後編
第五章
真珠の約束(回想三)
〔高一の冬〕
珠が入院してから、五か月が過ぎようとしていた。
ホームルームが終わると、マコは猛ダッシュで駅に向かった。
ソフトボールの練習は、しばらく休ませてほしいと、マコは監督に申し出てあった。
電車が停車すると、マコは飛び乗るように車内へ入り、立ったまま体を少しよじったり、足を屈伸したりした。
車内は割と空席が多かった。
いつものマコなら、ボールを握るか、バットを振っていた時間帯だった。
停車駅では、違う学校の生徒も多数乗ってきた。
学生たちは、笑いながらスマホを覗き込んでいた。
病院の最寄り駅に着くころには、電車の席は、そんな学生でだいぶ埋まっていた。
マコは病院に着くと、腕時計をちらりと見た。面会時間終了まで、あと数十分だった。
名簿に名前を書くと、顔見知りの看護師さんとすれ違う。
互いに会釈を交わす程度で、マコは珠の病室に入っていった。
カーテンをするりと開けた。
病室を見渡すと、静けさの中で、珠は目をつむり眠っているようだった。
入院したてのころは、コロコロ笑って、マコが来るのを待ちかねていたみたいで、一緒に歩いて病棟を回っていた。
だんだん、ベッドに腰かけて話すようになり、一か月前からは、横になりながら話すようになった。
丸椅子を動かすと、思ったよりガタガタと音がして、珠が目を開けた。
「ごめん、起きちゃった?」
「うん。起こしてくれてもいいよ」
にこっと微笑んでから、珠は、
「勉強が全然遅れちゃって、このままだと留年だね」
そこだけ、悔しそうにした。
「まだ、進級は決まってないんじゃないかな。病欠だから、試験さえ受ければ、進級できるかもって、先生言ってたよ」
「漫画の本を読んでばかりでね」
「なんか欲しい漫画ある?」
マコが聞いて、珠の顔を見つめると、
「それがね、まだ出てない漫画でね。続きがまだなの」
頷いて、マコは、下唇を少し噛んだ。
「出てないのはいいの」
マコを見て、珠はまた微笑んで、今度は意地悪っぽく、
「続きを考えているの。いろんな未来。漫画の続きをね。マコちゃんも読んだはずよ」
なんだろうと、少し考えてから、珠が貸してくれた漫画のことをマコは思い出した。
「思い出した? あたしでは、描けない。今のあたしではね……」
〈今によくなる〉と言いかけた。気休めを言うのも、それはそれで、酷いことだ。
マコは言葉を飲み込んで、ただ黙っていた。
すーっと一呼吸置いてから、珠は、
「あたしの頭の中で、漫画は進んでいるの。聞いてくれる?」
マコは、ゆっくり深く頷いた。珠はまた笑って、
「主人公の不幸な女の子、いたじゃない? それは、マコちゃんなの。それが、素敵な王子様に巡り合うって。世界観がすごいのよね。そこでの、これからが知りたくて、考えたの、いろんなパターンかな」
「それでそうなるのかな」
「あたしが主人公で、想像していたんだけど、もうダメみたい」
そこまでしゃべると、珠はしばらく黙ってしまった。
「ダメじゃないよ」
マコは、叱るように強く言った。
うん、と珠は頷いた。
マコは、窓際のカーテンが開いているのを見て、窓の鍵を確認した。窓の外は、薄暗くて、今にも雨が降りそうだった。音を出さないようにカーテンを閉めた。
珠の顔を見ると、目を閉じて眠ったように見えた。
「珠ちゃん?」
小声で聞いてみた。やはり眠っているようだ。
