第四章 エチオピア問題Ⅰ
第四章 エチオピア問題Ⅰ
【一】
加藤航空隊は燃料の補給を受けて、なんとか今日も飛んでいた。
紅海上空である。戦闘ではない。訓練だ。
護衛艦「アクィラ」は、陸軍の輸送を手伝っている。
海軍は民間船の護衛もするが、自ら輸送もやっている。
アクィラは両方を同時にやれる貴重な船だ。
もちろん、現状のアクィラに戦う能力は無いに等しい。
それでも海軍は、軍艦は、その実力だけが価値ではない。
そこにあるという存在感もまた、彼女らには求められている。
もっとも、燃料の都合もあって、訓練は細々としたものだった。
それでも、せっかくの航海である。加藤少佐としては、いい機会というわけだ。
伊東大尉などは、イギリスに警戒されたり監視されたりするのでは、と心配していた。
だがタラントにいたところで、伊東の尻毛の本数まで把握されているのだ。
隠したところで隠せないなら、隠さないほうが楽だった。
そして、これはすでに何往復めかの航海だった。
荷下ろしを終えて、傷病兵たちを満載し、スエズを越えた復路である。
夜は更けていて、金色の月が翳りを見せている。
艦内は暗い。だれも見ていないのをいいことに、当直が大きなあくびをしたときだ。
加藤の部屋に、ノックの音が転がった。マリーニ中佐だった。
「やはり起きていたか、少佐」
「中佐、どうされましたか。こんな時間に」
マリーニが苦笑する。
こんな時間に起きているのは、どっちのほうだと言いたげだった。
いつも適当なようでいて、実は加藤は忙しかった。
どれくらいかと忙しいかと言うと、船酔いも忘れるほどである。
航空隊の育成、運用をする一方で、日本海軍への報告もしなければならない。
イタリア海軍や航空隊への協力が目的なのは嘘ではないが、そこで得た教訓こそが日本海軍の求めているものなのだ。
だから加藤と伊東は、いつもふたりで膨大な量の報告書をしたためてきた。
ただし今の伊東は、タラントの「門がない」飛行場で留守番をしている。
正確には、留守番組の世話をしている。
マリーニが、言いにくそうに口を開いた。
「出動してくれないか。陸軍が苦しんでいるんだ」
「……空軍は?」
加藤は書きものの手を止めた。マリーニのほうに顔を向ける。
「空軍は都市爆撃に主眼を置いている。燃料と稼働率の不足もあって、陸軍の支援には消極的だ」
「われわれの燃料まで巻き上げておいて、それですか」
「ああ。結果として、進攻軍の総司令官は更迭された。後任にはバドリオ元帥が就くが――苦しい戦いは続くだろう」
「……わが航空隊は日本海軍所属なので参戦できません」
目を反らし、そのまま書きもののほうへ視線を下ろす。
鉛筆が宙を泳いで、帳面には下りなかった。
マリーニが少し口調を強める。
「それは方便だろう。イタリア海軍の軍人がイタリア海軍の飛行機に乗っていれば、イタリア国軍として扱われるはずだ」
「まあ、方便ですね。嘘も方便と申しますので」
「この航空隊自体が、嘘から出た真のようなものだろう」
主張は平行線だった。
加藤航空隊は、書類の上では日本海軍だ。
それはイタリアの国内法を脱けるための方便である。
国際法上はイタリア海軍、あるいは国軍のものと認められるはずだった。
そう、マリーニの言っているとおり、所属どうこうは方便なのだ。
ただ、加藤の言いたいことは別にあった。観念して、小さな溜息を吐く。
「……わが航空隊の搭乗員は二十名しかいません。逆さに振っても二十名、これがイタリア海軍空母航空隊の全搭乗員です」
「……ああ」
「そして彼らは、単なる二十名の戦力ではない。彼らは全員、未来の飛行隊長になる。いいですか、彼らの一人を喪うことは、ひとつの飛行隊を喪うことと同義なんです」
そのなかからは、未来の参謀とか司令官とかも出てくるだろう。
つまりイタリア海軍航空隊の新芽なのだ。
おなかが空いたからと食べてしまえば、また畑を作り、種を撒くところからやらねばならない。
そしてそれが、次も芽を出すとは限らない。
マリーニが呻くように、喉から声を絞りだす。
「……それは、わかっている」
「それでも、ということですか」
「……ああ」
ふたりの沈黙が、士官室に満ちる。
艦は常に揺れていた。
機関の音、波の音、傷病兵の呻く音、あるいは不安定な電圧に悲鳴を上げる電灯の音、かすかな雑音が耳朶をくすぐる。
何秒、何十秒、そうしていたかわからない。
その沈黙を破ったのは、加藤のほうだった。
「……わかりました」
「少佐……」
「まあ、実戦でしか学べないこともあるでしょう」
「……ありがとう」
マリーニが、腹の底から礼を言っている。
彼も苦しい立場だろう。加藤の言うことは、もちろんわかっているはずだ。
なぜなら、加藤の言うこと、やっていることは、究極的にはマリーニの希望そのものなのだから。
それでも彼は軍人なのだ。
そして、加藤もそうである。
「軍人というのは、しょせん究極の公僕です。戦うべきときに戦うからこそ、飯が食えるし尊敬される。それに」
「なんだ?」
「バドリオ元帥には、飯の世話になりましたから」




