初めては、今
樹海を抜けて、日暮れ前、ミナラー村に到着した。
人口は百人程度、丸太造りの三十棟程度の家屋が間隔を広くして並んでいる小さな村で、樹海の木々の伐採で生活を営んでいるのだろう、加工前の木材がそこかしこに積まれている。
ミナラー村の村令は、ペーラ・ヤギラダーラという二十代前半の若者で、二年ほど前に祖父を亡くしたさい、村令を継いだばかり、先祖はアバラータ・アヤガラ家の家臣であった。そのときの功績で、ミナラー村の小公に封ぜられた。
ペーラ・ヤギラダーラの家屋は、ミナラー村の他の家屋よりも大きい二階建てであったが、それでも、ナウビム城の天主塔を自宅としているクシータは、
(公(郡令)と小公(村令)ってやっぱり違うんだなあ)
と、蔑視することはなかったものの、貴族階級の差を目で見て知った。
木製のドアを開いてクシータ一行を出迎えたペーラという人は、よくあるチュニック姿ではなくて、素軽そうなダブレットに膝丈の黒いパンツ、黒いタイツ、お洒落でそうしているのか、ハンチング帽を斜めに被り、笑顔に愛嬌のある青年であった。
「この前ぶりでございますね、ヨリダーナ殿。ああ、こちらが例のクシータ様でございますか。武勇伝はのちほどたっぷり聞かせてもらうとして、ささ、皆さん、お上がりください」
ヨリダーナ殿と呼ばれたチャンバリンは、あらかじめペーラ青年に手紙を出している。
ダクシナ家の人間はたびたび本家のアバラータ家を訪ねるため、そのつど、この家に世話になっている。宿泊賃はおろか、心付けの一切もしてこないできたが、ダクシナ家はアバラータ家の分家である。家来筋のペーラ青年からすると無碍にはできない。
衛兵のサイニカやユーヴァはテントで寝るため、家に上がらず、庭先を借りて寝床の確保にあたった。
自分も外で寝ると言い、レナティリアも家には上がらなかった。
それと、うっかりクシータのメイド候補になっている灰色瞳の少女も、レナティリアが袖をつまんで連れ出していった。
クシータも付いていきたかったが、チャンバリンに肩をしっかと押さえられてしまっている。挨拶をさせられたあと、ペーラ青年に促されてテーブルを囲む椅子に座らされた。
「初めまして、クシータ様」
と、クシータに頭を下げてきた若い女性は、ペーラの新妻だと言う。
「お夕食の準備は整えておりますので、今しがたお待ちいただけますか」
「かたじけないのう」
と、チャンバリンがとりあえず恐縮し、茶髪の新妻はキッチンへと入っていった。
こうしたウッドハウスに初めて踏み入ったクシータは、家の中をきょろきょろと眺めた。ナウビム城内の家屋とも造りが違う。キッチンと居間の境は天井を支えている数本の柱だけで、暖炉の前にも椅子が置いてある。寝室は居間の奥にある階段を登った二階だろうか、クシータが座っている空間は一続きに広がっていて、薄暗くて冷たい天主塔にはない開放感があった。
それにペーラという青年の飾り立てのない気さくな性格にもクシータは憧れた。キッチンで妻と二人で仲良く食事の準備をしている姿は、日々の充実の現れというか、幸福の温かみというか、貴族社会の狭苦しさのなさをこぼれる八重歯に見せていた。
(あの帽子カッコいいなあ)
クシータは初めてハンチング帽を見た。気障に斜めに被っているのがいい。部屋の隅には帽子掛けがあって、トレードマークなのだろう、ハンチング帽が四つ、掛かっている。
チャンバリンに囁いた。
「僕もペーラさんの帽子欲しい」
「えっ」
クシータの囁きが聞こえたそうでペーラと妻はクスクスと笑ったが、チャンバリンは困り顔である。物をねだった試しが一度もないクシータが、狩猟用の帽子を欲しがってしまっている。ましてやハンチング帽などは庶民がかぶるものである。
「僕も欲しい」
しつこくねだってくるので、チャンバリンは困った。
「しかし、うーむ、そもそも坊っちゃんに合ったサイズは……」
「僕が子供の頃、被っていたものならありますよ」
と、ペーラは食事の準備を取り止めて階段を上がっていった。
「いやいや! いいのですぞ! そんな気を使わんでも!」
チャンバリンは二階に上がっていったペーラに別の意味で帽子をくれないよう声を大きくしたが、ほどなくしてペーラは子供用のベージュのハンチング帽を手に下りてきて、瞳を弾ませるクシータの頭に『斜め』に被せてやった。
「わあ! いいんですか!」
「どうぞ。プレゼントです」
チャンバリンは渋い顔をしているが、クシータは嬉々として飛び跳ねながら立鏡の前に駆けていって、破顔した自分の姿を眺めた。
「ペーラさんと同じだ!」
「僕と一緒にしてくれるだなんて光栄ですよ」
ペーラは笑いながら、妻が運んできた皿をテーブルに並べていく。クシータはしばらく鏡の前でご満悦であったが、テーブルに戻ってきて椅子に飛び乗ると、皿に盛られているものを見て、目玉をぎょっとさせた。
「あ、そうか。ダクシナ郡には鶏肉のアディカセラがありますからね」
いつのまにかチャンバリンが渋い顔をやめて舌なめずりしている。
