45. 少女の武器
前話のあらすじ
知られざる鐘木幹彦の奮闘。
45
残された加藤真菜は、壁際で小さく体を縮めていた。
一度、最悪の状態まで崩れた体調は容易には元に戻らない。
ただ、ゆっくりではあるものの、嵐に振り回される小舟のようだった心と体は落ち着きつつあった。
まずは過呼吸になっていた体が、まともな呼吸の仕方を思い出した。
しばらくすると、脳に酸素が届いたのか、徐々に眩暈と吐き気が収まってくる。
湧き上がる恐怖と焦燥に砕け散ってしまっていた思考のピースが、元の場所に嵌り込んでいく。
全身の震えはとまらなかったものの、少しずつ手足の感覚は回復した。
恐怖が消えたわけではないにしても、時間が経つにつれてパニックの症状は遠ざかっていた。
「……驚きました」
そうして小康状態になったのを待っていたかのように、声をかけられた。
「あ、なたは……」
「原因は、先程の鐘木様の言葉ですか?」
見張り役に残っていたエリナーが、声をかけてきたのだった。
先程まで、恐慌状態に陥っていた人間の変化に、興味を抱いたのかもしれない。
加藤真菜は聡い少女ではあったが、エリナーの謹厳で冷たい表情から、なにを考えているのかを読み取ることはさすがにできなかった。
「あなたも、信じているのですね」
「……え?」
「真島孝弘が助けにきてくれると」
エリナーの言葉は、端的に事実を指摘していた。
ここで加藤真菜が回復したことには、いくつか理由があった。
誰より大事な少年が直面する過酷な状況を知って、自身の状況どころではなくなったこと。
鐘木幹彦の奇妙な言動に見逃せないものを感じ取り、恐怖より思考に強く意識が向いたこと。
だが、一番大きかったのが、去りゆく少年から最後に掛けられた言葉だったことは、当人も自覚するところだった。
――加藤さんは、ここであいつを信じて待っていればいいよ。
鐘木幹彦が残した言葉は、覿面に彼女の心に効果を現した。
心の奥底から安堵した――ああ。わたしは待っていればいいのだ、と。
そう思った。
……思ってしまった、というべきかもしれない。
ただそれだけで終わらないのが、加藤真菜という名の少女だった。
彼女はすでに、まともな思考能力を取り戻していた。
いまに至るまでの自分の心理状態の変化を、第三者的に把握することができた。
そうして自身を顧みて、胸に湧き上がってきたのは――愕然とした気持ちだった。
信じて待っていればいい?
確かに、ここで大人しく掴まっている限り、自分には危険はないのかもしれない。
けれど、こうしているいまも、彼女が慕う少年は過酷な状況に置かれているのだ。
それなのに『待っていればいい』?
そんなわけがなかった。
「……ッ、わ、たしは」
なにを腑抜けていたのか。
たとえ愛しい少年が助けにきてくれるのだとしても、安穏としていいはずがないのに。
自分自身に対する憤りさえ湧き上がって、先程までとは別の理由で少女の体は震えた。
どうしても許せないものと感じていた。
強く、深く――それは、どこか奇妙なくらいに。
もっとも、真に第三者的な物言いをするのなら、あれだけ追い詰められてしまった状態で、咄嗟にそこまで考えを及ばせる人間などいるはずもない。
ただ、たとえそうだとしても、彼女はそんな自分を許せなかっただろう。
「なにか、できることを……」
憤りさえ、発奮材料に変えて、加藤真菜が再起動する。
どうにかして、恋い慕う少年の力になるために。
だが、どうやって?
