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「どうする、河童」
私はパソコンの画面に視線を固定したまま、河童を呼んだ。
足元に寝っころがっていつものように私の足で遊んでいた河童が、私の声を聞いて机の下から這い出してきた。私は河童の脇に手を入れて持ち上げ、逆向きにして、画面を見せてやった。理解できないだろうというのは分かっていたが、気持ちは通じるだろう。
画面はネット銀行にある私の口座のページだ。一番上がナビゲーションバーで、その下に私の口座の残高が表示されている。四億、一千五百二万、三千九百十二円。
私は大金を手に入れたのだ。多分これから先、今の仕事を定年まで続けても得られないような額の金だ。買わなければ当たらないが買っても当たらないくじの当選を、私が引き当てたのだった。
「河童、おまえは福の神か?」
河童を背後から抱きしめ、後頭部に頬をすり寄せると、くすぐったかったのか、河童は「けけっ」と笑い声を上げた。
私は会社を辞めた。新卒で入社してからずっと世話になった会社だったが、特に未練はなく逆に清々しい気分になった。何人かが私を引き止めようとし、何人かがやめてどうするんだと言い、残りの大多数は無反応だった。
ロッカーの荷物を整理していると、鈴子がわざわざ私のところまでやってきて本当に辞めるのかと聞いて来た。座布団の河童の件以来、彼女は私に妙なシンパシーを抱くようになったらしい。私が頷くと、彼女はしばらく黙って私の顔を見ていた。気まずさに耐え切れずにロッカーを出ようとすると彼女は笑い、元気でね、と一言だけ言って私に背を向け、職場に戻っていった。
退職者に用意される花束を抱え、私は家路を急いだ。送別会が思ったよりも遅くなり、河童のことが心配だったからだ。しかし河童はどこかに出て行くことも、肉を食べて具合を悪くしていることも、風呂につかりすぎてふやけて膨らんでいるようなこともなく、私が玄関を開けると同時に足にまとわりついてきた。ほっとした私がなにも言わないのをいいことに、河童はしばらく離れようとしなかった。
河童は湖を泳いでいる。今日は風もなく、流されていくこともないだろう。私は河童が泳いでいるのをひとしきり眺め、絵筆を置いた。
中高生の頃、将来は画家になりたいと思っていた。美術学部に進みたいと思っていたが、そんなものでは食えないから趣味にしろと親に猛反対され、法学部へ進みサラリーマンになった。もう忘れかけていた夢だったが、こうして自由な時間を手に入れると、やりたいと思うことはあの頃見ていた夢に繋がっていた。
まあ、でも親の反対はもっともだったと、今、目の前にある自分の絵を見て思う。笑ってしまうほど下手だ。しかし下手の横好きでもやりたいことをやれるのは楽しい。好きなことを好きなようにやれる時間があることがこんなに幸せなことだったとは知らなかった。
湖から上がった河童が不器用に走りながら窓に近づいてくる。人がやってくる季節になったら、不用意に人前に姿を見せないように厳しく躾けなければいけない。河童が人の好奇の視線にさらされるのは河童にとっても私にとっても苦痛だろうから。
河童は窓の下までやってくると、手に持っていたものを私に差し出した。魚だ。私は笑ってそれを受け取った。
「そろそろ昼食の時間だ。足を洗って玄関から回って来い。途中できゅうりをもぐのを忘れるなよ」
河童は私を見上げて頷く。頭の皿にたっぷりと満たされた透明な水が揺れた。あの日欠けた頭の皿はいつまでたっても欠けたままだ。テレビの横に置いてあったかけらは引っ越しのときにどこかへ行ってしまった。
食卓に並んでいるのは河童が捕ってきた虹鱒のムニエルと菜園で収穫したトマトのサラダ、茄子と油揚げの味噌汁にご飯だ。河童は味噌をつけたきゅうりを行儀良く両手で持ち、端っこにかぶりついている。写真を撮って鈴子に見せてやりたい。私が見ているのに気がついた河童は、手の中にあるきゅうりと私を交互に見比べ、そっときゅうりを差し出してきた。
「いらないよ」
思わず苦笑してしまう。
どこの誰が河童の食いかけのきゅうりを取るのだ。
河童は安心したように「きゅ」と鳴き、再びうまそうにきゅうりを食べ始めた。
「きゅるきゅいらきゅきゅるいるら!」
「だれに向かっておじぎしてるんだ?河童」
「きゅきゅらきゅるいら!きゅるいらるら!」