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後編

   第五章


   真珠の約束(回想三)


 〔高一の冬〕


 珠が入院してから、五か月が過ぎようとしていた。

 ホームルームが終わると、マコは猛ダッシュで駅に向かった。

 ソフトボールの練習は、しばらく休ませてほしいと、マコは監督に申し出てあった。

 電車が停車すると、マコは飛び乗るように車内へ入り、立ったまま体を少しよじったり、足を屈伸したりした。

 車内は割と空席が多かった。

 いつものマコなら、ボールを握るか、バットを振っていた時間帯だった。

 停車駅では、違う学校の生徒も多数乗ってきた。

 学生たちは、笑いながらスマホを覗き込んでいた。

 病院の最寄り駅に着くころには、電車の席は、そんな学生でだいぶ埋まっていた。


 マコは病院に着くと、腕時計をちらりと見た。面会時間終了まで、あと数十分だった。

 名簿に名前を書くと、顔見知りの看護師さんとすれ違う。

 互いに会釈を交わす程度で、マコは珠の病室に入っていった。

 カーテンをするりと開けた。

 病室を見渡すと、静けさの中で、珠は目をつむり眠っているようだった。

 入院したてのころは、コロコロ笑って、マコが来るのを待ちかねていたみたいで、一緒に歩いて病棟を回っていた。

 だんだん、ベッドに腰かけて話すようになり、一か月前からは、横になりながら話すようになった。


 丸椅子を動かすと、思ったよりガタガタと音がして、珠が目を開けた。

「ごめん、起きちゃった?」

「うん。起こしてくれてもいいよ」

 にこっと微笑んでから、珠は、

「勉強が全然遅れちゃって、このままだと留年だね」

 そこだけ、悔しそうにした。

「まだ、進級は決まってないんじゃないかな。病欠だから、試験さえ受ければ、進級できるかもって、先生言ってたよ」

「漫画の本を読んでばかりでね」

「なんか欲しい漫画ある?」

 マコが聞いて、珠の顔を見つめると、

「それがね、まだ出てない漫画でね。続きがまだなの」

 頷いて、マコは、下唇を少し噛んだ。

「出てないのはいいの」

 マコを見て、珠はまた微笑んで、今度は意地悪っぽく、

「続きを考えているの。いろんな未来。漫画の続きをね。マコちゃんも読んだはずよ」

 なんだろうと、少し考えてから、珠が貸してくれた漫画のことをマコは思い出した。

「思い出した? あたしでは、描けない。今のあたしではね……」

 〈今によくなる〉と言いかけた。気休めを言うのも、それはそれで、酷いことだ。

 マコは言葉を飲み込んで、ただ黙っていた。

 すーっと一呼吸置いてから、珠は、

「あたしの頭の中で、漫画は進んでいるの。聞いてくれる?」

 マコは、ゆっくり深く頷いた。珠はまた笑って、

「主人公の不幸な女の子、いたじゃない? それは、マコちゃんなの。それが、素敵な王子様に巡り合うって。世界観がすごいのよね。そこでの、これからが知りたくて、考えたの、いろんなパターンかな」

「それでそうなるのかな」

「あたしが主人公で、想像していたんだけど、もうダメみたい」

 そこまでしゃべると、珠はしばらく黙ってしまった。

「ダメじゃないよ」

 マコは、叱るように強く言った。

 うん、と珠は頷いた。


 マコは、窓際のカーテンが開いているのを見て、窓の鍵を確認した。窓の外は、薄暗くて、今にも雨が降りそうだった。音を出さないようにカーテンを閉めた。

 珠の顔を見ると、目を閉じて眠ったように見えた。

「珠ちゃん?」

 小声で聞いてみた。やはり眠っているようだ。

 腕時計を見ると、面会時間を少し過ぎていた。看護師さんが気を利かせて、大目に見てくれているんだろう。

 じっと珠を見つめて、心の中で、また来るよと告げると、マコは病室を出た。

 病院の玄関口で、マコは母に電話をかけた。


 母を待つ間、マコは珠の笑顔を思い出した。

 珠は屈託なく笑っていた。

 もうすぐ、春が来て珠がちゃんと進級して、一緒に登校する。

 去年の春は当たり前だったから、今年もそうだと思う。来年も、たぶん、その向こうの未来まで、珠は朝、あたしに言うんだ。

〈おはよ。でもまだ眠い〉


 明くる日。病室に入ると、ふと、勉強用とは違うノートを、マコはベッド脇に見つけた。珠が漫画を描いている、と聞いていたから、漫画が描かれたノートかとマコは思った。

 中を覗いてみたいと、誘惑めいたものを感じたが、

(ダメダメ)

 そう思って病室を出た。

 それから、雨が降ってきた。


 その日から、十日ほど過ぎた。

 マコは突然、一冊のノートを珠から手渡された。〈いらないからあげる〉くらいの調子で、ぽんとだ。

「え? なに」

 マコは、ちょっと困った顔をした。「いらない」とは言えないし、「なんだろうな?」くらいには思った。

 中を読もうと、ノートをめくりかけると、

「今はダメよ」

「どうして?」

 珠は、そこだけ語気を強めてきた。

「どうしてもよ」

「ふうん」

「じゃあ、あとでじっくり読むね」

 気軽にノートを見つめながら、珠に答えたマコだった。

 けれども、ノートの表紙の文字は赤ペンで書かれていて、今村珠という名前も赤いインクだった。

 ノートの表紙のそこだけをまじまじと読んでみた。

【自由に生きて】

【今村珠】

「今読まないで」

 すぐに、珠が言ってきた。

「う、うん」

 マコはうろたえてしまった。


「いつ読めばいいのかな」

 マコは珠の様子を窺うと、

「少しだけ聞いて」

 頷くマコに、

「もし明日の天気予報が雨でも、雨が降らないこともあるでしょ」

「そうだよね」

「そう思って読んでほしいの」

 マコは、うんと言って、少し深く息を吸って、表紙をもう一度見た。

「なんかこう、曇っているね。今にも雨が降りそうだな」

 赤い文字がおどろおどろしいな。晴れだとしたら、ホラー漫画なんだけどな。

 ノートそのものが、勉強ノートとは違って、丈夫そうで、紙が厚い。ページ数は少なそうだ。

 なんだかんだで表紙をめくってみると、一文字一文字が大きく、薄く、だらりとした筆跡で、書くのがつらくて必死だったことを思わせるものだった。

「お母さんは、知っているの?」

 珠は首を横に振った。

「なんとなく、ここから先、天気予報が雨になりそうな気がする」


 マコは、またノートを広げた。

 屈託のない挨拶みたいなものから、ノートは始まった。

 漫画風にイラストが合間に描かれていて、笑みすら浮かんできそうだ。

 マコがボールを投げているシーンのイラストには、じんと来るものがあった。

 山盛りのご飯を、マコがばくばく食べる絵も描かれていて、一瞬「なにこれ?」と言いたくなるものもあった。

 けれど、書かれた文そのものは、珠らしくて、いつもの調子だ。

【運動もいいけどさ、勉強くらい少しはしなさい】に始まり、【ご飯とお肉だけでなくて、お野菜も食べなさい】と続いた。

 なるほど、とは思うのだが、それをわざわざノートに書くなんて。雨の予報はどうなったんだろう?


 マコは、珠を見た。うっすらとだけ目を開けていて、今にも眠りに落ちるかもしれない。腕時計を見た。まだ、面会時間には余裕があった。

 ページをめくってみた。

【自由に行きなさい。自由に生きなさい。でもね、自由になるには、勉強して頑張って、宇宙飛行士になる! くらいの夢を持ちなさい】

 そう書かれていた。

 マコは、珠を見た。珠はノートの中身を垣間見ようとしたのか、上半身を無理に起こして、点滴の管が外れそうになった。

「無理しちゃだめよ」

 マコが慌てて珠を助け起こすと、

「ありがとうね」

 また、マコはノートを読み進めた。立ったままだったが、そのほうが珠も覗き込めそうな位置取りだった。

 太陽系の星が描かれていて、宇宙ロケットもあった。

 下に、ロゴが丁寧に描かれていて、英語で【希望】を意味する言葉が書かれていた。

(たぶん、天気予報は外れるよ)

 そう言いたいのと同時に、こうも思った。

(なに、自分で決めて、うぬぼれているのよ)

 マコの片方の眉が吊り上がった。


「宇宙飛行士?」

 マコは、心を落ち着かせて聞いてみた。

 それから、ノートを持って、笑って珠を見た。

 珠はふらふらと揺れて、姿勢を保つのが精いっぱいみたいだ。

「頑張るって言いたいけどね」

 また、マコは笑って言った。

(明日は雨なんか降らない。あたしは信じない)

「天気予報なんて、信じない」

 珠は、つらそうに頷いた。

 そうだ、珠だって、そんな予報信じたくないんだ。

 マコは、ベッド脇の丸椅子に座った。ノートは、珠の前に静かに置いた。


 珠は、ノートを見つめると、

「そうだね」

 小さくつぶやいた。

 俯いた珠は、指先をこねるようにもてあそびながら、

「マコちゃんの恋、見届けたかったな」

 マコは〈うん〉と頷きかけて、

 腕をバタバタさせて、

「あたしは、そんなの別にいいよ」

 慌てふためいた。マコのそんな様子に、

「焦ってないのに、焦るんだ」

「焦らなくていいよ。ちっとも」

 マコは言ってから、珠がじっと見つめているのに気づいた。

「マコちゃんを好きになってくれる人。きっといると思う。あたしよりずっとね」

「今はそんなこと、考えたくないよ」

 珠の体が少し震えて、

「その人は、あたしより、ずっと傍にいてくれるよ」


 珠は大きく息を吸った。

「泣かないで」

 はっきりとひときわ強く言うと、今度はマコの体が大きく震えた。

 珠の前に置いてあるノートに書かれているのが、それだと気づいた。

「信じない」

 マコは言った。

「だから、あたしは泣かない」

(こんなノート!)

 心の中でもやもやしていたものが、爆発し始めた。

 けれど、やはり、じっと見つめてくる珠の顔を見返すと、

「今のあたしは、泣くだけでいいわけ?」

(だって、泣いたら珠ちゃん死ぬって決まっちゃうじゃない)

「悲しいから、泣くよね」

 珠は、目に涙を浮かべていた。

「悔しくても泣くんだよ」

 マコは、そう言うと、

「たとえ雨でも、あたしは雨って認めないからね。だから泣かないんだ」


「でもね……」

 珠は、ノートを手に取り、ページを繰ると、そこには見開きで、

【泣かないで】

 そう書かれていた。

 赤い文字だ。濃く大きく書かれていた。

(いやだ。珠ちゃん、いなくならないで。ずっと一緒だって、そう言って)

