30話
夜の海風は思ったより冷たかった。
「……寒っ」
一花は思わず小さく呟いた。
ゲートの中は不思議な場所だった。
朝も夜もなければ季節もない。
半袖でも寒いと感じることはなかった。
久しぶりに感じる冷たい風に一花は身体を震わせる。
腕の中では毛布に包まれたクロが静かに眠っていた。
「もう少しだからね」
一花は不安になりながらも声をかける。
いつもなら「ニャー」と返してくれるのに返事がない。
それだけで胸が苦しくなる。
見覚えのある道を歩く。
歩けば歩くほど、不安も大きくなっていった。
(戻ってきちゃった……)
今更、自分が行っていいのだろうか。
皆がずっと望んでいたオルンさんは戻った。
きっと今頃、昔みたいに幸せに過ごしているはず。
そんな場所に自分が戻っていいのか分からなかった。
『なんで戻ってきた?』
もしそう言われたらどうしよう。
雇ってほしいなんて言えない。
もう自分の役目は終わったのだから。
「二、三日だけでも……」
静かに呟く。
クロが元気になるまで。
その間だけでも泊めてもらえないだろうか。
そう思うしかなかった。
しばらく歩き続けると、ようやく見慣れたマンションが見えてきた。
「着いた」
懐かしい場所に胸が苦しくなる。
一花はマンションの入口の前で足を止めた。
マンションの明かりはほとんど消えている。
「今、何時なんだろ…… 」
夜なのは分かるが、こんな時間に誰かを起こすわけにはいかない。
そう思った時、ふと郵便受けが目に入った。
そこに書かれていた名前。
『ルーフェスギルド』
一花は少し目を丸くした。
「名前……変わってる……」
オルンさんが帰ってきたから全部元に戻したのだと理解した。
横のエレベーターを見る。
アランの部屋。
ヒロの部屋。
レイの部屋。
サーシャの部屋。
場所は覚えている。
でも部屋の前まで行きチャイムを押す勇気が出なかった。
もし迷惑そうな顔をされたら。
もし今の生活を壊してしまったら。
そう考えると指が動かなかった。
「朝になったら……朝になったら事務所に行こう」
そう決めて、一階の階段へ腰を下ろした。
一花は毛布に包んだクロをぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫……。大丈夫だよね、クロ……」
クロからの返事はなく、その静けさが余計に怖かった。
ずっとクロがいてくれたから耐えられた。
「お願い……クロまでいなくならないで……」
小さな声が震える。
不安。
寒さ。
疲れ。
全部が一気に押し寄せる。
一花はクロを抱えたまま、小さく身体を丸めた。
また拒絶されるかもしれない。
もう必要ないと言われるかもしれない。
それでもここ以外、帰る場所が思いつかなかった。
一花は静かなマンションの入口で、ただ朝が来るのを待っていた。
レイは眠れずにテレビを見ていた。
煙草を吸おうと思い箱を開けると空だった。
「はぁ……。買いに行くか」
面倒そうに上着を羽織り部屋を出る。
エレベーターで一階へ降りると、外へ向かおうとして足を止めた。
「……?」
階段の端に何かが見えた気がした。
最初は荷物かと思ったが黒い髪が見えた。
「まさか…… 」
心臓が音を立てる。
ゆっくり近づくと二年間何度も夢で見た姿がそこにはいた。
「……一花ちゃん」
名前を呼ぶと小さな身体がぴくっと動いた。
「……っ」
レイの息が止まる。
「一花ちゃん」
もう一度呼ぶと一花がゆっくり顔を上げた。
「……レイさん……」
レイは何も言わず一花を抱きしめた。
「っ……」
一花は驚いて固まる。
抱きしめた直後、レイの表情が変わった。
「冷た…… 」
触れた身体は驚くほど冷えていた。
「何してんだよ……こんな所で……」
怒っているようにも聞こえた。
