第三章 貨物船「綾鷹丸」Ⅲ
第三章 貨物船「綾鷹丸」Ⅲ
【五】
イギリス南西部、コーンウォール州を「大いなる西部の鉄道」が貫いている。
鮮魚を積んだ高速貨物列車が日に何本も走っていた。
これがビリングスゲートの市場へ運ばれ、ロンドンの腹を満たしている。
その鮮魚を供給するのは、地方の漁村である。
それらを繋ぐ無数の支線こそが、この「大遠回り」路線の真価であり、「神の素晴らしい鉄道」とも呼ばれた理由のひとつでもあった。
夜は更け、朝は遠い。そして海が近い。
今その無数ある支線のひとつから、さらに保守用線路が分岐している。
そこへ、無蓋の貨車が続々と引かれてやってきた。
波の音に紛れていて、寝た子を起こすような騒々しさはない。
そこに沿うように、角灯が点々と置かれている。
海霧が、灯台の光に姿を与えていた。
そこから音もなく船首を突き現したのは、日本の密輸船――綾鷹丸だった。
近くの漁村から、二隻の曳船が駆けつけてくる。
この村は、魚よりも荷物を揚げるほうが得意なようだ。
◇ ◇ ◇
もはや綾鷹丸の密輸事業は「上」も黙認しているらしい。
そして黙認されているなら、見えないところでやるのが、「上」を立てる礼儀というものだ。
接岸した綾鷹丸が揚貨装置を動かした。
潮風にやられたのか、軋んだ音を立てている。始まるようだ。
綾鷹丸の揚貨装置は、船腹から鉄製の運搬箱を吊り上げて、貨車に直で積んでいく。
中には洋上熟成の激安特濃「ミカサ・ティー」が満載されているはずだ。
あれがロンドンの労働者への飴となり、資本家は容赦なく鞭を振れるようになる。
こうしている間にも、積載は続いている。
揚貨装置はあまり大きく動かせるものではないらしく、貨車側が少しずつ前進することで、位置を調整していた。
そして綾鷹丸が空になり、空の貨車が無くなったところで、車列は滑るように加速して闇へと消えていった。
すると、すぐに別の貨車列が滑りこんできた。
今度は、運搬箱を載せた貨車である。
相当に重いようで、貨車の発条は沈みこみ、制動にも苦労しているようだ。
揚貨装置が、貨車から運搬箱を持ち上げる。
その軋んだ音が、さっきよりも大きく響く。
ひとつ船腹に納めるたびに、船体まで軋み、喫水が深くなっていくようだ。
作業している人間たちも、どこか緊張した面持ちだ。
それには英国人も日本人も関係なかった。
◇ ◇ ◇
それもそのはずで、この積荷は高オクタンの燃料だった。
火花ひとつで、綾鷹丸はおろか、海岸一帯が吹き飛ぶだろう。
イギリスは、世界有数の石油精製能力を有している。
とりわけ精製技術の品質は世界を先んじており、それが王立空軍を支えていた。
この最高級の航空燃料は、大英帝国を大英帝国たらしめる戦略物資と言っていい。
つまり、金があれば買えるという代物ではない。
他国へ簡単に、それも緊張が増している日本に輸出していいものではない。
だが恐慌に喘ぐロンドンは、それでも外貨と紅茶を欲していた。
積みこみが進んでいく。今この燃料が入っている運搬箱は、前回紅茶を届けたものだ。
イギリス側がどんな物流経路を敷いているのかは不明だが、すでにこの運搬箱は「通函箱」としても機能していた。
今回も無事に終わりそうだ。と誰かが安堵したときだった。
海霧の向こう、灯台に照らされて、軍艦の影が浮かびあがる。
異様に細長い船体から、前に二本、後ろに一本の煙突が生えている。英国海軍の軽巡洋艦だろう。
「停泊中の所属不明船、こちらはHMSユーステノプテロンである。船名、国籍、および航行目的を述べよ。どうぞ」
「“女王陛下の”ユーステノプテロン号、こちらは綾鷹丸である。本船は日本国籍の貨物船であり、東京よりロンドンに向けて航行中だったが機関不調につき応急修理を実施していた。積荷は紅茶、本船に敵対意図はない。どうぞ」
「綾鷹丸、こちらは“国王陛下の”ユーステノプテロン号である。臨検に備えろ」
「了解した。臨検を待つ」
だめだったかあ、と船橋に呟きが漏れた。航海士が「臨検に備え!」と号令し、船上はべつの慌ただしさに包まれる。
こうしている間にも列車は、綾鷹丸の陰に隠れて、そのまま姿を消していた。ご丁寧に線路沿いの角灯も持ち去られている。
しばらくして内火艇が舷側に取りついた。闇夜の洋上にもかかわらず、その将校は身軽に舷梯を登ってきた。下士官も数人が帯同している。
「HMSユーステノプテロン、貴船を臨検する」
「三鳥汽船綾鷹丸、臨検を受け入れます」
将校が船長と話している間に、下士官たちが目録や日誌を確認している。
そのうちに彼らが「おい、この船って」「ああ、そうっぽいな」などと話しだす。
それを聞いた将校が「どうしたのか」と問いただす。
下士官は「こいつは紅茶の船ですよ」「聞いたことがおありでしょう、ミカサ・ティーです」と口々に言う。
「ああ、うちの紅茶をご存じでしたか。おい、みなさんに“おみやげ”を用意しろ」
「いや、船長、そういうものは……」
「なにをおっしゃいます、われわれの仕事は大英帝国海軍あってのものです」