腕時計を見ると、面会時間を少し過ぎていた。看護師さんが気を利かせて、大目に見てくれているんだろう。
じっと珠を見つめて、心の中で、また来るよと告げると、マコは病室を出た。
病院の玄関口で、マコは母に電話をかけた。
母を待つ間、マコは珠の笑顔を思い出した。
珠は屈託なく笑っていた。
もうすぐ、春が来て珠がちゃんと進級して、一緒に登校する。
去年の春は当たり前だったから、今年もそうだと思う。来年も、たぶん、その向こうの未来まで、珠は朝、あたしに言うんだ。
〈おはよ。でもまだ眠い〉
明くる日。病室に入ると、ふと、勉強用とは違うノートを、マコはベッド脇に見つけた。珠が漫画を描いている、と聞いていたから、漫画が描かれたノートかとマコは思った。
中を覗いてみたいと、誘惑めいたものを感じたが、
(ダメダメ)
そう思って病室を出た。
それから、雨が降ってきた。
その日から、十日ほど過ぎた。
マコは突然、一冊のノートを珠から手渡された。〈いらないからあげる〉くらいの調子で、ぽんとだ。
「え? なに」
マコは、ちょっと困った顔をした。「いらない」とは言えないし、「なんだろうな?」くらいには思った。
中を読もうと、ノートをめくりかけると、
「今はダメよ」
「どうして?」
珠は、そこだけ語気を強めてきた。
「どうしてもよ」
「ふうん」
「じゃあ、あとでじっくり読むね」
気軽にノートを見つめながら、珠に答えたマコだった。
けれども、ノートの表紙の文字は赤ペンで書かれていて、今村珠という名前も赤いインクだった。
ノートの表紙のそこだけをまじまじと読んでみた。
【自由に生きて】
【今村珠】
「今読まないで」
すぐに、珠が言ってきた。
「う、うん」
マコはうろたえてしまった。
「いつ読めばいいのかな」
マコは珠の様子を窺うと、
「少しだけ聞いて」
頷くマコに、
「もし明日の天気予報が雨でも、雨が降らないこともあるでしょ」
「そうだよね」
「そう思って読んでほしいの」
マコは、うんと言って、少し深く息を吸って、表紙をもう一度見た。
「なんかこう、曇っているね。今にも雨が降りそうだな」
赤い文字がおどろおどろしいな。晴れだとしたら、ホラー漫画なんだけどな。
ノートそのものが、勉強ノートとは違って、丈夫そうで、紙が厚い。ページ数は少なそうだ。
なんだかんだで表紙をめくってみると、一文字一文字が大きく、薄く、だらりとした筆跡で、書くのがつらくて必死だったことを思わせるものだった。
「お母さんは、知っているの?」
珠は首を横に振った。
「なんとなく、ここから先、天気予報が雨になりそうな気がする」
マコは、またノートを広げた。
屈託のない挨拶みたいなものから、ノートは始まった。
漫画風にイラストが合間に描かれていて、笑みすら浮かんできそうだ。
マコがボールを投げているシーンのイラストには、じんと来るものがあった。
山盛りのご飯を、マコがばくばく食べる絵も描かれていて、一瞬「なにこれ?」と言いたくなるものもあった。
けれど、書かれた文そのものは、珠らしくて、いつもの調子だ。
【運動もいいけどさ、勉強くらい少しはしなさい】に始まり、【ご飯とお肉だけでなくて、お野菜も食べなさい】と続いた。
なるほど、とは思うのだが、それをわざわざノートに書くなんて。雨の予報はどうなったんだろう?
