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第1話 夜明け前の帳簿

 まだ空が白む前に、私は目を覚ます。


 フォルクナー伯爵家の屋敷の北の端、使用人棟に近い小さな部屋。窓は一つきりで、冬になると隙間風が容赦なく入り込んでくる。


 それでも、ここが私の部屋だ。


 薄い毛布を畳み、着古した灰色のドレスに袖を通す。鏡に映るのは、くすんだ栗色の髪と、これといって特徴のない顔。


(今日も、いつも通り)


 心の中でそうつぶやいて、私は燭台に火を灯した。




 机の上には、昨夜のうちに積んでおいた帳簿と書類の束がある。


 領地の小麦の収穫量、屋敷の使用人への給金、出入りの商人への支払い。それから、来週までに王宮へ提出しなければならない南部水路の修繕報告書。


 どれも本来は、当主である父や家令の仕事だ。


 けれど五年ほど前、家令が辞めてからというもの、気づけば全部が私の机に回ってくるようになっていた。


 ペンを取り、数字を一つずつ確かめていく。


 計算が合うと、少しだけ胸が軽くなる。この瞬間が、私は嫌いではなかった。


(数字は、嘘をつかないもの)


 人の顔色は読めなくても、数字なら読める。間違えずに仕上げれば、それだけで誰かの役に立てる。


 役に立っていれば、この家に置いてもらえる。


 それが、十八年生きてきて私が覚えた、たった一つの決まりごとだった。




「アデラインお嬢様、まだ暗いうちからまた……」


 扉がそっと開いて、老侍女のハンナが顔を出した。湯気の立つカップを、盆に載せて運んできてくれたらしい。


「おはよう、ハンナ。いつもありがとう」


「お礼なんておっしゃらないでくださいまし。せめて温かいものくらいは召し上がっていただかないと」


 ハンナは、この屋敷で私のことを「お嬢様」と呼んでくれる、ただ一人の人だ。


 カップを両手で包むと、指先にじんわりと熱が戻ってくる。


「奥様が、朝食のあとにお嬢様をお呼びです。セリーヌお嬢様のドレスのことで、と」


「分かったわ」


(また、選ばされるのね)


 選んだものは「地味」と言われ、選ばなかったものは「どうしてこれを勧めなかったの」と言われる。それが分かっていても、行かないという選択肢はない。




 朝食の時間。


 食堂の長いテーブルには、家族四人分の席が用意されている。


 父と母が向かい合い、その隣にセリーヌ。私の席は、いちばん端の、燭台の影になるところだ。


 私は静かに腰を下ろし、ナプキンを膝に広げる。


 誰も、こちらを見ない。


「お父様、聞いて! 来月の王家の夜会、殿下が私のドレスに合わせて、胸元の飾りを贈ってくださるんですって!」


 鈴を転がすような声で笑うのは、セリーヌだ。


 蜂蜜のような金髪に、宝石みたいな碧い瞳。二つ年下の妹は、どこにいても花が咲いたように周りを明るくする。


「そうかそうか。さすがは私の娘だ」


「エリオット殿下も、セリーヌの愛らしさにすっかり夢中なのでしょうね」


 父も母も、目を細めて妹を見つめている。


 給仕のメイドが、三人のカップに紅茶を注いで回る。私のカップには、少し遅れて、ぬるくなった残りが注がれた。


(いつものことだわ)


 この食卓で、私に話しかける人はいない。


 私が口を開かなければ、会話は私を避けるように流れていく。まるで、最初から三人しかいないかのように。


 昔は、そうではなかった気がする。


 けれどいつだったか、私が話しかけた途端に母がため息をつき、父が新聞を広げ、セリーヌがくすりと笑ったことがあった。


 それ以来、私はこの席で黙ってパンをちぎるだけになった。


 一年前、セリーヌは第二王子エリオット・ベルンシュタイン殿下との婚約が内定した。


 正式な発表は、来月の王家の夜会で行われる予定だ。


 伯爵家としては、またとない良縁。屋敷じゅうが浮き立つのも当然のことだった。


「夜会の招待状、私たち家族の分はもう届いているのよね?」


「ええ、三人分ね。旦那様と、私と、セリーヌ」


 母が、当たり前のようにそう答えた。


 私はパンを持つ手を、そっと止めた。


(三人分、なのね)


 妹の幸せを喜べないほど、私は心の狭い人間ではないはずだ。


 ただ、ほんの少しだけ。


 縁談の話が持ち上がったとき、母に言われた言葉が、まだ胸の奥に刺さっている。


「アデライン、あなたは今後、人前では病弱ということにしておきなさい。殿下の目に、あなたのような地味な娘が入ったら恥ですもの」


 私は、病気になったことなど一度もないのに。




「あら、お姉様。いたの?」


 食事を終えて席を立ったセリーヌが、今気づいたというように目を丸くした。


 いつも、そうだ。


 食事の間じゅう同じテーブルにいたのに、妹は毎朝こう言う。


「ねえ、お母様が呼んでいたでしょう? 夜会のドレス、薄紅と空色、どちらがいいと思う?」


「……セリーヌには、空色が似合うと思うわ。瞳の色と揃うから」


「ふうん。でも私、薄紅が着たい気分なの。お姉様って本当に、そういうところが分かっていないわよね」


 くすくすと笑いながら、妹は私の後ろを通り過ぎていく。


 すれ違いざまに、甘い香水の匂いがした。


「アデライン」


 今度は父だ。私の名前を呼ぶのは、用があるときだけ。


 手には、私が三日前に仕上げた書類の束がある。


「この水路の報告書、近いうちに王宮へ持っていく。抜けはないだろうな」


「はい。数字はすべて、二度確かめました」


「ならいい。……まったく、こんな細かい仕事ばかり得意になって。可愛げのない娘だ」


 父はそう言って、書類を小脇に抱えた。


 表紙には、父の署名が入っている。王宮の誰もが、この報告書は伯爵本人が書いたものだと思っているはずだ。


 それで構わない。私の名前が出ることなど、最初から望んでいない。


(役に立てたなら、それでいいの)


 そう言い聞かせるのは、もう何度目か分からなかった。




 その日の夕方、繕い物をしていた私の部屋に、セリーヌがひょっこり顔を出した。


 珍しいこともあるものだ。妹がこの北の端まで来ることなど、滅多にない。


「お姉様、明日はエリオット殿下が屋敷にいらっしゃるの」


「そう。おもてなしの準備は、もう整えてあるわ」


「ええ、それはいいの。そうじゃなくて」


 セリーヌは扉に手をかけたまま、愛らしく小首をかしげた。


「明日は一日、お部屋から出ないでね。殿下に、病弱なお姉様のみっともない姿を見せたくないもの」


「……分かったわ」


「約束よ?」


 ぱたん、と扉が閉まる。


 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は針を持つ手を止めた。


 窓の外では、冬の初めの冷たい風が、枯れ枝を揺らしている。


(大丈夫。いつも通りに過ごせばいいだけ)


 この時の私は、まだ何も知らなかった。


 明日、あの方が私の名前を呼ぶことも。


 その声に、自分の何かが、静かに変わり始めてしまうことも。

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