近い星空、近い優しさ
パハロマ山の峰と峰の間のなだらかに広い開けた場所を登ると、乾いた砂と石ばかりの殺風景な眼下に、西日を浴びたジーラ湖が、突如としてクシータの前に出現した。
巨大な誰かが山を繰り抜き、そこに大量の水を注いだようにも見える。ましてや毒を含んでいるとは思えないほどに水の色が澄んでいて、クシータはひとときの間、目を奪われた。
「坊っちゃん、この湖には伝説がありましてな」
湖岸に向かって下っていく最中、今日の旅路の終わりが見えているからだろう、駄々をこねていたチャンバリンが得意げに語った。
「昔の昔のずっと昔、この辺りの地へと追われた者たちがおりましてな、しかし、パハロマ山地の裾野は荒れ果てており、追われた者たちは生活に困っておりました。それを可哀想に思ったジーラという女神が、この山のここに湖を作り、裾野へと水を行き渡らせてやったのです」
ジーラに恵みを与えられた者たちは、裾野に流れてきた水を活かして開墾し、豊かな土地を作り出したものの、人が増えると水の奪い合いになってしまい、やがては武器を手に取り争うようになってしまった。
「いくさばかりしている者たちを見て怒った女神は、湖に毒を入れてしまったのです。当然、裾野の畑は死に絶え、人々はいなくなりました。以来、ジーラ湖は毒の湖。一滴も飲めない湖になってしまったのです」
「へえ」
と、クシータは本気に聞いていなかった。ちょっとした魚研究家のクシータは、ジーラ湖の毒の理由をレナティリアの授業で習っている。
湖岸まで下ってくると、クシータぐらいの高さの幅広の石碑がぽつねんと立っており、エンドラ古代文字で、
『ジーラの深く優しい手当てによって
戦乱に傷ついていた男どもは死を免れ
女どもは苦しむことなく子を産め
子供たちは死の病にかからなくなった
ジーラの愛が我らを救った
ジーラ、あなたの好んだこの湖から
永遠に我らを見守っておくりたまえ』
と、彫られている。クシータしかわかっていないが、レナティリアとクシータ以外の三人は、石碑の前に跪き、両手を握り締めて祈りを捧げた。
「坊っちゃんもご挨拶しなされ。レナティリア殿もせんか。今晩はここに泊めていただくのだから、女神にご挨拶しなければならんだろう」
チャンバリンに強要されて、クシータはレナティリア共々、彼らの真似をする。
チャンバリンたちのどれにでも厚い信仰心はともかくとして、湖岸はちょっとした野営地のようである。石と砂だけの湖岸には、焼けてただれた薪も大量に見受けられた。つい先日にやって来た聖旗軍ボーダバリー師団が残していったものだろう。
サイニカとユーヴァはウシが背負ってきたテントを広げ組み立てた。チャンバリンが薪をくべて、豆を煮た。クシータはウシに草と水を与えてやった。
「僕があげた水は飲むけど、湖の水は飲まないの? ウシさんたちはわかるの?」
二頭のウシは何も答えず、クシータが袋から取り出してくる草をむしゃむしゃと咀嚼する。
覆面姿のレナティリアは何もせずに一人湖岸に突っ立っている。
(何をしてるんだろ)
太陽はすっかり峰の影となっていた。西の空は赤紫色に暮れなずんでおり、また今日も、一日の終わりがゆっくりとした歩調で下りてくる、湖のみなもは夕暮れの調べを鏡のように緩やかにたたえており、隔絶された山頂の中に世界の優しさの名残りを映し出していた。
レナティリアは孤高にたたずんでいた。その後姿は湖の調べに包み込まれるのを拒絶しているようでもあった。それは確かに強さゆえの美しさであった。だが、クシータの瞳にはこの優しい世界にレナティリアが逆に拒絶されているように映った。ひどく寂しそうに見えた。
クシータは草をウシの前に投げ置くと、レナティリアに歩み寄っていき、彼女の隣に立って、彼女の横顔を見上げた。レナティリアはしばらくクシータに気付かないでいた。サバーセを打ちのめしたときのような冷たくて無情な青い目で、湖の湖岸をゆっくりと見渡していた。
「先生」
と、クシータが呼びかけると、レナティリアは厳しい眼差しのままクシータを見下ろしてきた。
「どうしたんですか?」
レナティリアはクシータの瞳を黙って覗き込んできていた。そのうち、彼女の眼差しから険しさが失せていき、彼女はまた湖の対岸に視線を向け、長い睫毛を伏せながら切れ長の瞼をゆっくりと細めた。
「静かなところです」
レナティリアはなぜか微笑んだ。
日が暮れて、空も群青に広がったころ、テントが二つ組み上がり、焚き火を囲んで、クシータは豆を食べさせられた。
二頭のウシに目をやると、腹ばいになって眠っている。
(豆ばっかり食べるんなら、僕もウシさんのほうが良かったな)
夕食を終えると、頭上には星空が開いていた。クシータはまじまじと眺めた。手が届きそうなぐらいに近いところで数多の瞬く星が夜を彩っていた。クシータは飽きずに眺めた。夜のきらめきを目の当たりにしている興奮と一日の終わりの充実感で、クシータは笑みを浮かべていた。
チャンバリンがあくびをかきながらテントの中に入っていき、ハア、と、サイニカが溜め息をついたので、クシータは天体観測をやめた。
「兄貴と一緒に寝るだなんて」
「俺だって兵長や侍従長と一緒に寝たくないですよ」
そう言いつつ、若いユーヴァは覆面を剥いでいるレナティリアをちらりと見やる。
レナティリアはぎらりと視線を返した。
「さて、寝るか」
ユーヴァはチャンバリンが入っていったテントへすごすごと歩いていった。
