45話
一花は黒川の家で夕食の支度や掃除を済ませながら帰りを待っていた。
玄関の鍵が開く音がすると、ぱっと表情を明るくして駆け寄る。
「お帰りなさい」
「ただいま」
黒川は短く返事をするとそのままリビングへ向かった。
いつもなら「いい匂いだな」とか「今日は何を作ったんだ」と一言くらい返してくれる。
その様子がどこか違うことに一花の胸がざわついた。
後を追ってリビングへ入る。
「あの……ご飯まだだったら」
「一花」
一花の言葉を黒川が遮った。
「話がある」
その言葉に一花の肩がぴくりと震える。
「今日で訓練は終わりだ。後でアランたちが迎えに来る。ルーフェスへ戻りなさい」
以前のような、仕事中の黒川の口調だった。
一花はその変化に気づき、胸が締めつけられる。
訓練が終われば戻らなければならない。
そんなことは最初から分かっていた。
「今日……戻らないとだめですか」
震える声で尋ねる。
「そうだ」
黒川は冷たい声で答えた。
一花は手を強く握った。
頭では理解している。
ここに居続ける理由はもうない。
それでも黒川のそばを離れたくなかった。
「黒川さんと……一緒にいたいんです……」
涙が零れそうになるのを必死に堪えながら小さく願う。
その言葉に黒川の胸が痛んだ。
今すぐ抱き寄せて「ここにいろ」と言えたなら、どれほど楽だっただろう。
だがそれはできない。
自分は管理局のギルドマスターとして常に最前線で仕事に追われている。
一花を傍で守り続けることはできない。
だからこそ、一番信頼できる仲間へ託すしかない。
黒川は感情を押し殺し、あえて冷たく淡々と言い放つ。
「君はルーフェスから預かっている身だ。訓練が終わった以上、戻るべきだ」
その言葉は一花の胸に鋭く突き刺さった。
「でも……ここに居たいんです……」
俯いたまま一花は小さく呟いた。
黒川に対して、初めてのわがままだった。
黒川は目を閉じ、大きくため息を吐いた。
その反応に、もう何を言ってもだめなんだ、と一花は悟ってしまった。
クロは少し離れた場所で黙って二人を見つめている。
部屋を包む静けさが余計に苦しかった。
一花は溢れそうになる涙を必死に堪える。
「……支度…してきます」
消え入りそうな声を残し、寝室に向かった。
扉を閉めた瞬間、張り詰めていたものが崩れる。
空間ポーチを取り出し、衣類や荷物を一つずつ詰めていく。
ここへ来た日のことが頭をよぎる。
怯えながら足を踏み入れたこの部屋。
黒川が少しずつ見せてくれた優しさ。
一緒に食事をしたこと。
クロと三人で笑った時間。
どれも、もう終わってしまう。
視界が滲み、涙がぽたぽたと荷物の上へ落ちた。
一花は袖で涙を拭い、リビングへ戻った。
黒川は窓の外を見つめたまま、振り返らなかった。
その背中がすごく遠く感じる。
一花は歩み寄ると意を決したように、そっと黒川の背中に抱きついた。
「黒川さん……」
小さく震える声。
いつもなら優しく抱きしめ返して、頭を撫でてくれる。
けれど今日は違った。
黒川は抱きしめ返すことも、振り返ることもしなかった。
その冷たい沈黙が一花の胸を深く刺す。
やがて玄関のチャイムが鳴ると一花は静かに腕を離した。
黒川はインターホンに応えてから玄関へ向かった。
扉を開けるとアランとサーシャが立っていた。
玄関へ入ったアランは、一花の涙ぐんだ目と重苦しい空気を見て何があったのかを察する。
一度だけ黒川へ視線を向ける。
黒川は無言のまま視線を返すとアランはそれだけで理解する。
サーシャは一花の心に流れ込む悲しみが痛いほど感じ取った。
優しく微笑みながら一花に声をかける。
「一花ちゃん。一緒に帰りましょう」
一花はクロをぎゅっと抱きしめ、頷いた。
「はい……」
玄関で靴を履き、最後にもう一度だけ振り返り黒川を見上げた。
黒川は以前のように優しく微笑むことはなく、ただ静かな表情で一花を見つめている。
一花は何かを言いかけたが言葉にはならず、唇を噛み締め俯いた。
「お世話になりました」
小さく頭を下げ、その声を最後に一花はアランたちと共に家をあとにした。
扉が閉まる音だけが広い玄関に虚しく響いた。
黒川はドアを見つめたまま立ち尽くしていた。
リビングに戻ると誰もいなくなった部屋は不思議なほど静かだった。
キッチンには夕飯が作り置かれていた。
ソファーにはきれいに整えられたクッションと丁寧に畳まれたブランケット。
どれも昨日までと何も変わらない。
変わったのは一花がいないということだけだった。
黒川はソファーへ腰を下ろすと肘を膝に置き、しばらく黙って床を見つめる。
最後まで一緒にいたいと小さく震えながら涙を堪えていた姿が浮かぶ。
「これでいい……。ごめんな……」
その一言は、自分に言い聞かせるような言葉だった。
部屋は静寂に包まれ、黒川はそれ以上何も口にしなかった。




