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最終話



 もぞり、と布団から顔を出すと、自分のではないうめき声とともに誰かの腕が体に巻きついてきたので、奈都は目を瞬いた。


 ちょうど眼前にあったのはユアステの愛すべき先輩、ゆんちゃんだ。目が合い、とうとう自分もこの領域まで達したのかと感慨深く思った。


「ゆんちゃん、嬉しいけど、苦しい」


「いや、待って。それはTシャツのプリントだから」


 ゆんちゃんにしては低い声が返って来て、視線を上げる。まだ眠そうながら突っ込んできた純誠の顔を見て、自然と笑みがこぼれた。


 朝一番で好きな人の顔が見れるのはなによりも幸せなことだと実感する。


「冗談ですよ」


 昨夜、これまでのことを腹を割って話し合った上で、蟠りや誤解を完全にとき終えて、晴れてつき合うこととなったのは日を跨いでからのことだった。


 深夜に帰すのも気が引けたので泊まって行くことを勧めたが、これまでと違って狭いベッドでくっつきながら眠ったのは関係が変わった明確な証しだろう。


 事故物件ということに怯えたからかもしれないが。


「もうこの際サイズが小さくてもいいから、普通のTシャツを貸してほしい……」


 奈都のサイズが入るはずがないのに、なにを言っているのか。


「文句があるなら自宅から持って来るなり、買い置きしておくなり、自分で考えてやってくださいね」


 いつも手ぶらで来る純誠にも問題があるのだ。


「敬語」


 不満気に指摘されて、仕方ないのでひとつため息をついて言い直す。つき合っているのだからお互い砕けた口調にしようと提案され、奈都もそれを受け入れた。少しずつ直していかないとと思いつつも、なぜか純誠相手だといつの間にか敬語混じりになるのだ。奈都の方が年上なのに。


「自分の部屋着、置いていってね?」


「わかった。今度買って持ってくる」


 こうして素直に従っておけばすぐに機嫌が戻るので扱いやすくはあるが、ちょっとめんどくさいと思っていることは内緒だ。


「うちにも奈都さんの服とか、用意しておく?」


「うーん、理世ちゃんにからかわれそうだから、遠慮しておく。さすがに理世ちゃんがいるのに、そっちに泊まる勇気はないかな」


 いくら奈都と理世が友人だからといって、純誠の彼女としてお泊まりに行くのは、お互いかなり気まずい思いをするに違いない。


 もし理世にお泊まりに誘われたらそれは行くにしても。


 それとこれとは話が別なのだ。


 ただ、理世のいる前でどう振る舞えばいいのかまだよくわからず、少し不安もある。理世との友人歴の方が長いので、今から理世のことを、恋人の妹、として見るのはなかなか難しい問題だ。


「でも、報告はしないと拗ねちゃいそうだから、今度おじゃましてもいいですか?」


「敬語」


 ちょっとしつこい……と思いつつ、おくびには出さずに言い直した。


「今度あいさつに伺うね?」


 うん、と嬉しそうなはにかんだ笑みが返って来て、しつこいと思ったことを心の中で詫びた。つき合いはじめなのに淡白すぎたことを反省する。


「手土産とか、必要だよね?」


「手ぶらでいいよ、理世相手なんだから」


(理世ちゃんだからこそ、礼儀を尽くさないといけないんだけど……)


 友人だからと、そのあたりを蔑ろにしていいわけではない。


 ただ、理世の好みは把握しているので、なにを待って行けばいいか悩む必要がないところは非常に助かる。


 とりあえずあまいものを持参すれば、間違いない。バウムクーヘンでも持って行こう。周りにごくあまの砂糖がついたものを。きっと笑ってくれるだろう。


 思わず笑みをこぼすと、純誠が顔をのぞき込んできた。


「なにを考えてた?」


「理世ちゃんのこと」


「……そこは、目の前にいる恋人のことを考えてほしい」


 落胆するその様子をかわいく思いながら慰めると、そのまま抱き寄せられた。朝から……いや、昨日の晩からだが、やけに密着しすぎではないだろうか。


 よほど事故物件が怖いらしい。その手のものが見えたことは一度もない奈都からしたら、よくわからない感覚だが。


 なんとなく背をなぞる手が不埒な動きになってきたのを感じて、奈都は身じろいだ。まだその段階ではないと、やんわりと叱る。


「こら。待って、だめ」


 叱ったはずなのに、なぜか、いたずらっぽさを残していた瞳が急に熱が帯びて驚いた。


「……ごめん、ちょっとだけ」


(絶対ちょっとじゃ済まないお約束の台詞……)