マコは、珠を見た。うっすらとだけ目を開けていて、今にも眠りに落ちるかもしれない。腕時計を見た。まだ、面会時間には余裕があった。
ページをめくってみた。
【自由に行きなさい。自由に生きなさい。でもね、自由になるには、勉強して頑張って、宇宙飛行士になる! くらいの夢を持ちなさい】
そう書かれていた。
マコは、珠を見た。珠はノートの中身を垣間見ようとしたのか、上半身を無理に起こして、点滴の管が外れそうになった。
「無理しちゃだめよ」
マコが慌てて珠を助け起こすと、
「ありがとうね」
また、マコはノートを読み進めた。立ったままだったが、そのほうが珠も覗き込めそうな位置取りだった。
太陽系の星が描かれていて、宇宙ロケットもあった。
下に、ロゴが丁寧に描かれていて、英語で【希望】を意味する言葉が書かれていた。
(たぶん、天気予報は外れるよ)
そう言いたいのと同時に、こうも思った。
(なに、自分で決めて、うぬぼれているのよ)
マコの片方の眉が吊り上がった。
「宇宙飛行士?」
マコは、心を落ち着かせて聞いてみた。
それから、ノートを持って、笑って珠を見た。
珠はふらふらと揺れて、姿勢を保つのが精いっぱいみたいだ。
「頑張るって言いたいけどね」
また、マコは笑って言った。
(明日は雨なんか降らない。あたしは信じない)
「天気予報なんて、信じない」
珠は、つらそうに頷いた。
そうだ、珠だって、そんな予報信じたくないんだ。
マコは、ベッド脇の丸椅子に座った。ノートは、珠の前に静かに置いた。
珠は、ノートを見つめると、
「そうだね」
小さくつぶやいた。
俯いた珠は、指先をこねるようにもてあそびながら、
「マコちゃんの恋、見届けたかったな」
マコは〈うん〉と頷きかけて、
腕をバタバタさせて、
「あたしは、そんなの別にいいよ」
慌てふためいた。マコのそんな様子に、
「焦ってないのに、焦るんだ」
「焦らなくていいよ。ちっとも」
マコは言ってから、珠がじっと見つめているのに気づいた。
「マコちゃんを好きになってくれる人。きっといると思う。あたしよりずっとね」
「今はそんなこと、考えたくないよ」
珠の体が少し震えて、
「その人は、あたしより、ずっと傍にいてくれるよ」
珠は大きく息を吸った。
「泣かないで」
はっきりとひときわ強く言うと、今度はマコの体が大きく震えた。
珠の前に置いてあるノートに書かれているのが、それだと気づいた。
「信じない」
マコは言った。
「だから、あたしは泣かない」
(こんなノート!)
心の中でもやもやしていたものが、爆発し始めた。
けれど、やはり、じっと見つめてくる珠の顔を見返すと、
「今のあたしは、泣くだけでいいわけ?」
(だって、泣いたら珠ちゃん死ぬって決まっちゃうじゃない)
「悲しいから、泣くよね」
珠は、目に涙を浮かべていた。
「悔しくても泣くんだよ」
マコは、そう言うと、
「たとえ雨でも、あたしは雨って認めないからね。だから泣かないんだ」
「でもね……」
珠は、ノートを手に取り、ページを繰ると、そこには見開きで、
【泣かないで】
そう書かれていた。
赤い文字だ。濃く大きく書かれていた。
(いやだ。珠ちゃん、いなくならないで。ずっと一緒だって、そう言って)
マコは首を振った。目の前のノートを、何かの冗談だと思いたかった。
ノートを閉じて、珠はそれをマコに手渡すと、疲れたのか横になった。
「平気だよ」
にこっと笑って、点滴をしている腕のほうだけ大事そうに布団にしまうと、珠はもう片方の腕を伸ばして、
「約束だからね」
と、マコの腕を掴んだ。
マコが頷くと、珠も頷き返した。
「自由に生きて、だね」
ノートの表紙を見て言った。
珠は、何かを念じるかのように、ノートを見つめると目を閉じた。
歩きながら、ノートをもう一度見た。
珠の枕元に、お気に入りの赤ペンが転がっていたのを思い出した。あのペンで書いたんだ。そう思うと、顔が引きつるのを感じた。
今にも、約束を破りそうになるマコだった。
「信じないからね」
マコはそうつぶやくのだった。
三日が経って、火曜日の放課後。
期末テスト前の一週間が始まった。来週から三学期の期末テストだ。
珠の病室を訪れると、珠はうっすら目を開けて、マコを見た。
「元気してた?」
ぼんやりマコを見て、珠は俯き加減に顔をしかめた。
「痛いとこ、あるの?」
首を左右に振り、珠は、物憂げだ。
「飲み物?」
