第五章 戦後と戦前Ⅵ
第五章 戦後と戦前Ⅵ
【十二】
一九三六年七月に始まったスペイン内戦は、足かけ三年も続いてしまった。
一九三九年の三月になると、ヒトラーはチェコスロバキアを解体する。
これにより英仏は、ファシズムに対する宥和政策の見直しを迫られることになる。
だが見直しを迫られるなどと、悠長にしてはいられなかった。
◇ ◇ ◇
翌月にはムッソリーニもアルバニアへ進攻、わずか数日で降伏せしめてしまった。
ただし、ムッソリーニもイギリスも、アルバニアのことを見ているわけではなかった。ギリシャである。
ギリシャは親英の中堅国家だ。
旧式ながら二隻の戦艦を保有しており、陸軍の規模も相当である。
イタリアにとっては目の上のこぶと言っていい。
だがこのこぶを取ろうとすれば、それなりの出血を覚悟しなければならなかった。
そして今のイタリアに、流していい血は一滴も無い。
だからこそ、アルバニアであった。
まあ、アルバニアにとってはいい迷惑でしかないが。
ともあれ、イタリアの意図を、ギリシャは正しく汲み取った。
両国は水面下での接触を重ねることになる。
ギリシャが親英である、というのはつまり、英伊の争いに巻き込まれたくない、ということなのだ。
日和見主義の蝙蝠国家と罵ることは簡単である。それでも列強未満の中小国は、列強勢力の狭間にあって、生存権を見出すしかない。
◇ ◇ ◇
同年五月、イタリアとドイツの間で鋼鉄協約が結ばれる。
それは互いの理想に共鳴したとか、そういう美しいものではない。
なんなら互いに互いを格下に見ているふしがあった。
国際秩序からのはみ出しもの同士が、手を取りあったとでもいうべきものだ。
鋼鉄の結束を示せるかどうかは、完全に未知数である。
◇ ◇ ◇
同年八月、世界に激震が走る。
独ソ不可侵条約である。
反ファシズムのソビエトと、反共を掲げるドイツ第三帝国が、互いの生存圏を認めたのだ。
日本ではこれをして、欧州情勢は複雑怪奇、などとされたが、欧州から見てもその動揺は大きなものだった。
◇ ◇ ◇
同年九月、ドイツがポーランドへ侵攻する。
もはや看過できずとして、英仏はドイツへ宣戦布告した。
人類が経験する、二度目の世界大戦であった。
それでもまだ、前回ほどにはならないだろうという希望があった。
もちろん、なんの根拠もない希望ではあったのだが。
【十三】
この日に世界大戦が始まりました、というのは、あとから初めてわかることである。
英仏はポーランドを防衛するべく、ドイツへ宣戦布告した。
だが手を打つ暇もないままに、ポーランドという国は地図から消えた。
それでも英仏は、望みを捨ててはいなかった。ポーランドを駆け抜けたドイツ軍は、突如その活動を休止したのだ。
ポーランドのことは気の毒である。
だが平和の代償は常に大きい。そして平和は尊いものだ。
英仏には、このままドイツが動かないならば、現状による講和もありうる空気が漂っていた。
納得できないのはポーランドの亡命政府である。
英仏による安全保障はどうなっている、英仏軍により失地回復するべきだろうと猛抗議した。
そのときフランスの外務官僚が、薄ら笑いで言ったという。
おたくの国してみれば、どうせいつものことだろう、と。
もはや抗議などでは生ぬるい。亡命政府の代表は、くだんの官僚に掴みかかったともされている。
たしかにポーランドは、過去に何度も国土を失っている。
そういうかなしい歴史がある。だからこそ憤っているのだ。
それを冷笑するならば、怒りを招いて当然だった。
フランスは、非公式ながら首相が謝罪するまでになった。
ドイツ軍は動かなかった。
一九三九年が終わり、年が明ける。
空気がやわらぎ、欧州にまやかしの春が訪れた。
三月になり、四月になっても、ドイツ軍は動かなかった。
だが、五月十日のことである。
未明のうちに、オランダ、ベルギー領内へ踏みこんだ。
立ちはだかるのは、欧州屈指の要塞である。エバン・エマール要塞だ。
先の大戦で、ベルギーはドイツの“通りみち”にされてしまった。
運河に架かる橋を守るべく、その要塞は配されていた。
同じ轍は踏まないというわけだ。
ドイツにしてみても、それは同じ思いであった。
同日早朝、エバン・エマール要塞はドイツ軍の侵入を許していた。
空挺降下である。
要塞は翌日に白旗を掲げた。
これで焦ったのがフランスだった。
ベルギーは、ポーランドとはわけが違う。
直ちに軍主力を投入し、ベルギーの支援を企図した。
だがドイツにとっては、これこそが囮だったのだ。
ドイツ軍の戦車部隊はアルデンヌの森をくぐり抜け、英仏連合軍の後背を突いた。
結果として、フランスの誇るマジノ線要塞群も無力化された。
あとはドイツ軍の独壇場だった。
戦車、砲兵、航空部隊が密に連携し、枢要部を叩き続け、進撃し続ける。
電撃戦である。
ドイツ軍はこのために整備され、その能力を遺憾無く発揮した。
二週間もすると、英仏軍はドーバー海峡へ追い落とされようとしていた。
ダンケルクの地である。
ここを包囲したドイツ軍は停止する。
どうやらヒトラーは、イギリス宰相ウィンストン・チャーチルに「貸し」を作りたかったらしい。
あるいは三十三万の英仏軍将兵を、交渉材料にするつもりだったのかもしれない。
だがムッソリーニからの電報が、ヒトラーの気分を変えた。
「英仏軍将兵に格別の配慮をされたし」という旨のそれが、ヒトラーの逆鱗に触れたのだ。
兵は出さないのに口は出す、そんなやつの指図など受けるものか、というわけだ。
いったん停止したドイツ軍は、再び攻撃を開始した。
対する英仏軍は、ダンケルクの狭い正面を利用してよく戦った。
殿を務めたのは、実戦経験が豊富な、歴戦の猛者たちである。
イギリス軍のしぶとさと、フランス軍の騎士道が、撤退を支えていた。
結果的に、包囲されていた英仏軍将兵は、半数以上が脱出に成功する。
その一方で、それを支援した精鋭部隊の多くがダンケルクの土となった。
彼らを欠いてなお、英仏軍は戦い続けねばならなかった。
とりわけフランス軍の事態は深刻だった。
今なおパリは健在であり、徹底抗戦が叫ばれている。
だが立ち直るための時間もなければ手段もない。
ドイツ軍を跳ね返す力は、すでに残っていなかった。




