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第16話 君の名前を

最終話になります。

 春が来た。


 白樺の離宮の庭では、百二十八本の木々が一斉に若葉を広げている。去年の秋に植えられたという小さな一本も、ほかの木に負けじと、柔らかな緑の葉をつけていた。


 婚礼は、初夏に決まった。


 それまでの間、私は相変わらず執務室に通っている。


「アデライン様、ラウエンからの返書が届いております!」


「アデライン様、こちらの予算書の数字なのですが……」


「アデライン様、文官長がお呼びです!」


 朝から晩まで、名前を呼ばれない日はない。


 ローデリヒ様は本気で「文官長の座を譲りたい」と言い出して、殿下に「それは困る、妻の時間がなくなる」と真顔で断られていた。


 まだ妻ではない、と訂正するのは、もうやめた。どうせ聞いてもらえないのだから。




 フォルクナー家のその後は、ヴィクトル様が淡々と教えてくれた。


 子爵となった父は、領地の片隅の小さな館に移ったそうだ。私の書いた引き継ぎ書を頼りに、雇った書記と二人で、毎晩遅くまで帳簿と格闘しているという。


「意外にも、引き継ぎ書を手放さずにおられるようですよ。表紙が擦り切れるほど読み込んでいると」


 母は、王都を離れて遠縁の家に身を寄せた。社交界に顔を出せなくなった今、訪ねてくる人は誰もいないらしい。


 セリーヌからは、一度だけ手紙が届いた。


 北の修道院から、雪解けを待ってようやく届いたものだった。


 封を開けると、短い文面が並んでいた。謝罪の言葉は、なかった。修道院の寒さと、粗末な食事と、退屈な祈りの時間への不満ばかりが書き連ねてあった。


 ただ、最後の一行だけ、文字が少し震えていた。


『お姉様の字、ちゃんと見ておけばよかった』


 私はその手紙を、引き出しの奥にしまった。


 返事は書かなかった。けれど、捨てることもできなかった。


(いつか、書ける日が来るのかしら)


 今はまだ、分からない。それでいいのだと思う。




「お嬢様、そろそろお休みになりませんと」


 夜、執務室で帳簿をつけていると、ハンナが紅茶を運んできてくれた。


 ハンナは今、離宮の侍女長として、ミアたち若い侍女をびしびし鍛えている。腰が痛いとこぼしながらも、毎日楽しそうだ。


「もう少しだけ。今日の分を書いたら」


「殿下が、お待ちですよ」


 ハンナが、意味ありげに扉のほうを見た。


 振り返ると、扉の陰に殿下が立っていた。


「……いつから、そこに」


「あなたが『もう少しだけ』と言ったあたりから」


 ハンナはくすくすと笑いながら、そっと部屋を出ていった。


 殿下は私の隣に腰を下ろし、いつものように帳簿を覗き込む。


「今日は、何本ですか」


「白樺は、もう数えていません」


「では、何を?」


「殿下が、今日、私の名前を呼んだ回数です」


 殿下が、ぴたりと固まった。


「……何回でしたか」


「四十二回です」


「少なかったですね。明日はもっと呼びます」


「そういう意味で数えたのではありません!」


 殿下は声を出して笑った。


 愛想のいい第二王子でも、笑顔のまま人を詰ませる策略家でもない。


 ただ、私の隣で笑っている、一人の人だった。




「アデライン」


 ひとしきり笑ったあとで、殿下がふと真面目な顔になった。


「三年前の書庫で、僕は一つだけ、言えなかったことがあるんです」


「言えなかったこと……?」


「あなたが、古いラウエン語の意味を教えてくれたあと。お礼を言って、それから、もう一つ聞きたかった。でも、名乗ってもいない男がいきなり聞くのは不躾な気がして、結局聞けなかった」


 殿下は、少し照れたように視線を落とした。


「そのせいで、三年もかかってしまいました」


 私は、あの日のことを思い出していた。


 埃っぽい王宮書庫。高い窓から差し込む光。翻訳に行き詰まって、困ったように頭を抱えていた、身なりのいい青年。


 あのとき、私は彼の顔をろくに見もせずに、また書き写しに戻ってしまった。


 もし、あのとき顔を上げていたら。


「……今、聞いてくださいますか」


 私がそう言うと、殿下は一瞬驚いた顔をして、それから、ゆっくりと微笑んだ。


 あの日の書庫の、名前も知らなかった青年の顔で。


「ありがとう。おかげで、助かりました」


 三年越しのお礼。


 そして、三年越しの問いかけ。


「――君の名前を、教えてくれませんか」


 窓の外で、白樺の若葉が夜風に揺れていた。


 私は、胸の前で両手を重ねて、精一杯の笑顔で答えた。


「アデラインです」


 あの家で、叱られるときにしか呼ばれなかった名前。


 この方が、今日だけで四十二回も呼んでくれた名前。


「いい名前ですね」


 殿下は、愛おしそうに目を細めた。


「では、アデライン。これから毎日、あなたの名前を呼ばせてください。……一生分」


 その夜、私の帳簿の最後の頁には、こう書かれた。


『四十三回目。――一生分の、一回目』


(完)

これにて完結となります。お読みいただきありがとうございました!

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