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第6話 はじめての「ありがとう」

 熱がすっかり下がったのは、それから三日後のことだった。


「お仕事を、させていただけませんか」


 朝食の席でそう切り出すと、向かいに座っていた殿下は、紅茶のカップを持ったまま目を瞬かせた。


 この離宮では、殿下と私が同じテーブルで食事をとる。


 最初の朝、それを知ったときは本当に驚いた。殿下は当然のように私の皿にパンを取り分け、私が何か話すたびに、きちんと手を止めて聞いてくださる。


 誰かに話を最後まで聞いてもらえることが、こんなに落ち着かないものだとは思わなかった。


「仕事、ですか」


「はい。帳簿づけでも、書類の清書でも、何でも構いません。何もしないでいるのは……その、どうにも」


「好きに過ごしていい、と言ったはずですが」


「ですから、これが私の好きなことなんです」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 好きなこと。


 そんなふうに考えたことは、今まで一度もなかった。数字を合わせるのも、書類を整えるのも、ただ「やらなければならないこと」だったはずなのに。


 殿下は少しの間、じっと私を見つめていた。


 それから、ふっと口元をゆるめた。


「では、ヴィクトルに相談しましょう。ちょうど、彼が頭を抱えている書類がありますから」




 ヴィクトル様に案内された執務室には、紙の山がいくつもできていた。


「隣国ラウエンとの交易協定の改定案です。古い条文と新しい条文の照らし合わせなのですが、ラウエン語の古語が混じっていて、文官たちも手こずっておりまして」


 差し出された書類に目を落とす。


 ラウエンの古語なら、少し読める。フォルクナー領は国境に近く、昔の契約書がラウエン語で残っていることが多かったからだ。


「この条文ですが……」


 気づけば、ペンを取っていた。


 古い条文の言い回しと、新しい改定案の違い。訳の揺れ。数字の単位の食い違い。一つずつ書き出していくうちに、時間の感覚がなくなっていった。


「……アデライン様?」


 声をかけられて顔を上げると、窓の外はもう夕暮れだった。


 机の向こうに、ヴィクトル様と、白髪の初老の男性が立っている。


「失礼いたします。文官長のローデリヒと申します」


 ローデリヒ様は、私が書き出した紙の束を手にしていた。眼鏡の奥の目が、信じられないものを見るように見開かれている。


「この照らし合わせを、本日一日で……?」


「も、申し訳ありません! 遅すぎましたでしょうか」


 慌てて立ち上がると、ローデリヒ様は首を横に振った。


「いいえ。文官三人がかりで、半月かけても終わらなかった作業です」


「え……」


「それに、この第十二条の指摘。単位の換算が古い基準のままになっていたとは……このまま協定を結んでいたら、我が国は毎年、少なからぬ損を出していたでしょう」


 ローデリヒ様は書類を胸に抱き、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、アデライン様。本当に、助かりました」


 ありがとう。


 その言葉が、すぐには胸に落ちてこなかった。


(ありがとう……? 私に?)


 何年も帳簿をつけてきた。何百枚も報告書を書いてきた。


 けれど、一度だって、誰かにそう言われたことはなかった。


「当然だろう」「遅い」「可愛げがない」。私の仕事に返ってくる言葉は、いつもそれだけだったから。


「……い、いえ。私は、ただ……」


 声が震えた。


 目の奥が熱くなって、慌ててうつむく。泣くなんてみっともない。こんなことで泣いたら、困らせてしまう。


「アデライン様?」


「なんでも、ありません。……お役に立てて、よかったです」


 やっとの思いでそう答えると、ローデリヒ様は優しく目を細めた。




 その夜、執務室を出たところで、壁にもたれて立っている殿下を見つけた。


「お疲れさまでした」


「殿下……いつから、そこに」


「ローデリヒが、半泣きで報告に来たので」


 殿下はおかしそうに笑って、私の隣に並んで歩き出した。


「明日から、王宮の文官たちがあなたに質問しに来るかもしれませんよ。覚悟しておいてください」


「わ、私なんかに聞いても……」


「『なんか』は禁止です」


 さらりと言われて、思わず足が止まった。


 殿下も立ち止まり、こちらを振り返る。


「あなたの仕事は、あなたが思っているよりずっと価値がある。僕は三年……いえ、ずっと前から、それを知っています」


(三年……?)


 聞き返す前に、殿下はいつもの笑顔に戻っていた。


「それと、もう一つ。あなたが気にしていた侍女のハンナさんですが」


「ハンナを、ご存じなのですか!」


「あの夜、あなたが羽織っていた古いマントの持ち主でしょう。熱にうなされながら、何度も名前を呼んでいましたから。あれから、ヴィクトルの部下に様子を見させています。今のところ、無事に勤めていますよ」


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 私が口に出していなかった心配まで、この方は拾い上げてくれていた。


「……ありがとうございます、殿下」


 今度は、私がその言葉を言う番だった。


 殿下は一瞬だけ目を見開いて、それから、なぜか少し照れたように視線をそらした。


「どういたしまして」


 廊下の燭台の光が、殿下の淡い金茶の髪を柔らかく照らしていた。

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