木漏れ日の中を
二日目、ジーラ湖から離れ、峠を越えてアバラータ県に入った。代わり映えのない殺風景な山肌を下っていくと、やはり、荒野が現れ、しばらく行くと樹海が広がった。
昼飯を済ませ、鬱蒼と茂った森を行く。
昨日と同じような道を歩いている気がして、クシータは飽きてしまっていたが、一時間ほど樹海を歩いただろうか、木々の葉に遮られた光が、幾重の筋となって注がれている林道を、こちらへ走ってくる人影があった。
チャンバリンは足を止め、レナティリアがゆっくりと剣の柄に手を伸ばす。サイニカとユーヴァの衛兵たちも身構えた。
クシータはナップサックの紐を両手で握ったまま、ぽつねんとして眺める。
クシータ一行の注目の的は、背後を振り返り振り返りこちらへ走ってきて、その姿がはっきりとしてくる。女――、というより、少女。クシータよりも頭二つ分ほど高い背丈の少女。
量の多い、縮毛のブロンド髪であった。ただ、アヤガラ一族の純粋な金色とは違って、彼女のふんわりとした髪は白がかっている。
木漏れ日が溶けるような美しい色を揺らしながらも、その身なりには目を疑うものがある。白い、薄手のワンピースのようなもの一枚である。さらに、その姿が近づいてきてよくよく見てみれば、スカートの下から脛をあらわにした裸足だったのである。
レナティリアが覆面越しに呟く。
「逃げてきたようですね」
クシータ以外は無言のままにうなずいた。彼らは走ってくるのが少女だというのに剣の柄から手を離さないでいて、クシータは不安になってくる。
走ってきた少女は必死なのだろう、クシータたちにまったく気づかないようでいたが、その表情がはっきりと確認できるところまでやって来ると、ようやく、立ち止まった。
ハアハア、と、肩で息を切りながら、クシータたちを眺め見る。絶句してしまうような白肌の美しさである。実際、チャンバリンなどは口を開け広げ、目を奪われていた。痩せすぎてもいなく、太りすぎてもいなく、森の景色は彼女のためにあると言っても過言ではないほど、少女の容姿は際立っている。ただ、表情は険しい。灰色がかった瞳をクシータ一行に据え置き、そうして、今来た道を振り返り、また再びこちらに顔を戻すと、クシータ一行を眺めた。
すると、突如、意を決したようにしてこちらに走り寄ってくる。チャンバリンが驚いて道の横に逃げてしまうと、少女は健康的な胸を波打たせながら、レナティリアと目を合わせ、そうして、レナティリアにすがりついた。
「カリラスカっ。デパマジシーっ」
皆が皆、目を丸めた。
クシータも。
エンドラセトラの言葉でもなければ、エンドラ古語でもなくて、ここにいる誰もが知らない異境の言語だったのだ。
「ジウナカラヴィエーク。ユジアックジャゼ、ヤ」
レナティリアの胸にすがりつく灰色瞳の彼女は来た道を何度も何度も振り返りつつ、目許の開いた垂れ気味の瞼に、澄んだ涙を溜めていく。
レナティリアが眉間に皺を寄せながらチャンバリンを見やると、怯えてしまっているチャンバリンは右手を顔の前に掲げ、一生懸命になって横に振った。
サイニカとユーヴァが顔を見合わせた。
「きっと、この女の子は飼われた主人のところから逃げてきた奴隷だ」
「でも、えらい可愛いじゃないですか」
「そういうことだ。これだけ可愛い女の子だから、まあ、イタズラされてきたんだろう」
「カリラスカ……。カリラスカ……」
裸足の彼女はレナティリアのマントを力強く握り締め、必死に何かを訴えてくる。しかし、レナティリアは左手を突き出して、ドン、と、彼女を突き放してしまった。
彼女は左半身から叩きつけられた。
クシータはびっくりして彼女に駆け寄る。
「大丈夫っ?」
「やめなさい」
「で、でもっ」
「情けは無用。この子はすでに誰かの所有物なのです」
クシータは少女の傍らに寄り添いながら、碧眼だけを覗かせるレナティリアを見つめる。その眼差しは冷たい。
「坊っちゃま。行きますよ」
「レナティリアさんの言う通りですよ、坊っちゃん。可哀想だけど優しくするほうがもっと可哀想なんですよ」
