第五章 戦後と戦前Ⅰ
第五章 戦後と戦前Ⅰ
【一】
一九三六年五月、エチオピアが降伏する二週間ほど前のことである。
進攻軍総司令官ピエトロ・バドリオ元帥のもとに一通の電報が届いた。
ベニト・ムッソリーニ首相の名で、直ちに帰国されたし、とある。
野戦司令部の幕僚たちは、ざわついた。
もっと直接的に、憤ったといってもいいだろう。
エチオピアの降伏は目前である。皇帝に城下の盟を結ばせるこそ武人の誉れ、それをみすみす手放せと総統は言っているのだ。
それを見たバドリオは、わたしは少し勝ちすぎたかな、と苦笑いしたらしい。
そして席を立ち、幕僚たちに伝えたという。
「それでは、諸君。そういうことだ、悪いが後は任せたぞ」
「しかし、閣下、ほんとうによろしいので……?」
幕僚の一人が食い下がる。
ムッソリーニの名前で呼び出されている以上、よろしいもよろしくないもないもんである。
ただまあ、電報が届かなかったとかなんとか、やりようがないわけではない。
だが、バドリオはすなおに従うことにした。これは牽制なのだ。バドリオは勝ちすぎた。
おそらく降伏には、ロドルフォ・グラツィアーニ大将が立ちあうだろう。そしてそれは、彼に花を持たせようということではない。
わたしも彼も、ドゥーチェの駒にすぎないということだ。さすがにバドリオは、それを口にはしなかった。
代わりに、努めて明るく言った。
「アフリカの砂塵は腹いっぱいだ。ローマの風呂に一番乗りしてくるさ」
野戦司令部は少し賑やかになり、そしてすぐ静かになった。
【二】
ヴェネツィア宮殿は、あいかわらず重い空気に満ちている。
城塞を思わせる空間が、権力の匂いを湛えていた。数世紀にわたり堆積してきたそれは、今なお厚みを増している。
その重心にある人物、ムッソリーニが居並ぶ諸将や高級官僚を前に口を開いた。
「諸君、エチオピアの調伏は目前である。これは偉大なるイタリア王国の正義、ローマ帝国の再興という悲願の正当性を示すものである」
列席にある者たちは、神妙そうに小さく顎を引く。無表情、無反応ではいけないし、喜色満面で目を輝かせるのも違う。この塩梅が重要なのだ。
「ときに、バドリオ元帥」
「は」
バドリオは控えめに、だがうやうやしく返事した。
部屋の空気が少し変わる。
みな、バドリオがエチオピア戦の功労者であること、そしてそれにもかかわらず降伏直前に呼び戻されたことを知っている。
「このたびの働きは見事であった」
「ありがたき、お言葉です」
「最後まで見届けたかったろう。すまなかったな」
心にもないことを、とバドリオは思う。
もちろんそんな態度は出さないが、ムッソリーニは見抜いているだろう。
「お心遣い、痛みいります。おかげさまで、ローマの風呂でアフリカの垢を落としてまいりました」
「ご苦労だった。最大の功労者は、まちがいなく貴官である。その貴官抜きにして、エチオピアの処置は決められないのでな」
「……は」
さて、これまた難問である。
ムッソリーニはエチオピアの完全支配を望むだろう。
隣国のソマリランド、エリトリアと併せて東アフリカ帝国を建設する。
それにより王国の威光を世界に示すというわけだ。
だが。バドリオは思う。
自らの足で歩いた所感を言えば、エチオピアの完全支配は益が小さく損が大きい。
経済や民族感情とそれに基づく治安維持の負担、未整備のインフラや国民を食わすための経済的負担、これらを鑑みたとき、おそらくエチオピアの完全支配は負債となる。
「どう思う。ピエトロ・バドリオ陸軍元帥」
「わたしがアフリカの砂を噛んで、エチオピアの泥水を啜った感想を申しあげるとすれば――」
試すようなムッソリーニに、バドリオは前置きをした。
ムッソリーニだけではない、すべての視線がバドリオに集中する。
それもそのはずだ。たしかにエチオピアの完全支配は理想ではある。
だがその構想には、多くの者が慎重だった。
陸海軍はもちろんのこと、ムッソリーニ肝いりの空軍ですら内心では反対している。それほどひどい目にあったのだ。
外務次官のフルヴィオ・スーヴィッチも、これ以上は国際社会からの非難が致命的になると感じていた。
パオロ・タン・ディ・レヴェル伯爵は、財務大臣の立場でこの戦争の費用を調達した。資金繰りの腕は確かだが、いつまでもそれができるわけではない。
ヴィンチェンツォ・アッツォリーニ国庫大臣は元銀行家として、厳しい見立てをしていた。
全員の注目のなかで、バドリオは言った。
「悪いのはイギリスです」
「……ほう」
おもしろそうに、ムッソリーニが相槌を打つ。
会議室の緊張が、わずかに緩む。
バドリオとしては、苦しまぎれの言葉だった。
これは前線しぐさなのだが、エチオピア戦で都合の悪いことはすべてイギリスのせいにする風潮があった。
燃料が足りないのはイギリスのせいだし、エチオピアの抵抗が強いのもイギリスのせいだ。道路が悪いのも、砂塵が濃いのも、きっとイギリスのせいだろう。海から遠いのも、空気が薄いのも、イギリスのせいにちがいない。
