↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/16

第4話 雨の門前で

 王家の夜会の夜は、朝から冷たい雨が降っていた。


 私に用意されたのは、母が十年前に着ていた古い灰色のドレスだった。袖が少し短く、裾はところどころほつれている。


「荷物持ちには、それで十分でしょう」


 母はそう言って、私の髪を結うことさえ許さなかった。


 王宮の大広間は、目がくらむほど眩しかった。


 幾千もの蝋燭が揺れるシャンデリア。磨き上げられた大理石の床。色とりどりのドレスをまとった貴族たち。


 その真ん中に、薄紅のドレスを着たセリーヌがいる。


 殿下から贈られたという、真珠の胸飾りをつけて。


 私は壁際に立ち、妹の扇と小物入れを抱えて、ただその光景を見ていた。


(早く終わってほしい)


 それだけを、ずっと祈っていた。




「フォルクナー伯爵家のご一同ですね」


 人波の向こうから、エリオット殿下が姿を現した。


 正装の殿下は、書斎で見たときよりもずっと遠い人に見えた。父と母が深々と頭を下げ、セリーヌが優雅に膝を折る。


 殿下は完璧な笑みで挨拶を返し――その視線が、一瞬だけ壁際の私に向いた。


 ほんの一瞬。


 けれど、青灰色の瞳がわずかに細められたのを、私は見てしまった。


(灰色のドレスなんて、みっともないと思われたかしら)


 思わずうつむいた、そのときだった。


「エリオット殿下。陛下がお呼びでございます。至急、奥の間へ」


 王宮の侍従が、殿下のそばで膝をついた。


 殿下は短く眉を寄せたが、すぐに頷いた。


「分かった。……セリーヌ嬢、少し失礼するよ」


「はい、殿下。お待ちしておりますわ」


 殿下の姿が人波の向こうに消えていく。


 その背中を見送ったセリーヌの口元が、ゆっくりと弧を描いた。


 嫌な予感がした。




「……ひどいわ、お姉様」


 大広間の中央、楽団の演奏がちょうど途切れた瞬間に、セリーヌの声が響いた。


 震える、涙まじりの声。


 周りの視線が、一斉に集まる。


 妹は、いつの間にか私の抱えていた小物入れを手にしていた。そこから取り出したのは、薄紅色のリボンで束ねられた、あの手紙の束だった。


(どうして、それがそこに……)


 私は一度も、その小物入れの中を見ていなかった。


「お姉様、こんなものまで夜会に持ってきて……殿下に、お渡しするつもりだったのでしょう?」


「違うわ、セリーヌ、私は――」


「皆さま、聞いてくださいませ……!」


 セリーヌは手紙を胸に抱き、その場に崩れ落ちるように膝をついた。


「姉が……姉が、私の婚約者であるエリオット殿下を、誘惑しようとしていたのです……!」


 ざわめきが、波のように広がっていく。


「まあ、フォルクナー家の長女ですって?」


「病弱で表に出られないと聞いていたけれど」


「妹の婚約者を、なんて浅ましい」


 ひそひそとした声が、四方から突き刺さる。


 扇の陰から向けられる、冷たい目。嘲るような笑い声。


 息が、うまくできない。


「お父様……」


 助けを求めるように父を見た。


 父は、私と目を合わせなかった。


 その代わりに、大広間じゅうに聞こえるような声で言い放った。


「皆さま、お見苦しいところをお見せいたしました。このような恥知らずな娘は、もはやフォルクナー家の者ではございません」


 母が、泣きじゃくるセリーヌを抱きしめている。


 誰も、私を見ていなかった。




 帰りの馬車の中で、口を開く者はいなかった。


 屋敷に着くなり、父は私を玄関ホールに立たせたまま言った。


「今夜限りで、この家から出ていけ」


「……お父様」


「お前のせいで、フォルクナー家は社交界の笑いものだ。殿下がこの件をどうお考えになるか……二度と、私の前に顔を見せるな」


(私のせい……?)


