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第15話 帳簿の最後の一行

 夜会が終わり、白樺の離宮に戻ったのは、真夜中を過ぎた頃だった。


 雪はもう止んでいて、庭の白樺が月明かりに白く浮かび上がっている。


 着替えを済ませた私は、どうしても眠れなくて、執務室へ向かった。


 机の上には、紺色の革表紙の帳簿が置いてある。


 殿下にいただいた、私の帳簿だ。


 頁をめくると、この数週間の記録が並んでいる。


『一日目 ラウエン語の書類、十二枚。ローデリヒ様より「助かりました」』


『三日目 ミアと庭を散歩。白樺の木の数、百二十七本』


『五日目 殿下が、私の淹れた紅茶を三杯召し上がった』


 数字と、短い言葉。


 フォルクナー家の帳簿には、決して書かれることのなかったものばかりだった。


(今日の分を、書かなくちゃ)


 ペンを取ったものの、何から書けばいいのか分からなかった。


 あまりにもたくさんのことが、一度に起こりすぎて。




「やはり、ここにいましたか」


 扉のほうから、声がした。


 殿下だった。夜会の正装を脱いで、いつもの白いシャツ姿になっている。


「殿下も、眠れなかったのですか」


「ええ。あなたが眠れていない気がして」


 殿下は私の隣の椅子に腰を下ろし、開いたままの帳簿を覗き込んだ。


「……白樺の木の数、数えたんですか」


「み、見ないでください!」


 慌てて帳簿を閉じようとすると、殿下の手がそれを止めた。


「百二十八本ですよ」


「え?」


「去年の秋に、一本植えたんです。まだ小さいから、見落としたんでしょう」


 殿下は窓の外を指さした。月明かりの中、確かに、庭の隅に細い若木が一本立っていた。


「陛下にあなたとの縁談を願い出た年に植えました。……いつか、あなたをここに連れてこられたらいいと思って」


 胸の奥が、じんと熱くなった。


 この方は、いったいどれだけのものを、私のために積み上げてきてくれたのだろう。


 私が何も知らずに、北の小部屋で帳簿をつけていた間に。




「アデライン」


 殿下が、椅子から立ち上がった。


 そして、私の前に片膝をついた。


「……殿下?」


「あの雨の夜、僕はあなたに『奪われてくれませんか』と言いました」


 青灰色の瞳が、まっすぐに私を見上げている。


「あれは、濡れ衣を本当にしてしまおう、という意味でした。あなたが妹の婚約者を奪ったと言われるなら、いっそ本当に、僕があなたを奪ってしまえばいいと」


 殿下は、私の手をそっと取った。


 冷えていた指先が、殿下の手の中でゆっくりと温まっていく。


「でも、もう濡れ衣はありません。あなたの名誉は、今夜すべて取り戻しました。だからこれは、言い訳のない、本当の申し込みです」


 殿下は、小さな箱を開けた。


 中に入っていたのは、白樺の枝を模した銀の台座に、冬の湖のような青灰色の石が嵌められた指輪だった。


「アデライン。僕の妻に、なってくれませんか」


 息が、止まった。


 言葉が、出てこない。


「はい」と言えばいい。分かっているのに、喉の奥で何かがつかえて、声にならない。


(どうしよう)


 こんなときに、なんと答えればいいのか。私は、誰にも教わったことがなかった。




 代わりに、私はペンを取った。


 殿下が、不思議そうに首を傾げる。


 私は帳簿を開き、今日の頁に、一行ずつ書き込んでいった。


『受け取ったもの』


『温かい部屋。温かい食事。名前を呼ぶ声。ありがとう、という言葉』


『三年分、読んでいただいた私の字』


『百二十八本目の白樺』


 書きながら、文字がにじんだ。涙が落ちているのだと気づいたのは、少し経ってからだった。


 それでも、手は止めなかった。


 最後に、一行。


『お返しするもの 私の、これからの全部』


 ペンを置いて、帳簿を殿下のほうへ向けた。


「……私、帳簿の帳尻が合わないのが、どうしても我慢できないんです」


 涙で、うまく笑えなかった。


「いただいたものが、多すぎて。これくらいしか、お返しできるものがなくて」


 殿下は、帳簿の最後の一行を、長い間じっと見つめていた。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


 見たことのない顔だった。いつもの愛想のいい笑みでも、困ったような笑い方でもない。


 泣き出しそうなのを、必死にこらえている顔だった。


「……多すぎますよ、それは」


 かすれた声で、殿下が言った。


「帳尻が合わないのは、僕のほうです」


 殿下は、私の左手の薬指に、そっと指輪をはめた。


 少しだけ大きかった。殿下が「すぐに直させます」と慌てるのがおかしくて、私は泣きながら笑ってしまった。


「アデライン」


「はい」


「今度は濡れ衣ではなく、本当に、僕があなたを奪います」


「……はい。本当に、奪われてさしあげます」


 雨の夜と、同じ言葉。


 けれど、意味はまったく違った。


 殿下の腕が、私をそっと抱き寄せる。


 窓の外で、百二十八本の白樺が、月明かりの中で静かに光っていた。

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