もちろんイギリスの関与があったものもある、関与が疑われたものもある、関与の可能性が排除できないものもあった。
それらをひっくるめて、「すべてイギリスが悪い」というのが前線将兵の言い訳であり、ある意味で本音でもあった。
「われわれは“われらの海”を取り戻すため、イギリスを討たねばなりません」
「今はエチオピアの話をしているんだが?」
「エチオピアは降伏します。これにより紅海というわれわれの脇腹は、完全に防御できることになります」
この言葉に、ドメニコ・カヴァニャーリ海軍参謀総長は、ちょっと待てという顔をする。紅海方面の制海権は改善するが、完全ではない。
バドリオが、合わせろ、と目で合図する。カヴァニャーリは、再び神妙な顔を作る。
ムッソリーニはそれを見ないふりをした。そして瞼を下ろしてバドリオに問う。
「地政学の講釈に感謝するよ。そろそろ結論を聞かせてくれないか」
「われわれはイギリスを討つべきです。ゆえにエチオピアは――現地政府の委任統治としましょう」
言った。言いやがった。
だれも口にしないが、部屋にその空気が満ちた。
ムッソリーニは、なにも言わない。
じっとバドリオを見据えている。バドリオも、それをまっすぐに見返している。
一分ほどが経ったろうか。
これほど長い一分は、人生にそうあるものではないだろう。
ムッソリーニが、口を開く。
「なるほど。貴官は最大の功労者だ。その貴官にそう言われては――検討するよりないな?」
「……は」
バドリオは歴戦の勇士である。
だが、泣く子とドゥーチェには敵わない。
なぜなら、どう出るかがわからないからだ。
そんなバドリオを尻目に、ムッソリーニは続けて言った。
「経済顧問は、どう見るかね?」
「はい」
ざっと部屋の隅に視線が集まる。
経済顧問として招聘されているのは、アルベルト・ベネデゥーチェだった。
恐慌のおり、多くの重工業や銀行が倒産の危機に瀕していた。
その際、それらを国家管理のもとに置いて保護したのだ。
それが彼の設立した産業復興公社であり、イタリアの国家資本主義の根幹になったのである。
「細かい数字は省略しますが、たとえば――そうですね、陸軍が機械化を進めた、あるいは師団を増設したとしましょう。これはイギリスを討つのに役立ちますか、バドリオ元帥」
「え、あ、ああ、それはもちろん役に立つはずだ」
いきなり振られてしまい、思わずバドリオはたじろいだ。
ベネデゥーチェは構わず続ける。
「ドゥーチェ。ここで重要なのは、これらは軍備の増強であると同時に、投資であるということです。鉄鋼が売れ、造船所が動き、町工場も仕事を得る。その賃金が経済を回し、税収を増やす。そのための投資になる」
「エチオピアは、投資にならないと?」
「陸軍であれ、海軍の艦船であれ、空軍の飛行機であれ、イギリスを討つのに役立つものです。しかし、エチオピアは――」
「そうではない、ということか」
「さようです。少なくとも、しばらくは持ち出しばかりが増えるでしょう」
「ふうむ」
ムッソリーニの打った相槌が、どこかわざとらしかった。
それを見たバドリオは、はめられたことに気がついた。
出汁にされたというほうが正確か。
おそらくムッソリーニとベネデゥーチェは、この結論に達していたのだ。
だがムッソリーニも自分がぶち上げた東アフリカ帝国の構想を、自分で下ろすことはできない。
それを功労者の進言として容れるならば、総統は懐の深さを示すとともに、軍部に対して「貸し」を作れる――そういう判断なのだろう。
自らが道化師だとわかれば、それを演じるだけである。
バドリオはむしろ、気が楽になった。
「ドゥーチェ、経済顧問のおっしゃるとおりです。われわれイタリア王国三軍は必ずや“われらの海”を取り戻してみせます」
カヴァニャーリも、ジュゼッペ・ヴァッレ空軍参謀総長も、内心おいおいと思っているだろう。
だが、イタリアがイタリアとして伸長すれば、どこかでイギリスにぶち当たる。ふたりもまた、エチオピアでそれを痛感していた。
そうであれば砂漠の帝国を維持するよりも、飛行機の一機、石油の一滴を得るほうが重要事である。
にやり、とムッソリーニの口角が歪む。
「言ったな、バドリオ元帥?」
「申しあげました。われわれは地中海を“ドゥーチェの浴槽”にして差し上げましょう」
ドゥーチェはイタリアの象徴である。つまりイタリアは“丸裸”で地中海を泳ぐことができる。
口で言うほど易くはない。それでも、やらねばならない。
「よろしい。諸君、余はバドリオ元帥の進言を容れることとした」
一同の頭が、小さく縦に揺れる。
この結論は、誰も予想していなかった。だが、否定する者もいなかった。
われわれは、新たな課題と対決することになるだろう。
それでも、遠い東アフリカよりも目の前の地中海だという言は、一同の肚にすとんと落ちた。
ムッソリーニは、低い声で会議を総括した。
「七つの海などくれてやる。だが、地中海は“われらの海”だ」