 マコは首を振った。目の前のノートを、何かの冗談だと思いたかった。


 ノートを閉じて、珠はそれをマコに手渡すと、疲れたのか横になった。

「平気だよ」

 にこっと笑って、点滴をしている腕のほうだけ大事そうに布団にしまうと、珠はもう片方の腕を伸ばして、

「約束だからね」

 と、マコの腕を掴んだ。

 マコが頷くと、珠も頷き返した。

「自由に生きて、だね」

 ノートの表紙を見て言った。

 珠は、何かを念じるかのように、ノートを見つめると目を閉じた。

 歩きながら、ノートをもう一度見た。

 珠の枕元に、お気に入りの赤ペンが転がっていたのを思い出した。あのペンで書いたんだ。そう思うと、顔が引きつるのを感じた。

 今にも、約束を破りそうになるマコだった。

「信じないからね」

 マコはそうつぶやくのだった。


 三日が経って、火曜日の放課後。

 期末テスト前の一週間が始まった。来週から三学期の期末テストだ。

 珠の病室を訪れると、珠はうっすら目を開けて、マコを見た。

「元気してた?」

 ぼんやりマコを見て、珠は俯き加減に顔をしかめた。

「痛いとこ、あるの?」

 首を左右に振り、珠は、物憂げだ。

「飲み物?」

 頷く珠の口に、マコは水差しの水を含ませた。

 ゆっくり飲むと、珠は、

「喉が痛くて、声を出すのがつらかった」

 そう言った。

「そうなんだ。お母さん、今日来てなかったの?」

「来たけど、ずっとお母さん一人でしゃべっていたよ」

 笑いが込み上げて、

「珠ちゃん困っちゃったでしょ」

 マコが言うと、珠も笑った。


「学校どう? 先生とか麻衣、元気かな」

 マコは頷くと、

「もうすぐ、三学期の期末試験だよ」

 言ってみて、言わないほうが良かったかなと、マコは後悔した。

「そう」

 小さく寂しそうに、珠がつぶやいた。

「出席日数が少し足りないかもだって。三分の二は必要らしい」

 ゆっくり頷いて、珠は、

「分かってる。留年だね」

 首を横に振って、マコを見つめてくる。

「その姿勢、つらくない?」

「大丈夫だよ」

「枕の位置、変えてあげるね」

「ありがとう」

 珠と目が合う。

「マコちゃんだけだね。本当のことを言ってくれるの」

 マコが黙っていると、

「勉強はいつでもできるよ。安心して」

 頷いて、マコは、

「二回入学したと思えば、いいだけかもね」

 そう言うと、珠は笑って、

「だったら、あたし妹になるんだね」

「でもね、妹に勉強教えてもらうことになるんだ」

 そう言うと、珠はまた笑った。

「マコちゃん本気で勉強しなよ」

「う、うん」

 なんか負けそうだ。そう思うマコは、

「もう、元気いっぱいだな」

「なんか、元気出た」

 珠がそう言うと、なんとなく顔色がよくなったようにマコには見えた。

 うんうん。マコは幾度も頷いた。


「退院したら、またデパート行こうよ」

 珠の様子を見ながら、マコが話を継いだ。

「デパートに、おいしいクレープ屋ができたんだよ。クレープにアイスが載ってて」

 珠は、顔を上に向けて、天井を見ていた。

「つまらない?」

 首を振って、珠は、

「食べてみたいな。そのクレープ」

 〈うん。そうだよ〉と言いかけて、マコは、

「退院したら、一緒にね。行こうよ」

 反応のない珠だった。


 また、珠はじっとマコを見つめてくる。今まで見てきたのとは、明らかに違って、顔とか、体とか、なんか全体を見ていて、輪郭を確認しているみたいで、

「やだな。じろじろ見られると」

 マコが抵抗して言うと、

「エースなんだな」

 珠はぽつりと言った。

「うん」

「頑張ってた、頑張ったね」

「エースだから、打たれたら、責任大きいのよね」

 珠は、布団から腕を伸ばしてきた。マコは珠の手を握った。

 珠は、じっとマコの顔を見てきて、

「目が見えなくなったら、どうしよう」

「そんなことないよ」

 マコの言葉に珠は頷いた。

「そうだよね」


 珠は目を閉じた。

「もう、休む?」

 珠は首を小さく振った。

「そう」

 マコは、丸椅子に座り、様子を見ていた。

 珠は目を閉じたままだ。

「珠ちゃん?」

 呼びかけても、珠は眠っているようだ。疲れたんだろう。マコはそう思うと、腕時計を見た。

 あと三十分程度、面会時間が残っていた。お母さんが来るかな。そう思ったが、来る気配はなさそうだ。

 珠の寝顔を見た。点滴の雫が落ちて、珠の体内へ送り込まれている。

(珠ちゃん頑張ってるね)


 このままでいたいけど、人の気配で珠が起きてしまうかもと思い、マコは静かに丸椅子から腰を上げた。

 マコは、自分だけが幸せでいることについて、珠は何も責めなかったな、と気づいた。

 今度来た時に、〈ごめんなさい。お詫びのクレープ〉と言って渡そう。

(珠ちゃんなら、〈どうして謝るの〉って聞いてくるかな)


「珠ちゃん、クレープ楽しみにしていてね」

 まだ珠がぐっすり眠っているのを確認した。

「眠り姫みたいね」

 色の白い頬と、束ねられた黒髪が、艶々としていた。辺りに漂う柑橘系の匂いが強いのは、シャンプーのものだ。

 もう、珠の本当の髪じゃない。でも……。

「珠ちゃん、シャンプーは欠かさないんだね」

 匂いを胸いっぱいに吸い込むと、マコはショルダーバッグを手に持った。


「またね、またすぐ来るよ」

 珠の顔を見た。

 マコは安心して、病室から出ていった。


   第六章


   淡い光


 〔高二の春〕


 マコは学校にぎりぎり間に合った。

「ふう、セーフ!」

 もう少しで、校門が閉まるところだった。

「もう少し早く起きなさい」

 生徒指導の教師がマコにそう言った。

「今後、気を付けます」

 そう言うと、教師はもう興味を失い、他の生徒をやり玉に挙げていく。

 いつもより重い足を前に進めながら、体の違和感に、マコは内心驚いていた。

(ヘン? あたしの体?)

 頭の中では、黄色信号がぐるぐると点滅していた。


 珠がマコに憑依する日が続いていた。


 それから数日後。


 朝の目覚めが悪い。それでも起きて走ろうとする。ずっと日課だったから続けられるが、朝の太陽がやけに眩しい。

 重い足を引きずるようにして、いつもの距離を走り切れず、家に戻ってきてしまった。

「ダメだ! もう!」

 タオルをリビングの床に乱暴に投げ捨てると、母が、

「タオルに当たるなんて、タオルも可哀想よ」

「そのタオルとは仲良しなんだ」

「だったら」

 母がなんだか突っかかってきたので、

「お生憎様。仲良しだから、怒ったりしないわ」

 それだけ言うと、マコはすぐに後悔した。

 部屋で着替えると、珠に聞いてみた。

「疲れてるんだ、あたし。大会も近いからかな。勉強しばらく休もうかな」

(ねえ、珠ちゃん?)

 赤ペンは、コトンと音を立てた。


 階段を降りると、母が、

「体調が悪いようね。病院? もう一度行きましょう」

「お母さんが素面ならね」

「はあ」と母がため息をついて、

「最近はこう見えて控えているのよ。マコちゃんのことが心配でね」

「そうなんだ」

 ぶっきらぼうにマコは答えた。

「お母さんが、心配だから病院へ行くの。それだったらいいでしょう?」

 いつもより元気そうな母に、

「お母さんのこと、あたしだって心配してたんだよ」

 母は「うん」と強く頷くと、

「ごめんなさい」

 と、謝ってきた。マコも、

「さっきはごめんなさい」

「いいのよ。気にしてない。それより、病院に行きましょう」

 マコは頷いた。


 母の運転する車の中で、もうしばらく病院へ行くことはないと思っていた。


 診察室に入ると、にこやかな銀髪の医師からマコは診察を受けた。

「ふむ。異常はないみたいだねえ」

 診察が終わり、内科の待合室の長椅子に座っていると、すぐ傍を北条が通り過ぎていった。

 横顔を見てすぐに、マコは北条だと気づいたが、北条は気づいただろうか。

 ちらちらと、北条のほうを見ていると、

「今村さんでしたね」

 北条のほうから声をかけてきた。

「はあ、娘のお知り合いかしら? マコちゃん、ここ二、三日ずっと体調が悪いの。もう心配でね」

 母がまくし立てるので、

「あたしが、病院に行きたいって言ってないのに」

 マコが文句を言うと、

「それで、診察結果はどうでしたか?」

「それがね。よく分からないらしいの。どうにも頼りなくてねえ」

 母は、周りを見回して声をひそめた。


「ああ、そういえば、朝のランニング、続いているのかな?」

 何気なく北条が聞いてきたのに、マコは驚いて顔から火が出そうだった。

「まあ、この子ったら」

「それが、本調子じゃなくて」

 母の言葉を遮るように、マコが言うと、

「無理はしないほうがいいよ」

 北条は、気さくな笑顔で言うので、

「水分はこまめに摂っています。ご飯も食べているし」

 うんうん、と北条が頷いた。母は首を傾げて、物憂げな様子だった。

「このままの調子で、体調を整えていってください」

 そう言って北条は強く頷いた。


 帰りの車の中で、母が、

「北条さん? いい先生ね。頼りになるし、きっと体調がよくなるって」

 うん、とマコが頷くと、北条と話せたことで、病院に来たのもそう悪くなかったと思えた。

 家に着くと、玄関までの歩みが打って変わって重く感じられた。


 マコがスマホで母に、放課後に病院へ行くと連絡すると、

「一人で大丈夫?」

「大丈夫だって、心配しないで」


 放課後になった。

 大会が近いのに、ソフトボール部を休むのは気が引けたが、マコが監督に直接会って説明したら、

「今は、休養しろ。治ったらバシバシいくぞ」

「はい!」

 マコが返事をすると、監督はにこっと笑った。

 女子高には珍しい男性教員で、がっしりした体格の中年だが、割と生徒に人気があった。

 職員室から出ると、マコは駅に向かった。

 電車の中で、もし北条に会ったとしたら、母のことを謝るかどうか、そればかりを考えた。


 診察室に入った。

「あれから、どうですか」

 首を傾げて、大山は言った。銀髪が前より少し短く刈られている気がした。

「前回の血液検査では、血糖値が割と低かったようだけど、まあ大きな問題はないんだよね」

 マコの目をじっと見据えて、大山が言うと、

「北条君、来たまえ」

「大山先生? 呼びましたか」

 北条の声のようだ。マコが不思議に思っていると、北条が姿を見せた。


 マコは、北条を見上げた。北条が微笑みかけてきた。


 診察を終えたマコに、

「少し、いいかな?」

 北条が話しかけてきた。

「今日は一人なんだね」

 マコが頷くと、

「お母さんが、前に言ったこと、謝らないと、と思ってたんです」

「なんのことだろう?」

「その……」

 北条は「うん」と頷くと、

「僕じゃなくて、大山先生に言うべきじゃないかな」

 笑って言うから、「え!」とマコはよけいに驚いた。

「冗談」

 北条は「いくら大山先生でも怒っちゃうね」と言うと、また笑った。


 マコが、

「大会が近いんだ」

「ソフトボール?」

「そう。だけど体調が悪くて」

 思案げに北条は眉根を寄せた。太い眉が最初から印象的だったのを思い出した。

「力になれなくてごめんね」

 ぺこりと軽く頭を下げてきた。

「いえいえ、北条さんのせいではないです」

 手をバタバタさせて、マコは否定した。北条は顔を曇らせた。

「チームにだけは迷惑かけたくない」

 北条は頷いた。


「だから、部活を休んだ分、勉強だけはしなくちゃって思っているの」

 北条は、ぽんと手を打つと、

「僕は、勉強ばっかりで、運動はちっともなんだ。部活も勉強も、なんてすごいな」

 目をキラキラさせてマコを見る北条に、

「そんなあ」

 マコは顔が熱くなるのを感じた。

「まだ研修医で、これからも勉強続きだ」

 両手のひらで顔を隠すようにして、マコが頷くと、

「若いからって無理しないでね。僕も無理しないようにしないと」

 北条は明るく言うので、

「そうだね」

 マコはそう答えた。

「うん」と北条は言って、

「じゃあ」

 と、立ち去っていった。


 家に着くと、少しも体が軽くならないことに、マコはイラッとした。

「どうしたの?」

 母が台所から聞いてきた。

「病院どうだった?」

 続けて聞いてきた。

「今のところ、大したことなさそうだって」

 マコが答えると、

「今日はシチューよ」

 母が言ってきた。

「マコちゃん好きでしょ」

「うん」

 マコは、以前の母が戻ってきそうだと感じた。母のシチューは久しぶりだった。


 三日が過ぎた翌朝。気だるいのなら、むしろ走ることだ。三日も休んだから、その調子の確認だ。そう思い返したマコは、

(今日だけ、少しだけ)

 シューズを履いている間も、意識を走ることだけに向けた。

 軽く走ってみた。

 呼吸や筋肉、体力そのものというより、どこかちぐはぐだ。自分の体なのに、自分のじゃないみたいだ。

 マコはそう思うと、家に帰った。

「ただいま」

 汗をほとんどかいていないのに、タオルで顔を拭うと、

「無理しないでね」

 母が心配そうに、マコのほうを見ていた。


 その日は普段通りに学校へ行き、授業を受けた。

 学校は普段通りに戻りつつあった。倒れてから、クラスメイトとも仲良くなりかけていた。むしろ、倒れて良かったと思えるのは、マコが無理をしすぎると、クラスメイトが心配してくれるからだ。

 マコは、周りから、

〈無理しないでね〉

 と声をかけられるたびに、珠のことを思い出しているのに気づいた。

 テンションは高いのに、体は思うように動いてくれない。

(無理はしてない。けど、珠ちゃんに頑張っているとこ見せないと)


 マコは、しばらくぶりに練習に参加した。

「どうした? もう調子はいいのか?」

 監督がそう声をかけてきた。

「はい!」

 マコが言うと、監督は落ち着かない様子だったが、

「よおし! 軽くピッチだ」

 麻衣を呼び、二人にキャッチボールから始めさせた。

 麻衣が、

「本当に大丈夫?」

「平気」

 マコはそう答えた。

「座ってよ」

 麻衣が座って、ミットを構えた。

 前にフォームを変えたのを思い出して、まずは直球から、変化球へと、マコは投げ込んだ。

 意識の上では、感覚を掴めているのに、足腰がついていかない。

「上半身だけで投げているぞ」

 監督が見ながら言った。

 声はそれほど大きくないが、マコの心に突き刺さった。

 球数を重ねれば重ねるほど、ひどくなっていくのを感じた。

 監督が、ノックを始めたのを見て、麻衣が近づいてきた。


「マコ? 調子悪そうだね」

「うん、練習さぼりすぎてたね」

 麻衣は、首を横に振った。

「体調が悪かったんでしょ」

「大会前なのに、ごめんなさい」

「違うよ。悪いのはマコじゃないよ」

 マコは頷いて、空を見上げた。西日が差してきて、グラウンドが茜色に染まっていた。


 部活から帰ると、前回の練習の後よりも、マコは疲れていた。

 お風呂に入ると、珠のシャンプーの匂いを思い出した。

(そうだ。いつからだろう。体がだるくてこんなに変なのは)

 なんとなく、珠のことが頭から離れずにいた。

(珠ちゃんは悪くない!)

