第4話 雨の門前で
王家の夜会の夜は、朝から冷たい雨が降っていた。
私に用意されたのは、母が十年前に着ていた古い灰色のドレスだった。袖が少し短く、裾はところどころほつれている。
「荷物持ちには、それで十分でしょう」
母はそう言って、私の髪を結うことさえ許さなかった。
王宮の大広間は、目がくらむほど眩しかった。
幾千もの蝋燭が揺れるシャンデリア。磨き上げられた大理石の床。色とりどりのドレスをまとった貴族たち。
その真ん中に、薄紅のドレスを着たセリーヌがいる。
殿下から贈られたという、真珠の胸飾りをつけて。
私は壁際に立ち、妹の扇と小物入れを抱えて、ただその光景を見ていた。
(早く終わってほしい)
それだけを、ずっと祈っていた。
「フォルクナー伯爵家のご一同ですね」
人波の向こうから、エリオット殿下が姿を現した。
正装の殿下は、書斎で見たときよりもずっと遠い人に見えた。父と母が深々と頭を下げ、セリーヌが優雅に膝を折る。
殿下は完璧な笑みで挨拶を返し――その視線が、一瞬だけ壁際の私に向いた。
ほんの一瞬。
けれど、青灰色の瞳がわずかに細められたのを、私は見てしまった。
(灰色のドレスなんて、みっともないと思われたかしら)
思わずうつむいた、そのときだった。
「エリオット殿下。陛下がお呼びでございます。至急、奥の間へ」
王宮の侍従が、殿下のそばで膝をついた。
殿下は短く眉を寄せたが、すぐに頷いた。
「分かった。……セリーヌ嬢、少し失礼するよ」
「はい、殿下。お待ちしておりますわ」
殿下の姿が人波の向こうに消えていく。
その背中を見送ったセリーヌの口元が、ゆっくりと弧を描いた。
嫌な予感がした。
「……ひどいわ、お姉様」
大広間の中央、楽団の演奏がちょうど途切れた瞬間に、セリーヌの声が響いた。
震える、涙まじりの声。
周りの視線が、一斉に集まる。
妹は、いつの間にか私の抱えていた小物入れを手にしていた。そこから取り出したのは、薄紅色のリボンで束ねられた、あの手紙の束だった。
(どうして、それがそこに……)
私は一度も、その小物入れの中を見ていなかった。
「お姉様、こんなものまで夜会に持ってきて……殿下に、お渡しするつもりだったのでしょう?」
「違うわ、セリーヌ、私は――」
「皆さま、聞いてくださいませ……!」
セリーヌは手紙を胸に抱き、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「姉が……姉が、私の婚約者であるエリオット殿下を、誘惑しようとしていたのです……!」
ざわめきが、波のように広がっていく。
「まあ、フォルクナー家の長女ですって?」
「病弱で表に出られないと聞いていたけれど」
「妹の婚約者を、なんて浅ましい」
ひそひそとした声が、四方から突き刺さる。
扇の陰から向けられる、冷たい目。嘲るような笑い声。
息が、うまくできない。
「お父様……」
助けを求めるように父を見た。
父は、私と目を合わせなかった。
その代わりに、大広間じゅうに聞こえるような声で言い放った。
「皆さま、お見苦しいところをお見せいたしました。このような恥知らずな娘は、もはやフォルクナー家の者ではございません」
母が、泣きじゃくるセリーヌを抱きしめている。
誰も、私を見ていなかった。
帰りの馬車の中で、口を開く者はいなかった。
屋敷に着くなり、父は私を玄関ホールに立たせたまま言った。
「今夜限りで、この家から出ていけ」
「……お父様」
「お前のせいで、フォルクナー家は社交界の笑いものだ。殿下がこの件をどうお考えになるか……二度と、私の前に顔を見せるな」
(私のせい……?)
