35話
翌朝、黒川はいつもより少し早く目が覚めた。
まだ部屋は薄暗い。
普段なら目覚ましが鳴る時間まで眠っているはずだった。
隣を見ると一花はアザラシのぬいぐるみを抱き締めたまま静かに眠っていた。
足元ではクロも丸くなっている。
黒川は静かに息を吐いた。
女性と関わることに慣れていないわけではない。
むしろ立場上、近づいてくる女性は多かった。
独身のSSランクエスパー。
国家特務保安管理局のギルドマスター。
見ているのが自分ではなく、その立場だと分かる相手ばかりでうんざりしていた。
だから家に誰かを招き入れることもなかった。
黒川は一花を起こさないよう静かにベッドから出ると一階へ降り、リビングのテレビをつける。
いつもの静かな朝。
ニュースの音が流れ、淹れたての珈琲の香りが部屋に漂う。
何も変わらないはずなのに、二階に誰かが眠っているというだけで少し違って感じた。
黒川はしばらくニュースを眺めたあと、支度を始めた。
スーツへ着替え、仕事用の腕時計をつける。
出る直前、少し考えて紙を取った。
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一花へ。
家にあるものは好きに使っても食べても構わない。
二十時頃帰宅予定。
黒川
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あまりにも事務連絡のような文章だったと書いてから一瞬止まる。
だが他に何を書けばいいのか分からない。
黒川はそのままテーブルへ置き家を出た。
一花が目を覚ました時、隣に黒川の姿はなかった。
「黒川さん?」
慌てて身体を起こし、リビングへ降りる。
けれど家の中は静かだった。
ダイニングテーブルに置かれたメモに気づくと手に取った。
「……黒川さんらしい」
一花は思わずくすっと笑ってしまった。
優しい言葉が並んでいるわけじゃない。
でも困らないようにちゃんとメモを残してくれている。
一花は洗面所で髪をヘアクリップでまとめ、顔を洗った。
キッチンへ向かうと保温された珈琲が残っていたのでカップに注ぎ、ソファーへ座る。
テレビの音に珈琲の香り。
膝の上にちょこんと座るクロ。
(こんなに平和な時間……久しぶりだな)
ふと窓の外を見ると昨夜は暗くて見えなかった景色が目に入った。
広い庭に綺麗に整えられた芝生。
風で揺れる木々。
冬の空気は澄んでいて冷たいのに、部屋に差し込む太陽は暖かかった。
「広い庭…… 」
一花は思わず呟いた。
今日は本当に穏やかな日だった。
久しぶりに洗濯機で服を洗った。
その後アザラシのぬいぐるみも洗う。
庭の一角に物干しを見つけ、そこへ干した。
風に揺れるぬいぐるみを見て、クロが不思議そうに眺めている。
「クロ、落としちゃダメだよ?」
「ニャー」
その後、掃除機をかけ部屋を整えるがすぐに終わってしまった。
夕方。
シャワーを浴びてから浴槽を洗い、黒川のために新しくお湯を張った。
髪を乾かし、ヘアクリップでまとめる。
夕食の準備を終えた頃、玄関の開く音がした。
「おかえりなさい」
自然に出た言葉に一花自身が内心驚いた。
「ただいま」
黒川も一瞬だけ動きを止め、そのまま私室へ向かい、ジャケットを掛けると風呂へ向かった。
しばらくして戻ってきた黒川と二人で食卓につく。
「一花が作ったのか」
「はい。お口に合えばいいのですが」
黒川は一口食べる。
「美味いな」
短い言葉でも一花には十分だった。
「よかったです」
食事が終わり、一花が立ち上がろうとすると黒川が先に食器を持つ。
「今日は俺がやるよ」
「でも……」
「一花が作ったんだから、今のうちに休んどけ」
当然のように言う。
「ありがとうございます」
黒川が洗い物をしている姿を見ながら、一花は少しだけ不思議な気持ちになった。
ここに来てまだ二日目なのに昨日より少しだけ、この家の空気に慣れている気がした。
洗い物を終えると黒川はいつものようにソファーに座る。
明日と明後日は休みで今夜は時間を気にしなくていい夜だった。
「一花」
「はい」
「少し休んだら始めるか」
その言葉の意味はすぐに分かった。
ガイディングの訓練。
前回の感覚を思い出し、一花の指先に力が入った。
それに気づいた黒川は静かに言った。
「嫌なら今日はやめる。焦る必要はない」
一花は首を横に振った。
「大丈夫です。ちゃんと自分の力を使えるようになりたいので」
黒川は少しだけ表情を緩めた。
「分かった」
静かな夜、初めての訓練が始まろうとしていた。




