第四章 エチオピア問題Ⅱ
第四章 エチオピア問題Ⅱ
【二】
そのころ伊東は、優雅なひと時を過ごしていた。
加藤とマリーニは、アクィラで船旅を楽しんでいるだろう。
伊東は留守番である。
訓練は離発着を中心にしながら、整備班が弾薬や燃料の補給したり、甲板作業員が飛行機を出し入れしたり、そういうことをやっていた。
とはいえ燃料の都合もあって、大車輪で続々と離発着する、という光景ではない。
手の空いている搭乗員は、整備や甲板作業に混じって「職業体験」をやっていた。
彼らが直接そういう作業をやることはないはずだが、待機所でカードをやらせるよりは有用だろう。
伊東はそう判断し、指示していた。
問題は航空隊司令でも、イタリア海軍軍人でもない伊東の指示に従うかどうかだったが、そのあたりは謎の元帥パワーでなんとかなってしまった。
ただ、口が裂けても「おかげ」などとは言いたくない。
加藤とマリーニには絶対に黙っていなければならない。
ところで、バドリオの置いていった移動炊事車は、たしかに航空隊の食事事情を改善した。
だがそれは移動炊事車であって、自動炊事車ではない。
勝手に飯が出てくるわけではない。
伊東は日本にいるとき、厨房に立ったことなどなかった。
当初は散々な言われようだったが、最近はそれなりの評判だった。
「元帥、ごちそうさまでした」
「「「ごちそうさまでしたー!」」」
「皿洗いは各自でやれよ」
「「「「はーい」」」」
もはや軍隊というより林間学校という感じであるが、それは卵と鶏の関係かもしれなかった。
加藤航空隊は、自分でやれることは自分でやる、という方針だ。
人も予算も足りない脱法航空隊である。
将校も皿洗いをするし、搭乗員も整備を学ぶ。
そうやって、「隣の仕事」を少しずつ覚えることで、この航空隊は「つかまり立ち」をしている状態だ。
そうしていると、ごろごろ、ごろごろと地鳴りのような音が響いてきた。
伊東が振り向くと、フィアットの七〇二トラクターが動きだしていた。
「またマンチーニ少尉か」
「ええ。彼は飛行機よりもトラクターのほうが似合ってますね」
皿を洗い終えたベルティくんが、どこかうらやましそうに眺めて言う。
伊東は、べつのうらやましさを感じて、言葉を選んだ。
「まあ、機械に慣れているのはいいことだ」
マンチーニは実家で、よくトラクターを転がしていたらしい。
彼に限らず、農家の三男坊とか四男坊が、軍人を志すのはよくあることだ。
要は食い扶持を求めているわけで、これは日本でも同じ事情だ。
だが日本では、みな軍に入ってから機械に触れる。
飛行機に乗ったことがないのは同じにしても、発動機というものを体験していることは、素直に強みであるはずだ。
「しかし、あのトラクターは名機ですね」
ベルティくんが改めて賛辞を送る。
フィアット七〇二は、いわゆる旧い型の車輪式トラクターである。
マンチーニが乗り回しているものは、その前輪を転圧ローラーに交換してあった。
土木工事に使われる民生品の改造キットを用いたものだが、その威力は絶大だった。
マリーニは当初、六二一トラックで転圧ローラーを引くことを考えていた。
だがこれは脱着やトラック側の負荷、あるいは留具の破損事故など、なかなかうまくいかなかった。
結局、飛行場の転圧は人力でやっていて、これが大変だったのだ。
そこで工廠の「親方」は中古の七〇二トラクターを手に入れてきて、それに改造を施した。
そのときの全隊員の喜びようと言ったらなかった。
新型機が配備されても、ここまでは喜ばないだろう、と伊東は思っていた。
ただ、伊東にトラクターの良し悪しはわからなかった。
動くべきときに動く機械が、いい機械くらいにしか思っていない。
「そんなもんか」
「そんなもんです。親方は、また別の改造も考えてるみたいですよ」
「へえ。どんな?」
「それが、いまいちわからなかったんですが、部材や強度の計算を手伝ってくれって言われて」
「まあ、役に立つものではあるだろう」
「それはそうでしょうね。――ああ、そうだ、日本からきた貨物船、あれに乗ってた技師とも話してましたね」
「鉄道省の?」
「でしたかね」
「綾鷹丸」の技師といえば、鉄道省だったはずだ。
たしかに、あの運搬箱は興味深い代物だった。
荷役が一瞬で終わる画期的な仕組みだが、そのためには社会そのものを最適化する必要があった。
船、鉄道、あるいは自動車それぞれ全てを、あの運搬箱を基準にしなければならない。
また、積み下ろしには起重機が必要になる。
港であればともかく、こんな飛行場に置けるものではない。
起重機が一家に一台、という未来は、あまり現実的ではないだろう。
そうであれば、起重機の数が輸送の限界を決めてしまうことになる。
鉄道省が苦戦するのもやむなしか、というのが感想だった。
「あの箱が六二一に乗るのは、おもしろかったんですけどね」
「あれは驚いたな」
思わず伊東は笑ってしまう。
ベルティくんの言うとおり、鉄道省が規格した運搬箱は、なぜかフィアット六二一トラックの荷台に納まったのだ。
長さこそ少し余ってしまうが、そこは支え棒でもすれば問題なかった。
だが船舶の揚貨装置で積んだはいいが、運んだ先で下ろせない。