 本当に言う人がいるのだと場違いに感動する。


 彼のことだから、本当にちょっとなのだろうという信用はある。


 押しのけようと伸ばしていた手は掴まれて、純誠の首に回すように誘導された。逃げようと思えばいつでも簡単に逃れられるので、まあいいかと、顔を寄せて唇を重ねる。


 流されるまま身を任せようとして――はっと気づいた。


「待って、今何時!?」


 慌てる奈都の様子に引きずられて時計を探した純誠が、ユアステのかけ時計を見つけて、時間を読んだ。


「今は……十時ちょっとすぎ」


 自分ですでに確認して愕然としていたが、だめ押しでそう言われて、枕に突っ伏して嘆いた。


「ああっ……! 聖地巡礼の旅が!!」


「聖地巡礼って、あの聖地巡礼?」


 その聖地巡礼だとうなずく時間すら惜しかった。


「まずい、ゆうちゃんさんに連絡しないと!」


 がばりと起き上がろうとしたが、背中からのしかかるようにして純誠に捕らえられた。


「は? 待って、なんであの人に連絡を?」


「だから聖地巡礼が……って、そんなことより!」


 背中にのしかかったままの純誠を蹴り飛ばすわけにもいかず、必死に手を伸ばしてどうにかサイドテーブルに置かれたスマホを掴み取り、慌てて確認すると、一件だけメッセージが届いていた。


『やっぱり来ませんでしたねぇ。なっちゃんさんの分はきちんとキャンセルしておきましたよ。ただ、報酬未払いなのは気が引けるので、もしあなたたちが結婚でもしたら、新婚旅行として聖地巡礼の旅をふたり分プレゼントしますね。もしくは別れたとき、傷心旅行でいらしてください。楽しみにしてます。それじゃあ、行ってきます!』


