊の傀儡政権が準備されることになる。
一九四〇年六月二十二日のことである。
同日、イタリアはイギリスへ宣戦布告した。
イタリア軍はマルタ島を奇襲攻撃し、同島を占領した。




