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第一章 遣伊将校Ⅰ

挿絵(By みてみん)

第一章 遣伊将校Ⅰ


【一】


 時は一九三五年のことである。

 南雲忠一少将は、いまだ尻に馴染まない第一水雷戦隊司令部の椅子から、腰を上げかけた。

 入室してきたのは、山本五十六中将だった。

 彼に手で制されて、再び腰を下ろす。

 山本はそのまま応接用の椅子に、深く背を預けた。


 今日は視察の予定もなかったはずだが、山本というのはこういう男だ。

 従兵もつれず、自由気ままに飛び回る。形に嵌まらないが、それはそれとして無礼は許さない。

 なので南雲にとって、山本というのは気を遣うべき相手だった。


 その山本が、イタリアに将校を派遣したい、誰か居ないか、と持ちかけてきたのだ。

 理由はわからない。軍縮条約の予備交渉で、なにかあったとみるのが妥当だろう。

 もしかすると、イタリアの代表とカードかなにかをやって、負けたのかもしれない。

 ともあれ、山本というのはこういう男だ。


「イタリアですか。ちょうどうちに〈スペランツァの悲劇〉を経験した者がおりますな」

「それは都合がいいな。イタリア語は?」

「多少できるかと思います。候補生ながら、イタリア側との連絡将校をやらされていたようなので」


 南雲の従兵が、山本にコーヒーを持ってくる。

 山本は軽い調子で礼を言う。

 こういうところを、気さくな上官だと自分で思っているのだろう。


「海軍は人遣いが荒いな」

「まあ、本人は行きたがらんでしょうな」

「なお都合がいいじゃないか」


 山本が笑って、コーヒーに砂糖を山ほど入れる。

 コーヒーも砂糖も、海を越えて運ばれてくるのだと、当たり前のことを南雲は思う。


「しかし、うちから出すのは構わんのですが、どうしてうちなのです?」

「理由などないよ」

「は?」


 南雲は思わず聞き返してしまう。

 甘ったるいだろうコーヒーを啜って、山本は楽しそうに言った。


「帰国して最初の視察がここだっただけだ」

「ほんとうに、海軍は人遣いが荒いですね」


  ◇ ◇ ◇


 伊東大尉は、司令部に呼ばれる理由が見当もつかなかった。

 特になにかやらかしたわけでもないし、同じく褒められることもない。

 異動にしては時期も妙だ、と思って司令部のドアを叩き、南雲司令に対面する。

 イタリア行きらしい。


「イタリア、ですか」

「ああ。青春の地中海だ」

「正直、あまりいい思い出ではありませんので」

「スペランツァか」

「ええ」


 イタリア、そして地中海は候補生時代に行ったことがある。

 傷病人輸送船「スペランツァ」その他を護衛していたときは大変だった。

 ドイツの潜水艦によりスペランツァが被雷、転覆沈没という惨事に見舞われる。

 必死の救助活動によりそれなりの人数を掬いあげたが、多数の行方不明者を出したのも事実だった。

 のちに駆逐隊はイタリア王室より感状を受けた。

 だが今なお、救えなかった者、救えたはずの者のことを考えるときがあった。


「伊東」

「はい」

「頑張れ」

「……はい」


 海軍は人遣いが荒い。個人の感情など斟酌しない。

 だが一つ、大きな疑問がある。


「しかし、イタリアで何をやるのです?」

「海軍が空母を持ちたいらしい」


 空母。飛行機を載せるフネのことだ。

 伊東にとって空母とは、沈める対象か、守る対象であって、自分が乗るものではないはずだった。


「航空は専門外ですが」

「専門家は山本中将のところで出すそうだ」

「ならば、わたしでなくても」


 本音だった。イタリアや、イタリア語に精通しているのは、なにも伊東だけではないだろう。

 そりゃあ日常会話くらいできるとは言え、べつにイタリアの専門家でもない。

 他に適任はいるはずだった。


「伊東」

「はい」

「頑張れ」

「……はい」


 海軍は人遣いが荒い。


  ◇ ◇ ◇


 翌日、司令部に来客があった。

 荷造りをしていた伊東は、会議室へ呼ばれ、駆けこんだ。


「遣伊将校、少佐の加藤だ。よろしく頼む」

「同じく、大尉の伊東です。よろしくお願いします」


 変な人ではなさそうだ、と安心する。

 なにせ二人での海外旅行だ。おかしな上官だと苦労するだろう。


「伊東大尉、地中海の経験があるそうだな。頼もしい」

「少佐も欧州へは行かれたとか」

「ああ。航空戦の視察で、西部戦線へな」

「西部戦線ですか。またイタリアとは関係ないところですね」


 思わず苦笑してしまう。

 この人も自分と同じように、無茶苦茶な理屈で派遣される仲間なのだ。


「山本中将がおっしゃるには、欧州は欧州だろう、ということだ」

「わたしも、飛行機のことは何もわかりません。どうかご教示ください」


 イタリアを知らない航空の専門家と、飛行機を知らないイタリアの経験者。

 なんとも奇妙な取り合わせである。


「海軍は人遣いが荒いな」