クシータは、自分と、彼ら大人との間に、ものすごく高い壁がそそり立っているように感じた。
(どうして。先生は昨日優しかったのに。サイニカだってジャンガルフやプラーネに優しいのに)
クシータが寄り添っているものだから、顔を上げた少女は、今度はクシータのコートを掴み出した。
男の唇を吸い込んでしまうようなつぶらな瞳でクシータを見上げてきながら、
「ヤ、ボロビー、ラスパカックデラ、ドゥジィーユナ」
と、まったくわからない言葉で訴えてくる。
すると、彼女が来た道に人影が現れ、少女は回り込んで、クシータの小さな背中に隠れようとする。
剣を右手にした巨体の男が二人、やはり、こちらに向かって走ってき、クシータ一行の中に少女を発見すると、足をゆるめ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼らは二人とも薄汚れた皮革のコートを筋肉でぱっつんぱっつんにさせており、二人とも髭面、二人とも同じ顔、どうやら双子らしい。
「衛兵じゃないな」
と、サイニカが言った。
「私兵ですかね」
ユーヴァが訊ねたが、サイニカは首を傾げる。
「ゆ、ゆ、誘拐する人だよ。こ、この人を誘拐しようとしたんだよ」
クシータは大人たちに訴える。そうなれば少女を引き渡さなくて済む。
「どうでしょうね。ただ、無用な争いに巻き込まれる必要はないのです。坊っちゃん、この子はあの方たちに返しなさい」
クシータは唇を閉ざす。小さな拳をぎゅっと握って、歩み寄ってくる双子を睨み据える。
(ワルモノだ。きっとワルモノだ。先生もサイニカも戦わないんだったら、僕が戦うんだ)
そうこうしていると、双子の髭面は立ち止まった。
「おい」
と、横柄な態度で呼びかけてきた。
「そこの坊主。その女は俺らのもんだ。こっちに寄越せ」
と、言いつつ、彼らは近寄ろうとはしなかった。もう一人の相方の髭面はすでに剣を構えていた。警戒していた。おそらくレナティリアの覆面装束のせいだろう。
「坊っちゃま」
レナティリアが静かに言葉をかけてくるが、クシータは無視する。少女は震えながらクシータのコートを掴んできている。クシータは小さな英雄よろしく、視線を屹とさせて巨体の双子を睨み据える。
そして、緊張しながらも、口を開いた。
「あ、あなたたちは誰なんですか」
「は? なんだ、ガキ」
「名乗る必要があるのか、ガキ」
巨体の双子は同じ動作で立て続けに威圧してきたので、クシータは負けじと、一歩、少女と離れつつ前に進み出て、自分の何倍もの男二人を眼光鋭く睨み上げながら、名乗る必要があるのかと問われたので、バカ正直に自分から名乗った。
「ぼ、僕は、ダクシナ郡から来たクシータ・ダクシナ・アヤガラです。あなたたちは誰なんですか」
すると、途端に双子の髭面は顔色を変えた。滑稽なほど二人は動きを揃えてお互いの顔を見合わせた。
「だ、ダクシナ郡のアヤガラ一族の――」
「女みたいなガキ――」
そして、二人揃って視線をそろりとクシータに向けてくる。威圧と脅迫に満ちていた表情も、自信にみなぎっていた眼差しも、軟弱な姿勢にころりと変わった。
「い、いやあ。そのお、ぼ、僕たちはですねえ、えーと、そのお、友達なんです。その女の子と」
「そ、そうです。遊んでいたんです。鬼ごっこしていたんです」
「嘘だっ。剣なんか持って鬼ごっこするはずないじゃないですかっ」
クシータが騒ぐと、二人は揃って、ひっ、と、呻きながら後ずさりした。
「僕はジャンガルフやドスターと鬼ごっこするときは剣なんか持ってないですっ。聖旗軍ごっこするときだけですっ」
「い、いや、違うのですよ、クシータ様。これはですね、えーと、そう、聖旗軍ごっこです」
「そうですそうです。女の子と聖旗軍ごっこしていたんです」
双子は揃って剣を背中の鞘におさめてしまう。両手を胸の高さに掲げて、愛想笑いまで浮かべている。
フン、と、鼻で笑ったのはレナティリアだった。
「まさか、あなたたち、この前、ダクシナ郡に来ていた連中の仲間じゃないでしょうね。タカイカタ流の剣士を雇っていた」