「あぁぁぁ……聖地巡礼……」


 背中からのぞき込んでいた純誠が全文を読み終えたらしく、不満気な声でぼやいている。


「もしかして海外に行くっていう話は、聖地巡礼のため? だからといって、男とふたりきりで旅行なんて……」


「あぁぁぁぁ……聖地巡礼……」


「え、待って。時間にさえ間に合ったら、行くつもりだったということ? さすがに間に合っていたとしても、男とふたりで旅行なんて行かせてないけど」


「でも、ゆうちゃんさんですよ?」


「いや、なんであの人なら大丈夫だと? どこの誰であれ、ほかの男と旅行に行った時点でどう考えても浮気だから」


「いやいや。昨日の時点では誰ともつき合っていなかったし」


「でも、今日からは違う」


 純誠が本格的に不機嫌になってきたので、このあたりで現実を受け入れることにした。一応いつかは行けるという保証はしてくれているから、今は我慢しよう。


「……怒ってる?」


「……怒ってる」


 かなりへそを曲げてしまったので、ご機嫌取りに骨が折れそうだ。


「どうしたら機嫌が戻る?」


 どうにか体の向きを変えて、むすっとしているその頰をちょんとついてみる。ますます眉間にしわが寄った。


「なんでもするから、言って?」


「……あんまりそういうことは、言わない方がいいと思う。特に、ベッドの上では。調子に乗りそう」


 調子に乗ればいいのに乗らないところが純誠っぽいなと思いながら、奈都は黙って次の言葉を待った。


 純誠はいろいろ考えた末に、調子に乗らないことに決めたらしい。


「今日はずっと家にいてほしい」


「え? それだけでいいの?」


 どうせ聖地巡礼には行けないのだから、家にいることは構わない。それくらいで気が収まるのなら安いものだ。


「せめて今日くらいは、ふたりだけですごしたい。せっかく、つき合いはじめた記念日なのに……」


 目的は聖地巡礼であり、優一は観光ガイドくらいに思っていたのだが、たしかに配慮に欠けていた。これは全面的に奈都が悪い。


「今日だけじゃなくても、好きなだけあげるけど」


「ユアステの視聴中も?」


「……それは別で」


 そっと目を逸らした。奈都にも譲れないものはある。


「あ、でも、純誠さんがみのりん以下というわけではないから!」


 そもそも比べるものでもない。それなのに純誠の表情は暗澹と闇方面に落ちていく。


「勝てないのはわかってるから……安易な慰めはいらない」


「純誠さんがみのりんと同じ土俵に立つには、まず、美少女にならないと。だけど二次元に行ったら、こうして抱き合ったりできないよ?」


 ぎゅっと抱きついたら、なぜか大きなため息が頭に落ちてきた。


「どうしたの?」

 

「……なんか、ハニートラップに引っかかったのは自分の方だったのかもしれないと、今すごく思っただけで」


 この人はなにを言い出すのか。今度は奈都の方がため息をつきたくなった。


「そんなこと思うのは純誠さんだけだから」


「そんなことはないと思うけど」


 絶世の美女ならまだしも、奈都がハニートラップを仕掛けたところで引っかかってくれる人なんていないだろうし、そもそもハニートラップの仕掛け方もわからない。恋愛感情を抱かせる言動をしたり、直接的に色仕掛けすることだと理解してはいるものの、それこそ、誰に対してもしたことがない。


 ハニートラップを仕掛けられなかったせいで、参考にできるものがなく、ハニートラップが仕掛けられないのだ。


 奈都はしばし考えて、ちょっと改まった口調で切り出した。


「じゃあ今から、ハニートラップを仕掛けてみてください」


「え?」


「だってこっちはずっと待って身構えていたのに、誰も仕掛けて来なかったし……。ちょっとどんなものなのか、試しに実践してみて? がんばって回避するから」


「いや、え?」


「ハニートラップが仕掛けられない、なんて思わないくらいに、全力で」


 無茶ぶりに困った顔をする純誠に、奈都は、ふふ、と微笑んだ。


(冗談だよ、って言うのは、もうちょっとだけあとにしようかな)


 好きな人からなら、いくらだって口説かれてみたいものなのだ。


 自分にも案外乙女な思考が残っていたのだなと思った奈都だった。





「というわけで、つき合うことになりました」


 理世に報告すると、すでに兄の様子から察していたのか、驚くことなく納得の表情をされてしまった。


「あんな浮かれた顔見せられたら、もうそれだけでなにがあったのかすぐにわかりますよ。うちの兄、感情が顔に出すぎなので」


「ああ、たしかに……」


 奈都はキッチンでコーヒーを淹れている純誠をちらっと見てうなずいた。見るからに機嫌がよさそうだ。なんか、鼻歌まで歌っている。よく聞くとユアステのオープニングだった。奈都は自らの布教の成果に満足する。


 理世は呆れ顔のまま、キッチンに聞こえないように声量を落とした。


「でも、本当によかったんですか? そもそも奈都さんって、お兄ちゃんのこと好きだったんですか? わたしが薦めてたときには、あんまり興味がなさそうだったのに」


「はじめから人としては好きだったよ? 好みが合うし。意識したのは、もう少しあとだけど……」


「それならよかったですけど……なにか決め手とかあったんですか?」


 身を乗り出して来た理世に、奈都はいろいろ思い返してみた。事故でキスしてしまったときもだが、やっぱりあの言葉が大きかった。


「俺が守るから、って言われたことかな」


 奈都がときめきを思い出しながら告げると、理世が一瞬言葉に詰まって、嘆息した。


「……まぁ、言うのはただですよね……」


「その気持ちだけで十分嬉しいよ? それに純誠さん、わたしがあの拉致犯たちを再起不能にしたあとでも、夜道は危ないからってタクシー呼んでくれたんだよね……」


 それだけ強いなら夜道で襲われても平気だろう、とならなかったことに驚いて、この人のこういうところが好きだなと改めて思い、切なくなったのだ。


「今でも車道側を歩いてくれるし、重たいものもは必ず持ってくれるし、化け物を見る目を向けて来ないし」


 今回の件もそうだが、彼は兄としての自覚が強いのだと思う。車道側を歩くのも、重たいものを持ってくれるのも、きっと理世のためにしていたのではないか。彼女を守るためにしていた行動を当然のことと思い、無意識にそうする癖がついているのだ。


