第5話 白樺の離宮
目を覚ますと、知らない天井があった。
淡いクリーム色の天蓋。窓から差し込む柔らかな冬の日差し。暖炉では薪がぱちぱちと音を立てていて、部屋の中はどこもかしこも暖かかった。
(ここは……どこ?)
体を起こそうとして、ひどく重いことに気づく。頭がぼんやりして、喉が焼けるように痛い。
「お目覚めになりましたか!」
扉のそばにいた若い侍女が、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
栗鼠のように丸い目をした、私と同じくらいの年頃の娘だ。
「私、ミアと申します。殿下から、アデライン様のお世話を仰せつかっております」
「アデライン、様……?」
「はい! 丸二日、熱でお休みになっていたんですよ。お医者様は、雨に長く打たれたせいだと」
丸二日。
その言葉で、ようやく記憶が戻ってきた。
夜会。セリーヌの涙。父の怒鳴り声。閉ざされた門。冷たい雨。
そして――差し出された、あの方の手。
(夢じゃ、なかったのね)
「ここは、エリオット殿下がお住まいの白樺の離宮です。王宮の東の外れにあって、とても静かなところですよ」
ミアは手際よく枕を整え、温かい薬湯を差し出してくれた。
「殿下は、毎晩お見舞いにいらしていました。目を覚まされたら、すぐにお知らせするようにと」
「毎晩……?」
「はい。お仕事の合間に、ほんの少しだけですけれど」
薬湯の苦さが、なぜか目に沁みた。
その日の夕方、扉が控えめにノックされた。
「入っても構いませんか」
穏やかな声。私は慌てて肩掛けを羽織り、寝台の上で背筋を伸ばした。
「は、はい」
入ってきたエリオット殿下は、夜会のときとは違う、ゆったりとした白いシャツ姿だった。
私の顔を見るなり、殿下は小さく息を吐いた。
「よかった。……顔色が、少し戻りましたね」
「殿下、あの……このたびは、多大なご迷惑を……」
「迷惑ではありませんよ」
殿下は寝台のそばの椅子に腰を下ろした。近すぎず、遠すぎない距離。
「僕が連れてきたかったから、連れてきたんです」
(またこの方は、どうしてそんなことを平気で……)
頬が熱くなるのは、きっと熱のせいだ。
「ここではあなたを、僕の客人としてお迎えしています。不自由があれば、何でもミアに言ってください。部屋の外を歩くのも、書庫の本を読むのも、好きにして構いません」
「好きに、ですか……?」
「ええ。好きに」
好きに過ごす、というのがどういうことなのか、私にはよく分からなかった。
フォルクナー家では、起きる時間も、食べるものも、着るものも、全部誰かに決められていた。自分で何かを選んだことなど、ほとんどない。
「……あの、殿下」
どうしても、聞かなければならないことがあった。
「殿下は、セリーヌの婚約者でいらっしゃいます。それなのに、私がここにいては……殿下のお立場が」
言いながら、胸がちくりと痛んだ。
濡れ衣を着せられ、家を追い出された姉。その姉を、妹の婚約者が匿っている。
噂好きの貴族たちが、黙っているはずがない。
(私のせいで、この方まで悪く言われてしまう)
殿下は少しだけ黙り込んでから、困ったように笑った。
「その話は、もう少しだけ待ってもらえますか」
「待つ……?」
「あなたが元気になったら、全部お話しします。だから今は、何も心配しないで休んでください」
それ以上は、何を聞いても答えてもらえそうになかった。
殿下が部屋を出ていく前に、もう一人、背の高い青年が顔を出した。
黒髪をきっちり撫でつけた、生真面目そうな人だった。
「殿下の側近を務めております、ヴィクトルと申します。以後、お見知りおきを」
「アデライン・フォルクナー……いえ、アデラインと申します」
フォルクナーの名を名乗っていいのかさえ、もう分からない。
ヴィクトル様は一瞬だけ目を細め、それから深く頭を下げた。
「アデライン様。殿下が無茶を申し上げたら、遠慮なく私にお知らせください。……殿下はあなたのこととなると、少々、加減というものをお忘れになりますので」
「ヴィクトル」
殿下が笑顔のまま、低い声を出した。
ヴィクトル様は涼しい顔で一礼し、すっと部屋を出ていく。
(加減を、お忘れになる……?)
意味を尋ねる前に、殿下も「おやすみなさい」と言い残して扉を閉めてしまった。
夜。
暖かい寝台の中で、私は天蓋を見上げていた。
柔らかな枕。厚い毛布。隙間風の吹き込まない窓。
どれも、私にはもったいないものばかりだ。
(ここにいていい理由が、私には何もない)
役に立っていれば、置いてもらえる。
それが私の知っている、たった一つの決まりごとだった。
なのにこの離宮では、誰も私に仕事を言いつけない。帳簿も、書類も、繕い物もない。
ただ「休んでください」と言われるだけ。
それが、どうしようもなく落ち着かなかった。
(明日になったら、何かお手伝いできることがないか聞いてみよう)
そう決めて、目を閉じる。
不思議と、ハンナの顔が浮かんだ。あの家に一人残してきてしまった、私のたった一人の味方。
(ハンナは、大丈夫かしら)
暖炉の火が、小さく揺れていた。