頷く珠の口に、マコは水差しの水を含ませた。
ゆっくり飲むと、珠は、
「喉が痛くて、声を出すのがつらかった」
そう言った。
「そうなんだ。お母さん、今日来てなかったの?」
「来たけど、ずっとお母さん一人でしゃべっていたよ」
笑いが込み上げて、
「珠ちゃん困っちゃったでしょ」
マコが言うと、珠も笑った。
「学校どう? 先生とか麻衣、元気かな」
マコは頷くと、
「もうすぐ、三学期の期末試験だよ」
言ってみて、言わないほうが良かったかなと、マコは後悔した。
「そう」
小さく寂しそうに、珠がつぶやいた。
「出席日数が少し足りないかもだって。三分の二は必要らしい」
ゆっくり頷いて、珠は、
「分かってる。留年だね」
首を横に振って、マコを見つめてくる。
「その姿勢、つらくない?」
「大丈夫だよ」
「枕の位置、変えてあげるね」
「ありがとう」
珠と目が合う。
「マコちゃんだけだね。本当のことを言ってくれるの」
マコが黙っていると、
「勉強はいつでもできるよ。安心して」
頷いて、マコは、
「二回入学したと思えば、いいだけかもね」
そう言うと、珠は笑って、
「だったら、あたし妹になるんだね」
「でもね、妹に勉強教えてもらうことになるんだ」
そう言うと、珠はまた笑った。
「マコちゃん本気で勉強しなよ」
「う、うん」
なんか負けそうだ。そう思うマコは、
「もう、元気いっぱいだな」
「なんか、元気出た」
珠がそう言うと、なんとなく顔色がよくなったようにマコには見えた。
うんうん。マコは幾度も頷いた。
「退院したら、またデパート行こうよ」
珠の様子を見ながら、マコが話を継いだ。
「デパートに、おいしいクレープ屋ができたんだよ。クレープにアイスが載ってて」
珠は、顔を上に向けて、天井を見ていた。
「つまらない?」
首を振って、珠は、
「食べてみたいな。そのクレープ」
〈うん。そうだよ〉と言いかけて、マコは、
「退院したら、一緒にね。行こうよ」
反応のない珠だった。
また、珠はじっとマコを見つめてくる。今まで見てきたのとは、明らかに違って、顔とか、体とか、なんか全体を見ていて、輪郭を確認しているみたいで、
「やだな。じろじろ見られると」
マコが抵抗して言うと、
「エースなんだな」
珠はぽつりと言った。
「うん」
「頑張ってた、頑張ったね」
「エースだから、打たれたら、責任大きいのよね」
珠は、布団から腕を伸ばしてきた。マコは珠の手を握った。
珠は、じっとマコの顔を見てきて、
「目が見えなくなったら、どうしよう」
「そんなことないよ」
マコの言葉に珠は頷いた。
「そうだよね」
珠は目を閉じた。
「もう、休む?」
珠は首を小さく振った。
「そう」
マコは、丸椅子に座り、様子を見ていた。
珠は目を閉じたままだ。
「珠ちゃん?」
呼びかけても、珠は眠っているようだ。疲れたんだろう。マコはそう思うと、腕時計を見た。
あと三十分程度、面会時間が残っていた。お母さんが来るかな。そう思ったが、来る気配はなさそうだ。
珠の寝顔を見た。点滴の雫が落ちて、珠の体内へ送り込まれている。
(珠ちゃん頑張ってるね)
このままでいたいけど、人の気配で珠が起きてしまうかもと思い、マコは静かに丸椅子から腰を上げた。
マコは、自分だけが幸せでいることについて、珠は何も責めなかったな、と気づいた。
今度来た時に、〈ごめんなさい。お詫びのクレープ〉と言って渡そう。
(珠ちゃんなら、〈どうして謝るの〉って聞いてくるかな)
「珠ちゃん、クレープ楽しみにしていてね」
まだ珠がぐっすり眠っているのを確認した。
「眠り姫みたいね」
色の白い頬と、束ねられた黒髪が、艶々としていた。辺りに漂う柑橘系の匂いが強いのは、シャンプーのものだ。
もう、珠の本当の髪じゃない。でも……。
「珠ちゃん、シャンプーは欠かさないんだね」
匂いを胸いっぱいに吸い込むと、マコはショルダーバッグを手に持った。
「またね、またすぐ来るよ」
珠の顔を見た。
マコは安心して、病室から出ていった。
第六章
淡い光
〔高二の春〕
マコは学校にぎりぎり間に合った。
「ふう、セーフ!」
もう少しで、校門が閉まるところだった。
「もう少し早く起きなさい」
生徒指導の教師がマコにそう言った。
「今後、気を付けます」
そう言うと、教師はもう興味を失い、他の生徒をやり玉に挙げていく。
いつもより重い足を前に進めながら、体の違和感に、マコは内心驚いていた。
(ヘン? あたしの体?)