 マコは、打ち消した。

 けれど……。


 お風呂から上がって、部屋に入ると、

「疲れた!」

 そう言って、マコはベッドに横になった。

「髪、傷んじゃうね」

 ドライヤーで乾かすのが面倒で、パジャマに着替えるだけにした。

 赤ペンが、コトコト動いた。


 少し眠ってしまったようだ。マコが時計を見ると、午前零時を少し回っていた。

『疲れてるのね?』

 マコは椅子に座って机に向かうと、広げたノートの文字を読んだ。

(部活がね。最近練習不足なんだ)

『どうしてなの?』

 部屋全体がひんやりした。緑のカーテンが揺れた。白い霧が部屋全体に広がったかと思うと、集まって一つの人型になった。ぼんやりと、珠がいつもの服を着て現れた。

(うん。やっぱり疲れてるんだと思う)

 不安そうな顔でマコを見ている。

(北条さん、覚えてる? 病院で会ったよ)


 珠の顔が急に明るくなった。そして、目が獲物を狙う狐のように細くなった。

『どうだった? な、なんか誘われたりした?』

(まさかあ)

 珠のあまりのせっかちさに、半ば呆れながら、マコの口から笑い声すら出た。

『そうねえ』

 珠は腕組みをして考えている。マコは、何を考えているんだろうと様子を見ていると、

『もう会えない、って言ってたくせに、また会えたでしょ。あたし気づいてたんだからね』

 マコはまた珠が真剣そうな目をしているのを見て、吹き出しそうになったのをこらえながら、

(ねえ。珠ちゃん。あたしってさ、すごい、かな? 〈ソフトボールの部活に勉強に、すごいな〉って北条さん言ってくれたよ)

 うんうん。珠は幾度も頷いた。

『すごいよ。ソフトボールは、中学でも高校でもやっているからね』

 そうかあ。マコもそう思うと、

『マコちゃんは、やればできる、すごい妹だよ』


 珠はマコのほうをじっと見てきた。マコは初めて、自分がすごいと言われたことを受け入れられる気がした。

 珠と話しているのが楽しいし、北条ともたぶんそうだと思った。

 北条は、不思議と話しやすいな。

 恋とは違うと、マコは思った。

『でさあ。北条さん、医者なわけでしょ? モテモテかな?』

(どうかなあ。忙しそうだよ。勉強ばっかりだって)

『ふふ。それなのにマコちゃんに時間を割いているんじゃない?』

 明らかに珠は含み笑いをして、マコを見ていた。

 マコは言われて、顔が熱くなるのを感じた。

『照れなくてもぉ、いいよ』

 追い打ちをかけられたマコだった。


 机の上のキーホルダーからは、淡く真珠色の光が漏れていた。

 しばらくマコは待ってみたが、赤ペンが音を立てることはなかった。


 時計を見上げた。

 マコは、珠も疲れたのかな? と思った。

 もう一度珠を見た。

 コトコトと赤ペンが音を立てて、

『怒らないでね』

(うん。怒ってないよ)

 赤ペンはコトコトと音を立てた。珠のキーホルダーと、マコのキーホルダーが、机の上で寄り添っていた。

 その光は淡いが、二つ重なって真珠色に輝いていた。

(珠ちゃん?)

『うん?』

 ノートに書かれた珠の返事を見て、マコはベッドに潜り込んだ。


 病院で診察を受けた。

 大山が診察を終えると、

「北条君、いるかね? 少し来たまえ」

 北条はマコを見ると、少し驚いた様子だった。

「北条君。君はどう思う」

 北条は頷くと、優しくマコに問いかけてきた。

「いつも通りには、うまくいかないんだね」

 マコはこくんと頷いた。

「大山先生は僕の指導医だからね。研修の一環で、僕が引き継いで診るんだ」

 こほん、と北条は咳払いをすると、

「それでは、聞くんだけど」

 慎重にカルテを読み返して、しばらくの間、考え込んでいた。


「そうだ。何か思い当たる節はないかな? こうなる以前と、それ以後で変わった点?」

 マコは、この前お風呂に入っていた時、シャンプーの匂いを嗅いで、ふと頭をよぎった疑問を思い出した。

(珠ちゃんは悪くない)


 マコは、北条の顔をまともに見られなくなった。

 顔を隠すようにして伏せると、沈黙の間ができた。慌てて、

「何も、思い当たることはありません」

「そうか、仕方ないな」

 マコは、謝ろうとも思ったが、俯いてしまい、言葉が出なかった。


 北条は、マコを見つめ、

「今は様子を見ましょう」

 大山と同じく、「安心しなさい」と言っているような気がした。

 マコは「はい」と返事した。

「無理は禁物だよ」

 もう一度、マコは頷くと、

「勉強、頑張ってください」

「ははは」

 北条は、か細く笑った。

 マコもつられて笑った。看護師さんが先導して、マコは診察室から出た。


 マコは家には帰らず、そのまま学校に向かった。

 お昼ご飯を売店で買って済ませると、後ろめたさが心に引っかかった。

――北条に嘘をついた。

 今度会った時、北条にどんな顔をすればいいだろう。それだけをマコは考え続けた。


   第七章


   秘密の重さ


 〔高二の夏〕


「マコちゃん、起きなさい」

 ううん。

 小さく声を上げると、マコは気だるげに起き上がった。パジャマ姿で階段を降りて、洗面台に向かった。


 部屋に戻ると、マコはぼんやり、珠とのやり取りを思い出した。

 マコは、思い切り伸びをした。

 机の上には、赤ペンが転がり、ノートが広がっていた。

 夏の制服に着替えている時、マコは体が強張っているのを感じていた。スカートを履く時、足を片方ずつ上げるのにすら時間がかかった。それは以前にはなかったことだ。


 それから二週間経った。


 マコと珠の深夜。

(珠ちゃん、味はどう?)

『なんとなく、おいしい』

 マコが今日の夕方、近所のケーキ屋で買ったものを、二人同時に食べているのだった。

(あたしも、なんとなく)

 冷蔵庫で冷やしてあったのがいけなかったのかな?

(もっとおいしいお菓子を、珠ちゃんと食べたいな)

 マコは、今は考えても仕方ないと思った。

(なんか、違うことしてみない?)

 マコが思うと、珠が少し考えているのを心で感じ取った。

(何をしようかな)

 マコは、そうだ! と胸が躍った。

(二人で同時に漫画を読むとかはどう?)

『マコちゃん、楽しそうね』

 心の中で、珠が笑った。


(珠ちゃんのせいにしている!)

 あたしは、卑怯だ。マコはそう思った。

 心のどこかで珠に八つ当たりして、珠のせいで体が重く、疲れが取れないと思っているんだ。

 マコはそう思うと、

(珠ちゃんは悪くない)

 誰のせいでもないんだ。これは、あたしの体の問題なんだ。



 一日の授業が終わって、放課後。

 部室で制服からユニフォームに着替えると、マコは、

「いける。大丈夫!」

 と、声を上げた。

 着替え中の他の部員が、マコを見たが、また何気ない様子に戻った。

 体は、声とは正反対だったが、声だけ出すと、本当にいける感じがした。


 グラウンドへゆっくりと歩いて行った。


 部員たちは、すでにグラウンドに点在し、各々、キャッチボールをしていた。

 あるいは、準備体操をする者もいた。

 三年生は、夏の大会で引退になる。その最後の大会はもう間近に迫っていた。

「おう!」「よっし!」

 掛け声も、緊迫感があっていい。

(みんなの元気がありがたい)

 体はともかく、マコの気持ちが盛り上がった。

 グラウンドのネット近くで、麻衣が捕手のプロテクターを付けていた。

 もうマコは、立ってキャッチボールする段階ではない。練習試合をとっくに何度も経験していなければいけない段階だ。

(調整遅れは言い訳でしかないよね)

 マウンドに立って、余裕のあるポーズをとってみせた。

 マコは、腕をぶるぶると回転させた。


 麻衣が座った。投げてこいと言わんばかりに、両腕を左右に広げてみせた。

 麻衣が座ったからには、エースの球を見せなければならない。マコはそう思うと、第一球から、本気で投げた。

 ステップは短めで、下半身だけに頼らず上半身もうまく使う。

 珠からのアドバイス通り。

 マコの狙い通りに決まる。ミットの快音に、部員たちが思わず振り返る。

――エース復活!

 そう言わせたい。

 マコは、復権した! そう思って、二球目、三球目を投げ込んだ。

 四球目を前にして、息が苦しくて、座り込みたいのを我慢するだけで精いっぱいだ。

 マコは、迷っているふりをして、時間稼ぎをした。


 マコは呼吸を整えてから、四球目を投げた。

 変化球がずばりと決まった。

「よっし!」

 ガッツポーズを決めた。


 麻衣が立ち上がり、マウンドに来た。

「ナイスピッチ」

 マコは帽子を取り、汗を手で拭い、頷いた。

「投げる間隔が長い気がする? いい球だし、そこは文句ないよ」

 顔を綻ばせる麻衣に、

「なんともないよ」

「そうだね」

「でも……」

 食い下がる麻衣に、

「たった四球しか投げてないし、大会も近いしさ」

「マコ、すごい汗じゃない。とりあえず水飲もうよ」

 麻衣は、汗なんてかいていない。それに気づいたんだ。マコはそう思うと、

「うん。そうしよう」


 マコは、息も上がっていた。それでも、

「なんともないんだけどな」

 と、また言った。

 麻衣は、マコを見つめてきた。麻衣は微笑んでいた。それから厳しい目をした。


 そんな麻衣に、

「ずっとさぼってたから」

 マコが言うと、

「さぼってた? 何を」

「だって部活、出てなかったでしょ」

 麻衣の言葉に、マコがそう答えると、

「違うでしょ? 体調が悪かったからじゃない?」

「それは、それで」

 マコは、スポドリをまた飲むと、

「練習不足は、言い訳にはできないよ」

 麻衣は、キャッチャーミットを撫でて、

「言い訳すればいいじゃない?」

 麻衣の言葉に、返す言葉が出ないマコだった。


「うん。病院へは行ってるんだ」

「それで、どうなの?」

 マコが、俯いていると、麻衣は不安げな顔で、身を乗り出した。

「別に、異常は今のところないって」

「はあ、そうなんだ。少し心配してた」

「あたし、勉強してるから? 疲れてるのかな」

「まさか!」

 マコは、笑って、怒ったように、

「失礼しちゃうわ」


「ごめん」と麻衣は謝って、

「そうかあ」

 続けて、

「深夜まで勉強してるんだ」

「そうだよ」

 マコは、グラブを少し叩いて、

「特進への編入もかかってるしね」

「そうだね……」

 麻衣は特別進学コース。マコは、普通コースだった。二年の夏を境にマコの特進への進路が決まる。

「特進に行って、勉強したいんだ」

 麻衣は、黙ってしまった。ミットをずっと撫でていた。

「頑張んなよ」

 しばらくの沈黙の後、麻衣は言った。

「うん」

 スポドリの匂いだろうか、麻衣からレモンと蜂蜜の匂いがした。


 麻衣をじっと見た。


「『頑張って』だけじゃないよ」

 麻衣が、肩を寄せて、

「言葉だけじゃない」

「うん」

「頼りにならないかもだけど」

「そうじゃないよ」

 マコは、首を横に振った。

「頼って! どんとね」

 麻衣はそう言うと、ミットを手で掴んで、

「あたし、キャッチャーなんだよ。なんでも受け止めるからさ」

 こくんと、マコは頷いて、

「それなら、あたしはピッチャーだ。どんどんいくよ」

「言ったね」

 麻衣は笑顔で、えくぼを浮かべた。


 マコは、立ち上がり、マウンドに戻った。

 麻衣が、ミットを構えた。

 投球フォームに入り、投げ込む。

 麻衣が、両腕を上げた。なんとなくだが、いいらしい。

 しばらく呼吸を整えるマコ。帽子を取って、空を見たりして、ゆったりしてみせる。

 本当は、体に鉛が詰まっているようにすら、マコは感じていた。

 二球目を投げた。また、麻衣は両腕を上げてみせた。

「大げさだなあ」

 わざとマコはそう言うと、返球されたボールをまじまじと見つめた。


 マコは、今は話せない。

 誰にも話せない。麻衣にだってだ。

 心の中にしまっておかないと。


 数日が経った。

 病院の待合室では、夕刻を過ぎて、人はまばらだった。

 長椅子に座り、マコは北条にどういう顔で接すればいいか迷った。


 マコは、診察室に入った。

 入り口の隙間から、奥のほうが見えた。

 北条の後ろ姿が見えた。嬉しい! と思うマコの気分はないまぜだった。

 思わず顔を隠したいほど頬が熱いのに、医師からの問いかけに答えるマコの声は、キーが高くて仕方がない。それなのにマコは、同じくらい後ろめたいのだ。


 大山医師が、何気ない感じで診察を進め、北条を呼ぶのもいつも通りだ。

 詳しい診察は、研修医の北条が請け負うのだった。

「今のところ、特に異常は見当たらないね」

「そうですか。それならいいんだけど。あたし、特進クラスの試験受けるんです。といっても、一学期の期末試験なんですけどね」

 北条は、驚いた顔をしながら、

「勉強好きになったって言ってたね」

「そう! 覚えていてくれてたんだ」

「もちろん!」と言いたげに、北条は頷いた。

「大会が近いんだ」

「ソフトボールの大会だね」

「うん。そうなんだけど、勉強もしないとね」

 北条は、深く頷いて、

「部活と勉強、両方頑張ってるんだ。前にも聞いたけど、改めてすごいと思うよ」

「やった。褒められた」

 マコは、両手を挙げて、手のひらを開いて、バンザイをしてみせた。

 それを見て、北条は顔を綻ばせて笑った。


 すると北条は、笑顔のまま、マコの目をじっと見つめてきた。

(えー? これってヤバいやつ?)

