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波の音が消える前に  作者: 音香(Otoca )


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26話

一花はゆっくり目を覚ました。


目の前に広がるのは、昨日と変わらない黒く淀んだ空。


一瞬だけ現実を忘れていたけれどすぐに思い出す。


ここには誰もいない。


自分一人だけだ。


一花は抱き締めていたアザラシのぬいぐるみを見つめる。


そっと撫でると空間ポーチへしまった。


ペットボトルの水を取り出し飲んでからビスケットを一枚取り出して食べた。


「ちゃんと食べないと」


以前ならどうでもいいと思っていたかもしれない。


でも今は違った。


もし。


もし、いつかまた会えた時、ボロボロでみすぼらしい姿では会いたくないと思った。


心配させたくない。


もう一度会えた時、笑っていたかった。


「頑張ろう」


一花は自分に言い聞かせるように呟いた。



まずはこのゲート内を調べることにした。


ずっと同じ場所にいても何も変わらない。


探索してみると、この場所はとても不思議な空間だった。


団地の跡地のように、同じ形をしたマンションがいくつも並んでいる。


けれど壁は崩れ、窓は割れ、生活の気配はどこにもなかった。


「何もいない……」


魔物すら出てこない。


音も風もない。


ここはまるで時間が止まった無の世界だった。


どれくらい歩き回ったのか分からない。


マンション群の裏側へ抜けると突然視界が開けた。


そこには広い野原があった。


黒い空の下なのに、そこだけは不思議と穏やかに感じた。


さらに奥へ進むと、大きな湖が見える。


一花は湖に近づき水面を見つめた。


(これ……オルンさんが言ってた水じゃないかな)


しゃがみ込み、そっと手を入れてみる。


「結構冷たいんだ……」


指先に感じる冷たさに久しぶりに自然に触れた気がした。


一花は湖畔に座り、少しだけ休憩することにした。


空間ポーチには必要なものを入れてきた。


食料も水もまだある。


準備する時間があっただけでも幸せだったと思うことにした。



それから恐らく、一ヶ月が過ぎた。


この世界には朝も夜もないから本当に一ヶ月なのかは分からない。


けれど一花の感覚では、それくらい時間が経っていた。


最初は怖かったこの世界にも少しずつ慣れてきた。


オルネアが言っていた木の実も見つけた。


水も確保できた。


寝る場所も整えた。


「今日は何しようかな…… 」


一花は湖畔に座りながら呟く。


探索できる範囲はほとんど歩いた。


やることも少なくなってきた。


静かな湖を眺めると自然と思い出す。


アラン。

ヒロ。

レイ。

サーシャ。

湊。


皆の声と笑顔。


(会いたいな…… )


胸がぎゅっと苦しくなる。


「もし会えたら…… 」


一花は膝を抱えながら呟いた。


「雑用係で雇ってもらえないかな…… 」


思ったことが声に出ていた。


もうガイドじゃなくても必要な存在じゃなくてもいい。


掃除でも書類整理でも何でもいいから、またあの場所にいたい。


そんなことを考えていた時だった。


カサカサ……


草が揺れる音がした。


「……っ」


一花は勢いよく振り返る。


今まで一度も聞こえなかった音。


(魔物……?)


身体が一瞬で強張る。


逃げ道を確認しながら、じっと草むらを見る。


すると。


「ニャー」


出てきたのは一匹の猫だった。


「猫?」


黒く綺麗な毛並み。


真っ黒な瞳に瞳の輪郭だけが金色に光っていた。


猫は警戒する様子もなく一花へ近づくと足元へ擦り寄った。


「ニャー」


一花は驚きながらもしゃがみ込むとそっと手を伸ばす。


猫は逃げなかった。


指先が柔らかい毛に触れる。


「あなたも一人なの?」


「ニャー」


まるで返事をするように鳴いた。


その姿に一花は久しぶりに自然に笑顔になった。


「そっか。じゃあ……一緒だね」


黒猫は一花の膝へ乗ると丸くなる。


小さな温もり。


この世界に来て初めて感じる、自分以外の命。


一花は優しく撫でながら呟いた。


「よろしくね」


「ニャー」


こうして一花と黒猫の不思議な共同生活が始まった。



黒猫は不思議な猫だった。


一花が探索へ向かえば当たり前のようについてくる。


危ない場所へ進もうとすると服の裾を噛んで止める。


食べられる木の実の前では鳴き、危険そうな場所には絶対に近づかせなかった。


「あなた本当に猫なの?」


一花が首を傾げると黒猫は不満そうに尻尾を揺らした。


「ニャー」


まるで当たり前だと言っているみたいだった。


「ふふ、ごめんね」


一花は思わず笑った。


「そうだ!名前つけてもいい?」


一花が聞くと黒猫はじっとこちらを見上げた。


黒い綺麗な毛並み。


闇の中でも分かる金色の瞳。


一花は少し悩む。


「黒いから……クロ?」


言った瞬間、自分でも単純すぎたと思った。


「ごめん。さすがに嫌だよね」


苦笑いすると黒猫はじっと一花を見つめた。


「ニャッ」


短く鳴き、それでいいと言っているみたいだった。


「本当にクロでいいの?」


「ニャー」


一花は嬉しそうに笑った。


「じゃあクロだね。よろしくね、クロ」


そう言って背中や顎下を撫でる。


クロは気持ちよさそうにゴロゴロ言っていた。



一花はまだ知らなかった。


目の前の小さな黒猫が、この世界に存在するはずのないものだということを。


本来なら人間が気軽に触れることも、名を与えることも許されない存在だということ。


けれどクロは拒まず、むしろその名を受け入れた。


何百年もの間呼ばれてきた名よりも、目の前の少女が少し恥ずかしそうにつけた名の方が不思議と温かかった。


「もう一人じゃないね」


一花が小さく呟くとクロは返事をするように一花の手に顔を擦り寄せた。

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