第十話:襲い来る口裂け女
周囲を見回した陽翔は自分が見慣れない場所にいることに気づく。
確かに今、校門を飛び出したはずなのに、見知った風景が一切ない。振り返っても校門の姿はなく、ただブロック塀で仕切られた一本道が、前後に果てしなく伸びているだけだ。
さっきまでいたはずの帰宅する生徒たちの姿も消え、異様な静寂が支配していた。陽翔は息を呑んで立ち尽くした。
コツン、コツン。
道の向こうから響くヒールの足音だけが、静寂した空間の中にやけに大きく響く。
赤いワンピースの女性が歩いてくる。漆黒の髪が腰まで優雅に揺れ、深紅のワンピースが夕暮れの中で妖しく輝いていた。スラリとした立ち姿は、まるでファッション誌から抜け出してきたモデルのようだ。
その瞳の色は深い紅。白い大きなマスクが下半分を覆っているものの、かえってそれが神秘的な美しさを際立たせている。整った眉と伏し目がちな瞳には、どこか物憂げな雰囲気が漂っていた。
女性は手を伸ばせば届くほどの距離まで近づき立ち止まった。陽翔は息を呑む。
全身が硬直する。逃げ出したい衝動に駆られながらも、その場から動くことができない。
「ねぇ、陰陽師の女の子はどこ?」
艶のある声が耳元で囁くように響く。陰陽師、日月先輩のことか。
「ま、まだ校舎の中にいると思います……」
胸の鼓動が激しくなる。それは魅惑的な大人の女性に話しかけられた緊張なのか、それともその赤い瞳に潜む何かへの本能的な恐怖なのか、陽翔にも判断がつかなかった。
「ふふふ、緊張しなくていいのよ。坊や、かわいいわね。私、綺麗かしら?」
首を傾げる仕草は優美で、思わず見惚れてしまう。
「は、はい。お姉さんはとても綺麗です」
素直な感想を口にした瞬間、女性の表情が変わった。長い黒髪が顔を覆い、マスクに手をかける。
「これでも……綺麗と言ってくれる?!」
マスクが外れた瞬間、陽翔の理性が凍りついた。
女性の口は、耳まで裂けていた。血のように赤い唇の間には、鋭い歯が幾重にも並んでいる。恐怖で地面に倒れ込む陽翔の脳裏に、都市伝説が蘇った。目の前にいるのは紛れもなく、口裂け女だ。
(確か、口裂け女を退治する言葉は……)
「え、えっと……レコード!違う、ダイオード!キーワード!アルマード!パルマード!」
必死に思い出そうとする陽翔に、口裂け女は優雅な仕草で手を伸ばしてきた。その細く白い指が触れようとした瞬間。
パリーンッ!
氷が割れるような澄んだ音が空間に響き渡る。亀裂の向こうから飛び込んできたのは、まるでサッカーボールのような亀の甲羅。
「それを言うなら『ポマード』でしょう!」
それに続いて、制服姿の日月が叫びながら飛び込んでくる。「絶対に一人で出ないでってあんなに言っておいたのに!」
「すいません……」
陽翔は謝ることしかできない。
「ちょっと美人だからって、ホイホイついていくからこんな目にあうのよ」
「別に美人だから釣られたわけじゃ……」
陽翔の言い訳を無視して、自らの髪から青い髪飾りを外し日月が叫ぶ。
「東方の守護 青龍 天翔ける稲妻よ我に力を!」
日月の声と共に、宙を舞った青い髪飾りが丸っこい青龍へと姿を変えると、すぐさま稲妻を吐き出す。
口裂け女は大きく後方へ跳躍し、距離を取った。
日月の足元で、結界を破った甲羅がくるくると回転し、ピタリと止まる。にょきっと短い四肢と首が伸び、続いて蛇の胴体も姿を現した。
「私に何か用かしら?オバサン」
日月の挑発的な言葉に、口裂け女の表情が歪んだ。
「お、おばさん?今私をそう呼んだの?」
