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第8話 最初から、あなたでした

 離宮に来てから、半月が過ぎた。


 私は毎日、執務室で文官の方々の仕事を手伝っている。ラウエン語の翻訳、古い記録の整理、予算書の照らし合わせ。


 最初は遠巻きに見ていた文官たちも、今では「アデライン様、ここの数字なのですが」と気軽に声をかけてくれるようになった。


(ここにいても、いいのかもしれない)


 ほんの少しだけ、そう思えるようになった頃のことだった。




 その日、ローデリヒ様に頼まれて、私は王宮の記録庫で古い書状の整理をしていた。


 王家から各貴族家へ送られた書状の控えと、その返書。年ごとに分けて、目録をつけていく作業だ。


 去年の分の束をめくっていたとき、ある一枚で手が止まった。


『フォルクナー伯爵家宛 第二王子エリオット殿下 縁談打診の件』


 心臓が、どくんと鳴った。


(セリーヌの、縁談の……)


 見てはいけないと思った。けれど、目が勝手に文字を追っていた。


『フォルクナー伯爵家長女、アデライン嬢を、第二王子エリオットの妃として迎えたく』


 ……え?


 もう一度、読み直す。何度読んでも、そこに書かれている名前は変わらなかった。


 アデライン。


 セリーヌではない。私の、名前。


 震える手で、その下に綴じられていた返書をめくる。見慣れた父の署名。けれど、文面は父の字ではなかった。


 母の字だ。


『長女アデラインは生来病弱にて、王家に嫁ぐ務めを果たせる身ではございません。つきましては、次女セリーヌを』


 息が、止まった。


 ――アデライン、あなたは今後、人前では病弱ということにしておきなさい。


 母の声が、頭の中で響く。


 あれは、私が地味だからではなかった。殿下の目に入ったら恥だから、でもなかった。


 最初から、殿下が望んでいたのは。


(私、だった……?)




 その夜、私は書状の写しを手に、殿下の執務室の扉を叩いた。


「アデライン? こんな時間に、どうし……」


 殿下の言葉が途切れた。私の手にある紙に、気づいたのだ。


 しばらくの沈黙のあと、殿下は静かに椅子から立ち上がった。


「……見てしまいましたか」


「本当、なのですか」


 声が震える。


「殿下が縁談を申し込まれたのは、セリーヌではなく……私、だったのですか」


「ええ」


 殿下は、まっすぐに私を見た。


 もう、社交用の笑みはどこにもなかった。


「最初から、あなたでした」


 足から力が抜けそうになって、私は扉の枠に手をついた。


 殿下が、ゆっくりと話し始める。


 三年前の王宮書庫のこと。私が何気なく口にした古いラウエン語の意味のこと。それから、フォルクナー家の書類をずっと見ていたこと。縁談の打診と、嘘の返書のこと。一年間の婚約内定に込めた意味のこと。


 一つ一つが、信じられないことばかりだった。


(あの書庫の……)


 覚えている。翻訳に困っていた、年上の青年。身なりのいい文官見習いだと思っていた。名前も聞かずに別れた、あの人。


「どうして……どうして、言ってくださらなかったのですか」


「言えば、あなたは困ったでしょう」


 殿下は小さく笑った。


「あなたのことだ。きっと『私なんかが』と言って、逃げ出してしまう」


 図星だった。


 今だって、逃げ出したくてたまらない。


「私は……殿下にそこまでしていただけるような人間では、ありません」


 うつむいたまま、言葉がこぼれる。


「地味で、口下手で、家族にさえ必要とされなかった。殿下の隣に立つような、そんな……」


「アデライン」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。


 殿下が、すぐ目の前にいた。


「『なんか』は禁止だと、言ったはずですよ」


 その声は優しいのに、どこか逃げ場がなかった。


「あなたがどう思おうと、僕の気持ちは三年前から変わっていません。あの書庫で、あなたが顔を上げてくれた日から、ずっと」


「でも、セリーヌとの婚約が……」


「あれは婚約内定です。正式なものではない。そして、王家を欺いて結ばれた内定に、効力などありません」


 殿下は、私の手から書状の写しをそっと取り上げた。


「近いうちに、すべてを正します。あなたの名誉も、あの家が奪ってきたものも、全部」




「それでも、怖いなら」


 殿下の声が、少しだけ柔らかくなった。


「逃げ道は用意します。王宮の文官として、一人で生きていく道もある。あなたの力なら、それができる。僕は、その道を閉ざすつもりはありません」


(逃げ道……)


 この方は、私に選ばせてくれようとしている。


 あの家では、何一つ選ばせてもらえなかった私に。


「ただし」


 殿下は、ふっと笑った。


 いつもの穏やかな笑みとは違う。ほんの少しだけ、熱を帯びた笑い方だった。


「僕が引くことは、ありません。あなたがどの道を選んでも、僕はそのすぐ隣にいます。……雨の夜に、『二度と離さない』と言ったでしょう?」


 頬が、一気に熱くなった。


 逃げ道は、確かにある。でもその道の先にも、この方がいる。


 それはもう、逃げ道とは呼べないのではないだろうか。


(ずるい人……)


 そう思うのに、胸の奥が温かくて、苦しかった。


 何年もの間、誰にも気づかれずに書き続けた文字を、この方だけが読んでいてくれた。


 私の名前を、ずっと覚えていてくれた。


「……少しだけ、時間をください」


 やっとの思いでそう答えると、殿下は満足そうに頷いた。


「ええ。いくらでも待ちますよ。三年待ったのですから、あと少しくらい」


 そう言って、殿下は私の手の甲に、そっと唇を落とした。


「おやすみなさい、アデライン」


 部屋に戻っても、手の甲の熱はなかなか消えてくれなかった。


 窓の外では、白樺の枝が月明かりに白く光っていた。

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