頭の中では、黄色信号がぐるぐると点滅していた。
珠がマコに憑依する日が続いていた。
それから数日後。
朝の目覚めが悪い。それでも起きて走ろうとする。ずっと日課だったから続けられるが、朝の太陽がやけに眩しい。
重い足を引きずるようにして、いつもの距離を走り切れず、家に戻ってきてしまった。
「ダメだ! もう!」
タオルをリビングの床に乱暴に投げ捨てると、母が、
「タオルに当たるなんて、タオルも可哀想よ」
「そのタオルとは仲良しなんだ」
「だったら」
母がなんだか突っかかってきたので、
「お生憎様。仲良しだから、怒ったりしないわ」
それだけ言うと、マコはすぐに後悔した。
部屋で着替えると、珠に聞いてみた。
「疲れてるんだ、あたし。大会も近いからかな。勉強しばらく休もうかな」
(ねえ、珠ちゃん?)
赤ペンは、コトンと音を立てた。
階段を降りると、母が、
「体調が悪いようね。病院? もう一度行きましょう」
「お母さんが素面ならね」
「はあ」と母がため息をついて、
「最近はこう見えて控えているのよ。マコちゃんのことが心配でね」
「そうなんだ」
ぶっきらぼうにマコは答えた。
「お母さんが、心配だから病院へ行くの。それだったらいいでしょう?」
いつもより元気そうな母に、
「お母さんのこと、あたしだって心配してたんだよ」
母は「うん」と強く頷くと、
「ごめんなさい」
と、謝ってきた。マコも、
「さっきはごめんなさい」
「いいのよ。気にしてない。それより、病院に行きましょう」
マコは頷いた。
母の運転する車の中で、もうしばらく病院へ行くことはないと思っていた。
診察室に入ると、にこやかな銀髪の医師からマコは診察を受けた。
「ふむ。異常はないみたいだねえ」
診察が終わり、内科の待合室の長椅子に座っていると、すぐ傍を北条が通り過ぎていった。
横顔を見てすぐに、マコは北条だと気づいたが、北条は気づいただろうか。
ちらちらと、北条のほうを見ていると、
「今村さんでしたね」
北条のほうから声をかけてきた。
「はあ、娘のお知り合いかしら? マコちゃん、ここ二、三日ずっと体調が悪いの。もう心配でね」
母がまくし立てるので、
「あたしが、病院に行きたいって言ってないのに」
マコが文句を言うと、
「それで、診察結果はどうでしたか?」
「それがね。よく分からないらしいの。どうにも頼りなくてねえ」
母は、周りを見回して声をひそめた。
「ああ、そういえば、朝のランニング、続いているのかな?」
何気なく北条が聞いてきたのに、マコは驚いて顔から火が出そうだった。
「まあ、この子ったら」
「それが、本調子じゃなくて」
母の言葉を遮るように、マコが言うと、
「無理はしないほうがいいよ」
北条は、気さくな笑顔で言うので、
「水分はこまめに摂っています。ご飯も食べているし」
うんうん、と北条が頷いた。母は首を傾げて、物憂げな様子だった。
「このままの調子で、体調を整えていってください」
そう言って北条は強く頷いた。
帰りの車の中で、母が、
「北条さん? いい先生ね。頼りになるし、きっと体調がよくなるって」
うん、とマコが頷くと、北条と話せたことで、病院に来たのもそう悪くなかったと思えた。
家に着くと、玄関までの歩みが打って変わって重く感じられた。
マコがスマホで母に、放課後に病院へ行くと連絡すると、
「一人で大丈夫?」
「大丈夫だって、心配しないで」
放課後になった。
大会が近いのに、ソフトボール部を休むのは気が引けたが、マコが監督に直接会って説明したら、
「今は、休養しろ。治ったらバシバシいくぞ」
「はい!」
マコが返事をすると、監督はにこっと笑った。
女子高には珍しい男性教員で、がっしりした体格の中年だが、割と生徒に人気があった。
職員室から出ると、マコは駅に向かった。
電車の中で、もし北条に会ったとしたら、母のことを謝るかどうか、そればかりを考えた。