「……すみません。夜遅かったので朝まで待とうと思って……」
一花が不安そうに答えるとレイは何も言わず、もう一度抱きしめる腕に力が入った。
「そういうとこ本当変わんないね」
責めるでもなく呆れるでもなくただ苦しそうだった。
「すみません……」
「俺の部屋おいで」
一花の肩を支え、部屋へ戻った。
ソファーに座らせすぐに毛布を掛ける。
その前にしゃがむとレイは一花の手を包み込む。
温かい力がゆっくり流れ込んできて冷え切っていた指先に少しずつ感覚が戻ってくる。
「温かいです」
一花がほっとしたように呟いた。
しばらくして、レイはようやく手を離した。
「少し温まったな。だけどまだ冷たい。風呂入ってきな」
「でもクロが……」
一花は毛布の中で眠る黒猫を見る。
「大丈夫。様子見とくから」
レイはクロへ視線を向ける。
その言葉に一花は少しだけ安心したように頷いた。
浴室の扉が閉まるとレイはソファーへ戻り黒猫を見た。
小さな身体だが普通の猫じゃないことはすぐに分かった。
「お前、何者だ?」
クロは薄く目を開ける。
「ニャー」
「言葉が分かるのか?」
レイは驚きながらもクロに触れた瞬間、表情が変わった。
「冷た……」
一花と同じか、それ以上に体温が低かった。
「無茶したんだな」
レイはクロに手を乗せるとゆっくり力を流した。
しばらくするとクロの震えが止まり呼吸も穏やかになった。
「ありがとな。連れてきてくれて」
レイは優しくクロの頭を撫でた。
しばらくして浴室の扉が開いた。
脱衣所にはレイが用意した大きめのロンTとズボンが置いてあった。
一花はそれを着てリビングへ戻るとレイが振り返った。
「すみません。お借りしました」
「いいよ」
レイは微笑んだ。
「こっちおいで」
そう言ってソファーの前をぽんっと叩いた。
一花が座ると後ろからドライヤーの音がした。
「自分でできます」
「今日は俺にさせて」
温かい風。
優しく髪に触れる指。
一つ一つの動きが大事な物に触れるみたいだった。
一花はその安心感に身を任せていた。
「終わったよ」
「ありがとうございます」
一花が振り返ろうとした瞬間、後ろから抱きしめられた。
「レイさん?」
「少しだけ。少しだけこのまま」
いつもの余裕のあるレイではなかった。
「おかえり」
優しい声に一花はゆっくり頷いた。
「ただいま…… 」
その返事を聞いて、レイはようやく少しだけ力を抜いた。
「もう遅いから寝よう」
時間を見るともう深夜だった。
「私ソファーで…… 」
「だめだよ。一花ちゃんは一緒に寝るの」
レイは一花の手を引き寝室へ入る。
「本当に一緒に寝るんですか?」
一花はベッドの前で戸惑ったまま立っていると、ふわっと身体が揺れた。
「きゃっ……」
レイが少しだけ能力を使ったのだ。
気づけば一花はベッドの上に倒れ込んでいた。
「レイさん……」
「そういう顔するから放っておけなくなるんだよ」
レイは一花を抱き寄せると子供を安心させるように頭を撫でる。
触れる手が優しすぎて、一花の心は落ち着かなかった。
こんなレイを知らない。
前は少し冷たくて、でもたまに優しくて自分だけが特別だなんて思えなかった。
「緊張してるね」
レイが声をかけると一花は小さく頷いた。
レイの手が髪から頬へ移る。
一花が顔を上げるとレイと目が合った気がした。
次の瞬間、静かに唇が重なった。
一花は驚いたが離れられなかった。
優しいのに少しだけ強引でレイらしいキスだった。
「ん……っん……」
しばらくするとゆっくり離れる。
「ごめん。我慢できなかった」
レイが謝って距離を取ろうとすると一花は無意識にレイの服を掴んでいた。
レイはそれを見ると困ったように息を吐き、もう一度一花を抱きしめた。
「今日は寝よう」
そう言い、頭を撫でると一花はレイの腕の中でゆっくり眠りについた。




