第三章 貨物船「綾鷹丸」Ⅳ
第三章 貨物船「綾鷹丸」Ⅳ
【六】
綾鷹丸は大西洋を越え、ジブラルタル海峡を抜け、地中海を走っている。
ここまでの航路は、険しくて困難というよりも、気苦労が多いものだった。
そしてそれを長時間にわたり強いられるので、船長以下の神経をすり減らした。
コーンウォールの海岸はイギリスの領海だし、あそこは密輸の聖地でもある。
海軍による臨検は、主権国家の権利といえる。
だが、公海に出てしまえば話は別だ。
七つの海を支配するとは、好き放題できるということではない。誰にも好き放題させないことだ。
若い船乗りなどは、イギリスは横暴だと腹を立てている。
だが船長くらいになると、「それが本当なら、おれたちは今ごろ海底ぐらしだ」と笑う。
彼らは、越えてはいけない一線を守っている。
その一線を引いたのが、彼ら自身だというだけだ。
それゆえに、線を越えずにやれることは幾らでもある。
世界の盟主は、嫌がらせまで一級品だ。
あれは大西洋でのことだった。
イギリスの駆逐艦から、呼びかけがあった。
どこから来た、どこに行く、積荷はなにか。
こちとら密輸船なのでいい気はしないが、これだけなら挨拶のようなものである。
すると、最近イギリス海軍に臨検されたか、と言う。
妙なことを聞くなと思って、HMSユーステノプテロンによる臨検を受けた、問題なかった、と答えた。
駆逐艦は、照会するから待っていてくれ、と言う。
照会だけで済むならと了解すると、一時間が経ち、二時間が経っても返答がない。三時間が過ぎたところで、ようやく照会できた、行っていい、という。
似たようなことが、大西洋で三度あり、地中海でも二度あった。
停船命令であれば選択肢はないが、要請というのも断りづらい。
断ったら断ったで、なにか都合が悪いのか、と、こう来るわけだ。
その一方で、ジブラルタル海峡ではなにもなかった。
海峡はイギリスとスペインの領海になっている。
やろうと思えば、難癖はいくらでも付けられる。
だが、やはり、そこで一線を守るのが、大英帝国らしさなのかもしれない。
しかし、海峡を抜けたら抜けたで、今度はイギリス海軍の巡洋艦がついてくる。
なにをするでもない。なにか言ってくるでもない。ただ、ついてくる。
これがまた船長の神経に障った。
いらつかせ、動揺を誘い、ぼろが出るのを待っているのだ。
そして、これが最も恐るべきことかもしれないが、イギリス海軍は綾鷹丸を追いかけ回していたわけではないということだ。
べつに綾鷹丸が怪しいとか疑わしいとか、そういうことでは全くなくて、彼らは全ての船にそれをやっているということだった。
ともあれ、こういうことがあったので、船はくたくたに疲れ果てていた。
予定より三日も遅れて、シチリアの島影が見えたとき――船長は不覚にも涙をこぼした。
この航路は飽きるほど通っているが、エトナ火山をこれほど美しいと感じたことは、今をおいて一度もなかった。
だが、航路は九割をもって半ばとせよ。
機関室に連絡し、油の燃えかたを調整してもらう。
質の違う油を混ぜたり、不完全燃焼を起こさせたりして、排煙の色や量を不均一にする。
速度も落としたり、上げたりして、なんだかがくついているように見せる。
ちゃんと着いてきているイギリス海軍の巡洋艦が、わずかに速度を上げる。
こちらの“異変”に気づいたらしい。
だれもが忘れていることだが、大英帝国は紳士の国ということになっている。
機関不調の民間船を見捨てられない。
彼らの別荘地とも言うべき、マルタ島へ案内してくれることだろう。
そうなれば、この旅路がむだになる。
だから巡洋艦が動きに出る前に、タラントへ向けて無電を打つ。
「われ、三鳥汽船綾鷹丸。機関不調なり。緊急入港措置を求む」