「まったくです」


 どちらともなく吹き出してしまった。

 ひとしきり笑ってから、加藤が口を開いた。


「ところで、伊東大尉はどうして海軍へ?」

「今となっては恥ずかしい話ですが、東郷元帥に憧れておりまして」

「いいじゃないか。当時はみんな似たようなもんだろう」

「まあ、そうですが」


 候補生時代ならいざ知らず、この歳になって東郷元帥に憧れまして、というのは気恥ずかしい。

 しかし、加藤はべつのところが気になったようだった。


「それにおまえは、元帥になれそうな名前をしている」

「やめてください」


 海軍に所属していて伊東姓なので仕方ないといえばそうなのだが、これは散々いじられてきたことだった。

 つまり初代連合艦隊司令長官、伊東祐亨元帥のご親族では、ということだ。

 否定するのも面倒だが、相手は軍神で元帥だ。

 勘違いされるのもまた面倒だった。


「違うのか」

「違います」

「親戚では?」

「違います」

「遠縁とか?」

「違います」

「ほんとうに?」


 加藤は妙に食い下がってくる。

 一つ小さく溜息を吐く。


「人類みな兄弟、という話でしたら、遠縁にはあるかもしれませんね。その場合は、わたしと少佐も遠縁ということになりますが」

「そうなの?」

「違います」

「なあんだ」


 加藤がつまらなさそうに言った。

 前言撤回、変な人だ。おかしな上官だ。つまり、そういうことだ。

 伊東は再び溜息を吐いた。



【二】


 なんやかんやあり、伊東と加藤は出発した。

 伊東は常日頃から「海軍将校たるもの、俸給の半分は丸善で使うべし」という教えを忠実に守っている。そのため、長旅に備えて大量の本を持ちこみ、読んでいた。

 いっぽう、加藤は船酔いに苦しんでいた。

 海軍将校が船酔いですか、と聞いたところ、酒蔵の倅だって酒に酔うだろう、などとよくわからない答えが返ってきた。なので放っておいた。

 そして、なんやかんやあり、伊東と加藤はタラントへ到着した。


 タラントは、イタリアの有力な軍港の一つである。

 ここが欧州だと思うと、潮風もどこか乾いている気がする。

 荒涼とした海、あの日のままの地中海だ。

 とりあえず身体ひとつでタラップを下りる。桟橋を渡り、揺れない陸地を踏みしめた。

 今なお揺れている気がするのは、揺れに慣れすぎたゆえの正常な反応だ。

 歩く屍と化していた加藤はといえば、いつもの調子を取り戻している。

 どちらかといえば、加藤のほうがおかしいだろう。


 すると、一個分隊ほどの兵を率いた海軍将校がやってきた。

 長身痩躯、佇まいからして洒落者の、いかにもイタリア海軍でございという将校だった。

 兵たちは船のほうに向かっていく。荷物のたぐいは彼らが下ろしてくれるらしい。

 将校が笑顔で口を開いた。

 イタリア語が飛び出すかと身構えた二人だったが、聞こえてきたのは馴染みのある言語だった。


「イタリア海軍中佐のマリーニです。遠いところを、よくぞお越しくださいました」

「おや、日本語がお上手ですね」


 安心したように、加藤が返す。

 こういうときの加藤は、おどろくほどちゃんとしている。


「親の都合で一時期は神戸におりました。なんでやねん、くらいはわかります」

「なんでやねん」

「「はっはっはっはっは」」


 即座に加藤が言うと、マリーニと二人で大笑いしている。

 窓口になるはずのイタリア海軍の将校が、日本語が達者なことはありがたいことだ。

 だが、それはそれとして、伊東としては、


「……ますますわたしは要らなくないか?」


 という感情が湧くのも自然なことではある。

 加藤と盛り上がっていたマリーニが、伊東に気づいて声をかけてきた。


「失礼、大尉。姓はなんと?」

「伊東です」

「イトウ……? おお、イトウ!!」


 マリーニがなにかを思い出したように大声を出す。両手を広げて、感慨深げな様子である。


「知りあいか?」

「いえ、そんなことは」


 加藤の小声に、伊東も小声で返す。

 イタリアに知人が居ないこともないが、少なくともマリーニ中佐とは初対面のはずだった。

 そのことは、続くマリーニの言葉自体が証明していた。


「グランデ・アンミラーリオ!!」

「違います。やめてください」


 グランデ・アンミラーリオ、つまり大提督とか、まあそういう意味だ。

 まさかイタリア人にまでいじられるとは、海軍に入ったときは思いもしなかった。

 またしても、加藤が小声で聞いてくる。


「かれは、なんと?」

「べつに、なにも」


 加藤はイタリア語がわかっていない。

 知られると面倒なので、黙っておきたかった。

 だが、こういうときの加藤は妙に鋭いらしい。

 合点がいったとばかりに呟いた。


「ああ、そういうことか」

「なんですか」

「伊東元帥は有名人だな」

「やめてください」




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