1. 霧の女の誓い
新章開幕です。
よろしくお願いいたします!
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この場所には空がない。
それどころか大地さえも失われて、真っ黒な虚無がぽっかりと穴を開けている。
真島孝弘の能力で生み出された内面世界。
サルビアはひとり、高校の校門前で佇んでいた。
ほうと息を吐く。
そこに痛ましいものが含まれてしまったのは、どうしようもないことだった。
少年の力がこの場所を作り出した時点で、すでに世界は傷付いてボロボロだった。
それからも、ことあるごとに世界は欠け落ちていった。
……今回もまた。
大事なものを守るために、少年の世界は失われた。
ついに高校ひとつぶんの敷地を残して、この世界はなくなってしまった。
致命的な破綻まで、あと半歩。
しかし、変化はそれだけではなかった。
普段からこの場所にいるサルビアだからこそ、感じ取ることができるものがあったのだ。
「また『深くなった』……かしら?」
真島孝弘はここが灯火の世界であった頃から、ここに来ることを『深いところに沈んでいく』ように感じていた。
そして、サルビアも。
少年の能力が深まるたびに『この世界そのものがより深いところに沈んでいる』ように感じていた。
これまでも薄々と感じていたのだが、今回は少しそれが顕著だった。
それがなにを意味するのかはわからない。
そもそも、錯覚かもしれない。
あくまで感覚的なものに過ぎないし、定量的に説明することができるわけでもないのだ。
「けれど、もしもこれが正しいのだとすれば……」
心と心を繋ぐパスそのものである世界。
沈んだ先には、なにがあるのか。
そして、考えるべきことはもうひとつあった。
「……あれは、誰だったのか」
脳裏に過るのは、契約者の少年とともに二度顔を合わせた奇妙な侵入者だった。
一度目は帝都到着の直後。
二度目は『世界の礎石』によって創り出された異界で。
契約者の少年の意識がこの世界にやってきたときに、焦げ茶色の髪をした青年に遭遇した。
結局、あれがなんだったのかはわからずじまいだが、サルビアには少し気になることがあった。
「なんだか少し、見覚えがある……ような」
覚束ない口調でつぶやく。
一度目はなんとも思わなかったのだが、二度目に会ったときにふと引っ掛かったのだ。
まるで記憶の幕が一枚剥がれたように、見覚えがあるような気がした。
とはいえ、それがなんらかの確信に至ることはない。
仕方のないことだった。
世界を長い時間彷徨ってきた『霧の仮宿』は、様々な人間に出会っては別れてきた。
いまの契約者たちや甲殻竜マルヴィナの一族を例外としては、すれ違うだけの人々であり、長い時間が経ってしまったために顔を覚えている者はほとんどいない。
見覚えがあるような気がしたところで、それはなんら手掛かりには結びつかなかった。
「会話ができたら、なにか思い出したのかしら……」
しかし、何者なのかと契約者の少年が尋ねたときに、青年はまともな答えを返さなかった。
というより、会話が成り立たなかった。
青年はなにをするでもなく、ただこの世界に侵入してきただけ――。
「いえ。あれは、侵入してきたというより、むしろ……」
思慮深くサルビアがつぶやいた、そのときだった。
「あら」
彼女のスカートの裾を、小さな手が掴んだのだ。
気付いた彼女の顔に、優しい微笑みが浮かんだ。
「どうしたの?」
「……」
そこにいたのは、小さな少女だった。
十歳に届かないくらいだろう。
鮮やかな緑色の髪を腰ほどまでに延ばして、シンプルな白いワンピースを着ていた。
サルビアを見上げる目は、血のように赤い。
ぷっくりとした唇が開いた。
「……」
けれど、声が発されることはなかった。
少女は唇を幼く尖らせると、不貞腐れたようにサルビアの脚に抱き付いた。
「あらあら。そう拗ねないの」
サルビアは微笑みを深めると、手を伸ばして少女の背中を叩いた。
なにか言いたげに見上げる少女に、首を横に振ってみせる。
「ああ、ちょっと待ってね。わたしはまだやることがあるから」
答えの出ない疑問に耽っていた自分に気付いて、サルビアは苦笑を浮かべて思考を打ち切った。
基本的に真島孝弘の内面世界に引きこもっている彼女だが、ただ無為に時間を過ごしているわけではない。
片手では緑の少女をあやしながら、もう片方の手を、ぽっかりと虚ろに欠けた少年の世界に向けてみせる。
生み出されるのは、虚ろに黒く欠損した世界を満たす白い霧。
埒外の魔法たる『霧の仮宿』の真価が発揮される。
ありえない願望を現実にする力が、欠けていた少年の世界をほんの少しだけ修復した。
とはいえ、全体にしてみれば、ごくごくわずかだ。
サルビアは痛ましさに眉を寄せた。
己の特異な力を使って世界を修繕しはしたものの、それさえも追い付かない。
もはや少年が覚えているものは幾ばくもないだろう。
それが、どれだけの恐怖であるものか。
大切なものを守ろうとする少年の覚悟は並外れたものだが、その感性はあくまで当たり前の少年のものだ。
怖いものは怖い。
むしろ失うことを恐れる気持ちは、彼だからこそ大きいかもしれない。
その恐怖に、覚悟と想いで堪えている。
少年を苦しめているだろう寒々しい喪失感を思うと、サルビアは胸に鋭い痛みを覚えずにはいられない。
抱き締めて、守ってあげたいという想いが込み上げる。
そう思う気持ちは、恋ではない。
サルビアが契約者の少年に向ける気持ちに、恋の甘やかさはなかった。
そこにはただ、暖かなものだけがあった。
寄り添い合って、守り合う存在。
けなげにお互いを想い合う、愛おしい子たち。
長い、長い間、世界の傍観者でしかあれなかった彼女がずっと得られなかったもの。
契約者の少年と、彼の眷属たちは、サルビアにとって家族だった。
姉が弟を思うような。
あるいはそれこそ、親が子を思うような。
魔法そのものである自分には過ぎた感情であることは自覚しているので彼に告げたことはないけれど、サルビアが抱いているのはそうした感情だった。
だから……。
「守らないとね」
「……」
誓いの言葉を聞いていた幼い少女は頷くと、小さく「サマ」と相槌を打った。
◆新章プロローグです。
謎の少女が登場しましたね。いったい、なにリナなんだ……。






