3話
一花は疲れた身体を引きずるようにして家へ帰った。
古びたアパートの狭いワンルーム。
外では車の音や酔っ払いの声ばかりが聞こえていた。
鍵を閉めた瞬間、ようやく息が抜ける。
そのまま浴室へ向かい、熱いシャワーを浴びた。
濡れた髪をタオルで拭きながら冷蔵庫から缶のお酒を取り出すと、プシュッと小さな音が部屋に響く。
一花はベッドの前に座り、ぼんやりと今日のことを思い返していた。
「……」
Cランクのオルンギルド。
そう聞いた。
けれど、あの場にいた男たちの空気は普通ではなかった。
圧迫感に威圧感。
ただ立っているだけなのに息が詰まりそうだった。
特にギルドマスターのアラン・シード。
顔は笑っているのに瞳の奥が笑っていなくて怖かった。
「あの人たち本当にCランクなのかな……」
缶を両手で包み込む。
けれど不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ自分を必要だと言ってくれた人がいたのは初めてだった。
母を亡くしてから一花に手を差し伸べる人はいなかった。
Dランク。
役立たず。
雑用係。
そんな言葉ばかり聞いてきた。
だからこそ、あの言葉が頭から離れなかった。
『よかったらうちで働かないか』
「頑張ってみようかな……」
ぽつりと呟いた。
少しだけ…… 本当に少しだけ、一花は前を向けた気がしていた。
翌日。
一花は国家特務保安管理局の事務局へ来ていた。
専属ガイド契約の解除手続き。
Dランクだからなのか、特に引き止められることもなく事務的な説明だけであっさりと終わった。
四年近く働いていた場所なのに驚くほど呆気なかった。
一花は建物を出ると巨大な管理局のビルを見上げた。
ここで過ごした時間を思い返したが、浮かぶのは辛い記憶ばかりだった。
一花は小さく息を吐き、気持ちを切り替えるとオルンギルドへ向かった。
電車を乗り継ぎどんどん郊外へ向かう。
駅からだいぶ離れた海沿いの寂れた町にそのマンションはあった。
周囲に人通りはほとんどなく、波の音だけが静かに聞こえてくる。
一花は三階へ上がり、入り口の前で立ち止まった。
思ったより普通のマンションだった。
けれどどこか静かすぎて落ち着かない雰囲気に少し戸惑いながらもインターホンを押した。
『どうぞ』
低い男の声が返ってきた。
一花は緊張しながらドアを開け中へ入る。
「失礼します……」
「土足のままでいいよ。ここは事務所だから」
アランが机に向かって座っていた。
今日は黒いシャツ姿だった。
一花は辺りを見回したが昨日いた他のメンバーは不在なのか静かな事務所だった。
一花は鞄から履歴書を取り出し、アランへ差し出した。
「桜田一花と申します。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。
「一花ちゃんね。来てくれて助かるよ」
アランは履歴書へ目を通しながら苦笑いした。
「うちは男しかいないから、放っておくと事務所荒れるわ書類仕事溜まるしで大変だったんだ」
「頑張ります」
「一花ちゃん、ガイディングはどこまでできる?」
「接触ガイディング以上はできません」
「ハグまでってことか?」
「そう…ですね……」
答えながら過去を思い出し、一花の顔がわずかに曇る。
接触ガイディングのみの約束だったのにハグをした瞬間押し倒され服を破かれた。
抵抗する声を聞いた同僚が止めてくれなければ、どうなっていたか分からない。
そんな事があって、今でも人によって男性に近づかれると身体が強張る時がある。
アランは一花の表情の変化を見逃さなかった。
「無理はしなくていい」
安心させる声だった。
その一言に一花は少しだけ肩の力を抜いた。
「その代わり、こちらも条件がある」
一花は息を飲む。
(もし危険な条件だったらどうしよう…… )
そう思うと不安になった。
アランは淡々と続けた。
「まず、住んでる家をこのマンションに引っ越してもらいたい」
「……え?」
「うちのギルドメンバーも皆このマンションに住んでいる。ゲートがいつ開くか分からないし、出動時期も不定期になる。体調にいつ異変が起きるか分からないから、なるべくガイドとして近くに居てもらいたいんだ」
「なるほど……」
「うちの持ち物だから家賃はかからない。月々の報酬は二十五万。もちろんそれとは別に、特別手当てや危険手当てもあるから、その時々ということで。どうかな」
一花は驚いていた。
想像していたより遥かに好条件だった。
今まではガイドの仕事だけでは生活できず、日雇いアルバイトも掛け持ちしていた。
それを考えれば断る理由はなかった。
「それで構いません」
「よかった。これからよろしく」
アランは柔らかく笑う。
「メンバーはそのうち紹介しよう」
「ありがとうございます」
「あっ、一花ちゃんはパートナーはいるのか?」
「パートナーは……いないです…… 」
パートナー。
ガイドの護衛役となる専属エスパー。
危険の多いガイドにとって必要不可欠な存在だった。
「作る気は?」
「Dランクガイドについてくれる人はいないので考えたことなかったです」
アランは少し考え込む。
「そのことはまた話し合おう」
「はい」
その後、一花は住む部屋へ案内された。
事務所は三階。
一花の部屋は最上階の七階だった。
「同じ階には俺とヒロが住んでるから困った時は声かけて」
アランが簡単に説明してくれた。
エレベーターを降りるとワンフロアには三部屋のドアがあり、その真ん中の部屋へ案内された。
部屋へ入った瞬間、一花は目を見開いた。
「こんな立派な部屋いいんですか……」
一LDK。
大きな窓がある広いリビングダイニングに綺麗なキッチン。
寝室はリビングの横に半透明のスライドドアで仕切れる様になっていて、すでにダブルベッドのフレームと圧縮袋に入った新品のマットレス、壁掛けテレビが設置されていた。
今まで住んでいた古いワンルームとは比べ物にならなかった。
「このベッドとテレビは使ってもいいんですか?」
「客人用に設置はしてたんだけど誰も使わなくてね。一応新品だから掃除すれば使えるはずだ」
「ありがとうございます!」
「福利厚生だと思ってもらえればいいよ」
アランは嬉しそうに目を輝かせる一花を見て微笑んでいた。
「鍵渡しておくから。いつ引っ越してこれる?」
「荷物少ないので、二日もあれば……」
「業者はこちらで手配しておく。今日はここの掃除して帰るといい」
「はい」
「事務所にいるから、何かあれば声かけて」
そう言ってアランは部屋を出て行った。
一花はしばらく部屋を見回したあと、事務所から掃除道具を借りてきた。
窓を開けると潮風が部屋へ入り込んでくる。
多少の埃は溜まっていたが掃除を始めるとすぐ綺麗になった。
バケツで雑巾を洗い終わると、一花はベランダへ出てみることにした。
ベランダも普通のマンションより広い気がする。
一花は海を眺めると夏の夕方の日差しが海に反射して眩しく光っていた。
(こんな穏やかな気持ちになったのはいつぶりかな…… )
波音が心地よく響き、束の間の安息の時間を感じていた。




