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波の音が消える前に  作者: 音香(Otoca )


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29/82

29話

あれから、どれくらい経ったのだろう。


一花の感覚では半年ほどが過ぎていた。


朝も夜もないこの世界では正確な時間など分からない。


それでも一花は、毎日石に傷をつけながら日数を数えていた。


最初はただ怖かった。


静かすぎる世界。


誰もいない街。


終わらない時間。


けれど少しずつ生活にも慣れていった。


湖で水を確保し、木の実を集める。


使えそうな建物を探して休める場所を作った。


ゲート内で生きる方法を一つずつ覚えていった。


「クロ、そっちは危ないよ」


「ニャー」


ある日から隣にはクロがいてくれた。


黒い毛並みに、黒い瞳。


瞳の輪郭だけが金色に光る不思議な猫。


一花が歩けばついてくる。


眠る時は隣で丸くなる。


一人だった世界に、初めてできた家族だった。


「今日はこっち行ってみようか」


「ニャー」


「ふふ。返事だけはいいよね」


一花は小さく笑った。


だけど毎日前向きでいられるわけではなかった。


ある日、目を覚ました瞬間から胸が苦しかった。


理由なんてない。


ただ、急に寂しさが押し寄せる日があった。


一花は洞窟の奥で膝を抱える。


「……帰りたい」


小さな声が漏れた。


「帰りたいよ…… 」


涙がぽろぽろ落ちる。


「誰か……ここから出して…… 」


ずっと我慢していた。


大丈夫だと言い聞かせた。


昔から一人だったから平気だと思った。


でも違った。


一度温かさを知ってしまったから。


頭を撫でてくれた手。


作ってくれたご飯の味。


何気ない会話。


全部思い出してしまう。


「会いたい…… 」


泣きながら呟いた時だった。


「ニャー」


クロが目の前に座った。


「ごめんねクロ……心配させちゃったね」


一花が涙を拭こうとした瞬間。


『ここから出たいか?』


頭の中に低く落ち着いた女性みたいな声が響いた。


「……え?」


慌てて周囲を見回す。


「誰……?」


辺りには誰もいない。


いるのは目の前に座るクロだけだった。


『答えろ。ここから出たいか?』


一花は恐る恐る口を開いた。


「出たい……です」


ずっと言えなかった本音だった。


「オルンギルドに帰りたい……」


その言葉にクロの金色の瞳が淡く光る。


『助けてやってもいいぞ。その代わり条件がある』


「条件……?」


一花は戸惑いながら聞いた。


「なんですか?」


『必ず我を一緒に連れていくのだ』


「あなたはどこにいるんですか?」


その問いに。


「ニャー」


目の前のクロが鳴いた。


一花は固まる。


「……え?」


クロを見つめる。


「今……話しかけたのって……」


黒猫はじっと一花を見る。


「クロ……なの?」


「ニャー」


当然だと言うような鳴き声に一花はしばらく言葉を失った。


「クロって……話せるの?」


しかしそれ以降、声は聞こえなくなった。


クロは何事もなかったように立ち上がり振り返る。


まるで"ついて来い"とそう言っているみたいだった。


一花は涙を拭き立ち上がる。


「待って」


「ニャー」


黒猫は一花の様子を見ながらゆっくり歩き始めた。



クロの後を追い、どれくらい歩いただろう。


一花は息を切らしながら前を見る。


「クロ……本当にこっちで合ってるの?」


「ニャー」


いつもの返事に迷いはなく、クロはまっすぐ何かを目指して歩いていた。


やがて何もない空間の中心でクロが立ち止まる。


「ここ?」


一花には何も見えなかった。


ただ黒く淀んだ空間が広がっているだけ。


その時だった。


クロの金色の瞳が強く光る。


「クロ?」


次の瞬間、一花の身体を眩しい光が包んだ。


『約束を忘れるな』


頭の中に声が響く。


「はい……」


『お前はもう一人ではない』


その言葉と同時に空間が大きく揺れた。


バキッ。


聞き覚えのある音。


ゲートが開く音だった。


「嘘……」


目の前に小さな亀裂が生まれる。


クロは振り返らずその中へ進んだ。


「待って、クロ!」


一花も慌てて後を追うと、眩しい光に包まれ思わず目を閉じた。



ザァァ……。


耳に届いたのは波の音だった。


ゆっくり目を開けると目の前には月明かりに照らされた夜の海岸が広がっていた。


冷たい夜風に潮の匂い。


「海…… 」


一花は呆然と呟いた。


本物の空と風と匂い。


久しぶりに感じる外の世界だった。


「戻って……きた…… 」


その瞬間、小さな音が聞こえた。


「……ニャ……」


一花ははっとして慌てて足元を探した。


「クロ!」


そこにいたクロは、いつもの姿ではなかった。


小さな子猫くらいの大きさになり、砂浜の上で力なく横たわっていた。


身体が小さく震えている。


「クロ!どうしたの!?」


一花は急いで抱き上げるといつも温かかった身体が冷たいことに気がついた。


「私を助けるため……」


クロは一花をゲートの外へ出すために、力を使い果たしたのだ。


「ごめんね。私のために……」


一花は震える手で空間ポーチを開く。


中からひざ掛け毛布を取り出し、小さな身体を優しく包んだ。


「大丈夫。今度は私が助けるから」


クロを胸に抱きしめ立ち上がる。


辺りを見回した。


「ここは…… 」


どこか見覚えがあった。


遠くに見える建物。


記憶の中にある景色。


「もしかして…… 」


一花の足が自然と向いた。


もう一度、会いに行っていいのか分からない。


オルンさんも戻ってきて、皆はもう前に進んでいるかもしれない。


それでも。


「クロを助けないと……」


今頼れる場所は一つしか思いつかなかった。


一花は毛布に包まれたクロを抱きしめ、夜道を歩き出した。


向かった先は、かつて自分が少しだけ居場所だと思えた場所。


オルンギルドだった。


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