「化け物を見る目?」


「思い出すのも嫌なんだけど、昔つき合ってた人が、ね……。ちょっと、別れ話が拗れて、蹴ったら吹っ飛んで頭が壁にめり込んじゃって」


「うわぁー……」


「一応内蔵とか肋骨とかを避けてお尻を蹴ったのに、全治二週間で……化け物でも見る目で見られて」


「わぁー……」


 コーヒーを運んできた純誠に憐憫の目を向ける理世を怪訝そうにしながら、彼は奈都の隣へと腰を下ろした。


「なんの話をしていたんだ?」


「いや、待って? なんでお兄ちゃんそっち側に座るの?」


「なんでって……ここに座ったらだめなのか?」


「デート中なら好きにしてくれて構わないけど、今日に関してはわたしと奈都さんの女子会の日だし」


 そうなのだ。つき合うことになった報告を兼ねた女子会の予定で遊びに来たのだが、純誠が在宅しているとは思っていなかった。


「今日はおまえに譲るんだから、少しくらいいいだろう」


「いや、逆だから。わたしが先に友達になったんだから、わたしが譲歩してる方だよ」


 兄妹の会話を聞きながらコーヒーに舌鼓を打つ。ふたりの仲がまた元のように戻って本当によかった。


 はじめてこの家におじゃましたとき、純誠は理世の隣に座っていた。それを思うと不思議な気持ちだ。まさかつき合うことになるとは思っていなかったのだから、本当に世の中はなにが起こるかわからない。


 移動することなくしれっとする純誠に諦めたのか、理世は、はぁ、と大きく嘆息した。


「めんどくさいから、今日はお兄ちゃんが恋人を家に連れて来た、って考えることにする」


「ごめんね、女子会なのに」


「いや、どう考えてもうちの兄が悪いですよ。こんなに分別がないとは」


「何度も言うけど、自分の家なんだからどこにいてもいいだろう」


「いてもいいけど、いちゃつくのだけはやめてね?」


「……それくらいの分別はある」


 ちょっと拗ねた顔でそう言って、奈都の手を握ろうとしていたその手を自分の膝へと戻した。あまり人目が気にならないタイプなのだろうか。


「あ、そうだ。うまくいったって、お兄ちゃんのお兄さんに報告しておかないと」


 スマホを取り出した理世に、純誠が、は? と声を上げる。奈都も、理世が優一と連絡を取り合っていたことに驚いている。


「両思いなのにすれ違ってるから、うまく行くよう発破をかけてほしいってお願いされてたんだよねー」


「はぁ!? ……あっ、だから海外に行くってややこしいことを言ったのか!?」


「いやぁ、ヘタレの兄を持つと妹は大変なんですよ」


「おまえな……」


 ぐったりしてしまった純誠をよそに、理世はさくさくと報告を済ませて、にっこりとした。


「正式につき合うことになったわけですし、今度こそ本当にダブルデートしましょうよ! ね?」


 勢いに負けてその提案にうなずきかけた奈都に、復活した純誠が待ったをかけた。


「まだふたりきりでデートしてない!」


「奈都さんいつ空いてますか?」


「聞けよ……」


 前回と同じように、あっという間に予定が組み立てられてしまった。


 純誠は恨めしげに理世を見ていたが、奈都としては今度こそ素直に楽しめそうで嬉しい。


 今度こそ、推しの誘惑に負けないよう気をつけなければと胸に誓った。




教訓。女子大生の行動力を侮るな。(2回目)


最後までお読みいただきありがとうございます!

番外編があと数話続きますので、よろしければおつき合いいただけると嬉しいです。

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