第11話 引き継ぎ書
ハンナが離宮に来て、十日ほど経った頃のことだった。
「アデライン様。フォルクナー伯爵ご夫妻が、お見えになっております」
ミアが青ざめた顔で、執務室に駆け込んできた。
ペンを持つ手が、止まる。
「……父と、母が?」
「はい。アデライン様に会わせろと、門の前でたいそうなお怒りで……。今、ヴィクトル様が応接室にお通ししています」
(今さら、何をしに)
追い出したのは、あの人たちのほうだ。二度と顔を見せるなと言ったのも。
けれど、理由はなんとなく分かっていた。
ハンナから聞いている。屋敷の帳簿が誰にも読めなくなっていること。王宮からの照会に、父が答えられずにいること。
あの人たちが欲しいのは、私ではない。私が書く書類だ。
「追い返しましょうか」
いつの間にか、殿下が執務室の入口に立っていた。笑顔だった。ハンナの言葉を借りるなら、たぶん、かなり怒っている。
私は少し考えてから、首を横に振った。
「殿下。紙を、少しいただけますか。それと、一時間ほど」
「紙?」
「父と母には、応接室で待っていていただきます」
殿下は不思議そうに瞬きをしてから、黙って上質な紙の束を机に置いてくれた。
ペンを取る。
書くことは、全部頭の中に入っていた。
屋敷の年間の収支。出入りの商人ごとの支払い日と、溜まっているはずの未払い額。使用人の給金の日。領地から上がる小麦の量と、売りに出す時期。王宮へ提出する書類の種類と、それぞれの期限。水路の修繕の続きに必要な数字。
五年分、毎日続けてきたことだ。
一つずつ、誰が読んでも分かるように書き出していく。
(不思議ね)
あの家にいた頃は、自分がこれだけのことをしていたなんて、考えたこともなかった。
ただ目の前の帳簿を、夜明け前に片付けていただけ。
それを一枚の紙に並べてみると、思っていたよりずっと長い一覧になった。
途中で、ペン先が止まった。
ハンナから聞いた、もう一つの話を思い出したからだ。
夜会の少し前に、母が首飾りを売ったこと。それなのに屋敷の支払いは溜まる一方で、使用人の給金が二か月も遅れていること。
首飾りは、母が祖母から受け継いだ大粒の青玉だ。売れば、屋敷の半年分の支払いに足りる。
(その代金は、どこへ行ったの?)
少しだけ迷ってから、私はそれも書き加えた。数字が合わないところを、合わないまま見過ごすことは、どうしてもできなかった。
一時間後。
応接室の扉を開けると、父と母が弾かれたように立ち上がった。
二人とも、ひと月前よりずいぶんやつれて見えた。父の目の下には濃い隈ができていて、母の首元には、何もない。
「待たせるとは何事だ! 自分の立場が分かって――」
「お父様、お母様。これを」
父の言葉を待たずに、私は紙の束を差し出した。
「……なんだ、これは」
「引き継ぎ書です」
父が、眉をひそめて紙をめくる。
「屋敷の帳簿のつけ方と、支払いの予定、王宮への提出書類の一覧です。期限の近いものから順に並べてあります。計算のできる方を一人雇えば、これで屋敷は回ります」
母が、信じられないものを見るように私を見た。
「アデライン、何を言っているの。私たちは、あなたに戻ってきなさいと……」
「戻らなくていいように、書きました」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
怒りでも、悲しみでもない。
帳簿の最後の頁に、線を一本引くときと同じ気持ちだった。
「私がいなくても、あの家が困らないように。……それが、私にできる最後のお仕事だと思います」
父の手の中で、紙がかさりと鳴った。
頁をめくるたびに、父の顔色が変わっていく。そこに並んでいるのは、父が一度も目を通したことのない数字ばかりだ。
「……なぜ、これほど未払いが溜まっている」
「お父様が、帳簿をご覧にならなかったからです」
責めるつもりはなかった。ただ、事実を言っただけだ。
父は、何も言い返さなかった。
「それから、最後の頁に一つだけ」
私は、父の手元を指さした。
「数字が合わないところがあります。夜会の前に、お母様が青玉の首飾りをお売りになったと聞きました。けれどその代金が、屋敷のどの支払いにも使われていません」
母の肩が、びくりと跳ねた。
「あれだけの額があれば、使用人の給金も、商人への支払いも済んだはずです。どこへ消えたのか、私には分かりませんでした。お母様なら、ご存じですよね?」
応接室が、しんと静まり返った。
母の顔から、すうっと血の気が引いていく。父が、ゆっくりと母のほうを振り向いた。
「……そういえば、まだ答えを聞いていなかったな。あの金は、どこへやった」
「そ、それは……あなたには関係のないことよ……」
「関係ないだと? 屋敷の金だぞ!」
二人の声が、だんだん大きくなっていく。
私はその様子を、少し離れたところから見ていた。
(こんなに、小さな人たちだったかしら)
あの家にいた頃、父と母はとても大きく見えた。逆らえない、どうにもならない、天井のような存在だった。
今、目の前で言い争っているのは、帳簿の一つも読めない、疲れた二人の大人だった。
「伯爵、夫人」
部屋の隅で黙って立っていた殿下が、ようやく口を開いた。
「首飾りの代金の行方については、僕も少々、興味があります。いずれ正式な場で、詳しく伺うことになるでしょう」
母が、小さく悲鳴のような息を漏らした。
父は、何かを悟ったように母を見つめていた。
「今日のところは、お引き取りを。その引き継ぎ書は、どうぞお持ち帰りください。……彼女が、あなた方のために書いた最後のものですから」
ヴィクトル様に促されて、二人は応接室を出ていく。
最後まで、どちらも「ごめんなさい」とは言わなかった。
それでも、もう構わなかった。私が欲しかったのは、きっとその言葉ではなかったのだと、今なら分かる。
扉が閉まると、殿下が長い息をついた。
「……あなたを敵に回すのだけは、やめておこうと思いました」
「え?」
「怒鳴りもせず、泣きもせず、一時間で書類を一束書き上げて、最後に一番痛いところを指さす。ローデリヒが見ていたら、文官長の座を譲ると言い出しますよ」
殿下は笑っていた。社交用ではない、あの少し困ったような笑い方で。
「首飾りの件、そんなに大事なことだったのですか?」
「ええ。とても」
殿下は、それ以上は教えてくれなかった。
ただ、私の頭にそっと手を置いた。
「あなたは、ずっと一人であの家を支えてきたんですね」
その言葉に、なぜか今になって、喉の奥が熱くなった。
あの紙の束は、私の五年間そのものだった。
誰にも見られず、誰にも数えられなかった日々を、私は今日、初めて自分の手で数え上げたのだ。
「……殿下」
「なんですか」
「新しい帳簿を、一冊いただけませんか」
殿下が首を傾げる。
私は、少しだけ笑った。
「これからの私の分を、つけてみたいんです」
殿下は一瞬目を見開いて、それから、とても嬉しそうに頷いた。
翌朝、執務室の机の上には、紺色の革表紙の帳簿が置かれていた。
一頁目には、殿下の字で、ただ一行。
『アデライン・フォルクナーの帳簿 一日目』