みなさんお疲れでしょう、温まってくださいね、などと言って船長は戦艦が描かれた包みの紅茶を渡していく
。下士官たちは、もういいじゃないですか、帰りましょうよ、という視線を将校に向けている。
もう一押しと踏んだ船長が、将校にも紅茶の包みを渡す。
「あなたも、ね」
「わたしは、こういうものは飲まないのだ」
「ああ、弊社の紅茶をご存じでしたか、ありがとうございます。お口に合わなければ、部下のかたにでもお譲りください。きっと喜ばれますよ」
将校は、受けとらない、とは言わなかった。
それはつまり、賄賂が要らないわけではないこと、そしてミカサ・ティーを認知してしまっていることを示していた。
だが、それでも努めを果たすのが将校の将校たるゆえんである。
船倉を見せろ、運搬箱を開けてみろ、などとすごんでいる。
船長は申し訳ないという表情を貼りつけて言った。
「われわれの紅茶は潮風に弱くてですね、これを開けてしまうと風味が失われまして、ええ」
そんな上品なものではないだろう、という態度を隠さずに、将校は開けろと命じた。
船長は軽く溜息を吐いて見せた。わかりました、ただ角灯は消してください、と言った。
「火気厳禁の紅茶とは珍しいな?」
「うちの紅茶は水分が少ないうえに目が細かいので、すぐ引火するんです」
封印を切って、留具を外す。
がちゃがちゃとした金属音が、船上に響く。
ぎい、と軋んで鉄扉が開く。闇が閉じこめられ、滞留していた。
将校の目が慣れてくると、ドラム缶が林立しているのが確認できた。
「……これの中身は」
「紅茶です」
「開けろ」
「それは、ちょっと」
将校と船長が押し問答していると、下士官の一人が「将校殿」と声をかけた。
「そのへんにしときましょうや」
「なぜだ、積荷を確認するのは正当な手続きだぞ」
「船長は、積荷がだめになる、と言って困ってんです」
「それは知ったことではない」
「将校殿が知ったことではなくてもね、この紅茶がロンドンに届かなければ水兵は仕事をしなくなりますよ」
水兵は、と言っているが、下士官もだぞ、の意味を含んでいるのは明白だった。
後世の言葉にすると、これはいわゆる「下から上へのパワーハラスメント」なのだが、このころそういう概念はない。
だが、「上の命令は絶対」という印象の強い軍隊組織にあっても、現場の専門知識や技能については下士官のほうが長けていた。
彼らが動かなくなれば、軍隊は組織として立ち行かなくなる。
それにたじろいだ将校を見て、船長は彼らの力関係を看破した。
なので中からドラム缶をひとつ持ってこさせた。
「お仕事熱心な海軍さんに敬意を表して、一本だけ開けましょう」
彼らの目の前に、ごろごろと運ばれてきたドラム缶が、その口を開けた。
こうばしいほど濃密な香りのかたまりが現れて、すぐに潮風に流された。
そこにあったのは茶葉というより、粉だった。
将校がそれに手を突っ込んで匂いを、そしてひとつまみ口に入れて確認している。
「船長、協力に感謝する」
「いえ、ご苦労さまでございました。ついでと言ってはなんですが、これはこのままお持ち帰りください」
「だから、こういうものは飲まないと」
「将校殿、これはすでに売りものにはできません。どうか、お持ち帰りください」
「……了承した」
「ありがとうございます。ああ、あと、艦長には先の非礼をお詫びしておいてくださいね」
こうしてドラム缶の“おみやげ”も持たされて、臨検隊は「綾鷹丸」から帰っていった。
「こちらHMSユーステノプテロン、貴船の協力に感謝する。ご安航を祈る。どうぞ」
「こちら綾鷹丸、“国王陛下の”ユーステノプテロン号、航海の無事をお祈りします。以上」
◇ ◇ ◇
ひと仕事を終えて、甲板で船長がたばこを吸っていると、航海士も現れた。
「お疲れさまです」
「ああ、ご苦労さん」
「あの符丁もそろそろ使えなさそうですね」
今のイギリスはジョージ五世の治世下にある。
国際航路の船乗りにとっては常識だ。まちがえるわけはない。
ではなぜ、あのように返答したのか。
“女王陛下の”軍艦と呼ばれると「事情」を察する軍艦がそれなりにあるからだ。
艦橋では「物も知らない東洋猿に密輸なんかする能はない」などと言って、綾鷹丸を見逃すというわけだ。
だが昨年末から、成功率が徐々に下がってきた。
「やっこさんらも気が立ってるからな」
「エチオピアですかね」
そんなところだろう、と船長が相槌を打つ。
イタリアがエチオピアに侵攻して、イギリスはかなり神経質になって警戒している。
参戦こそしていないが、イタリアへの協力などすると、適当な理由で拿捕される恐れもあった。
「まあ、さっさとスエズを抜けちまうのが良さそうですね」
航海士の言葉が終わるか否か、通信士が紙片を持って駆けてきた。
電報を書き出したものらしい。
船長はそれを読んでから、マッチを擦って紙片を燃やした。
海面に落ちるまえに、それは闇夜に飲まれて消えた。
「どうやら、そういうわけにはいかなさそうだぞ」
「なにが書いてあったんですか」
「イタリアだよ。タラントへ行けとさ」