そういうわけで、運搬箱が積みっぱなしになっているトラックが一台あった。
伊東とベルティくんが、そのトラックをなんとなしに見ていると、転圧トラクターとはべつの発動機音が聞こえてきた。
息切れするように、丘の上の飛行場へと登ってくるようだ。
ふたりは音がするほうを見て、ぎょっとしてしまった。
まるで軍艦の檣楼のような構造物が、稜線の陰から突きだしている。
梯子を組んだようにも見えるそれは、どうやらトラクターから生えているらしい。
車両の重量が相当なようで、がたがた、ごとごと、少しずつ近づいてくる。
徒歩と変わらないくらいだろう。
だが確実に歩みは進んでおり、ついに飛行場へその全貌を現した。
「起重機車……完成したんですか、親方!」
「おう、レッジャーネの坊! やってやったぞ!!」
運転席で、親方が拳を掲げて見せる。
そのトラクターは、もはやトラクターとは言いがたい。
前輪と車台前縁から伸びた、檣楼にも見えたそれは、起重機が言うところの腕だった。
その先端には、鉤爪のついた鉄線が垂れている。
発動機の右側面には、動力を取り出す円盤がある。
これに革帯が巻いてあり、起重機の腕へと伸びている。
腕自体は固定されている。
革帯が動力を伝え、鉄線を巻き上げて荷を吊るというものらしい。
車台の側面と後方には、なにやら雑具箱が増設されて、セメントが充填されている。
腕が荷を吊ったときの、平衡錘といったところだろうか。
「坊、大尉、こいつの力を見せてやるぜ!」
一瞬、伊東はだれのことかと思った。
伊東のことを大尉と呼ぶのは、親方くらいだった。
どこどこ、どこどこ、と起重機トラクターが、飛行場の隅へ走っていく。
もっとも、歩いていくというほうが感覚的には近い。
その先には、一台のトラックがある。
それはまさに、運搬箱が積みっぱなしになっているトラックだった。
運搬箱の上面には、四隅の対角線に鎖が張ってある。
その交点に引っかけてやれば、箱は持ち上がるはずだった。
みなが集まってきて、固唾を飲んで見守っている。
伊東も、時間だから訓練開始だというような、野暮なことは言わなかった。
これもまた訓練であり教育である。たぶん。
起重機トラクターが、トラックの後ろについた。
「坊、手伝ってくれ!」
「わかりました!」
親方の指示で、ベルティくんが駆けだす。ひょいひょいと荷台から運搬箱の上まで登る。
それを確認すると、親方が頷いて、傍らにあるレバーを操作する。
きゅるきゅると音がしたかと思うと、鉄線が下がり、鉤爪が降りてくる。
ごとり、と運搬箱の天面に鉤爪が当たる。
ベルティくんは鉤爪を鎖にかけると、親指を立てて合図した。
「上等だ、坊! 離れてろ!!」
トラクターの発動機に負けない声で、親方が叫ぶ。
この素体となった七〇二も中古のようで、相当くたびれている印象だ。
それでいて妙な力強さは健在なのが、親方らしい作品である。
親方がレバーを操作する。ぎゅるぎゅる、と革帯が鳴く。
鉄線が張り、腕がぎしぎしと悲鳴を上げる。
不安そうに注目されるなか、親方だけは口の端を上げていた。
そしてついに、運搬箱の底が浮いた。
それはまさに「持ち上がった」よりも「浮いた」と形容すべきもので、手のひらが通るかどうかというていどのものだった。
周りのどよめきに、親方は得意顔である。
トラクターは、ゆっくりと後進する。
この時期の起動機は、後世の人間が想像するような、黄色いああいう感じではない。
腕は固定されていて動かない。
だから荷の移動は鉄線の上下と、車体そのものが動くしかない。
だが、どこどこ、と少し下がったときだった。
鉤爪の先で、運搬箱が振り子のように揺れだした。
気づいた親方がトラクターを止めたが――それはすでに遅かった。
けたたましい音を立て、起重機トラクターはものの見事に転がったのだ。
切れた鉄線が、びゅうと頭上を走り抜ける。
その地響きがやむのを見計らったように、トラクターの発動機がぷすんと音を立てて停止した。
トラックにも運搬箱にも、そして幸いなことに隊員たちにも、損害のようなものは見られなかった。
ただ投げ出された親方が腰を押さえて呻いている。
ベルティくんが駆け出して、親方を抱き起こす。
「大丈夫ですか?!」
「おめえんとこの計算どうなってやがんだ、この馬鹿たれ!」
「うーん、なにがいけなかったんですかね。不整地とか?」
「不整地で使えねえもんなんか、使えねえのと同じだろうがよ!」
「まあまあ、また作り直せばいいじゃないですか」
「いてて……ふざけやがってこの野郎……」
親方も元気なようで、ひと安心である。
だが、と倒れた起重機トラクターを見て、伊東は思う。片付けなきゃなあ。
するとマンチーニが、あの、と声をかけてきた。
「片付けるの、みんなでやったほうがいいですよね」
「そうだな。みんなでやればすぐに片付くさ」
伊東は、努めて明るく言ってみた。隊員たちが動きだす。
これもきっと必要なことなのだろう。心のなかで、言い聞かせるように呟いた。
その夜のことだった。
アクィラから一通の電報が届く。
加藤航空隊は直ちに出動準備をなせ。これは訓練ではない。




