第7話 三年分の紙片(エリオット視点)
アデラインが眠ったと、ミアから報告を受けたのは夜半を過ぎた頃だった。
執務室の椅子に深く身を沈め、僕は机の引き出しを開ける。
中に入っているのは、紙の束だ。
フォルクナー伯爵家から王宮に提出された報告書の写し。領地の収支報告、水路の修繕計画、国境の村からの嘆願書の添え書き。三年分、一枚残らず。
どれも同じ筆跡で書かれている。
少し右に傾く癖があって、文字の終わりを短く払う。几帳面で、それでいてどこか柔らかい字。
伯爵本人の字では、ない。
「……また眺めておられるのですか」
扉のほうから、呆れたような声がした。ヴィクトルだ。
「ノックくらいしたらどうだ」
「三回いたしました。殿下がお聞きにならなかっただけです」
ヴィクトルは勝手に向かいの椅子に腰を下ろし、ため息をついた。
「本人がすぐそこにいらっしゃるのですから、紙を眺めるのはもうおやめになっては?」
「分かっている」
分かっているのだ。
それでも、手放せない。この三年、彼女に近づく手段は、この紙しかなかったのだから。
三年前、僕は十七だった。
兄上の補佐として初めて任された仕事は、ラウエンとの古い国境協定の翻訳だった。誰にも頼れず意地になって、王宮書庫に何日もこもっていた。
その書庫の片隅に、一人の少女がいた。
灰色の質素なドレス。栗色の髪を一つにまとめ、黙々と古い記録を書き写している。
最初は、どこかの貴族の侍女だと思った。
三日目、僕は翻訳に行き詰まって、思わず独り言をこぼした。
「この条文、どうしても意味が通らない……」
すると少女は、ためらうように顔を上げた。
「あの……差し出がましいのですが。その単語は、古いラウエン語では『川』ではなく『境』の意味で使われることがあります」
「境……?」
「はい。フォルクナー領の古い契約書でも、同じ使われ方をしていましたので」
言われた通りに読み直すと、ばらばらだった条文が、すっと一本の筋でつながった。
顔を上げたときには、少女はもう書き写しに戻っていた。
「君は、フォルクナー家の……?」
「伯爵家の、使いの者です。父……いえ、旦那様の言いつけで、記録を写しに」
それだけ言って、少女は小さく頭を下げた。
名前は、聞けなかった。
僕も、自分が誰かを名乗らなかった。名乗れば、あの静かな横顔が、きっと遠くなってしまう気がしたから。
それから僕は、フォルクナー家から届く書類を、すべて取り寄せるようになった。
同じ筆跡を見つけるたびに、胸が鳴った。
そして調べるうちに分かった。伯爵家には娘が二人いること。長女のアデラインは「病弱」で、社交界に一度も姿を見せていないこと。
それなのに、あの家の書類はいつも完璧に揃っていて、期限が遅れたことは一度もないこと。
病弱な娘が、どうして王宮書庫にいたのか。
答えは、考えるまでもなかった。
一年前。
僕に縁談の話が持ち上がったとき、父上……国王陛下に願い出た。
「フォルクナー伯爵家の長女、アデライン嬢との縁談を」
陛下は少し驚いた顔をされたが、反対はされなかった。王家の名で、正式な打診の書状が伯爵家へ送られた。
返ってきた返書を読んだとき、僕は初めて、紙を握りつぶしたいと思った。
『長女アデラインは生来病弱にて、王家に嫁ぐ務めを果たせる身ではございません。つきましては、次女セリーヌを』
嘘だ。
彼女は病弱などではない。病弱な人間に、あの量の書類が書けるはずがない。
あの家は、王家を欺いた。それも、彼女の未来を勝手に握りつぶす形で。
「断ってしまえばよろしかったのです」
あのとき、ヴィクトルはそう言った。
断るのは簡単だった。だが断れば、僕はフォルクナー家に近づく理由を失う。彼女があの家でどう扱われているのか、確かめる術がなくなる。
だから僕は、「一年間の婚約内定」として、その縁談を受けた。
正式な婚約ではない。一年の間に、あの家の嘘を一つ残らず明らかにするための時間だ。
伯爵家を訪れるたび、僕はセリーヌ嬢の隣で笑い、伯爵の自慢話に相槌を打った。
そして、北の棟の窓を見上げた。
書斎の机に本を置いたのは、ほんの思いつきだった。彼女がそれを読んでくれているかどうかも分からない。それでも、次に訪れたとき、本が丁寧に元の場所へ戻されているのを見るたびに、どうしようもなく嬉しかった。
栞に挟んだ紙片が、一枚ずつなくなっていた。
捨てられたのか、しまわれたのか。それを確かめる勇気は、僕にはなかった。
……あの夜会の日。
偽りの呼び出しだと気づいたのは、陛下の居室の前に着いてからだった。陛下は僕を呼んでなどいなかった。
広間に戻ったときには、すべてが終わっていた。
ひそひそとささやく貴族たち。セリーヌ嬢の涙の跡。そして、どこにもいない彼女。
あの夜ほど、自分の甘さを呪ったことはない。
もっと早く動いていれば。証拠を揃えるのを待たずに、彼女をあの家から連れ出していれば。
雨の門の前で、彼女は一人きりで立っていた。
灰色のドレスはずぶ濡れで、唇は青ざめていた。それでも、泣いてはいなかった。
泣き方さえ、忘れてしまったみたいに。
「殿下」
ヴィクトルの声で、僕は我に返った。
「夜会の侍従の件ですが、買収の痕跡が出てまいりました。金の出どころは、フォルクナー家の夫人の装飾品を売った代金のようです」
「……そうか」
紙の束を引き出しに戻し、鍵をかける。
「引き続き、調べてくれ。恋文の筆跡についても、王宮の鑑定官に回す手はずを」
「かしこまりました。……殿下」
「なんだ」
「アデライン様に、いつ真実をお話しになるおつもりですか」
僕は答えられなかった。
彼女は今日、ローデリヒに「ありがとう」と言われて、泣きそうな顔をしていた。
たったそれだけのことで。
あの家が彼女から奪ってきたものの大きさを思うと、腹の底が冷えていく。
「近いうちに話す。彼女が、自分の足で立てるようになったら」
「左様ですか」
ヴィクトルは立ち上がり、扉の前で振り返った。
「僭越ながら申し上げますが。殿下は三年も待たれたのです。……もう少し、ご自分のお気持ちに正直になられてもよろしいかと」
扉が閉まる。
静まり返った執務室で、僕は一人、窓の外の白樺の木々を見つめた。
この離宮のどこかで、彼女が眠っている。
手を伸ばせば届く場所に、ずっと探していた人がいる。
「……もう、待つのはやめにしようか」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。




