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波の音が消える前に  作者: 音香(Otoca )


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37話

黒川の家で暮らし始めて、一週間が経った。


最初は触れることすら緊張していた粘膜ガイディングも、少しずつ自分の感覚を掴めるようになってきた。


黒川は決して急かさなかった。


できるまで何度でも付き合ってくれる。


その穏やかな時間に一花自身も慣れ始めていた。


朝食を食べ終え、一花がキッチンで洗い物をしていると黒川が声をかけた。


「一花」


「はい」


振り返ると黒川は携帯を確認していた。


「急遽、アランたちが管理局に来ることになったんだが、一花も一緒に行くか?」


その言葉に一花の表情が明るくなる。


「本当ですか!」


分かりやすい反応に黒川も笑顔になった。


「ああ」


一花はすぐに支度を始める。


「クロ、お出かけするよ」


いつもなら当然のようについてくるのにクロはソファーの上から動かない。


一花は心配そうに近づく。


「クロ?どうしたの」


すると黒川がクロを見にやってきた。


「今日は留守番か?」


「ニャー」


まるで返事をするようにクロが鳴いた。


黒川は微笑むとクロの背中を撫でた。


「じゃあ、いい子で待ってろよ」


「ニャー」


一花は少し心配そうに見たがクロは尻尾を揺らしていた。


「行ってくるね」


そう声をかけ、二人は家を出た。


車に乗り込み、管理局へ向かう。


一週間前より助手席に座ることにも、もう緊張しなくなっていた。


管理局の駐車場に着くと黒川は時計を見る。


「アランたちは昼頃来る予定だ。それまでどうする?」


一花は黒川の仕事の邪魔をしたくなかった。


「近くで買い物してきます」


「そうか」


黒川は別れ際、自然な動作で一花の頭をぽんっと撫でた。


「気をつけろよ」


「はい」


その手の温かさに一花は嬉しくなって笑みを浮かべた。


管理局を出て近くの雑貨店やスーパーを見て回る。


けれど特に欲しい物は見つからなかった。


(少し早いけど戻ろうかな)


そう思い管理局へ戻ると、一階のカフェスペースでミルクティーを飲んでいた。


すると後ろから声をかけられる。


「一花ちゃん」


名前を呼ばれ一花は振り返った。


そこに立っていたのは愛菜だった。


一花の身体が強張ったが急いで立ち上がり、頭を下げた。


「お疲れ様です」


愛菜は無表情のまま一花を見る。


「ちょっとこっち来て」


「はい……」


強い口調に一花は何も言えず後を追った。


人気のない場所まで来ると愛菜は足を止めた。


「ねえ」


ゆっくり振り返る。


「あんた、自分が何してるか分かってる?アランさん達だけじゃ足りなくて、今度は誠一?」


「あの……黒川さんとは……」


一花は必死に弁明しようとした。


「ガイディングの練習だっけ」


言葉を遮られる。


「便利よね、その言葉。ガイドだから仕方ないって顔して近づけば、誰でも受け入れてくれるんだから」


一花は何も言えず俯いた。


「誠一、この一週間一度も私を呼ばなかった」


愛菜の目が冷たくなる。


「今までそんなこと一度もなかったのに。なんであんたなの」


愛菜の声には明らかな嫌悪がみえた。


「よくも人の男に手を出したわね」


一花の頬に衝撃が走り、髪を掴まれる。


「……っ!」


痛い。


でも声が出なかった。


昔と同じだった。


怒った顔に責める声。


自分が悪いのだと自覚させられる。


「すっ、すみません……」


やっと出た言葉は、それだけだった。


愛菜は何度も繰り返し顔や頭、肩を叩いた。


一花は自身を守るためにうずくまった。


「あ、そうだ。いいこと教えてあげる。ルーフェスのみんな、あんたがいない間すごく楽しそうだったわよ」


一花の呼吸が止まる。


「久しぶりに昔に戻ったみたいだって言ってた。あの人達が本当に必要としてたのはオルネアさんだし、あんたが戻ってきて迷惑に決まってるでしょ」


一花の手が震えた。


「その被害者みたいな顔やめてくれる」


膝立ちの一花の髪を掴んだままグイッと頭を後ろに引っ張った。


「ほんと空気の読めない女」


愛菜は冷たくいい放つと掴んでいた手を離し去って行った。


一花は足の力が抜け、その場に座り込む。


迷惑だろうと頭では分かっていたのに、皆に優しくされて甘えてしまった。


心の奥にずっと残っていた傷が疼く。


『自分はいない方がいいんじゃないか』


幼い頃から消えなかったその言葉が心に影を落とした。


一花はしばらく動けなかった。


誰もいなくなった静かな廊下で床を見つめていた。


しばらくして震える足に力を入れ、ゆっくり立ち上がる。


(このままでは戻れないな…… )


そう思い、近くのお手洗いへ向かった。


鏡の前に立つとそこに映った自分を見て一花は動きを止めた。


乱れた髪に赤くなった左頬。


目元に引っ掻かれたような傷があった。


(ひどい顔…… )


そう思った瞬間、堪えていたものが一気に溢れた。


ぽろぽろと涙が落ちる。


愛菜から言われた言葉が頭から離れなかった。


黒川さんとは違うとそう言いたかった。


でも本当に何もなかったと言えるのだろうか。


名前を呼ばれ頭を撫でられるのが嬉しかった。


初めて自分からもっと触れてほしいと思った。


今まで知らなかった感情。


少しずつ芽生え始めた淡い気持ち。


それを自覚した瞬間だった。


鏡に映る自分を見る。


(私……何してるんだろう)


黒川さんには愛菜さんがいる。


アランさん達にはオルンさんがいる。


分かっていたはずなのに優しく大切にされて、いつの間にか自分もそこにいていいような気がしてしまった。


一花は涙を拭う。


けれど次から次へと溢れて止まらなかった。


ほんの少しだけ見えた幸せな時間。


自分にも誰かの隣にいる未来があるかもしれない。


そんな小さな期待は砕け現実に引き戻された。


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