そう思ったときだった。
「……どういうつもりですか」
エリナーが厳しい声を出した。
それは、彼女にとっても想定外の事態が起きた証だった。
その視線の先に、こちらにやってくるオットマーの姿があった。
***
「足を停めてください」
エリナーの態度は、お世辞にも友好的なものではなかった。
「ここは、わたしが任されています。不用意に通すわけにはいきません」
お堅い見た目の通り、自分の仕事に忠実なのだろう。
剣に手こそかけなかったものの、視線は刃物の鋭さを持っていた。
ただ、オットマーは気にする様子もなかった。
「……上からの命令だ」
「上から?」
「ああ。……わたしがわざわざやってきたという時点で、わかりそうなものだがな」
なにげないやりとりではあったが、不思議な点もあった。
エリナーが栄えある聖堂騎士団第一部隊のひとりであるのに対して、オットマーは脱走した元聖堂騎士でしかない。
そのはずなのに、どう見てもふたりのやりとりは、その前提を崩していた。
もっとも、彼らの間では、それは当たり前のこととして、会話は進められた。
「……ですが、彼女はパニックになってしまうかもしれません。無理にそちらに移動させれば、身体を損なうでしょう」
「必要であれば、眠らせてしまってもかまわない。わたしは、ハリスン様のご命令を遂行するだけだ」
「……!」
鐘木幹彦の裏切りに加えて、第一部隊所属のエリナーの姿を見た時点で、聖堂騎士団団長のハリスン=アディントンの関与は推測できたため、その点に関しては加藤真菜に驚きはない。
むしろ彼女が焦ったのは『眠らせる』という部分だった。
眠っている間にすべてが終わっているなんてこと、容認できるはずもない。
それに、考えようによっては、この展開は悪いものではなかった。
なにを考えているのかは知らないが、ハリスンは自分を呼び寄せるつもりらしい。
生殺与奪の権利を握られているにしても、思いがけず敵の首魁に接触する機会が得られるのだ。
ここまでくれば、話し合いで相手が剣を収める可能性は低いだろうが、それだってゼロではない。
たとえば『韋駄天』飯野優奈の襲撃のときのように、和解できるかもしれない。
そうでなくとも、なにかしらのとっかかりが掴める可能性はあった。
あるいは、これが千載一遇のチャンスともなるような展開だって否定はできない。
しかし、意識がなければ、そのような展開に持っていくことは絶対にできない。
だから、眠らされるわけにはいかない。
……理屈の上では、そうだった。
「意識はあるようだな」
「――ひぅっ」
オットマーに視線を向けられた途端、冷や汗が湧いた。
近付いてくる様子を見ただけで、喉の奥が引き攣った。
「……ぁ、う」
パニックの兆候。
このままでは、重度の過呼吸に陥って、わざわざオットマーが手を下すまでもなく意識を失ってしまう。
先程までなら、そうだっただろう。
「……り、ません」
「うん?」
震えながら口を開いた少女に、オットマーが足をとめた。
その顔を、加藤真菜は涙の浮かんだ目で、キッと睨み付けた。
「……パ、パニックに、なんて……なりま、せん!」
今度こそ彼女は、凄まじいまでの自制心で恐怖を抑え付けたのだ。
「……ほう。喋れるのか」
「喋、れ、ます……し、立てます……!」
軽い驚きを見せるオットマーに、啖呵を切って立ち上がる。
無論、恐怖がなくなったわけではなかった。
顔面からは血の気がひいているし、膝はいまにも崩れそうだ。
全身の悪寒は消えてくれないのに、汗ばかりが出る。
体に刻み付けられた恐怖は、そう簡単に消え去ってくれはしなかった。
だけど、そのすべてを堪えた。
この芯の強さこそが、彼女が彼女たるゆえんだった。
恐怖を感じないことは、ただの不感症であって、勇気ではない。
恐怖に襲われたときに、それに堪えられるか。
人格を崩壊させかねないほどの恐慌の波に晒されて、流されてしまわずにいられるかどうか。
それを可能にするものこそが、少女の唯一にして最大の武器だった。
自分を救ってくれた少年の力になりたいと、ひたむきに想う恋心。
ただそれだけで、これまで少女はいくつもの困難を切り抜けてきたのだから。
「あえて苦しむ必要はないように思うが。楽にしてやるぞ」
「……けっこう、です」
「そうか。それでは、連れていく」
オットマーの言葉も拒んで、加藤真菜はエリナーにうしろから抱えられるようにして連行される。
その様はまるきり哀れな虜囚の身そのものだが、加藤真菜は挫けない。
その心に燃える炎は消えない。
「……」
いまは自分にできることを。
この場所で誰より弱い少女は、誰よりも強い覚悟を胸に宿して、どんな危険が待つかわからない敵の首魁のもとへと歩を進めた。
***
鐘木幹彦は親友への信頼を胸に、当の親友と刃を交える戦場に向かった。
その先に待つ死を知っていても、人質を取られた少年には避ける術はない。
加藤真菜は想い人への思慕を胸に、恐怖を抑え付けて敵の首魁のもとへ赴いた。
その先にどのような危険があったとしても、力ない少女には抵抗の術はない。
それでも、ふたりに迷いはない。
尽くし、従い、擦り切れながら。
怯え、脅かされて、弱りながら。
それでも、ひとりの少年を想っている。
そして、いま。
その想いに応えるように、短い休息の眠りから少年が目を覚ました。
◆加藤さん回でした。
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