「いやあ、これが旅の楽しみなんですなあ。坊っちゃん、遠慮せずにいただきなされ。うまいですぞ」
鶏肉の丸焼きの隣は相変わらずのファリャム豆だが、牛肉すら食べたことがないクシータは、ランプの灯火を受けて照り輝いている小麦色のそれを凝視するばかりだった。
ペーラとその妻も椅子に腰掛け、夕飯となったものの、クシータは帽子を被ったまま手を出さずにいた。とりあえず、好きでもないファリャム豆の煮込みをスプーンですくって食べるが、肉の脂で口の周りを汚しているチャンバリンをちらちらと見やりつつも、やっぱり豆ばかりをすくう。
「クシータ様、食事のさいは帽子は取らなければいけませんよ」
そう言ったペーラはすでに取っていた。クシータはあわてて帽子を取り、テーブルの上に置いた。本当ならチャンバリンがたしなめるべきなのだが、食事に夢中になってしまっていた。
「クシータ様、切って差し上げましょうか?」
妻が首をかたむけながらクシータに訊ねてきたが、クシータは訳がわからないので首をかしげた。ふふ、と、妻はペーラと顔を見合わせながら笑い、クシータの鶏肉を一旦引き寄せると、ナイフとフォークで均等に切っていく。
「しかし、僕はてっきりサバーセ様みたいにやんちゃなご子息だと思っていましたよ。女の子みたいだとは聞いていましたけど、誘拐団相手に剣を振る舞ったお子さんが、本当にこんなにおとなしくて可愛らしいんですから」
ペーラが喋っている間に妻は肉を切り分け終え、クシータの前に「どうぞ」と微笑みながら差し出してきた。
クシータはフォークを右手に取るが、肉をちょんちょんと触るだけで刺さない。
「私も聞いて驚きましたわい。まあ、坊っちゃんの家庭教師のあの先生は聖旗軍で連隊長として腕を鳴らした御方なんですがね、それでも先生はおっしゃっていたんですよ、今の坊っちゃんの剣術じゃ勝てなかった、子供が法剣を使うだなんて前代未聞だって」
鶏肉をようやくフォークに刺したクシータは、チャンバリンの言葉など聞いておらず、レナティリアが陰ながらに褒め称えていたということも耳に入れていなかった。
「パヌカ城ではもちきりですよ、その話題で。創立帝様の生まれ変わりなんじゃないかと言う者までいますよ」
「ほほう。そりゃいい。まあ、もっとも、エンドラセトラ中を飛び回って勇猛果敢に戦った創立帝様に比べると、坊っちゃんは、だいぶ、おとなしすぎると思いますがな」
大人たちの会話をよそに、クシータはフォークに刺した鶏肉を恐る恐るゆっくりと顔の前に運んでいく。
「しかし、ペーラ殿、さきほども樹海で誘拐団らしき者に出くわしたんでありますが、ミナラー村にも出没しているのですかい」
「いえ、村には現れていませんね。少し前にアバラータの町でやはり子供が次々とさらわれた事件がありまして、それ以来、アハラ様は県内の各所に目を光らせるよう衛兵に指示されまして」
クシータは唇を小さく広げ、鶏肉を中にゆっくりと運んでいく。
「それに、まあ、ヨリダーナ殿には耳の痛いところかもしれませんが、サバーセ様らしき一味がアバラータをうろついているらしいんです。どうも、サバーセ様が誘拐団を潰していきカネを奪い取っているそうで。剣士の用心棒を雇っていたのもそのためかもしれません」
口の中に入れた鶏肉をおそるおそるゆっくりと噛む。
「我々としてはサバーセ様に感謝ですよ。もっとも、州令府寄りのアヤガラ一族を憎んでいるサバーセ様は、アハラ様をも標的にしているんじゃないかとの噂ですが」
「まっ、まことでございますかっ――。そ、そればかりは――」
「あっ!」
と、クシータは鶏肉を口の中にしたまま声を上げた。
急に声を上げたクシータに、チャンバリンやペーラは丸めた目を向けたが、クシータの様子を終始眺めていた新妻はにこにこと笑っていた。
クシータは声を上げたあと、すぐに咀嚼する。今口の中にしているものをあたかも見つめているような一点の眼差しで、舌の上に広がっていく脂のとろみを味わいながら顎を動かす。
生まれて初めての鶏肉は、ほどよい柔らかさといい、唾液腺を旺盛にさせる肉汁といい、ごくりと飲み込んだときの『喉に手応えのある感触』といいい、まだ口の中に残っている脂といい、クシータからすると衝撃的だった。
「どうでした、お味は?」
妻の問いに、クシータは目を輝かせながら顔を上げる。
「おいしいですっ!」
彼のあまりの元気溌剌ぶりに、大人たちは笑った。すると、クシータは椅子から下りて鶏肉の皿を両手に持ち、
「これ、おいしいんで、みんなにあげてきますっ!」
「いや、坊っちゃん、そんなことしなくても」
チャンバリンは止めてかかったが、クシータはまったく聞かずに皿を持ってちょこちょことドアの前に早足で歩いていった。
「チャンバリン! 開けてよ!」
「いいんですか?」
と、ペーラがたずねると、チャンバリンは鼻息を一つ漏らしたあとうなずいた。
「ま、坊っちゃんは臣下思いのため。お父上様とは違って」
新妻が腰を上げ、ドアの前で立ち止まっているクシータに「お優しいのですね」とにこやかに声をかけながら、ドアを開けた。