 マコは、胸がドキドキしだした。

「疲れているのかな? 目が充血している」

「そんなことないです」

 マコの息が乱れた。北条が、悲しそうな目でマコを見た。

 しばらく、沈黙が続いた。

 マコの息遣いの音だけが、妙に響くように感じた。


「病院に行くって言って、部活をさぼってます」

 うん? 北条の目がきつくなった。

「さぼりなの?」

「ち、違います。さぼりは、たとえで、そうしないと、そうでも言わないと、休めないから」

 マコは、とっさに出た言葉で北条に叱られそうな気がして、慌てて、片手を左右に振った。

 立ち上がっていたから、診察ベッドに座った。


 マコは、北条が自分の思っていた以上に、ずっと医者の目をしていることに気づいた。

「北条さん。お医者さんなんですね」

「うん?」

 何をいまさら? みたいな目で、北条はマコを見た。

 きょとんとしているようで、笑った目だ。

(珠ちゃんは悪くない)

 マコは、心の中で念じるように叫んだ。

 つい、珠のことを話そうかと迷ってしまったが、マコの心は頑なだった。


〔亡くなった姉があたしに憑依するんです。あたしは嬉しくて、だから、病院に来るんです。どうして? 分からない?〕

 嫌われてしまう。幽霊だの、お化けだのと言えば、北条は笑うか、ヘンな目で見るだろう。

 マコはそう思うと、「ヘンな子」と自分を見る北条の目を思い浮かべるだけで、本当にヘンになりそうだった。


「所詮はお医者さんなんですね?」

 北条は、きつく目を絞ってから緩め、それから少し浮かない顔で、マコを見た。うなだれているようにすら見えた。

 傷ついたのかな? マコはそう思ったが、言ってから黙ってしまった。

 北条は何か言いたげで、口をモゴモゴさせて、でもやめた。

 マコも、何か言いかけたが、口を閉じて、それから、挑むような目で北条に、

「あたしは、北条さんには病気の患者でしょ? それだけですよね」

 上半身を揺らして、北条はペンを持った手を左右に振った。

「北条さんは、北条さんです。あたしにとっては」

 北条は、ふっと血色がよくなったように見えた。

「元気そうだね。僕のほうが元気を分けてほしいよ」

 北条は、破顔して笑った。嬉しそうだ。

(珠ちゃんがいなくなったら、もう二度と珠ちゃんと会えなくなるんだ)

 ふと、そう思うと、せっかくの奇跡を、マコは奪われたくなかった。もし、北条に話したら、憑依なんて、絶対やめろとか言うだろうな。

(珠ちゃんのことは、やっぱり内緒じゃないと)

 マコは、顔を上げて北条をじっと見た。

 北条も見つめ返してきた。

(北条さんとあたしでは、やっぱり、医者と患者)

 沈黙が数秒流れた。マコは何か言おうか迷ったが、腕時計を見た。

「もう、こんな時間」

「ああ」

 北条は力なく言った。


「今日の診察は、これくらいでいいですよね」

 北条は、険しく眉根を寄せて、

「本当に、疲れたら言ってね」

 そう言うと、カルテに打ち込んだ。

 マコは、診察室から出ていった。看護師さんが何か言いたげだったが、無視した。

 あたしは、怒っていないし、悲しんでもいない。むしろ悪いのはあたしなんだ。

 それなのに、北条は……。

 後ろを振り返ろうかとためらいつつ、今なら許される。そう思ったが、マコは振り返らなかった。

 北条が、もしマコを見ていたとしたら、きっとマコは悲しくて、けれども、嬉しくて、泣いたかもしれなかった。

 そんな北条が、本当にいまは遠いのだった。


 会計を待っている間、マコは、珠のことを隠し通せたことに、ほっとしていた。気づいたら、体が重くて、座っているだけで、だるさがひどいのだった。

 北条の前では、気持ちで持ちこたえていた分、今のぶり返しがひどい。

 珠を守っているのか? 自分を守っているのか? マコは分からなくなった。


 電車に揺られながら、窓の外を見た。時折、車窓から、ネオンに似た蛍光色の明かりが見えた。北条の横顔を思い起こすのと同時に、珠と話したい、と心から願った。


 家の玄関を開けると、明るい光が、目の前からマコを包んだ。

(疲れた)

 体をどさりと下ろした気がした。


「最近、飲まないんだね」

「あら」と母は笑い、玄関口で、

「何言ってるの? しばらくは飲まないわ」

「しばらく、なの?」


 二階に上がったマコは、ドアを閉めると、机に向かい、椅子に座った。

 鞄は机脇に置いた。ひとまず、マコは広げたノートを見つめた。

 赤ペンには触れずに、マコは、

「珠ちゃん?」

 冷気が部屋に降りて広がった。カーテンがはためいた。霧が立ち込め、一つの点にまとまると人型になった。

 珠が姿を現した。

 赤ペンが、ひとりでに動いた。

『なあに?』

 腰から下が、重くてだるい。けれども、マコには、珠の返事が救いの言葉のように感じられた。


(あたしも、特進コースへ行きたいんだ)

『勉強にやる気出たもんね』

 右手をぎゅっと握り、赤ペンを強く持って、

(そうだよ、やる気だよ。なんとなくだけど、目標できたかな)

『なあに? 目標?』

 それは分かっているくせに。マコは口を幾分膨らませ、

(宇宙飛行士でしょ? 違った?)

『それはそうだけど。「そのくらい頑張りなさい」の意味だよ』

 マコは、やっぱり楽しいと、口元が緩むのを感じた。

(分かってるよ。うん。でも、目標ができると、頑張れるんだって、そう思うんだ)

 透けて見える珠が、ぼんやり笑って見えた。ピンクのパーカーに、草色のフレアスカートだ。服装はずっと変わらないままだった。

 いなくなったら怖い。そう思うから、

(いつものやつ、やってみない? お菓子を用意するよ)

 珠が首を横に振った。そんな様子を見せるのは初めてだ。

(どうして?)

 赤ペンでは間に合わなくて、

「どうして?」

 マコは、そう繰り返した。

 珠は悲しそうな目で、マコを見ていた。


 マコは、赤ペンの文字に違和感を覚えた。珠の文字が明らかにか細いのだった。

 そのことを、マコは気にしないふりをした。

(珠ちゃんにも理由があって、なんとなくだけど、疲れているみたいな)

 マコは、そう思うことにした。赤ペンでは、そのことを書かずにいた。

「本当? おいしいもの食べたくない? デザート用意したよ」

 マコが言うと、珠は首を横に振った。


 赤ペンが動かない。マコが何か言っても、珠は表情や身振りで返すだけで、言葉としてのやり取りができずにいた。

 コトコト、ひとりでに赤ペンが動いた。しっかりした字で、

『憑依は少し休もう』

「え? 本気?」

 うん。珠は頷いた。

『なんか、不安なの』

「不安って? なあに」

 なぜだろう? どうしてだろう? マコには分からなかった。せっかくデザートにメロンを買って冷やしてあるのに。

 マコは不満で、上半身を背もたれに預けた。

『不安なの。少しだけ、感覚的なほうのね』

「え!」

 マコはドキッとした。繰り返された不安の言葉。それは、冗談ではないらしい。


「約束したでしょ」

 マコがそう言うと、珠は、全身に電気が走ったように、飛びのくほど驚いた。

 マコはその様子に、疑いが本当のことのように思えてきた。

「いなくなるの?」

 珠は何も答えない。

 じっとこちらを見つめてくる。

「まただ。またあたしを置いていくんだ」

 わざと不貞腐れてみせたくて、顔をしかめてそう言うと、マコは珠の様子を見た。

 マコの頭に、珠との楽しかった時間がありありと浮かび、今は苦しいとすら思った。

 珠も、顔をしかめたようにしていた。何か考えているようだ。右手を頬に当てていた。


 赤ペンが、コトコト音を立てた。勢いがいつもと違う。

 書かれたのは、太い字だった。はっきり読める。

『マコちゃんが、心配なの』

 そう書かれた。その文字は、悲しみでもあり、「どうして分からないの!」という叱責にも似ていた。

「分からない。なんともないよ」

 マコは、立ち上がり、両腕を広げた。

「ね? なんともない」

『マコちゃん! 本気で言っているの!』

 赤ペンが折れるんじゃないかと思えるような濃い文字を読むと、マコは椅子に座り込み、珠をじっと見た。

『一緒にいたいのは、あたしも同じだよ。でも、このままだと、マコちゃんが壊れちゃう』

 珠の目は、怒っているふうで、それでいて、目の奥は、悲しんでいるようでもあった。


『ずっと一緒――』

 赤ペンが途中まで書いて倒れた。力なく薄い文字だ。

 何が? マコは思った。

「いなくなるんでしょ!」

 それなのに、ずっと一緒?

(珠ちゃんの言ってること分からないよ)

 マコは、脱力感で気が抜けたみたいに、珠をぼんやり見た。

 しばらく時間が過ぎた。また、赤ペンがゆっくり動き始めた。

『見ているからね。でも、マコちゃんは一人じゃないよ』

「どういう意味?」

 認めたくないから。霧がかかっているのは、嘘だと思いたいから。マコは分かっているのに、珠に当たった。


「もういいよ。明かり消すね」

 マコは、もう今日は珠とは話せない。そう思って、ベッドに潜り込んだ。

 なぜか、胸騒ぎがして、もやもやした気分が抜けなくて、何か言うべきだったと気づいたが、どうしても口にはできなかった。

 翌日の深夜。

 昨夜、迷ったこと。言えなかった。

(ごめんなさい)

 そう言いたくて、

「ねえ珠ちゃん?」

 ……? いつもなら、まず赤ペンくらいは動くのに、動かないし、部屋に冷気が立ち込めることもない。

 風もなく、カーテンが揺れる気配は微塵もない。

 いくら待っても、部屋はしんとしていた。台所のコトコトという音が聞こえるくらいだ。

「珠ちゃん?」


   第八章


   最後のお願い

 〔高二の夏〕


 ノートに、(ごめんなさい)

 そう書き込んでから、二、三日が過ぎた。

 夜になった。机の前に座り、開いたノートを横目にして、珠のことをマコは考えた。

 この問い、珠ならどう解くだろう?

 勉強に身が入らない時、決まってマコは、あの時、謝っておけば良かったと思った。また、珠と言葉を交わしたかった。

 相も変わらず体は重いままだった。マコは、珠のせいではなかった気がした。

 それなら、どうして?

 スタンドの下の赤ペンを、マコは見つめた。

 使い古した分、細かな傷が斜めに照り返していた。


 勉強に戻ったマコは、数学の問題集を広げて格闘していた。

 参考書の助けを借りつつ、自力で解く。

 その時だ。赤ペンがくるりと回転し、小さくコトンと音を立てた。

 コトンと、かすかに聞こえる程度の音を立てて、赤ペンは字をゆっくり書いた。

 その一文字は、細くて薄い文字だった。

 珠が、戻ってきた。たぶんそこにいるんだ。マコは、部屋の中を見回して、

「珠ちゃん? いるの」

 赤ペンが、小さく動いた。


『許してあげようかな?』

 薄い字だが、確かにそう読めた。

『宿題しているの?』

(宿題は終わったよ。今は苦手克服をしているよ)

 マコが書き込むと、ずいぶん時間をかけて、

『そう。頑張ってるね』

 赤ペンは、文字を書くのに時間がかかるだけでなく、途中で止まってしまうこともあった。

 マコは、ノートに書かれている文字を見つめた。

(うん)

『勉強も、部活も頑張るだけじゃダメ』

(うん。分かる。どうしたらいい?)