レナティリアがゆっくりと鞘から剣を抜いていくると、双子の兄弟は飛び跳ねた。両手を胸の前で思い切り振った。
「ちちち違いますっ。ななな何をおっしゃっているんですかっ?」
「そそそそうですっ。ぼぼぼ僕たちはあいつらと友達だっただけでっ」
「友達じゃないかっ!」
クシータが騒ぎ立てながら、さらに一歩、前に進み出ると、双子の巨体はまったく同じタイミングで腰を抜かして尻もちをつき、待ってくれ待ってくれとクシータが近づいてくることへ焦っていた。
誘拐団の一味とあっては、サイニカとユーヴァも剣を抜かざるを得なくて、双子の巨体は最初のならず者ぶりはなんだったのか、あわてて踵を返してしまい、来た道を風のように去っていって、すぐに見えなくなってしまった。
「まったく……。坊っちゃま、無用な争いには関わるなと言ったでしょう」
レナティリアが溜め息をつきながら剣を鞘におさめていくが、クシータは背中を向けたまま無視する。
静けさを取り戻し、森の奥から鳥のさえずりが聞こえてくる。
少女は若干の会話のやり取りだけでならず者を追い払ってしまった事態に呆然としていたが、やがてクシータに走りこんできてクシータの両肩に両手を置いた。あらわにした肩口に流れ落ちた金白の髪先は、その肌に溶けていくかのようであった。そうして、彼女は、その身をクシータに委ねんばかりの愛狂おしい表情でクシータの瞳を見つめ、一方で、つぶらな灰色の瞳いっぱいに潤うときめきを巡らせた。
「ヴィ、ヤ、ニコハサビエ、ニアマ、ジシエム。ジアーク。ヤ、ジエンマ、サストレリシア、ズ、ヴァミ」
何を言っているのかさっぱりわからなかったが、クシータは少女に笑みを与え、うなずいた。
「よかったね。きっと、もう大丈夫だよ」
「大丈夫って言ったってどうするんですか、坊っちゃん」
「うーむ。異境の野蛮人の娘がなんらかの理由でエンドラセトラに入ってき、そこを誘拐団にさらわれていたというわけか」
と、終始怯え通しだったチャンバリンが、ならず者がいなくなった途端に侍従長風情をかもし出し、道端の茂みからぶつぶつと呟いて出てきた。
「ということは、この子は奴隷商人に売られるというわけだったのだな。それで、我々は奴隷商人から奴隷を買う予定だった。それならば――」
チャンバリンは、クシータに一生懸命に何かを話している少女を見据える。兄の吝嗇ぶりを察したサイニカがたしなめた。
「おい。兄貴。何を考えているんだよ。こんなエンドラ言葉をまったく喋れない子を坊っちゃんのメイドにしたって混乱するだけだからな」
「いや、美しい娘ではないか。いずれは坊っちゃんの慰みの相手にもなるのだから、坊っちゃんのためにも美しいほうがよい」
レナティリアが憎悪のこもった眼差しで睨みつけたが、脳内で算盤を弾いているチャンバリンは目もくれない。
「これぐらい美しいとえらい高くつくからな。サバーセ様がうっかり戻ってきてもレナティリア殿に退治してもらえばいいのだし。うん。そうしよう、おい、ユーヴァ、この娘に服を着させなさい。それと、靴も。衛兵は旅路には予備の靴を持ち歩いているのだろう」
「おい、兄貴っ! やめろよっ! カネとかそういう問題じゃないだろうっ! 奴隷商人に支払うカネは、連中がこういう子をまともに育てた対価だろう! そういうのをケチって坊っちゃんを困らせる気かっ!」
「うるさいっ! お前って奴は偉そうにごちゃごちゃと。しがない田舎の兵隊の分際がいちいち口出すな! バフータ様もきっと同じことを考えるはずなのだっ! 言葉や躾けはラソイハラにさせればいいのだ! ただの兵隊のお前は黙ってろっ! あんまり逆らうようなら、バフータ様に告げ口してアディカセラを執行してもらうぞっ!」
サイニカは舌打ちし、口を噤んだ。
奴隷を買い求めての旅路であるとも知らないクシータは、いまいち、二人の喧嘩の理由がわからなかったが、とりあえず少女を保護できるということは理解できたので、彼女に「よかったね」と笑顔を見せた。