「坊っちゃんはレナティリアさんと一緒ですよ」
唐突にサイニカが言って、クシータはびっくりして立ち上がった。
「ええっ? い、嫌だよっ。僕も皆と一緒に寝るよっ」
「レナティリアさんが寝るテントはがらがらなんだから、そっちのほうがいいじゃないですか。それに、今のうちだけですよ、こんな綺麗な人と一緒に寝れるなんて」
サイニカは笑いながらテントへ向かっていってしまい、囃されたような気がしたクシータは顔を真っ赤に火照らせて、うつむきがちに固まった。
「何を恥ずがしがっているんです。言ったでしょうに。私を先生とだけ思えと。女も男もないと」
表情一つ変えずにそう言いながら、レナティリアは木材を繰り抜いた水筒のコップに水を注ぎ、歯磨き用の布とともにクシータに差し出してくる。クシータが面倒がってチャンバリンたちはやっていなかったと言うと、だらしのない人間は嫌いだと言われた。
濡らした布で歯を磨いていく。しばらくすると歯櫛を渡されたが、クシータは使ったことがないので手にしたまま首をかしげた。するとレナティリアに取り返され、「こうやっていぃーってやりなさい」と、歯を剥くように指図され、言われたとおりにすると、レナティリアはクシータの鼻先まで顔を寄せてき、懸命に覗き込みながら歯櫛の先をクシータの歯の隙間に入れていく。
クシータはむずがって首を振ったが、我慢しろと叱られて、じっとする。
「はい。あとは水ですすいで終わり」
水筒のコップで口の中をすすぐと、レナティリアも歯を磨き始めたので、彼女の様子をじっと見つめて待った。あまりにもじっとしていたので、レナティリアが布でこすりながらも笑った。
「なんです。そんなに見てきて」
「さっきのとんがったやつ、どうやってやるのかなって」
レナティリアはクシータに歯を剥いて見せてきた。自分の手で歯櫛を入れる様子を実演し、クシータは真面目な顔でじっと見つめた。
「さ。おやすみしましょ」
口をゆすいだレナティリアが左手を差し出してきたので、クシータは右手で彼女の手を握り、一緒にテントに入った。
テントの中は、ちょっとした小部屋程度に広く、すでに吊るされたランプに火が入っていて、下には野営用の厚手の絨毯が敷かれていた。
レナティリアがそのテントに入るなり、髪の毛を櫛でとかし始めたので、クシータはまたじっと見つめた。やはり、どうして見ているのかと訊ねられたので、それもやらなければいけないのかとクシータは逆に訊ね返した。レナティリアは愉快そうに笑い、クシータを自分の胸に近寄せると、クシータの体をひっくり返して、自分の膝と膝でクシータを囲み、座らせた。
「坊っちゃんの髪はアヤガラ一族の綺麗な髪ですから別にいいんですけどね」
レナティリアはクシータの髪を櫛でとかしていく。
「アヤガラ一族の人はみんな同じなんですか?」
「ええ。金髪鳶目。男の人も女の人も。お父様かお母様かがアヤガラ一族じゃない髪の色、瞳の色でも、必ず金髪鳶目」
「母上もみんなと一緒だったってラソイハラが言ってました」
クシータがそう言うと、レナティリアはいっとき櫛の手を止めた。
手が止まっても片方の手で頭を押さえられているので、クシータは振り返ってレナティリアに目を丸めた。
レナティリアが戸惑いと寂しさを青い目に映している。
「ええ。坊っちゃまのお母上もアヤガラ一族の方だったそうで――」
クシータは頭を正面に戻され、再び髪に櫛を入れてもらう。
レナティリアは沈黙していた。しばらくすると、おそるおそるというふうにレナティリアは口を開いた。
「坊っちゃまは、寂しくないの? お母様がいなくて」
「どうしてですか?」
答えになっていなかったが、意味がわかっていないから答えられるわけがなかった。クシータは寂しさを感じたことがないのである。
「先生のお父上とお母上は帝都にいるんですか?」
「ええ――。さて。これぐらいでいいでしょ。寝ましょ」
レナティリアはクシータを横にさせると、テントの隅から毛布を二枚引っ張ってき、ランプの火を吹き消して、自らもクシータの向かいに寝転がって、毛布を掛けた。
火の落ちた真っ暗な目の前にレナティリアの顔がある。レナティリアはクシータの頭を優しく撫でてきた。レナティリアと一緒に寝ろと告げられたときは飛び跳ねて拒絶していたクシータであったが、今はレナティリアの柔らかい掌に身を委ねている。
「今日はよく歩いたわね」
「チャンバリンがすぐに疲れてました」
「そうね。きっと、運動しないからね。坊っちゃまは毎日鍛えているから、へっちゃらだったわね」
「とても楽しかったです」
レナティリアに撫でられているうち、クシータは瞼をうとうとと閉じていく。
湖の波がちゃぷちゃぷと音を立てている。
何もない暗闇に、ちゃぷちゃぷと聞こえてくる。
誰かの足音のようにして――、足の長い綺麗な女性が、波打ち際で静かに遊んでいるかのようにして、ちゃぷちゃぷと。
体中に柔らかい温もりを感じて、クシータはゆっくりと瞼を開けた。レナティリアがクシータの体を両腕で包み込み、優しい胸の膨らみのうちにクシータを抱いていた。
クシータはすでに寝ぼけていたので気にならなかった。それにとても温かくて柔らかかった。クシータは再び瞼を閉じながら、もぞもぞと動いてレナティリアの細い首に抱きついた。
「おやすみなさい。可愛い坊っちゃま」
クシータは微笑みを浮かべながら、意識は温もりの中に沈んでいった。
波音が静かな湖畔に響いていた。




