第29話 朝日は昇る
光の中に引き出されたルナの身体は、ぐったりと力が抜けていた。
アルカナはルナを抱え、屋上のコンクリートに膝をついた。
「ルナ、聞こえるか」
返事がない。
「……ルナ」
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暗かった。
どこまでも深い、暗闇の中にいた。
身体の感覚がない。上も下も分からない。ただ、何かに溶けていくような感覚だけがあった。
『お前の力は、ここに眠っている』
声が聞こえた。
ヴォルクの声だった。
『狼族の真の力だ。抗うな。お前はもともと、こちら側の存在だ』
違う。
そう思っても、言葉が出ない。
身体の奥から、何かが溢れてくる。
熱い。獣の本能が、理性の縁を削っていく。
『お前の両親も、最後まで愚かだった。お前も同じだ。私がまだやり直すチャンスをやろう』
違う。
違う。
『諦めろ。お前一人では、何も変えられない。夢など、綺麗事に過ぎない』
暗闇が、さらに深くなる。
足元が消えていくような感覚。もう少しで、完全に溶けてしまいそうだった。
その時。
声が聞こえた。
『お前の夢は、何だ』
アルカナの声だった。
暗闇の中で、その声だけがはっきりと聞こえた。
『俺たちはドリーム・メイトだ。お前の夢は必ず叶える』
ルナは息を吸った。
暗闇の中で、全力で。
「私は、もう、狼族も紅い月も恐れない!」
すると後ろから二つの手が私を光の方へと押し出した。
あ…母さん…父さん……本当にありがとう。
光が、差し込んだ。
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「……っ」
ルナの目が、開いた。
夜空が見えた。
赤い月が、少しだけ白く滲んでいた。
「……生きてる」
掠れた声で呟く。
「はぁ…生きているぞ」
アルカナの声が、すぐ傍から聞こえた。
ルナはゆっくりと身体を起こした。
全身が痛い。魔素を根こそぎ使い果たしたような、深い疲労感があった。
「……アルカナ」
「動くな。まだ身体が安定していない」
「でも、ヴォルクは」
「安心しろ。もうアイツは限界だ」
アルカナはルナを屋上の縁から遠ざけ、ゆっくりと立ち上がった。
ヴォルクの塊は、まだそこにあった。
ルナを失い、内部が不安定になっているのか、肉の表面が不規則に蠢いている。
「……娘を、引き剥がしたか」
ヴォルクの顔が、塊の中から現れた。
かつての威圧感は薄れていた。それでも、その目にはまだ光があった。
「お前には、分からない。十五年だ。十五年、この力を手に入れるために動き続けた」
「……分かっている」
アルカナは静かに言った。
「狼族が虐げられてきたのは事実だ。お前が怒るのも、当然だ」
「ならば」
「でも、お前は悪夢に堕ちてしまった。やり方だって変えられたはずだ」
静かな言葉が、夜に落ちた。
ヴォルクは何も言わなかった。
アルカナは両手を塊へと向けた。
魔素が、凄まじい密度で収束していく。
「もう眠れ。お前の支配の夢もここまでだ」
次の瞬間、魔素がヴォルクの体内から風船の空気が抜けるように溢れ出した。
「……っ!」
ヴォルクの顔が、歪んだ。
塊の表面が、崩れ始めた。
形を保てなくなった肉が、剥がれ落ちていく。
「クソっ、狼族は……まだ………」
「これからの答えは、ルナが出すさ」
アルカナは手を引いた。
一瞬の静寂。
そして、轟音。
塊が内側から弾け、衝撃波が屋上全体を揺らした。
熱風が吹き荒れ、粉塵が夜空へと舞い上がる。
アルカナはルナを庇いながら、衝撃をその身で受け止めた。
やがて、全てが静まった。
屋上には、何も残っていなかった。
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静寂の中で、ルナはゆっくりと顔を上げた。
粉塵が、紅い月も沈み始めている。
アルカナが立っていた。
疲れたのか座り込んでいる。
「……終わったのか」
「ああ」
ルナは膝に力を入れ、立ち上がろうとした。
足がふらつく。
アルカナが手を差し伸べた。
「……ありがとな」
ルナはその手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。
眼下に広がる街は、まだ混乱の余韻の中にあった。
それでも、サイレンの音が少しずつ増え始め、街の灯りが一つ一つ戻り始めていた。
「なあ、アルカナ」
「何だ」
ルナは夜空を見上げた。
赤かった月が、白く滲んでいる。
「また一つ、夢が増えた気がするよ」
アルカナは何も言わなかった。
ただ、同じように夜空を見上げた。
「それは良かったよ」
夜明けが、近づいていた。




