序章 一九一七年
序章 一九一七年
地中海は狭い海だと聞かされていた。
だが士官候補生の伊東が想像する「狭い海」とは、かなり違っていた。
呉に寄港したときに感じた瀬戸内海こそ、伊東にとっての「狭い海」だった。
だが、それと比べた地中海の、なんと青くて広い海であることか。
そんな風に左舷甲板から海を眺めていると、下士官に声をかけられた。
自分より十は年上だろう。
「のどかなもんですなあ」
「ええ、ほんとうに」
だがこの穏やかな海の下には、恐るべき刺客がいるかもしれない。らしい。
刺客の名は潜水艦という。
今次大戦より本格的かつ組織的に投入され、猛威を奮っている。らしい。
伊東が乗り組む駆逐艦「栃」、あるいは僚艦の「橅」や「椚」、「椋」、そして第二特務艦隊は、その潜水艦をやっつけるために、地球を半周して地中海までやってきたのだ。
だいたい伊東を含めた同世代の連中は、東郷元帥や秋山参謀に憧れて海軍に来ている。
伊東の場合は「戦艦や砲術は競争が激しいだろう」と判断して、水雷を希望した。
晴れて候補生となり、希望は叶って駆逐艦乗組となった。
そして地中海遠征が決まり、実戦の機会に心を躍らせた。
白波を蹴飛ばして敵の大艦へ突撃し、必殺の魚雷をお見舞いする――そんな夢を抱いて地中海へ来た。
だが地中海の戦争は、そういうものではなかったのだ。
伊東が右舷側を見遣る。
寄木細工のような艦上構造物の向こうに、大きな灰色の壁がそびえている。
イタリアの傷病人輸送船「スペランツァ」の舷側だ。
日伊間は直接の同盟関係にはないが、味方の味方は味方のような理屈で、わが駆逐隊はスペランツァを含む船団の護衛についていた。
さて、地中海も海である。
海は感情の起伏が激しいものだ。
下士官の言うように、今この瞬間は穏やかである。
この海面下に殺気が満ちているなど、誰が信じるだろう。
伊東が左舷側へと向き直る。欧州の乾いた空に、地中海の青が鮮やかだ。
幾つも並んだ白い模様が、後方へと流れていく。
「潜水艦というやつは、どう見つけるのですか」
「なんというか、海面から竹竿みたいなやつが突き出ることがあるんですよ。それを見つけて、その海面を撃ちまくるわけです」
「なるほど」
なるほどと言ってはみたが、よくわからない。
だが海面下から竹竿が突き出ていれば、その波は自然のそれとは異なるものになるだろう。
伊東が海面を指さす。
「たとえば、あんな感じですか」
「そうそう、ああやって波が線を引くので――左舷見張りより艦橋! 潜望鏡視認!!」
のんきに話していた下士官の言葉が、怒声に変わった。
それに一拍遅れて、艦にぐっと慣性がかかる。輸送船を守るべく駆逐隊が機動をはじめたのだ。
その間にも、艦の前後の砲が旋回しており、そして撃ちはじめた。
この豆鉄砲では大洋艦隊を沈めるべくもない。
だが今この瞬間、無力なスペランツァを守るにはこの砲しかない。
こうなると水雷屋はやることがない。
イギリスで開発されたという対潜兵器は、いまだ本艦には積まれていない。
あとは砲か機銃を手伝うくらいだが、候補生がうろうろしていても邪魔になるだろう。
穏やかだった空間は、砲と機関の轟音で支配される。
潜望鏡のあった海面に着弾があり、灰色に濁った水柱が立つ。
海は激しく擾乱されて、無数の泡が海面を満たす。
やがて砲撃やめの号令があってか、途端に空気が静かになった。
海はまだ揺れている。
そのとき伊東は、濁った海中に、たしかにそれを見た。
考えるよりも先に声が出ていた。
「左舷! 雷跡がスペランツァに向かう!!」
その声が通じたのか、艦橋のほうでも見ていたのか。
とにかく、艦が速力を上げた。
波を切り裂いて前進する。
まさか、艦長は。
「艦長より達する――総員、衝撃に備えよ!」
艦長と操舵手の腕前により、本艦は見事に魚雷と輸送船の間に滑りこんだ。
伊東は来たるべき衝撃に備え、手近な通風筒にしがみつく。
一秒。二秒。三秒。衝撃はない。
「雷跡、艦底を通過!」
右舷見張りの声が届く。
助かった。そう思った。思ってしまったのだ。
その意味を理解したときだった。
スペランツァの舷側が大爆発を起こした。