巡洋艦が割りこんでくるのではないかと心配したが、タラントからの返答は驚くほど早かった。
即答と言ってもいい。
どうやら停泊している艦船が、“電話番”をしていたらしい。
「われ、王立海軍アクィラ。綾鷹丸、緊急入港措置を承認する。水先案内に従え」
「アクィラ、綾鷹丸了解。感謝する」
「綾鷹丸、タラントへようこそ」
そうして綾鷹丸は、イタリアの領海へ踏み入った。
巡洋艦は、そこからは追ってこなかった。彼女は静かに反転し、その航跡を白く残した。
◇ ◇ ◇
無電室に詰めていた伊東が、マリーニを叩き起こす。
加藤は寝ていなかった。
飛行甲板に出てみると、立派な貨物船がアクィラの隣に停泊している。
全長、船幅ともに似たような大きさである。
「で、この綾鷹丸ってのはどんな船なんですか」
「海軍が民間に造らせた船だ」
それを民間が運航して、海軍が仕事を委託している。
そこまでは、まあわかる。
だが、イギリス向けの紅茶を運んで、航空燃料を持って帰ってくる、というのは、わけがわからない。
「航空技術本部が、燃料はイギリス製に限るって言ってるんだよ。山本中将のところだよ」
「それはいいんですけど、紅茶のくだりがわからないんですが」
「まあ、いろいろあるんだろ」
加藤の雑な物言いは、まちがいではないのだろう。
船長以下の幹部乗組員は、憔悴と疲労が激しいようで、揺れないところで休んでもらおうということになった。
海軍の補給士官が乗りこんでいるのは、ぎりぎり理解できるが、鉄道省の技師がいるのはもうわからない。
なにか作業でもしていたのか、油や煤で顔が真っ黒だった。
その補給士官が揚貨装置を動かしているらしい。
まるで釣りでもするように、船腹へ鉤爪が垂れていく。
そして、厭な音を立てながら、鉄線が巻き上げられる。
そこから現れたのは、大きな鉄の箱だった。
なるほど、あれに荷物を入れることで、積み下ろしの手間を減らしているのか。
つまり燃料はドラム缶かなにかで、あの箱の中に入っているのだろう。
では、いや、待てよ。
あの箱を鉄道や自動車に載せられたら、荷物を運ぶのは劇的に効率が上がるのでは。
ああ、だから鉄道省なのか。
あとで話が聞いてみたいな。――などと伊東が思いを巡らせていると、隣で大きい声がした。
加藤とマリーニである。鉄の箱を指さして、呆然としている。
なんですか。そう言おうとして、伊東も言葉を失った。
目の前に釣り上げられている箱は、朝日を受けて輝いている。
そして、そこに「伊東の紅茶」と大書きされている。
「元帥……おまえ……」
「Oh...Grande Ammiraglio...」
「やめてください。知りませんよ」
今や「ミカサ・ティー」として知られる紅茶は、もとは静岡県伊東市の名を冠して売っていた。
地域振興と銘柄化を狙ったものだったが、これの反応は今ひとつだった。
だが、そのころ用意された通函箱は、今も日英を往復していた。
そんなことは知らない加藤航空隊の面々は、伊東元帥の計らいだぞ、ははーっ、などと盛り上がっている。
三人が大騒ぎしているものだから、搭乗員や整備班、作業員や乗組員まで現れて、謎の万歳三唱がはじまった。
ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい。
このようすを監視していたイギリス海軍の巡洋艦は、なんと報告しようか迷ったという。
◇ ◇ ◇
「選ばれたのは、綾鷹でした」
この件を振り返った関係者は、口を揃えてそう言った。
なお、これは後年のことになるが、この経緯を経て「綾鷹」は日本茶の銘柄として確立した。
また、「三鳥汽船」が設立した子会社の「三鳥井」と、「伊東の紅茶」あらため「伊東園」は、ともに日本を代表する飲料企業に成長したという。




