第10話 王宮の回廊で
その日、私はローデリヒ様と一緒に、王宮の本殿へ書類を届けに向かっていた。
白樺の離宮から本殿までは、長い回廊でつながっている。冬の日差しが柱の間から差し込んで、床に縞模様を描いていた。
「アデライン様のおかげで、ラウエンとの協定は無事にまとまりそうです」
ローデリヒ様は、書類の束を大事そうに抱えている。
「陛下も、あの第十二条の指摘をたいそうお喜びだったとか」
「そんな……私は、照らし合わせただけです」
「その『だけ』が、誰にもできなかったのですよ」
まだ、褒められることには慣れない。
けれど、胸の奥がくすぐったいようなこの感じは、嫌いではなかった。
本殿の手前まで来たときだった。
「――ですから、婚約者の私が、殿下にお会いしたいと申し上げているのです!」
聞き覚えのある声に、足が止まった。
回廊の先、本殿の入口の前で、薄紅のドレスの娘が衛兵と押し問答をしている。
蜂蜜色の髪。宝石みたいな碧い瞳。
セリーヌだった。
(どうして、ここに……)
逃げなければ、と思った。けれど体が動かない。
衛兵の肩越しに、セリーヌの視線がこちらをとらえた。
碧い瞳が、大きく見開かれる。
「……お姉様?」
その声に、周りにいた文官たちが一斉に振り返った。
セリーヌは衛兵を押しのけるようにして、こちらへ歩いてくる。王宮で用意していただいた私の紺色のドレスを、上から下までじろじろと眺めた。
「なあに、その格好。王宮で何をしているの? まさか、本当に殿下の離宮に……」
「セリーヌ……」
「信じられない。追い出されたくせに、今度は殿下に取り入ったの? 家にいた頃から、そういう人だと思っていたけれど」
セリーヌの声は、わざとらしいほどよく通った。
周りの文官たちが、ざわざわとささやき合う。
あの夜会の広間と、同じだ。
息が、うまくできなくなる。
(また、私が悪いことにされる)
そう思った、そのときだった。
「何の騒ぎかな」
穏やかな声が、回廊に響いた。
振り返ると、本殿の奥からエリオット殿下が歩いてくるところだった。その後ろに、ヴィクトル様が控えている。
「殿下!」
セリーヌの声が、ぱっと甘くなった。
さっきまでの険しい顔が嘘のように、花のような笑顔を浮かべて殿下に駆け寄っていく。
「お会いしたかったですわ。夜会の日から、ずっとお手紙をお待ちしていましたのに」
「そうでしたか」
殿下は、いつもの愛想のいい笑みを浮かべていた。
けれど、私には分かった。
青灰色の瞳が、少しも笑っていない。
「殿下、ご覧になって。姉が、こんなところに。あんなことをしておきながら、図々しくも王宮に入り込んで……」
「彼女は、僕の客人です」
殿下の声は、静かだった。
「そして今は、王宮の文官たちが頼りにしている方でもある。図々しく入り込んだ、という言い方は、少し違いますね」
「え……」
「ローデリヒ」
「はい、殿下」
ローデリヒ様が一歩前に出て、セリーヌに丁寧に頭を下げた。
「アデライン様には、ラウエンとの交易協定の照らし合わせを手伝っていただいております。文官三人が半月かかっても終わらなかった作業を、一日で仕上げてくださいました」
周りの文官たちのざわめきが、さっきとは違う色に変わった。
「やはり、あの方が……」
「フォルクナー家の報告書、あの几帳面な字。伯爵の字にしては綺麗すぎると思っていたんだ」
「実務は全部、長女がしていたという噂は本当だったのか」
セリーヌの笑顔が、引きつった。
「セリーヌ嬢」
殿下が、もう一度妹の名前を呼んだ。
「今日はお引き取りください。正式な用件があるのなら、伯爵を通して書状で。それが、王宮の決まりですから」
「で、でも、私は殿下の婚約者で……」
「婚約内定、ですね」
殿下は笑顔のまま、ほんの少しだけ首を傾けた。
「その件についても、近いうちに伯爵家へご連絡します。……ああ、それと」
殿下の声が、ひやりと冷えた。
「僕の客人を、二度と人前で辱めないでいただけますか。次は、さすがに見過ごせません」
セリーヌの顔から、さっと血の気が引いた。
衛兵に促されて、妹は回廊を戻っていく。
すれ違いざま、セリーヌが私を睨んだ。
燃えるような目だった。私の知っている、いつもの花のような笑顔は、どこにもなかった。
「大丈夫ですか」
セリーヌの姿が見えなくなってから、殿下が私の顔を覗き込んだ。
「……はい。殿下が、来てくださったので」
「ヴィクトルが、本殿の入口で騒いでいる令嬢がいると知らせてくれたんです。間に合ってよかった」
殿下は、私の手にそっと触れた。
震えていたことに、そのとき初めて気づいた。
「怖かったでしょう」
「いいえ」
首を横に振ってから、少しだけ考えて、言い直した。
「……少しだけ。でも、あの夜会のときとは違いました」
あのときは、誰も私の味方ではなかった。
今日は、殿下がいた。ローデリヒ様がいた。私の仕事を知っている人たちが、いた。
「アデライン様」
ヴィクトル様が、遠慮がちに声をかけてきた。
「離宮に、お客様がお見えです。お会いになりたいと、ずっと門の前でお待ちで」
「お客様……?」
離宮に戻り、応接室の扉を開ける。
そこに立っていたのは、小さな荷物を一つだけ抱えた、白髪の老婦人だった。
「お嬢様……!」
「ハンナ……!」
気づけば、私は駆け出していた。
皺だらけの手が、私を抱きとめる。懐かしい、石鹸の匂いがした。
「お屋敷を、お暇を出されまして……途方に暮れておりましたら、殿下の使いの方が迎えに来てくださったのです」
ハンナの声が震えている。私の声も、震えていた。
「ごめんなさい、ハンナ。私のせいで……」
「いいえ。いいえ、お嬢様」
ハンナは私の顔を両手で包み込んで、泣きながら笑った。
「こんなにお顔色のいいお嬢様を、初めて拝見いたしました。……それだけで、もう十分でございます」
振り返ると、扉のそばで殿下が静かに微笑んでいた。
私は、この方にどれだけのものをもらっているのだろう。
数えきれないほどの「ありがとう」を、まだ一つも返せていないのに。