診察室に入った。
「あれから、どうですか」
首を傾げて、大山は言った。銀髪が前より少し短く刈られている気がした。
「前回の血液検査では、血糖値が割と低かったようだけど、まあ大きな問題はないんだよね」
マコの目をじっと見据えて、大山が言うと、
「北条君、来たまえ」
「大山先生? 呼びましたか」
北条の声のようだ。マコが不思議に思っていると、北条が姿を見せた。
マコは、北条を見上げた。北条が微笑みかけてきた。
診察を終えたマコに、
「少し、いいかな?」
北条が話しかけてきた。
「今日は一人なんだね」
マコが頷くと、
「お母さんが、前に言ったこと、謝らないと、と思ってたんです」
「なんのことだろう?」
「その……」
北条は「うん」と頷くと、
「僕じゃなくて、大山先生に言うべきじゃないかな」
笑って言うから、「え!」とマコはよけいに驚いた。
「冗談」
北条は「いくら大山先生でも怒っちゃうね」と言うと、また笑った。
マコが、
「大会が近いんだ」
「ソフトボール?」
「そう。だけど体調が悪くて」
思案げに北条は眉根を寄せた。太い眉が最初から印象的だったのを思い出した。
「力になれなくてごめんね」
ぺこりと軽く頭を下げてきた。
「いえいえ、北条さんのせいではないです」
手をバタバタさせて、マコは否定した。北条は顔を曇らせた。
「チームにだけは迷惑かけたくない」
北条は頷いた。
「だから、部活を休んだ分、勉強だけはしなくちゃって思っているの」
北条は、ぽんと手を打つと、
「僕は、勉強ばっかりで、運動はちっともなんだ。部活も勉強も、なんてすごいな」
目をキラキラさせてマコを見る北条に、
「そんなあ」
マコは顔が熱くなるのを感じた。
「まだ研修医で、これからも勉強続きだ」
両手のひらで顔を隠すようにして、マコが頷くと、
「若いからって無理しないでね。僕も無理しないようにしないと」
北条は明るく言うので、
「そうだね」
マコはそう答えた。
「うん」と北条は言って、
「じゃあ」
と、立ち去っていった。
家に着くと、少しも体が軽くならないことに、マコはイラッとした。
「どうしたの?」
母が台所から聞いてきた。
「病院どうだった?」
続けて聞いてきた。
「今のところ、大したことなさそうだって」
マコが答えると、
「今日はシチューよ」
母が言ってきた。
「マコちゃん好きでしょ」
「うん」
マコは、以前の母が戻ってきそうだと感じた。母のシチューは久しぶりだった。
三日が過ぎた翌朝。気だるいのなら、むしろ走ることだ。三日も休んだから、その調子の確認だ。そう思い返したマコは、
(今日だけ、少しだけ)
シューズを履いている間も、意識を走ることだけに向けた。
軽く走ってみた。
呼吸や筋肉、体力そのものというより、どこかちぐはぐだ。自分の体なのに、自分のじゃないみたいだ。
マコはそう思うと、家に帰った。
「ただいま」
汗をほとんどかいていないのに、タオルで顔を拭うと、
「無理しないでね」
母が心配そうに、マコのほうを見ていた。
その日は普段通りに学校へ行き、授業を受けた。
学校は普段通りに戻りつつあった。倒れてから、クラスメイトとも仲良くなりかけていた。むしろ、倒れて良かったと思えるのは、マコが無理をしすぎると、クラスメイトが心配してくれるからだ。
マコは、周りから、
〈無理しないでね〉
と声をかけられるたびに、珠のことを思い出しているのに気づいた。
テンションは高いのに、体は思うように動いてくれない。
(無理はしてない。けど、珠ちゃんに頑張っているとこ見せないと)
マコは、しばらくぶりに練習に参加した。
「どうした? もう調子はいいのか?」
監督がそう声をかけてきた。
「はい!」
マコが言うと、監督は落ち着かない様子だったが、
「よおし! 軽くピッチだ」
麻衣を呼び、二人にキャッチボールから始めさせた。
