第13話 新年の夜会
新年の夜会の夜は、雪が降っていた。
鏡の前に立った私を見て、ハンナが両手で口元を押さえた。
「お嬢様……なんて、なんてお綺麗な……」
殿下が贈ってくださったドレスは、銀を溶かし込んだような、淡い青灰色だった。
光の加減で、冬の湖のように色が揺れる。袖口と裾には、白樺の枝を模した細かな銀糸の刺繍。
(殿下の、瞳の色)
そう気づいたのは、袖を通してからだった。
ミアが髪を結い上げ、ハンナが小さな真珠の髪飾りを挿してくれる。
鏡の中にいるのは、私の知らない誰かだった。栗色の髪は、くすんだ色ではなく、柔らかな胡桃のような色に見えた。
「お嬢様は、ずっとお綺麗だったんでございますよ」
ハンナが、目元を拭いながら言った。
「ただ、誰もそれを見ようとしなかっただけで」
迎えに来た殿下は、扉の前で足を止めたまま、しばらく何も言わなかった。
「……殿下?」
「すみません。少し、言葉を探していました」
殿下は小さく咳払いをしてから、私の前に手を差し出した。
「とても綺麗です、アデライン。……このまま離宮に閉じ込めておきたいくらいに」
「で、殿下!」
「冗談ですよ。半分は」
残りの半分は、聞かないことにした。
王宮の大広間は、あの夜と同じように眩しかった。
幾千もの蝋燭。磨き上げられた大理石の床。色とりどりのドレス。
あの夜、私はこの広間の壁際で、灰色のドレスを着て立っていた。
足が、すくみそうになる。
「大丈夫です」
腕を組んだ殿下が、私にだけ聞こえる声で言った。
「今夜は、ずっと隣にいます」
扉が開き、侍従が高らかに名を告げる。
「第二王子エリオット・ベルンシュタイン殿下。並びに、アデライン・フォルクナー嬢」
広間が、ざわりと揺れた。
「フォルクナーの長女ですって?」
「あの、妹の婚約者を誘惑したという……」
「でも、殿下と腕を組んで……どういうこと?」
ひそひそとした声が、波のように広がっていく。
その波の向こうに、薄紅のドレスが見えた。
セリーヌだった。父と母に挟まれて、広間の中央に立っている。
今夜、殿下との婚約が正式に発表されると信じて、いちばん華やかなドレスを選んだのだろう。
その顔が、私を見た瞬間、凍りついた。
「殿下……!」
セリーヌが、人垣をかき分けるようにして駆け寄ってきた。
「どうして、お姉様と……! 今夜は、私たちの婚約が発表される夜ですのに!」
「そうですね。今夜は、発表の夜です」
殿下は、穏やかに微笑んだ。
セリーヌの瞳に、一瞬だけ安堵の色が浮かぶ。けれど、殿下が私の腕を離さないのを見て、その顔がみるみる歪んでいった。
「お姉様、離れて! 殿下は私の婚約者なのよ!」
甲高い声が、広間に響く。楽団の演奏が止まった。
「皆さま、聞いてくださいませ! 姉は以前、私の婚約者である殿下を誘惑しようとして、家を追い出されたのです! それなのに、今度はこんな場所にまで……!」
セリーヌの目に、涙が浮かぶ。
あの夜と同じだった。同じ広間で、同じ声で、同じ涙。
周りの視線が、一斉に私に突き刺さる。
けれど、不思議と、息は苦しくなかった。
隣に、殿下がいたから。
「セリーヌ嬢」
殿下が、静かに口を開いた。
「あなたは、ご自分が僕の婚約者だとおっしゃる。では、一つ確かめさせてください」
殿下が軽く手を上げると、ヴィクトル様が一通の書状を捧げ持って進み出た。
王家の紋章が押された、古びた羊皮紙。
「これは一年前、王家からフォルクナー伯爵家へ送られた、縁談打診の書状の原本です」
殿下は書状を広げ、広間じゅうに聞こえる声で読み上げた。
「『フォルクナー伯爵家長女、アデライン嬢を、第二王子エリオットの妃として迎えたく』」
広間が、水を打ったように静まり返った。
セリーヌの唇が、小さく開いたまま震えている。
父と母の顔から、さあっと血の気が引いていくのが見えた。
「僕が望んだのは、最初から長女のアデライン嬢です」
殿下の声は、穏やかなままだった。
「ところが伯爵家からは、『長女は病弱につき務まらない』という返書が届いた。代わりに、次女を、と。……そうですね、伯爵?」
父は、何も答えられなかった。
「病弱なはずの長女が、何年にもわたって伯爵家のすべての書類を書き、王宮の文官たちが半月かけて終わらなかった仕事を一日で片付ける。おかしな話だと思いませんか」
ざわめきが、さっきとはまるで違う色で広がっていく。
「では、婚約者を奪ったというのは……」
「奪うも何も、最初から姉君のほうが……」
セリーヌが、助けを求めるように母を振り返った。
母は、娘の視線から目をそらした。
(ああ、始まるんだ)
私は、殿下の腕にかけた手に、そっと力を込めた。
あの夜、この広間で、私は一人きりだった。
今夜は、違う。