 頭の中で、父の言葉が何度も繰り返される。


 私は、何もしていない。


 あの手紙を書いたのは私ではない。夜会に持っていったのも私ではない。小物入れの中身さえ、私は知らなかった。


 大勢の前で泣き崩れたのはセリーヌだ。


「誘惑した」と声を張り上げたのも、セリーヌだ。


 あの場で騒ぎを起こさなければ、フォルクナー家が笑いものになることなどなかった。


 それなのに、どうして。


(どうして、いつも私なの)


 喉の奥まで、言葉がせり上がってくる。


「私は何もしていません」と。「騒いだのはセリーヌです」と。


 けれど、それを口にしたところで、何が変わるのだろう。


 父は一度も、私の話を最後まで聞いてくれたことがない。母はきっと、またため息をつくだけ。セリーヌは涙を浮かべて、「お姉様、ひどい」と言うのだろう。


 この家では、本当のことよりも、セリーヌの涙のほうが重い。


 ずっと前から、知っていたことだ。


 だから私は、唇を噛んで、こぼれそうな言葉を飲み込んだ。


 父は、それきり書斎へ消えた。


 母も、セリーヌも、振り返らなかった。


 北の小部屋に戻ることさえ許されなかった。使用人たちが私の数少ない持ち物を麻袋に詰め、玄関の外へ放り出す。


 その中に、殿下が栞代わりに挟んでいた紙片は入っていなかった。


(……そうよね)


 おかしな話だ。家を追い出されるより、あの小さな紙片を失ったことのほうが、ずっと胸に痛かった。




「お嬢様……!」


 門の手前で、ハンナが追いかけてきた。


 雨に濡れながら、古いマントを私の肩にかけてくれる。小さな布袋を、私の手に握らせた。


「わずかですが、私の蓄えです。どうか、どうかご無事で……」


「ハンナ……だめよ、こんな……」


「お嬢様が今まで、この家のためにどれだけ……! 私は、全部見ておりました……!」


 皺だらけの手が、私の手を強く握る。


 この家で、私のことを見ていてくれた人が、一人だけいた。


 それだけで、もう十分だった。


「ありがとう、ハンナ。……どうか、元気でいてね」


 背後で、重い鉄の門が閉まる音がした。


 雨が、いっそう強くなる。


 行くあてなどどこにもない。親戚は皆、父の顔色をうかがう人たちばかりだ。手元にあるのは、ハンナがくれたわずかなお金と、濡れた麻袋だけ。


(これから、どうしよう)


 途方に暮れて立ち尽くしていると、雨音の向こうから、蹄の音が近づいてきた。


 一台の馬車が、門の前で止まる。


 扉に刻まれていたのは、王家の紋章だった。


 扉が開くのを待ちきれないように、一人の青年が飛び降りてくる。外套も羽織らず、正装のまま。淡い金茶の髪が、みるみるうちに雨に濡れていく。


「……殿下?」


 エリオット殿下だった。


 殿下は真っ直ぐ私の前まで歩いてくると、手にしていた自分の外套を私の肩に重ねた。


 息が上がっている。いつもの穏やかな笑みは、どこにもなかった。


「遅くなりました。……陛下の呼び出しが偽りだと分かったときには、もうあなたは広間にいなかった」


「どうして、こんなところに……」


「あなたを迎えに来たからです」


 雨の中で、青灰色の瞳が私だけを見ていた。


「アデライン嬢。あなたは、妹の婚約者を奪ったそうですね」


 胸が、ぎゅっと痛んだ。


 この方にまで、そう思われているのだろうか。


「……奪ってなど、いません」


「知っています」


 迷いのない声だった。


「あの手紙を、あなたが書いていないことも。あなたが、この家で何をさせられてきたのかも。僕は、全部知っています」


 殿下は、私の冷えきった手を取った。


 赤くかじかんだ指先を、自分の両手で包み込むようにして。


「濡れ衣を着せられたのなら、いっそ本当にしてしまいましょう」


「……え?」


「僕に、奪われてくれませんか」


 雨音が、遠くなった気がした。


(この方は、何を言っているの……?)


 分からない。何もかも、分からない。


 なぜ殿下が私の名前を知っていたのか。なぜ私の仕事を知っていたのか。なぜ今、婚約者であるはずのセリーヌではなく、私の前にいるのか。


 けれど一つだけ、はっきりしていることがあった。


 十八年間、誰も握り返してくれなかったこの手を、今、この方が握っている。


 私の家は、私を捨てた。


 私に、帰る場所はもうない。


 だったら――。


(妹の婚約者を奪ったと、そう言われたのなら)


 私は、殿下の手を握り返した。


 自分の意思で誰かの手を取るのは、生まれて初めてのことだった。


「……はい」


 声は震えていた。それでも、確かに言えた。


「奪われて、さしあげます」


 殿下の瞳が、大きく見開かれる。


 それから、泣き出しそうな顔で笑った。


 社交用の完璧な笑みではない。書斎で見た、あの少し困ったような笑い方で。


「ありがとう。……もう二度と、離しませんから」


 その言葉の本当の重さを、このときの私はまだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。