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第3話 身に覚えのない恋文

 あの日から、殿下は以前よりずっと頻繁に屋敷を訪れるようになった。


 表向きは、婚約者であるセリーヌに会うため。父と母は「殿下はすっかりセリーヌにご執心だ」と、それはもう喜んでいた。


 けれど、不思議なことが続いた。


 殿下が帰られた後の書斎の机に、見覚えのない本が一冊、置かれていることがある。


 南方の灌漑技術の専門書。隣国の古い言葉で書かれた商法の解説書。私が「いつか読んでみたい」と思いながら、手に取る機会のなかったものばかりだった。


 栞の代わりに、短い紙片が挟まっていることもあった。


『読み終えたら、感想を聞かせてください』


 署名はない。でも、誰が置いたのかは、さすがの私にも分かった。


(どうして、こんなことを……)


 返事を書くわけにはいかない。私は本を読み終えると、紙片だけを引き出しの奥にしまい、本は元の場所に戻しておいた。


 次に殿下がいらした日、その本はなくなっていて、また別の本が置かれていた。


 そんなことを、もう何度か繰り返している。




 屋敷の空気が変わったのは、夜会まであと十日という頃だった。


「お姉様、最近ずいぶん顔色がいいのね」


 廊下で呼び止めたセリーヌが、にこにこと笑いながら言った。


「そうかしら。いつもと変わらないと思うけれど」


「ふうん。……ねえ、お姉様は、殿下とお話ししたことがある?」


 どきりとした。


「書斎で一度、ご挨拶をしたことがあるだけよ。あの日、約束を破ってしまって……ごめんなさい」


「いいのよ、そんなこと」


 セリーヌは笑顔のまま、一歩近づいてきた。


「ただね、殿下ったら最近、私とお話ししていてもぼんやりしていることが多いの。窓の外ばかり見て。北の棟のほうを」


「……」


「変よね? あんな寂れたところ、何もないのに」


 返す言葉が見つからなかった。


 セリーヌはそれ以上何も言わず、ドレスの裾を翻して去っていった。


 甘い香水の匂いだけが、いつまでも廊下に残っていた。




 その三日後のことだ。


 昼過ぎ、帳簿を広げていた私の部屋の扉が、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。


「アデライン!」


 母だった。その後ろに、泣き腫らした目のセリーヌと、困り顔の若い侍女が二人。


「お、お母様? どうなさったのですか」


「白々しい! この部屋を探しなさい、今すぐに!」


 母の号令で、侍女たちが私の部屋の中を探り始める。


 クローゼットの中、寝台の下、机の引き出し。


 止める間もなかった。そもそも、止める権利など私にはない。


「……ありました、奥様」


 侍女の一人が、机のいちばん下の引き出しから何かを取り出した。


 薄紅色のリボンで束ねられた、何通もの手紙。


 見覚えのないものだった。


 母がそれをひったくり、一通を開いて読み上げる。


「『エリオット殿下。妹の婚約者であるあなたを、想ってはいけないことは分かっています。それでも私は、あなたのお姿を窓から見つめずにはいられないのです』……」


 声が震えている。怒りで。


「『どうか一度だけ、北の棟の私の部屋へいらしてください』……なんて、なんてはしたない!」


「ち、違います! 私はそんな手紙、書いていません!」


「この字のどこが違うというの!」


 突きつけられた便箋を見て、息を呑んだ。


 似ている。


 私の字に、とてもよく似ていた。少し右に傾く癖も、文字の終わりを短く払う書き方も。


(どうして……?)


「お姉様……ひどい……」


 セリーヌが、両手で顔を覆って泣き出した。


「私、ずっと信じていたのに……。お姉様は地味で、病弱で、可哀想だから……殿下と仲良くなってほしくて……それなのに、こんな……」


「セリーヌ、泣かないで。あなたは何も悪くないのよ」


 母が妹を抱きしめる。その腕の中から、セリーヌがちらりと私を見た。


 涙で濡れた碧い瞳の奥が、笑っている。


(……セリーヌが、これを)


 分かってしまった。でも、それを口にしたところで、誰が信じてくれるだろう。




 手紙の束を握りしめたまま、私は一通の便箋の隅に目を留めた。


 殿下のお名前、『エリオット』の綴り。


 その一文字だけ、払いの向きが逆になっている。


 私なら、絶対にそうは書かない。何千枚も書類を書いてきたから分かる。これは、私の手が書いた字ではない。


「お母様、見てください。この字の払いは、私の書き方とは……」


「黙りなさい!」


 ぱん、と乾いた音がした。


 頬が熱い。叩かれたのだと気づくまでに、少し時間がかかった。


「言い訳など聞きたくありません。あなたのような娘が、セリーヌの幸せを妬むなんて……恥を知りなさい!」


 その夜、父の書斎に呼び出された。


 父は手紙の束を机に放り出し、深いため息をついた。


「夜会の前に、余計な騒ぎを起こしてくれたものだ」


「お父様、私は本当に何も……」


「お前が書いたかどうかなど、どうでもいい」


 冷たい声だった。


「問題は、殿下のお耳に入るかどうかだ。この件は夜会が終わるまで伏せておく。それまでお前は部屋から出るな」


「……はい」


 うなだれて書斎を出ると、廊下にセリーヌが立っていた。


 もう泣いていない。いつもの、花のような笑顔だった。


「ねえ、お姉様」


「……セリーヌ」


「私ね、お母様にお願いしたの。お姉様も、夜会に連れて行ってあげてって」


 意味が分からず、私は妹の顔を見つめた。


「だって、可哀想じゃない? ずっとお部屋にこもりきりなんて。私の荷物持ちとして、一緒に行きましょう?」


 セリーヌは私の耳元に唇を寄せて、ささやいた。


「大丈夫よ、お姉様。もう、窓から殿下を見つめる必要なんてなくなるから」


 ぞっとするほど、優しい声だった。

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