第9話 回らなくなった屋敷(セリーヌ視点)
お姉様がいなくなって、半月が過ぎた。
最初の数日は、本当に気分がよかった。
あの地味な灰色のドレスを見なくて済む。食卓の端で、黙ってパンをちぎる陰気な姿を見なくて済む。
殿下の目が、北の棟に向くこともない。
(これで、全部私のもの)
そう思っていた。
なのに、どうしてだろう。
屋敷の中が、日に日におかしくなっていく。
「旦那様、出入りの仕立て屋が、先月分の代金をまだいただいていないと……」
「肉屋もです。三か月分が溜まっていると」
朝食の席に、使用人たちが次々と顔を出す。
お父様は不機嫌そうに眉を寄せ、新聞を乱暴に畳んだ。
「支払いなど、帳簿を見ればすぐに分かるだろう!」
「その帳簿が……どこまでつけてあるのか、私どもには分からないのです。お嬢様……いえ、アデライン様がすべて管理しておられましたので」
お姉様の名前が出た途端、食堂の空気が冷えた。
お母様が、銀のスプーンをかちゃんと置く。
「あの子の名前を、この家で出さないでちょうだい」
「も、申し訳ございません」
使用人が逃げるように下がっていく。
私は紅茶を飲むふりをしながら、お父様の顔をうかがった。
額に、うっすらと汗が浮かんでいる。
(帳簿なんて、誰がつけたって同じでしょう?)
そう思っていた。お姉様にできたことなら、誰にだってできるはずだもの。
けれど、その日の午後。
お父様の書斎から、怒鳴り声が響いてきた。
「王宮からの照会だと!? 水路の報告書の続きはどうなっているのか、だと!」
そっと扉の隙間から覗くと、お父様が一枚の書状を握りしめていた。
机の上には、書類の山。
お姉様がいた頃は、いつもきちんと揃えられていたはずの紙の束が、今はばらばらに崩れて散らばっている。
「数字が、合わん……! なぜだ、去年の分と今年の分で、どうしてこんなに違う……!」
お父様は頭を抱えていた。
あんなお父様を見るのは、初めてだった。
「あなた、落ち着いてくださいな」
お母様が書斎に入っていく。
「誰か、計算のできる者を雇えばよろしいでしょう」
「雇う金がどこにある! 今月はもうぎりぎりなんだぞ! お前が売った首飾りの代金は、いったいどこへやった!」
首飾り。
その言葉に、どきりとした。
あの首飾りを売ったお金で、王宮の侍従に握らせたのは、私だ。お母様に泣きついて、「殿下とお姉様を引き離すため」と言ったら、お母様はすぐに承知してくれた。
お母様は、お父様には何も言っていない。
(あれは、必要なことだったのよ)
私は悪くない。悪いのは、お姉様のほうだもの。
夕方。
廊下の向こうで、お母様の甲高い声がした。
「ハンナ! あなた、あの子に何か持たせたでしょう!」
足を止めて、柱の陰から様子を見る。
お母様の前で、老侍女のハンナがうつむいていた。
「門番が見ていたのよ。あの夜、あなたがマントと袋を渡していたって」
「……はい。お嬢様が、あまりにもお気の毒で」
「お嬢様? あの子はもう、この家の者ではありません!」
お母様の手が振り上げられる。
ハンナは逃げなかった。皺だらけの顔を上げて、まっすぐにお母様を見返した。
「奥様。この屋敷が回っていたのは、アデラインお嬢様がいらしたからでございます。帳簿も、お支払いも、王宮へのお手紙も。旦那様のお名前で出されていたものは、ほとんどすべて」
「黙りなさい!」
乾いた音が響いた。
「今日限りで暇を出します。荷物をまとめて、出ていきなさい」
ハンナは、叩かれた頬を押さえもせずに、静かに頭を下げた。
その背中を見送りながら、胸の奥がざわざわと落ち着かなかった。
(屋敷が回っていたのは、お姉様がいたから……?)
そんなはず、ない。
あんな地味で、可愛げのない、病弱なふりしかできない人が。
夜。
自分の部屋で、私は鏡台の引き出しを開けた。
中には、殿下から届いた手紙が入っている。婚約が内定してから、殿下は月に一度、きちんと手紙をくださっていた。
当たり障りのない、丁寧な文面。「お元気ですか」「先日はありがとう」。
それでも、私宛ての手紙だった。
夜会の日から、一通も届いていない。
こちらから三度送った手紙にも、返事はない。
それどころか、昨日のお茶会で、伯爵夫人たちがこんな噂をしていた。
「エリオット殿下の白樺の離宮に、最近、若い女性が住んでいるらしいわよ」
「まあ。婚約者がいらっしゃるのに?」
「それがね、王宮の文官たちの間では、たいそう評判のいい方だとか」
扇の陰で、ちらちらと私を見る目。
くすくすと笑う声。
(あれは、まさか……)
いいえ、そんなはずはない。
お姉様は家を追い出されて、行くあてもなく、今頃どこかの下町で惨めに暮らしているはずだ。
殿下が、あんな人を拾うはずがない。
鏡の中の私は、いつも通り可愛らしかった。蜂蜜色の髪も、碧い瞳も、誰より綺麗に磨かれている。
「……大丈夫よ」
鏡の中の自分に、言い聞かせる。
「殿下の婚約者は、私なんだから」
明日、王宮へ行こう。
殿下に直接お会いして、確かめればいい。
窓の外で、冷たい風が鳴っていた。