怒りに震える両手を前に突き出し、口裂け女は凄まじい速度で襲いかかってきた。
「北方の守護 玄武 鉄壁の守りを持って我を守護せよ!」
日月が両手で印を結ぶと、足元の玄武が盾となって立ちはだかり、強力な結界を展開する。
口裂け女の攻撃は日月を守る光の障壁に守られた。
「ギャーーー!」
結界に触れた口裂け女の両手が炎に包まれる。
「無駄よ。この子の結界に触れた妖は灰になるまで焼き尽くされるわ。死にたくなければ、さっさと立ち去りなさい」
日月の冷たい言葉に、しかし口裂け女は怯まなかった。
「だ、だめよ。私はお前を殺して、何としてでも家に帰る。彼のために、私は帰らなければならないの!」
業火に焼かれる腕も顧みず、口裂け女は結界に爪を立てる。その執念とも言える気迫に、玄武の結界が押し戻されていく。
「む、むきゅー……」
「どきなさいっ!!」
口裂け女の怒気を孕んだ声が響き。
玄武の悲鳴とともに、結界が切り裂かれた。
「うそでしょ。ゲンちゃんの結界を破るなんて!」
動揺を隠せない日月。最強の防御を破られ、次の一手が出せないでいた。いまだ業火に腕を焼かれながらも、口裂け女が一歩ずつ日月に近づいてくる。
「!!」
次の式神を繰り出そうと髪飾りに手をかけたところで、日月と口裂け女の間に陽翔が入り込んで口裂け女を両手で制した。
「口裂け女さん!ちょっと待ってください!」
「何をしているの!陽翔君危ないわ、どきなさい!」
日月の悲鳴が響く。しかし口裂け女の攻撃は、陽翔の目前で止まっていた。
「坊やどきなさい。私が用があるのはその女だけよ!」
すぐに襲われると覚悟していた日月は、攻撃をためらう口裂け女に疑問を感じていた。
「やっぱり。あなたは霊気を集めるために俺を襲ったんじゃないんですね」
緊張していた気持ちを落ち着けながら陽翔は言った。思わず飛び出してしまったものの、今考えたら自分でもかなり無茶なことをしたと感じている。
「どういうことよ陽翔君。あなたこの妖怪と知り合いなの?」
訳が分からないという顔で日月が尋ねてくる。
「違いますよ。ただこの人の行動がおかしいと思ったんです。俺を襲いたいだけなら日月先輩があらわれた時点で逃げればいい」
カッパの時はそうだった。本能で活動している妖怪は自分より強い相手に挑むことはほとんどない。
それでも退くことをしない時、それは何かしら信念をもった行動だ。
「でも、この人は逃げなかった。はじめに会った時も俺ではなく日月先輩のことを訪ねてきました。この人が探していたのは俺じゃなく、たぶん日月先輩なんですよ」
「口裂け女さん」陽翔は震える声を押し殺して続けた。「日月先輩を襲うのには、何か理由があるんですよね?」
陽翔は恐怖を感じながらも、口裂け女の瞳を真っ直ぐに見つめた。彼女の必死の形相の中に、ただの殺意だけでない、何か切実なものを感じ取っていた。実際、彼女は陽翔には危害を加えていない。脅かすことはあっても、本気で傷つけようとはしなかった。初めから彼女の目的はただひとつ。
「私は……ただ家に帰りたいだけなの」
口裂け女はその場に崩れ落ちた。「部屋には彼が待っているの。彼に会わなくちゃ」
「なんで家に帰れないんですか?それと日月先輩に何の関係が」
「私の家は七北田川の河川敷近くにあるアパートなの。昨日帰ろうとしたら、妖退治の結界が張られていたわ」
日月も陽翔も、はっとして顔を見合わせる。
「あの、口裂け女さんの家の住所って?」
恐る恐る尋ねる陽翔に、口裂け女が答えた住所は、まさに陽翔のアパートの隣の部屋だった。