 マコは字を読んで深く考えた。答えが出なかった。

『考えるの』

(考えても分からないよ)

 マコは首を傾げた。


 次の日、マコはグラウンドに行った。

 ユニフォーム姿ではなく、ジャージ姿だった。部員はみな、ひそひそ話したり、振り返ったりした。マコは気にせず、黙然とボールの片付けやグラウンドの整備をした。

 体は重く、音を上げそうになったが、マコの気分そのものは軽かった。


 沢田が、キャプテンとして、奥野監督の代わりに練習を仕切っていた。

 奥野のいない間、沢田はマコに、「楽にしていていいよ」と言っていた。

 疲れたマコが、ボールの入った箱を引きずっていた。

「どうした、今村。あたしが代わるよ」

 沢田が言ってきた。

「ありがとう」

 沢田がボールを運び終えると、

「無理なんかするな」

「はい」

 マコは、しばらく手を休めた。

(あたし、邪魔しているのかな?)

 周りを見回し、体の気だるさを感じていた。

 沢田が、盛んに声を出してノックをしていた。控えの投手が何人か、グラウンド脇で麻衣と投球練習をしているのが見えた。

 だが、マウンドには誰もいなかった。


「奥野先生!」

 沢田が言うと、部員全員が、奥野監督に注目した。

 監督が突然姿を見せたので、沢田が身を小さくしているように見えた。

 グラウンドを一周してから、監督が、マコのジャージ姿を見て、

「今度は、マネージャーか?」

 そう言って頬を緩める監督の前歯が、少し見えた。

「違います」

 マコはそう言うと、もう何も言えなかった。

「今は休養だぞ」

 マコは俯いてしまった。頷いたのではない。そう見せたくなくて顔を上げると、監督は笑顔ではなく、眉間に皺を寄せていた。

「分かったな」

 語気は穏やかだが、はっきりしていた。

「はい……」

 秋華が近寄ってきた。

「頼りない先輩かもしれないけど、これでも控えピッチャーやって三年目なんだから」

 そう言って、マコの背中を優しく叩いた。

「うん」とマコはうなだれて答えた。

 沢田と秋華にとって、もうじきあるソフトボール大会が、高校最後の大会になるのだった。


 マコは、ロッカーで着替えると、部活からの帰り際、もう一度グラウンドに行った。練習中の部員を見て、ネット裏から麻衣の近くに寄った。秋華とマコの目が合った。秋華の小さい歯が見えた。それを見て麻衣がボールを受け取ると、マコのほうを見た。

 目と目を合わせただけだった。互いに何も言えないでいた。

 踵を返して、マコは自宅に帰った。

 二階の自室に入ると、ベッドに倒れ込んだ。

 マコは眠ろうとしたが、目が冴えているのか眠気は来ない。それなのに、体がだるく感じられるのだった。

 ひとまず、お風呂に入ってからだ。マコは壁掛けの時計を見上げた。


 深夜になった。

 勉強があらかた進み、マコは両手を首の後ろで組み、それを外してから、コップの冷えたお茶を飲んだ。

 赤ペンをじっと見つめ、手に取ると、

(大会がもうすぐあるんだ。それが終わると、期末試験だよ)

 書き込んで赤ペンを置いた。少しだけ間が空いて、赤ペンは動いた。

『それは、頑張らないと。で、大会いつなの?』

 マコはカレンダーを見た。日数を数えた。

(あと八日。土曜日だよ)

 そうか……あと八日か。マコは深くため息を吐いた。

『――』

 赤ペンは、何か書こうとして、止まってしまった。

 様子を見ても、何も変化はない。

「疲れたのかな?」

 マコはそうつぶやくと、自身もあくびをして、部屋の明かりを消した。


 翌日の夜になった。

 机の上に、ノートが開かれたままだった。

 珠が何か書こうとして、点々と線が続いているだけだった。

 冷気が部屋に満ちて、カーテンが揺れた。水蒸気が人型になって、ぼんやりと珠が現れた。


 珠は前より薄く、ぼやけて見えた。

 マコは、眉間に皺を寄せたが、やがて緩めてあくびをした。

 珠はじっと、そんなマコを見ていた。赤ペンは少し動いた。しかし、止まった。

(ねえ、どうする?)

 赤ペンが、再び動いた。


「さいご?」と、珠は書こうとしているのかな。マコは、赤ペンを見ながらそう思った。

 ノートから目を背けた。何を言いたいんだろう。そう考えただけで、目の前が暗くなる。

「もう、これくらいにして終わりましょう」の意味だろうか?

 マコの頭の中は、絡まった糸みたいだ。

 息を一つ吐いてみた。

 マコは、ノートに再び目を向けた。反射的にノートを閉じようとした。

――見たくないし、読みたくない!

 赤ペンが、続きを書いていった。

『最後のお願い――』


 珠の書いた続きを、マコは読んだ。

『ソフトボールの大会に出たいの』

 え? 「誰が?」とは思わなかった。珠が大会に出たいんだと、マコは思った。

 でも、マコは冗談と受け流したくて、

(見学ということかな?)

 珠が、首を横に振る。

(どういうこと?)

 珠はじっとマコを見つめてきた。分かっているくせに、と言いたげだ。

――まさか! 憑依したまま、大会に出るということだろうか?

 マコの背筋がビクンと跳ねた。

 ノートに目をやってから、突き放すように顔を背けると、

「分からないよ」

 マコは珠に聞こえるように、そうつぶやいた。


 マコは、何か言おうと、肩の力を抜いて、それから、赤ペンを手に取った。

(この前は、もう憑依はやめようって言ってたよね?)

 ぼんやりと映る珠が、ありありとうろたえているのが見えた。

 赤ペンが動いた。

『一度だけ。本当だから』

『マコちゃんと、一度だけ、同じ試合に出てみたいの』

 珠は、マコを見つめ、手を祈るように組んでいた。目が今にも泣きそうに潤んでいるように見えた。赤ペンは止まったままだ。

 そうだ。珠は、どうして現れたのだろう? それが分からずにいた。

 あたしのためだ。珠は心配して現れたんだ。マコは純粋にそう思っていた。

 在りし日のことだ――。

 マウンドで麻衣めがけて投げた時、ネット裏では珠が様子を見ていたこと。その時、「マコ、すごいね」と言ってくれた。「あの球なら、誰も打てないよ」と、珠は言ってくれた。

 珠も、投げたかったんだ。

 マコは、目が覚めたと言わんばかりに、大きく頷いた。



 珠の目は大きく見開かれていた。何か考えていて興味ありげだ。

『見届けてあげるよ』

(なにを?)


(でもね)

 赤ペンを手に取り、

(監督は「今は休養」って言うの。大会に出してもらえるか、分からないわ)

 マコは、大きく息を吸った。

 珠の様子を見た。赤ペンから手を離しても、赤ペンはぴくりとも動かなかった。

「できない」

 珠は、マコを見つめたままだった。

『無理なら、無理しなくてもいい』


――え? あれ?

『憑依は少し休もう。このままだと、マコちゃんが壊れちゃう』

 そう言ってくれていたことを、マコは思い出していた。

 マコは、俯いてしまった。膝頭に手のひらを乗せた。


 もしかしたら?

 マコは、珠の言葉を思い出した。

――一度だけ、本当に。

――見届けてあげるよ。

 どうにも引っかかっていたマコは、珠の言葉の裏を考えた。

 マコはそう思うと、珠の最後の願いは、叶えたくなかった。

 珠の棺の中の顔を思い出した。


 マコの視線がうろうろと机の上をさまよった。遺言ノートが目に入ったからだ。

 マコの目に、表紙だけがとまった。

 自由に生きて。

 今村珠。

 マコは、珠の残した言葉に応えたくなった。


 マコは頭の中でぼんやりと、自分がマウンドに立ち麻衣に投げ込んでいる姿を想像してみた。もちろん大会でだ。

 麻衣の笑顔と、すぐ傍には珠がいる。

 そんな光景を思うと、あたし、出たい!

 誰もいないマウンドに立つんだ。

――あたし、本気で、珠ちゃんとやりたい。

「一緒に出よう」

 マコは立ち上がった。体の鈍重さを感じた。

 珠は、目を見開いて驚いているみたいだ。

『いいの?』

 赤ペンの文字は太かった。

「もちろんだよ」

 マコは深く頷いた。珠の願いを叶えたかった。


(土曜日の試合だよ? 分かるよね)

 珠は緊張した面持ちで頷いた。

『分かってるって。その試合でいいな』

 マコは、珠と同じで、緊張し始めて、

(でもね。試合に出られるかは、やっぱり分からないよ)

 珠はマコを見つめたまま黙り込んだ。

 マコも赤ペンをノートに置いて、手を休めた。さっき立ち上がった後、すぐに椅子に座ったが、体の疲れに似た重みはいつも通りだった。

『分かった』

 珠の答えに、マコは頷いた。珠の文字が、消えるように細かった。もし、試合に出場できなかったら、珠の願いは叶わないのだ。そうなったら……それでも? 試合に出たら?

――試合が終わったら、珠ちゃんはどうなるんだろう?

 マコは、珠に聞きたくても聞けなかった。

――試合には出られないかもしれない。

 〈無理なら、無理しなくてもいい〉という珠の言葉をマコは思い出した。

 机の上には、真珠のキーホルダーが二つ並んでいた。

 明かりを消そうと立ち上がった時、体の重さが身に染みた。この体で投げることになるのだ。マコは、奥歯を少し強く噛んでみた。


 数日後。大会まで、あと三日と迫った水曜日。

 マコは、午前中の授業を受けたのち、病院へ来た。

 診察を受けたが、大山医師は、

「異常は特に見つからないな」

 それだけだった。マコは、その言葉をもう当たり前にすら感じていた。

 北条による詳しい問診へと続いた。

 少しだけ、マコには、北条への後ろめたさがあった。「所詮はお医者さんなんですね?」と言ったこと。前の診察の出来事を思い出していた。すぐには、北条と顔を合わせられなかった。けれども、心より体が、顔を真正面にして北条を見つめた。


 北条は、マコの様子をじっと見ていた。眉間をちょっときつめに絞ったようにも見えた。

「少しつらそうだね?」

「う、うん」

 マコが返事をすると、

「歩くのが、だよ?」

 マコが、イラッとした目で北条を見ると、緩んだ優しい目で、北条はマコを見つめてきた。

 いら立ちが、急に薄れた。なんて言おう、どうしたらいい? 何もかも、全部打ち明けられたらいいのに。

 マコの心は大きく揺れた。

 体調のことを、いくつか北条に聞かれた。それらに答えてから、

「あたし、ソフトボールの大会に出たいと思っています」

 北条は、マコを見つめて、ふと思案げな顔をして、目と目の間を指で擦った。

 沈黙があった。北条は短く言った。

「無理は禁物だよ」

 そう話すと、マコは、

「監督からは、休養するように言われているんです」

「だとしたら、僕の口から言えるのは、出たいか、出たくないかを決めるのはマコさんご自身だ、ということです。でも、本音としては監督さんと同じく、僕はマコさんの体が心配だな」

 深く頷いて、北条はマコを見つめた。右手にボールペンを握り、左手が所在なげだ。マコはそれを聞いて、

「……」

 すぐには、答えられなかった。北条が、

「大会の後、期末試験だね」

 そう言うと、にっこり微笑んできた。


 頬が緩んだままの北条が、

「今は、聞かないでいるよ。心配で、もやもやするけどね」

 そこで言葉を区切り、黙ってマコを見つめてきた。

 北条は、何か言いかけて、口を半開きにしてやめた。

 マコは黙り込んだ。

 北条は、ためらいがちに、

「今村珠さん。僕は覚えているよ」

「どうして、姉の名前を?」

 マコの全身が固まった。

 北条の笑顔も、マコの様子を見て、少し冷めていくようだった。


 北条は、遠くを見るように目を細めると、表情を硬くした。頬が緊張したように思えた。それから、顔を明るくして、

「大会に出るのなら、見に行きたいな」

 照れたように、言いにくそうに、

「いや、医者の本分を超えたかな?」

 北条が言うので、しばらく、マコはどう答えればいいか分からなかったが、

「来てください。少しでも見てくれたら、あたし嬉しいです」

 答えてから、やはり、はにかんでしまうマコだった。


 診察が終わった。

 そうだ。奥野監督に直訴してみよう。ダメならダメで、それでいい。

「出たい」

 そう言うだけだ。

 奥野監督に、明日……学校で。


   第九章


   真珠の光

 〔高二の夏〕


 翌日の木曜日。

 授業中、どうにかして大会に出たいマコは、奥野監督にどう言えばいいかを考えていた。

 ただ「出たいです」でいいんだろうか?

