73話
アランが黒川の執務室のドアをノックした。
「どうぞ」
中から黒川の声が聞こえる。
黒川が書類から顔を上げると、アランに支えられた一花が入ってきた。
「帰る前に顔を見せようと思って」
アランが黒川へ告げる。
黒川は椅子から立ち上がると一花の前まで歩いてくる。
「まだ顔色が良くないな。無理せず、ゆっくり体調を整えてくれ」
黒川の言葉に一花は少しだけ目を伏せた。
以前なら、こんな言い方はしなかった。
もっと近くにいてくれて、優しく触れてくれた。
けれど今の黒川にそれを求めることはできなかった。
その様子を見ていたアランは小さくため息を吐いた。
「黒川、もう少し業務的じゃない対応できないのか」
アランが呆れたように言う。
「しかし……」
黒川は戸惑ったように一花を見る。
きっと自分にとって大切な人だった。
それだけは分かる。
だが、それ以上の感情がまだ思い出せない。
どう接すればいいのかも分からなかった。
そんな黒川を見かねたアランが一花の身体をそっと黒川のほうへ寄せる。
「ほら」
一花は一瞬だけ黒川を見上げると、少しだけ勇気を出してぎゅっと抱きついた。
黒川は一花の頭を優しく撫でた。
しかし、抱きしめてはくれなかった。
そのことから察した一花は、そっと黒川から身体を離した。
「あの……嫌ですか? こういうこと……」
「いや……そういうわけでは……」
黒川は言葉に詰まった。
一花は少しだけ俯く。
「もうしません。黒川さんを困らせたくないので」
そう言って、一花は精一杯の笑顔を黒川に向けた。
その笑顔を見た瞬間、黒川の胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
なぜなのかは分からないが、一花にそんな顔をさせたくないと思った。
「あの……一つ、伺いたいことがあって……」
一花が顔を上げる。
「なんだ?」
「さっき、アランさんとここでパンを食べませんでしたか?」
「部屋が匂うか?」
黒川が少し不思議そうに尋ねる。
「そうではなくて。さっき見えたので……」
「見えた?」
黒川とアランは顔を見合わせた。
「そういえば、ゲート内でも私とヒロに映像を流してくれたな」
黒川が思い出したように呟く。
「どういうことだ?」
アランが尋ねた。
「脱出の際に、転移先の映像を見せてくれたんだ。だから全員無事に脱出できた」
「なるほど……。でも、一花ちゃんはガイドだからそんな能力はないだろ」
アランが不思議そうに一花を見る。
「我々がどこに座っていたか覚えているか?」
黒川が一花に尋ねる。
「はい。応接ソファーの左側にアランさん、右側に黒川さんが座っていて、ホットサンドと珈琲を召し上がりながら談笑されていました」
黒川とアランは思わず顔を見合わせた。
「すごいな……。あっ、そういえば以前、俺のお茶に毒が混入された時も『見えた』って言ってたよな」
アランが呟く。
「はい。あの頃からたまに見えるんです……」
「なぜかは分からないが、やはり力があるのは事実だろう。体調が回復したら一度調べてみよう。それでもいいか?」
黒川が優しく一花に声をかける。
「はい。お願いします」
「あと、このことはアランと私以外には言わないように。悪用されかねないからな」
「分かりました」
黒川はアランへ目を向ける。
「アラン、頼んだぞ」
「ああ、分かった。そろそろ帰るか」
「はい」
一花は黒川へ一礼すると、アランに支えられながら部屋をあとにした。
マンションの自室に帰ってくると、アランは一花をベッドに座らせた。
「疲れただろ。少し寝な」
アランは一花をゆっくりとベッドへ寝かせると、布団をかけた。
「すみません……」
「気にするな。俺はリビングにいるから、何かあれば声かけて」
「ありがとうございます」
一花は小さく頷くと、少し眠ることにした。
いろいろなことがありすぎて思考が追いつかない。
それでも、なぜか不思議なくらい冷静に物事を考えられている自分がいた。
アランは一花の部屋のリビングで仲間たちへメールを送った。
一花が無事に戻ったこと。
体調についての注意。
そして、黒川とのこと。
一通り送り終えると、アランはソファーにもたれかかった。
「ふぅ……」
小さく息を吐き、目を閉じる。
一花が無事に戻ってきたことで、アランもようやく少しだけ肩の力を抜いた。




