第2話 書斎の前で
翌日、屋敷は朝から慌ただしかった。
玄関には季節外れの花が飾られ、銀の茶器は一つ残らず磨き上げられている。母は使用人たちに細かく指示を飛ばし、セリーヌは三度もドレスを着替えた。
私は約束どおり、北の小部屋にこもっていた。
来週までに王宮へ届ける領地の収支報告書には、まだ添え書きが一枚足りない。それを仕上げてしまえば、あとは静かに過ごすだけだ。
……そのつもりだった。
「アデライン! アデラインはどこ!」
昼を少し過ぎた頃、廊下に母の甲高い声が響いた。
慌てて扉を開けると、母は眉をつり上げてこちらへ歩いてくるところだった。
「殿下が、領地の水路のことをお聞きになりたいとおっしゃっているの。旦那様が説明なさるから、書斎の資料を全部まとめて応接室の前まで持ってきなさい」
「でも、今日は部屋から出るなと……」
「口答えしないで。それから、絶対に応接室には入らないこと。資料は扉の前でハンナに渡しなさい。いいわね?」
言うだけ言って、母は踵を返す。
(父は、水路のことなんて何もご存じないのに)
数字も経緯も、全部私の頭の中にしかない。資料だけ渡したところで、殿下の質問に答えられるのだろうか。
不安を抱えたまま、私は書斎へ向かった。
父の書斎は、屋敷でいちばん日当たりのいい部屋だ。
けれど机に積まれた書類のほとんどは、私の字で埋まっている。
水路の測量図、修繕にかかった費用の内訳、領民からの嘆願書の写し。必要なものを順に抜き出していると、廊下の向こうから話し声が近づいてきた。
「伯爵、案内は結構です。少し手を洗いたいだけですから」
聞き慣れない、穏やかな男性の声。
「さようでございますか。では、私は応接室でお待ちしております」
父の、妙にへりくだった声。
(まさか……殿下?)
心臓が跳ねた。
部屋から出るな、姿を見せるなと、あれほど言われていたのに。書斎の扉は開け放したままだ。
隠れる場所を探す間もなく、足音が扉の前で止まった。
「……おや」
顔を上げると、そこに一人の青年が立っていた。
柔らかく光を跳ね返す、淡い金茶の髪。深い湖のような青灰色の瞳。仕立てのいい濃紺の上着に、王家の紋章を象った銀のピン。
第二王子、エリオット・ベルンシュタイン殿下。
社交界で「愛想のいい第二王子」と呼ばれるそのお方は、噂どおりの人当たりのいい笑みを浮かべていた。
私は慌てて資料を抱えたまま、深く頭を下げる。
「た、大変失礼いたしました。すぐに下がりますので」
「いえ、謝るのはこちらです。勝手に覗いてしまったので」
殿下はそう言いながら、なぜか部屋の中へ一歩入ってきた。
視線が、私の腕の中の書類に落ちる。
「南部水路の修繕報告書。……先月王宮に届いたものの、続きですね」
「え……」
「先月の報告書、読みました。見事でした」
殿下は穏やかに続けた。
「修繕の順序に、きちんと理由が書いてあった。どの区画から手をつければ、雪解けの増水に間に合うか。予算が足りない場合はどこを後回しにするか。数字が一つも間違っていない報告書は、王宮でも珍しいんです」
褒められている。
それは分かるのに、言葉がうまく頭に入ってこない。
(どうして、殿下が私にそんなことを……?)
「あ、あれは父が書いたもので……」
「そうですか」
殿下はにこりと笑った。
否定も肯定もしない、不思議な笑い方だった。
「では、伯爵にお伝えください。あの報告書に救われた文官が、王宮に何人もいると」
「……はい。必ず、伝えます」
「それと」
殿下の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「この部屋は寒いですね。書き物をするなら、ひざ掛けくらいは使ったほうがいい。指先が、赤くなっています」
はっとして、自分の手を見る。
インクで汚れた指は、冷えて赤くかじかんでいた。
慌てて手を後ろに隠すと、殿下は小さく笑った。
さっきまでの社交用の笑みとは、どこか違う。少しだけ、困ったような笑い方。
「エリオット殿下! こちらにいらしたのですか!」
廊下の向こうから、セリーヌの明るい声が飛んできた。
殿下はすっと表情を戻し、振り返る。もう、いつもの完璧な笑顔だった。
「すまない、セリーヌ嬢。道に迷ってしまってね」
「まあ、殿下ったら。応接室はこちらですわ」
腕に絡みつくように寄り添ったセリーヌが、一瞬だけ私を見た。
笑っている。けれど、碧い瞳の奥はまったく笑っていなかった。
(……約束、破ってしまった)
背筋が冷たくなる。
二人の足音が遠ざかっていく。その途中で、殿下がふと足を止めた。
振り返らないまま、静かな声だけが届く。
「またお会いしましょう、アデライン嬢」
心臓が、大きく鳴った。
私は一度も、名乗っていない。
この屋敷で私の名前を口にする人は、ハンナを除けば、私を叱りつけるときの父と母くらいだ。
それなのに。
あの方は、まるでずっと前から知っていたみたいに、私の名前を呼んだ。
その夜。
ハンナに資料を託した私は、言いつけどおり北の小部屋に戻っていた。応接室で父がどう説明したのかは知らない。
ただ、夕食の後、廊下ですれ違った父は上機嫌だった。
「殿下が、報告書をたいそうお褒めくださった。やはり私の仕事は、王宮でも一目置かれているようだ」
私は黙って頭を下げた。
(それでいい。それで、いいの)
そう思うのに、胸の奥がざわざわして落ち着かない。
――あの報告書に救われた文官が、王宮に何人もいる。
――指先が、赤くなっています。
燭台の火を見つめながら、殿下の声を何度も思い出してしまう。
誰かに自分の仕事を見てもらえたのは、初めてだった。
誰かに、冷えた指先に気づいてもらえたのも。
(だめよ。あの方は、セリーヌの婚約者なんだから)
私は毛布を頭からかぶって、目を閉じた。
廊下の暗がりから、誰かがじっとこちらの扉を見つめていたことにも気づかずに。