 放課後になって、マコは、ジャージに着替えた。


 秋華の投げる球を見た。ミットがビシッと音を立てた。リズムよく投球練習が繰り返されていた。

 挨拶する声が聞こえた。マコも奥野監督に挨拶した。

「監督、あたし、試合に出たいです」


 その言葉を聞いた奥野は、じっとマコを見つめた。顎に手を当て、思案げな様子だった。マコは、そんな奥野を見て、不安で焦れた。

「監督」

 マコがそう言うと、奥野は、

「病院では、何か言われなかったのか」

「特に異常はないようです」

「そうか」

 奥野は視線を下げ、マコの足元をじっと見ると、それから、視線を上へと向けた。

「歩き方を、さっきから見ているんだが、疲れているようにも見えるな」

 マコは、ドキリとした。奥野はそんなところまで見てたんだ。


「ご家族はどう言っている」

 俯いてしまったマコは、どう答えようか、言葉に詰まってしまった。お母さんには何も話していない。そう気づいていた。

 沢田が少し離れて、マコを見ていた。

「身内の方で誰かいないのか」

「母に聞いてみます」

 奥野はゆっくり頷くと、

「まず、お母さんに相談してから、もう一度来い。それからだ」

 そう告げると、ぷいと奥野は行ってしまった。沢田のほうを見ると、マコと目が合ったのに、素知らぬふりをしていた。


 部活から家に帰ると、時刻は七時を過ぎていた。マコは、着替え終わって台所に行った。

「お母さん、大会に出たいんだ」

「え?」

 母は振り返ると、そう言った。

「マコちゃん? 本当に体は大丈夫なの」

 明らかに、母は眉根を寄せた。それは、マコを思う母の恐れに見えた。

「うん」

「嘘でしょ。歩き方。気づいてないの」

「まあ。それは、疲れが出ただけだよ」

 母が、深くため息を吐くと、頬を手のひらで押さえながら、呻くように、

「マコちゃん、大会に出たいのね」

「そうだよ」

 マコは終始、平然と、なんともないふうを装っていた。


「ダメかな」

「いいかどうかじゃないでしょ。マコちゃんのことを思っているの」

 台所で母と対峙していたマコが席に着くと、母も席に着いた。

「先輩には最後の大会になるんだ」

 マコが言った。

 珠も最後っていうしね、とぽつりマコは思うと、

「あたしには、来年があっても、先輩には来年はないんだよ」

「マコちゃん、頑張ってたしね」

 母が嘆息した。思案げな顔をすると、

「どうしたらいい」

 そう聞いてくるから、マコは、

「大会に出る許可だけ欲しいの。実際に出すかどうかは監督が決めるんだから」

 視線をさまよわせたが、母は、マコをぎゅっと見つめると、

「監督さんに任せるとして、絶対無理しちゃダメ。途中退場とかも考えること」

 念を押して、マコに言った。


 大会を明日に控えた金曜日。グラウンドに行くと、部員たちは軽い調整をしていた。マコは、ジャージ姿で、所在なげに様子を見ていた。

 奥野が現れたので、早速母の了承を伝えた。

 意外そうな顔をした奥野は、遠くを見る目をしてから、

「先発でなく、ベンチ入り」

「そうですか」

 マコは、とりあえず大会に参加できると喜んだが、珠との約束が果たせるとは限らない。そう思った。

「大会当日の、今村の様子を見て、起用を決める」

「それなら、出られるかも」

「使わないとは言ってない。出してもすぐ交代もあり得る」

 奥野の冷めた言葉に、マコは半ば喜び、半ば落胆した。


「ただ、体調が悪い時に、隠したりしたら」

 マコがきょとんとした目で、奥野を見るから、

「隠すなよ」

 奥野は短くそう言った。

「分かりました」

 マコは頭を下げ、頷いた。

 奥野のもとから離れたマコは、麻衣のところに向かった。秋華と投球練習をしていた。今日はさすがに、秋華がマウンドで最終調整として投げ込んでいた。

 マウンドから離れ、秋華がマコに近づくものだから、麻衣も立ち上がって、ミットを軽く叩いた。秋華が、マコの背中をポンと叩いて、

「マコ、待ってたよ」

 軽口を言ってきた。


 その日の夜。マコは、大会用のユニフォームを用意した。グラブはきれいにしてあったから、手を入れてぎゅっと絞ると、大会が待ち遠しくなった。

 ユニフォームにも、袖を通してみた。体に沿うようにすると、グラブを片手に、

「試合に出たいな」

 つぶやくと、マコは、机の上に視線を向けた。真珠のキーホルダーが二つ並んでいる。

 じっと眺めていたが、キーホルダーを一つに合体させてみた。そのままキーホルダーを、マコは鞄に入れた。

「珠ちゃん」

 赤ペンが、コトとだけ音を立てた。

 もう一度、呼んでみても、またコトと音を立てて、それだけだ。

 珠は姿を現さない。

 どうしたんだろう。そう思うのと同時に、赤ペンの文字が、判読できないほど弱々しいのに気づいた。


 マコは赤ペンを手に取り、何か書こうとして、やめた。

 試合の後は?

 何か言わなきゃ、書かなきゃ。そう思うのに、言葉にできない。

 黙り込んだマコの頭に、謝らないと、そう浮かんだ。

 けれども、言葉にできず、部屋の明かりを消すと、そのまま、マコはベッドに入った。しばらくは、頭の中が試合とそのあとのことでいっぱいだった。


 目覚ましが鳴った。朝だ。マコは、ベッドから上半身を起こすと、時計の音を止めた。


 部屋に戻って、確認作業をしていたマコは、鞄の中に、タオルや飲み物を詰め込むと、キーホルダーを入れたところのファスナーを開こうか一瞬迷った。

 珠ちゃん。いる?

 聞きたい気持ちに揺れた。


 試合だけにマコは集中していた。


 バスから降りて、大会のグラウンドに着くと、他校の生徒でぎっしりだ。いろんなユニフォームが辺り一面に散っていた。

 金属バットの擦れる音や、誰かの投球練習らしき音が漏れ聞こえてくる。

 ベンチ前の、割り当てられた場所に落ち着くと、沢田が全体を見渡していた。

 秋華の背番号を見る。十番だ。マコは自分が一番だと思うと、にわかに秋華から顔を背けた。

 麻衣を座らせ、秋華が投球練習を始めた。ウォームアップは済んでいるようだ。

 開会式はなかった。試合優先のためだ。その試合まで間がないことにマコは気づいた。

 チームがベンチに移動を始めた。三塁側だ。マコは遅れないように歩いた。


 マコは、チームの荷物を運ぼうと手に取った。すると沢田が、マコから荷物を受け取った。唖然とするマコに、何も言わない沢田だった。

 麻衣のほうを見ると、秋華の投球練習につきっきりだ。

 先発は秋華だということか。マコは、麻衣が傍にいないのを寂しく感じた。


 ベンチでは、控えということで、奥のほうに座った。秋華と麻衣が練習を終えて汗を拭きつつ、スポドリをおいしそうに飲んでいた。マコは、ベンチ裏に足を運んだ。

 三塁側から、外野近くまで見回したが、北条の姿は見当たらなかった。

 ベンチに戻ろうとすると、監督に見つかった。にっこり笑って近づいてきたので、意表を突かれた感じのマコは、お辞儀で返した。

 ベンチに座ると、北条さん来てくれるかな、とマコは内心ドキドキしていた。


 先発の秋華が、マウンドに向かった。

 秋華の最後の大会なんだ。

 けれど、マウンドに立ちたい。それは誰にも譲れない。

 秋華がボールを投げた。相手チームのバッターは初球を見逃す。マコは、ベンチから固唾を飲んで見守っていた。


 秋華を眺めた。バッターが打ち、守備が光って一つアウトを取った。

 ひやりとしたシーンはまだない。

「マコ、待ってたよ」

 その秋華の言葉を思い返していた。

 待たなくてもいい。先輩は先輩だから。ずっと見てたんだから。マコは思った。

 スリーアウトで、表の回が終わった。

 マウンドで安堵した顔の秋華が爽やかだ。背中が自信ありげだった。


 回は進んだ。五回の裏で一対一の同点だ。裏の攻撃で一点を返したその回が終わって、六回になった。秋華がマウンドに向かう。三回に一点を失っても、まだまだ球威は落ちていない。コントロールも悪くない。マコはこのまま呼ばれないかも。そう思うと、秋華が打たれるのを願っているのに気づいた。

――早く代わってほしい。

 その気持ちだった。

 卑怯だ。そう、自らを罵った。

 秋華の背中の番号は誇らしげではなかった。背番号はエースの数字ではなかった。

 マコは、人一倍叫んでいた。

「秋華先輩、頑張って!」

 ベンチの選手がみんな驚いた顔をした。


 監督に呼ばれた。

「肩を作っておけ」

 控えの捕手と投球練習を始めた。

「投げるからね」

 そう言葉をかけてから、マコは投げ始めた。

 一球目。

 二球目。

 三球目。

 数球投げてみて、息が上がった。

 帽子を取って、ボールの握りを確かめ、時間を作った。

 汗が額からこぼれ落ちた。

 捕手はどんどん投げてこいと、ジェスチャーしていた。


 カーン、金属バットの快音が響いた。秋華のほうを見ると、バッターランナーが二塁に向かっていた。返球が麻衣に届いて、三塁で走者はストップした。

「三塁ランナーは?」

 マコは叫んでいた。

 投球練習はもう、やめにしたかった。そんなマコの様子に、捕手が近づいてきて、

「三塁ランナーは四球で出た。秋華先輩がバテ始めている」

 捕手はベンチに戻った。マコもベンチの席に着いた。

 秋華が、マコのほうをちらりと見た。それからボールを投げると、球はストライクゾーンから大きく外れていた。

 次の球はボール球だが、高めに浮いていて、バッターが手を出せば、長打になりかねない球だった。

 奥野のほうを見た。奥野もマコを見た。

 秋華が、最後の球を投げた。判定はボール。


 奥野が、グラウンド、それから秋華を見つめ、再びマコを見た。

 首を一度強く振り、部員を見回して意を決したようだ。

「できるか」

「はい」

 マコは力強く頷いた。

 奥野が頷き、グラウンドに向かって歩いていった。

 審判にタイムを告げていた。

 マコは、鞄のファスナーを開けて、真珠のキーホルダーを少しだけ握ってみた。それから、ズボンのポケットにキーホルダーを滑り込ませたのだった。

 ベンチから立ち上がろうとした。ようやくの出番だ。マコは手すりみたいにベンチの背もたれにもたれた。それを、沢田が遠くから見ていた。目線が合うと、沢田は顔を伏せた。

「無理ならすぐ交代だぞ」

 マウンドに向かうマコに、ベンチに戻る奥野が言った。もう控えには、一年生しかいないはずだ。

 ゆっくり歩いた。

 一歩。

 また、一歩。

 麻衣が立ち上がってマコを見ていた。鋭い目だった。

 ボールを持ったまま、秋華は待っていた。


 マコは、マウンドに着いた。早く投げたいという願いが現実になった後ろめたさで、秋華に顔をまともに向けられなかった。

 二つの四球とツーベースヒットで、六回の表ツーアウト満塁。一対一の同点のままだ。

 秋華からボールを手渡された。ボールから指が離れる瞬間、名残惜しそうに、秋華が目を細め、執念みたいにボールを眺めているのに気づいた。

 マウンドから降りて、ベンチに向かう秋華を見送ると、マコは、ロジンバッグを摘まんで、よおし、と気合を込め、ランナーを見た。全ての塁を埋めているのが、急に怖くなった。

 麻衣が立ち上がって、マウンドに歩み寄ってきた。

 キャッチャーマスク越しに、

「やれる?」

「うん」

 麻衣は、肩をこつんと叩いてきた。

 それ以上何も聞かないのが麻衣らしいな。マコは、そう思いながら、息を吸って吐いて、汗を拭いた。麻衣はマコの様子をずっと見ていた。息がもう上がっているとか、そう気づいてるだろうな。

 ホームへ麻衣は戻っていった。


 ミットを麻衣は構えた。両手を広げ、どんと来いとジェスチャーしてきた。

 マコは、黙ってボールを見つめた。縫い目みたいなデコボコを数えてみたりして、ボールを手のひらで回転させた。

 審判のほうを見て、グラブにボールを挟むと、ズボンのポケットの真珠のキーホルダーを、布越しに右手でそっと撫でつけた。

(珠ちゃん!)

 心の中で叫んだ。空を見上げた。

 しばらく、待った。けれど、何も起こらない。

 もう一度、珠ちゃんと言おうとして、

(いないのかな)

 右往左往していたのに気づいて、マコは、麻衣のほうに顔の向きを変えた。


 ボールを握った。ぴくん。指先が勝手に動いたかのように見えた。マコの意識とは別の、もう一つの体が同居している感覚。

 手首の返し、呼吸の間隔、麻衣への視線。

 ボールを握った。プレートに足を置いた。呼吸が苦しくなった。足を上げようと前に踏み出した。重く感じた。


 珠ちゃんがいる。別の感覚だ。

――来てくれたんだ!