頭の中で、父の言葉が何度も繰り返される。
私は、何もしていない。
あの手紙を書いたのは私ではない。夜会に持っていったのも私ではない。小物入れの中身さえ、私は知らなかった。
大勢の前で泣き崩れたのはセリーヌだ。
「誘惑した」と声を張り上げたのも、セリーヌだ。
あの場で騒ぎを起こさなければ、フォルクナー家が笑いものになることなどなかった。
それなのに、どうして。
(どうして、いつも私なの)
喉の奥まで、言葉がせり上がってくる。
「私は何もしていません」と。「騒いだのはセリーヌです」と。
けれど、それを口にしたところで、何が変わるのだろう。
父は一度も、私の話を最後まで聞いてくれたことがない。母はきっと、またため息をつくだけ。セリーヌは涙を浮かべて、「お姉様、ひどい」と言うのだろう。
この家では、本当のことよりも、セリーヌの涙のほうが重い。
ずっと前から、知っていたことだ。
だから私は、唇を噛んで、こぼれそうな言葉を飲み込んだ。
父は、それきり書斎へ消えた。
母も、セリーヌも、振り返らなかった。
北の小部屋に戻ることさえ許されなかった。使用人たちが私の数少ない持ち物を麻袋に詰め、玄関の外へ放り出す。
その中に、殿下が栞代わりに挟んでいた紙片は入っていなかった。
(……そうよね)
おかしな話だ。家を追い出されるより、あの小さな紙片を失ったことのほうが、ずっと胸に痛かった。
「お嬢様……!」
門の手前で、ハンナが追いかけてきた。
雨に濡れながら、古いマントを私の肩にかけてくれる。小さな布袋を、私の手に握らせた。
「わずかですが、私の蓄えです。どうか、どうかご無事で……」
「ハンナ……だめよ、こんな……」
「お嬢様が今まで、この家のためにどれだけ……! 私は、全部見ておりました……!」
皺だらけの手が、私の手を強く握る。
この家で、私のことを見ていてくれた人が、一人だけいた。
それだけで、もう十分だった。
「ありがとう、ハンナ。……どうか、元気でいてね」
背後で、重い鉄の門が閉まる音がした。
雨が、いっそう強くなる。
行くあてなどどこにもない。親戚は皆、父の顔色をうかがう人たちばかりだ。手元にあるのは、ハンナがくれたわずかなお金と、濡れた麻袋だけ。
(これから、どうしよう)
途方に暮れて立ち尽くしていると、雨音の向こうから、蹄の音が近づいてきた。
一台の馬車が、門の前で止まる。
扉に刻まれていたのは、王家の紋章だった。
扉が開くのを待ちきれないように、一人の青年が飛び降りてくる。外套も羽織らず、正装のまま。淡い金茶の髪が、みるみるうちに雨に濡れていく。
「……殿下?」
エリオット殿下だった。
殿下は真っ直ぐ私の前まで歩いてくると、手にしていた自分の外套を私の肩に重ねた。
息が上がっている。いつもの穏やかな笑みは、どこにもなかった。
「遅くなりました。……陛下の呼び出しが偽りだと分かったときには、もうあなたは広間にいなかった」
「どうして、こんなところに……」
「あなたを迎えに来たからです」
雨の中で、青灰色の瞳が私だけを見ていた。
「アデライン嬢。あなたは、妹の婚約者を奪ったそうですね」
胸が、ぎゅっと痛んだ。
この方にまで、そう思われているのだろうか。
「……奪ってなど、いません」
「知っています」
迷いのない声だった。
「あの手紙を、あなたが書いていないことも。あなたが、この家で何をさせられてきたのかも。僕は、全部知っています」
殿下は、私の冷えきった手を取った。
赤くかじかんだ指先を、自分の両手で包み込むようにして。
「濡れ衣を着せられたのなら、いっそ本当にしてしまいましょう」
「……え?」
「僕に、奪われてくれませんか」
雨音が、遠くなった気がした。
(この方は、何を言っているの……?)
分からない。何もかも、分からない。
なぜ殿下が私の名前を知っていたのか。なぜ私の仕事を知っていたのか。なぜ今、婚約者であるはずのセリーヌではなく、私の前にいるのか。
けれど一つだけ、はっきりしていることがあった。
十八年間、誰も握り返してくれなかったこの手を、今、この方が握っている。
私の家は、私を捨てた。
私に、帰る場所はもうない。
だったら――。
(妹の婚約者を奪ったと、そう言われたのなら)
私は、殿下の手を握り返した。
自分の意思で誰かの手を取るのは、生まれて初めてのことだった。
「……はい」
声は震えていた。それでも、確かに言えた。
「奪われて、さしあげます」
殿下の瞳が、大きく見開かれる。
それから、泣き出しそうな顔で笑った。
社交用の完璧な笑みではない。書斎で見た、あの少し困ったような笑い方で。
「ありがとう。……もう二度と、離しませんから」
その言葉の本当の重さを、このときの私はまだ知らなかった。