 マコの顔に笑みがこぼれた。

 踏み出そうとする前に、足は前へ動いた。右腕を上げると回旋して、投げ込む動作に移る。

 一つ一つが、マコの描く動きより一瞬早いのだった。

(あたしじゃない)

 マコは、自分が投げている感覚が乏しいと感じた。

 珠が、また投球動作に入った。


 審判が試合再開を合図した。

 投げた。打者は見送った。ストライク!

 一連の動作は後付けみたいだ。マコが後に動いている感覚だ。

 投げる。どんな球? 変化球で引っかけさせる。麻衣のリードとサインは、マコと珠とで同じだ。

 うん、と頷く。その前に頷いた。

 投げるのと同時に、バットから打球が出た。

 セカンドが捕って、ファーストへ投げた。

――アウト!

 審判の声に、体を跳ねさせたくなった。

(やったあ)

 マコは思うのに、体はベンチにすぐ戻ろうとした。

(珠ちゃん?)

 もっと喜びなよ、とか、そう思うのに、周りを見ると、マコは、他の選手よりも歩くのが遅いのだった。

 呼吸も荒くなって、汗が額から雫になって落ちていた。

 ベンチに座ると、背もたれに寄りかかった。

(疲れているんだ? あたし?)

 自分なのに自分でない感覚は、どこか絵空事に見えていた。

 味方は、三者凡退だった。四番からだったのに!

 マコはマウンドへ向かおうとした。

 足が先に出る感じ。さっきよりマウンドが遠く感じられた。

 歩くバランスが悪いんだ。頭で感じた。よろけているのかな?

 どこか遠くで思った。

(やれる? 珠ちゃん?)

 返事は、何も返ってこない。


 マウンドにマコは立っていた。回は七回表、最終回だ。スコアボードを眺めて、汗を拭う。マコが思う前に右腕が動いていた。

 プレートに軸足をかける。右腕を上げるまでの動作がさっきまでより遅く感じられる。

 ぼんやり、立ったままマコは様子を窺った。少しだけ待ってみた。

 マコは動いた。さっきより一拍遅れた感じ。それでいて珠が先に動いていた。

 心は晴れていた。また空を見ようとした。しかし、目線は麻衣に向けられた。


 キーンと音がした。ライト方向に打球がいった。ポテンと落ちたボールを、ライトが処理した。

 一塁にはもう投げられなかった。

 ライトが走者をちらりと見て、返球してきた。麻衣が立ち上がって、ボールを受け取ると、内野を鼓舞していた。

 一塁のランナーを走らせない。

 マコは一塁を見て、麻衣も見た。

 肩が少し落ちていた。姿勢を直した。ホームの麻衣のほうを見た。

 ランナーを見た。

 バッターへ、投げた。

 カーンと音がして、ショートがライナーを捕球した。

 ワンアウトを取ると、肩で息をしていた。上下に揺れていた。

 投げた。また投げた。

 今度は浅くセンターに飛んだ。

 ツーアウト。

 投げる間隔は延びていった。マコが投球練習で投げていた時と同じくらいだ。

 麻衣も、もう首をひねったりはしなかった。変わった。目つきが険しくなっていたから。

 マスク越しに麻衣はマコを見ていた。

 しんどい? 珠に聞いてみた。

 疲れているのがあたしなんだ? マコには、よく分からないままだ。


 ツーアウト。一塁のランナーを見た。

 投げた。

 ストライク。

 また、投げた。

 ストライク。

 麻衣のサインで、一度外した。判定はボール。

 再度同じところに投げ込んだ。ボールをリリースした。

 バッターがバットを出しかけて止めたが、ボールは麻衣のミットに収まった。際どいところだ。判定はストライク。

 三振!

 やった!


 スリーアウト。チェンジ!

 七回表が終了して、ベンチに戻ろうと、足を前に出そうと意識するのに前に出ない。

 ようやく、一歩が出た。遅れて、もう一歩。

 珠ちゃんがいる。前に行く。

 息遣いのつらさと、足の重みがどさっときた。たぶん? もう長くは続かないな。

 ベンチまでがやけに遠く感じられた。


 音がするくらいの勢いで座った。背もたれにもたれた。

 奥野がマコの傍に行き、じっくり観察していた。

 マコは、平気ですと言いたかった。

 七番バッターが打席に向かう準備をしていた。

「もう、投げなくていい」

 マコが何か言いかけると、奥野は、座ったままでいいと手で制した。

 八番バッターも準備を終えていた。

 マコは、まだ座ったままだ。そうだ、あたし、九番バッターのはずだ。

 七番バッターを見て、そう気づいた。

 奥野の顔を見た。マコをじっと見ていた。


 打席に立った七番バッターが、ベンチに戻ってきた。アウトが一つ増えたんだな。背もたれに沈んでいるマコの脳裏に、そう刻まれた。

 八番バッターが打席に立ったのが見えた。ネクストバッターとして行かなくてはいけない。

 行かなくてもいいのかも?

 マコは、ぼんやり見ていた。すると、八番バッターは、ファウルフライを捕球されて倒れた。

 九番バッターはあたしだ。マコは奥野を見た。

 延長なら、あたし投げないんでしょ?

 それでも、最後に打席に立てるのかな?

 周囲を見回すマコ。スコアボードは、一対一で同点の最終回。七回裏ツーアウトだった。


 マコは、立ち上がろうとした。まず背もたれから上半身を起こした。

 立ち上がった。呼吸が乱れていたが、次第に整った。姿勢もしっかりしてきた。沢田が傍に来た。何も言わないで、手を握ってきた。マコは、目をキョロキョロさせ、首を横に振った。足を一歩前に出した。

 バットを持った。

 急に全身に力が入った気がした。

 そんなマコを奥野が見ていた。視線がさまよっていた。その目がマコの目とぶつかった。おや? 奥野のマコを見る目が変わった感じがした。

 マコと、控え選手とを交互に見ていた。

 まだ、審判に申告する気配はなかった。

 マコは、奥野の前に行き、

「打ちたいです!」

 奥野の迷いに、割り込むように言った。

 言葉には、ただ勢いだけでなくて、願いも込めた。珠ちゃんの最後だもの。

 ただ沈黙があった。奥野は何も言わないでいた。なぜか、不思議なものを感じた。

 マコの呼吸は落ち着いていた。それを、奥野はじっと見ている様子だ。

「バットをしっかり持て!」

 奥野はそう言うと、マコを見た。足元にふらつきがないか見ているのだろう。マコの足元は安定していた。

「肩の力を抜け!」

 奥野は顔を上げて、短く言った。

 それから、しばらく間があって、奥野は深く頷いた。

 部員たちは、託す視線を集中して向けた。

 マコは打席に向かった。


 一番バッターのほうが先にネクストバッターサークルにいた。麻衣だ。

 目と目が合った。穏やかなのに、底では鋭くマコを見ている気がした。

 ベンチを眺めた。それから、スローモーションで周りの景色が見えた。

 マコは思った。別のあたし、そこではあたしも観客な気がする。

(観客?)

 三塁側の内野席に、偶然か、気づいたら北条が見えた。マコのほうを見ていた。


 打席に立ったマコは、立っているだけで足が重い。息が苦しい。なおかつ、バットを持つだけでも腕が重く感じられた。

 マコは、奥歯を噛み、バットを握った。ほぼ同時に珠も握った。

 二人の意識が、一つに重なっていた。

 二人で一本のバットを握った。


 相手ピッチャーが投げた。

 初球はコントロールのいい球だ。

 バットを振ろうとするのに、体がついていかない。振り遅れて、ストライクを取られてしまった。

 意識が先に行くのに、ダメだ。

――珠ちゃん!

 祈りに近いくらい、心の中で叫んだ。


 二球目。バットを振った。ボールは高く上がって、ファウルネットを越えた。

 よし! 当たるぞ!

 ボールがバットに当たった衝撃で、手がバットから離れた。

 マコは、バットを握り直した。

 握力が怪しい。いくら握っても、力が抜けていく気がした。

 ツーストライクに追い込まれた。息が上がる。バットがさらに重くなった気がした。足元がふにゃふにゃする。ぐらりと膝からも力が抜けそうだ。


 振り返り、マコは麻衣のほうを見た。

 目線を戻して、相手投手を見る。

 マコは右の手のひらを広げた。また右手を握りしめた。

 マコの意識のほうが、珠より先に力が入った。

 バットを持つ手が汗で濡れていた。

 もう、あたし疲れているんだ。珠ちゃん? 心の中でマコはつぶやいた。

 指先に力を込めた。遅れて、珠の力が指先に入った。

 相手投手のほうを見た。ボールが投げられた。

 ボールの軌道をイメージした。足を踏み出し、バットを持つ腕を出した。マコは思い切り振った。

 ボールが当たった瞬間、マコは、珠と一体になった気がした。

 よろけるような体勢だったが、ジャストミートしたようだ。手ごたえでそう感じた。

 打球の方向を見ていた。

 センター方向へボールが思った以上に飛んでいく。いけ! よりも、当たったのすら奇跡? みたいな感覚だった。

 外野手がバックしていっても、ボールが遥かに遠いように見えた。

 走らなきゃ! とにかくそう思うのに、一歩目が出ない。

 わーという声がした。

 遠くで歓声がしている。

 どこで?

 一塁は遠い。

 マコの膝が、がくんと崩れた。

 まだ持っていたバットを手放した。

 地面に右手をついた。それでも立とうと、両手で地面を押して体を起こした。

「走らなくてもいい!」

 え? 思わず、声のしたほうを見た。

「歩いていいんだ。マコ! ホームランだ!」

 サークル内から、麻衣がそう叫んだ。


 マコは、走ろうとするのをやめた。歩いた。歩き出した。一歩ずつ。

 足がもつれそうだ。体が重い。ここへ来て、日差しが堪えた。

 マコは足に力を込めた。前に出さないと、そう思った。一塁が近づいていた。

 マコは、自分の呼吸音と足音が妙に響いているのを感じた。


 一塁を回り、二塁に着いた。

 歓声が聞こえてきた。一人一人の声は分からない。

 どこか遠くからの声に思えた。

 チームの仲間の声も混じっていることに気づいた。

 選手がみんなベンチから出ていた。マコを迎えようと待っていた。

 それらが、ぼんやりと目に入った。

 沢田や、秋華や、麻衣の声が入り混じって聞こえた。

 顔は見えないままだった。


 二塁ベースを回り、三塁ベースが近づいた。顔がはっきり見えた。

 奥野、沢田がいた。一年生の間に秋華がいた。

 秋華はマコを頑なな感じで見ていた。

 そっと観客席を見た。立ち上がっている北条の姿が見えた。

 大きな歓声が聞こえてきた。


 ホームベースが見えた。

 麻衣が待っていて、こちらを見ていた。

 マコが麻衣に近づいていった。

 ゆっくり、着実にベースに向かう。

 もうすぐだね。終わるね……。

 一歩、また一歩。それから、ベースを踏んだ。

 わーと音がした。


 ベースの上、そこで足を止めた。歓声に包まれ、チームメンバーがこちらに集まろうとしていた。

 どこか遠いところで声がしているようだ。

 試合に勝ったことより、マコは自分の中にいるはずの珠に意識を向けた。

 いる? 違和感?

 さっきまでと違うな。マコは胸に手を当てた。

 すぐ傍には麻衣がいた。秋華も走り寄ろうとしていた。

(珠ちゃん!)

 心の中でマコは叫んだ。


 空を見ようと意識した。顎を上げた。空が見えた。青い空に、太陽が強く輝いていた。眩しい。

(珠ちゃん?)

 息をする。吐いて吸うのを繰り返した。珠との重なりがもうない。

 息苦しいのは、マコだけだ。

 手首を曲げてみても何の反応もない。指先をピンと伸ばしてみた。遅れて入った珠の分の力はもうなかった。

 ポケットに手を向けた。布越しにキーホルダーに触った。

 少し待った。もう珠との重なりが起こらない。もう一度、今度は……何もない。

 力が入るのはマコの分だけだ。


 グラウンドの土埃とマコ自身の汗に混じって、一瞬、柑橘系のシャンプーの匂いがした。甘い匂いだ。

 マコが周りを見ても、誰も気づいていない。匂いを感じているのは、あたしだけだ。そう思った。

 珠はどこかにいる。匂いがするのだから。

 匂いのもとを探した。見つけた。すぐ傍には、淡い光が灯っていた。

 白でも黄色でもなかった。わずかに虹色を含んだ真珠色。

 柔らかくて優しい色。

 それは、丸い形をしていた。


 口から、言葉を出そうとした。

 けれど、言葉が出ない。

 ごめんなさい、と言いたいのに。

 珠ちゃん。そう言いたいのに、その言葉すら出ない。

 光を前にして、マコは黙り込んでしまった。

「マコちゃん」

 澄んだ声。懐かしい声。

 声?

 マコは、反応が遅れた。

 珠の声だ! そう気づいた。

「珠ちゃん」


 真珠色の光が、空へと昇っていった。

 キラキラ光る丸い光は吸い込まれていくようにも見えた。

 マコは空を見上げた。

 珠ちゃん、行くんだね。

 そう思った。この時ほど、太陽を眩しく感じたことはなかった。その分、空は澄み渡って青かった。目頭に涙が滲んだのは、眩しいからだ。マコは誰にでもなく言い訳していた。


 空の色に混ざり、だんだん真珠色の光は小さくなって、消えていくようだ。

 珠の声はもう聞こえない。柑橘系の匂いももうない。

 ポケットに手を入れた。キーホルダーに触ってみた。

 二つで一つになっている。今もあった。けれど、何の変哲もない。

 何の返事も答えもない。ただのキーホルダーだ。


 遠い音が戻ってきた。珠ばかりを見ていたマコも、周りに目を戻した。チームメンバーが何か叫んで、マコを中心に輪ができていた。

 麻衣や秋華の喜んでいる顔が見えた。

 マコも、周囲と同じく顔が少し綻んだ。けれど、体はもう限界だった。緊張の糸が切れたのか、まず足の力が抜けて、マコは崩れるように倒れていった。

 すかさず、麻衣が支えてくれた。ありがとう。マコは言いたかった。が、言葉にできたかどうか。空が目に入った。周りが暗い。その中に、青く澄んでいたところがあった。そこは真珠色の光が消えたところだ。

 暗い周りの部分に、押しつぶされるようにして、視界がぼやけていく。

 誰だろうか?

 あたしを呼んでいるんだ。

 うん。答えようとしているのに、声が出ないようだ。

 瞼を閉じた。すとんと暗いところに落ちた。


   第十章


   空を見上げて

 〔高二の夏〕


 足音が聞こえた。パタパタという靴音。ワゴンだろうか、どこかでガラガラという音もした。

 カーテンを引いたようだ。シャーという音が聞こえた。

 パサという衣擦れに紛れて、消毒薬の匂いと、辺りの布団の匂いが混ざり合うのを、マコは感じ取った。

 うっすら目を開けた。喉が渇いていた。首を動かそうとするが、それ以上に肩から下が重くて、うまく動かせない。

 白い天井が見えて、消灯しているLED灯が見えた。まだ昼間のようだ。

(珠ちゃん)

 呼ぼうとしたが、声が掠れて言葉にならない。

 試合の後? どうなったんだろう?

 重い肩の下を探るようにして、右手に意識を集中してみた。

 指を曲げてみようと、指先に力を込めた。曲がってから、ほっと安心して、手首も曲げてみた。ピンと伸びた指先。体は動かせるようだ。自分の分は自分だけで、当たり前だ。

 けれども、試合中に感じた、もう一人分の力、珠の力はもう入らないのだった。

 マコは、首を左右に振って様子を窺った。左手で掛け布団を押しのけてみると、服装は試合の時のまま、ユニフォーム姿だった。

 左の手のひらを持ち上げると、土が付いていた。指先を見ると爪の間にも。

 ベースを踏んだ時の感触を思い出した。あの時も、重くてだるく、今も同じままだ。

 そうだ、試合の後、キーホルダーに触って、それからどうなったんだろう? マコはズボンのポケットを探った。ない! 一瞬焦った。視線を枕元のラックの上に向け、二つが一つになったまま、キーホルダーが置いてあるのを見て、ほっとした。母だろうか? ズボンから取り出して置いてくれたようだ。

 しばらく、ぼんやりしながら、マコはキーホルダーを眺めた。

 胸が詰まって、目をぎゅっとつむった。

 おや? 目を開けて、視線を巡らせると、窓とは反対側、点滴に隠れて母が座っていた。

「起きた?」

 母の顔には、泣いた跡みたいなところがあって、そこだけ化粧が崩れていた。

 うんという声が掠れて出ないことに、母は気づいた。水差しを用意してくれて、マコは、水を飲ませてもらった。

 体を起こしたい。そう思ったマコは、上半身を起こそうとしたが、手に力を込めても、体が重いのだった。足にもやはり力が入らない。

「入院の手続きを済ませてくるから」

 ぽつりと、母が言った。席から立ち上がった。

 入院は、しばらくだけかな? マコは言いかけて黙った。

 カーテンを開けて、マコを見て、

「試合勝ったんですって!」

「そっか」

 小さく答えた。

「さっきまでいたのにね、麻衣ちゃん」

 母がさりげなくつぶやいた。

 母がいなくなり、一人だけになった。病室は静かだった。

 カーテンが開かれた。

 わ! 思わず声が出た。

 北条だった。

「驚かせてごめん」

 開口一番、北条は言った。白衣でなくて、普段着らしい私服姿だ。カジュアルで、学生みたいにも見えるけど、それもいいかな。マコはそれとなく観察した。

「今日は当番でなくてね」

 うんうん、マコは頷いた。ただ今は……。

 本当は、嬉しいはずなのにね。

 マコは、一瞬迷ったが、ずっと疑問に思っていたことを口にした。

「どうして、あたしの姉のこと、今村珠のこと知っていたんですか」

 北条は、頷いて丸椅子に腰を下ろすと、実習生のころのことを話した。

 長期入院していた珠を、病棟で見かけて、それで名前を覚えた。そう話してくれた。

「あの長い廊下で今村さん姉妹を見かけたんだ。車椅子を避けた時、珠さんがよろけて、僕は『危ない』って声を上げたんだ」

「覚えています。その時ですね。駆け寄ってくれましたね?」

「僕は駆け寄ったけど、すぐに、マコさんが支えたんだ」

 じゃあ、珠ちゃんはもうその時、とマコは言おうとしたが、

「それ以上は、僕からは言えない」

 それから北条は、循環器を志望していたけど、血液内科も候補に考えていると語った。

「まだ決めてないだけ」

 北条は、そう言うが、悩んでいるようにも見えた。笑っているけどね。そう思うと、つられて、マコの頬も少し緩んだ。

 それだけ言うと、北条は、

「じゃあ」

 と言って病室から出ていった。

 時計を見た。いつの間にか、天井の明かりが点いていた。

 静かな病室で、マコはラックの上の真珠のキーホルダーに手を伸ばした。

 もう、光らない。でも、ライトが反射してきれいに映った。

 握ってみた。

 入院していた珠ちゃんを覚えてくれていた人がいたんだよ。

 マコは、心が少し救われた気がした。


 入院から一週間後、マコは退院した。

 まず、机の上の参考書が目に入った。

 それから、遺言の書かれたノートが、机の上の端に置かれていた。赤ペンも一緒に。

 赤ペン? 思わず目が釘付けになった。

 マコは、待ってみた。ふと気づいた。何か起こるのを待っている自分にだ。

 静かな部屋だ。台所の音が小さく聞こえる。包丁で、まな板を叩く音だ。コツコツ。

 しばらく、時間が流れていった。


「珠ちゃん」


 赤ペンの様子を窺った。

 何も起こらない。赤ペンをいくら見ても、変化はなかった。


 赤ペンから視線を外すと、一緒に置かれていた遺言ノートを見た。


 ノートのページをゆっくり開いた。紙をめくる音が静かな部屋に響いた。

 珠の小言が、懐かしい。

【運動もいいけどさ、勉強くらい少しはしなさい】

【ご飯とお肉だけでなくて、お野菜も食べなさい】

 珠が描いた、マコのイラストがあった。ソフトボールの投球姿だ。

 口元が思わず緩んだ。漫画風のイラストに見入っていた。

 夕日は沈んで、部屋が暗くなった。マコは立ち上がり、部屋の明かりを点けた。

 次の絵を見た。山盛りのご飯を、マコと思われる女の子が、ばくばく食べていた。

 マコは思わず、くすっと少し息を漏らして、笑ってしまった。

 あ、とマコは思った。

 笑っている、あたし。あれから、どのくらい笑ってなかったんだろう。

 さらにページをめくると、太陽系と星々と宇宙ロケットが描かれていた。

 文章も添えられていた。

【自由に行きなさい。自由に生きなさい。でもね、自由になるには、勉強して頑張って、宇宙飛行士になる! くらいの夢を持ちなさい】

 そう書かれた下には、英語で【希望】を意味するロゴが描かれていた。

 マコは、机の上の参考書に目を向けた。けれど、またノートに目を戻すのだった。

 マコはノートを読み進めていくうちに、珠が入院していたころを思い出した。病室で珠が話した言葉が記憶から鮮やかによみがえっていく。


「マコちゃんを好きになってくれる人、きっといると思う」

 珠は続けて、

「その人は、あたしより、ずっと傍にいてくれるよ」


 珠の言葉から、マコは北条を思い浮かべた。カジュアルな私服で丸椅子に座り、まだ決めてない、そう笑顔で話す姿。少しだけ頬が熱くなった。

 さらに、ページをめくった。

【泣かないで】

 赤い字でそう書かれていた。

 ずっとマコは見入っていた。

 強がるマコの目が、熱くなって、涙が滲んだ。

 マコは目を閉じて、一呼吸した。

 一つ息を吐いて、それから、目を開けた。ノートを閉じて、机の中央に置いた。その上にそっと赤ペン。

 真珠のキーホルダーが、机の上で、部屋の照明を照り返していた。

 廊下の向こう、階段の下から、台所の音がする。

 お鍋の蓋を閉める音だ。

 母が何か、独り言を言っているのが聞こえた。

 マコは、机から顔を上げて時計を見た。


 椅子からゆっくり立ち上がり、部屋から階段に向かった。手すりを握りながら、一段ずつ降りた。

 台所に近づくと、鍋や食器の音がして、夕食のおかずと、炊いたご飯のいい匂いがした。

 母が、マコには気づかないで、ごにょごにょ言っていた。

「お砂糖は、小さじ、お醤油は大さじ」

 なんかそんなような言葉だ。

 母は、マコに気づくと、

「もうすぐできるよお」

 と、いつもと同じように、元気に言ってきた。


 夕食は、鶏の唐揚げなど、マコが好きなものが中心だった。食事が終わると、母は、

「デザートに、クレープなんてどうかしら」

 マコが頷くと、

「退院おめでとうね」

 そう、母は言って、ホットプレートを用意して、薄く生地を流して、クレープを焼いた。

「練習したんだけどな。上手にできるかな」

 一枚目は、生地をうまく流せたようで、けれど、厚みがバラバラで、途中で破れたりして、格好が悪かった。

 マコより料理の上手な母が、クレープには苦戦していた。

「やっぱりダメねえ、最初の一枚だから仕方ないかな」

 母が、悔しそうだけど、どこか笑ってみせた。クレープの焼けた生地とバターの甘い匂い。そのクレープを見て、


『食べてみたいな。そのクレープ』

 という珠の言葉と、マコが返した

『退院したら、一緒にね。行こうよ』


 その言葉が、よみがえった。

 そうか……退院したのはあたしか。


「あら、アイス買うの忘れちゃった」

 小皿が二枚、テーブルに用意してあるのを、マコは眺めた。

 きれいに焼き上がった二枚目と、最初の一枚をそれぞれ半分ずつにして、小皿に分けてあった。ホイップクリームと、粒チョコ、スライスバナナで彩られていた。母はナイフで、少し刻んで、摘まんで口に入れた。

「どう? おいしい?」

 母が聞いてきた。母のナイフを持った手が、かすかに震えていた。

「おいしいね」

 マコも食べてみて、そう言った。

 すると、雨の音が聞こえてきた。

 最初は弱かった雨音が、だんだん強くなっていく。窓ガラスにも水滴が付いた。

 テーブルに向かったまま、窓のほうを、マコはぼんやり眺めていた。

 雨でも雨とは認めない。そう言ったことがあった。

 一呼吸してから、

「雨だったね」

 涙が頬を伝った。

 もう、眩しさのせいにはしなかった。

 母が席を立って、マコに近づいて、背中をやんわり撫でた。静かに抱き寄せてくれる。

 母は、無言だった。母の体温を感じると、マコの涙がとめどなくあふれてきた。


 失いたくなかった。

 思い出になんて、したくなかった。


 マコは母に抱きついた。


 それから、翌朝だった。

 雨音はもうしない。体は重いが、窓際まで歩いた。

 マコがカーテンを開けた。外を見ると、雨は上がっていた。

 窓越しに空を見た。

 雨上がりの雲。太陽が柔らかい光を放ち、輝いていた。

 薄い雲が、朝の光を受けて真珠色に見えた。

 机の上には、参考書と遺言ノート。その上に赤ペンがあった。

 マコは空を見上げた。



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