麻衣が、
「本当に大丈夫?」
「平気」
マコはそう答えた。
「座ってよ」
麻衣が座って、ミットを構えた。
前にフォームを変えたのを思い出して、まずは直球から、変化球へと、マコは投げ込んだ。
意識の上では、感覚を掴めているのに、足腰がついていかない。
「上半身だけで投げているぞ」
監督が見ながら言った。
声はそれほど大きくないが、マコの心に突き刺さった。
球数を重ねれば重ねるほど、ひどくなっていくのを感じた。
監督が、ノックを始めたのを見て、麻衣が近づいてきた。
「マコ? 調子悪そうだね」
「うん、練習さぼりすぎてたね」
麻衣は、首を横に振った。
「体調が悪かったんでしょ」
「大会前なのに、ごめんなさい」
「違うよ。悪いのはマコじゃないよ」
マコは頷いて、空を見上げた。西日が差してきて、グラウンドが茜色に染まっていた。
部活から帰ると、前回の練習の後よりも、マコは疲れていた。
お風呂に入ると、珠のシャンプーの匂いを思い出した。
(そうだ。いつからだろう。体がだるくてこんなに変なのは)
なんとなく、珠のことが頭から離れずにいた。
(珠ちゃんは悪くない!)
マコは、打ち消した。
けれど……。
お風呂から上がって、部屋に入ると、
「疲れた!」
そう言って、マコはベッドに横になった。
「髪、傷んじゃうね」
ドライヤーで乾かすのが面倒で、パジャマに着替えるだけにした。
赤ペンが、コトコト動いた。
少し眠ってしまったようだ。マコが時計を見ると、午前零時を少し回っていた。
『疲れてるのね?』
マコは椅子に座って机に向かうと、広げたノートの文字を読んだ。
(部活がね。最近練習不足なんだ)
『どうしてなの?』
部屋全体がひんやりした。緑のカーテンが揺れた。白い霧が部屋全体に広がったかと思うと、集まって一つの人型になった。ぼんやりと、珠がいつもの服を着て現れた。
(うん。やっぱり疲れてるんだと思う)
不安そうな顔でマコを見ている。
(北条さん、覚えてる? 病院で会ったよ)
珠の顔が急に明るくなった。そして、目が獲物を狙う狐のように細くなった。
『どうだった? な、なんか誘われたりした?』
(まさかあ)
珠のあまりのせっかちさに、半ば呆れながら、マコの口から笑い声すら出た。
『そうねえ』
珠は腕組みをして考えている。マコは、何を考えているんだろうと様子を見ていると、
『もう会えない、って言ってたくせに、また会えたでしょ。あたし気づいてたんだからね』
マコはまた珠が真剣そうな目をしているのを見て、吹き出しそうになったのをこらえながら、
(ねえ。珠ちゃん。あたしってさ、すごい、かな? 〈ソフトボールの部活に勉強に、すごいな〉って北条さん言ってくれたよ)
うんうん。珠は幾度も頷いた。
『すごいよ。ソフトボールは、中学でも高校でもやっているからね』
そうかあ。マコもそう思うと、
『マコちゃんは、やればできる、すごい妹だよ』
珠はマコのほうをじっと見てきた。マコは初めて、自分がすごいと言われたことを受け入れられる気がした。
珠と話しているのが楽しいし、北条ともたぶんそうだと思った。
北条は、不思議と話しやすいな。
恋とは違うと、マコは思った。
『でさあ。北条さん、医者なわけでしょ? モテモテかな?』
(どうかなあ。忙しそうだよ。勉強ばっかりだって)
『ふふ。それなのにマコちゃんに時間を割いているんじゃない?』
明らかに珠は含み笑いをして、マコを見ていた。
マコは言われて、顔が熱くなるのを感じた。
『照れなくてもぉ、いいよ』
追い打ちをかけられたマコだった。
机の上のキーホルダーからは、淡く真珠色の光が漏れていた。
しばらくマコは待ってみたが、赤ペンが音を立てることはなかった。
時計を見上げた。
マコは、珠も疲れたのかな? と思った。
もう一度珠を見た。
コトコトと赤ペンが音を立てて、
『怒らないでね』
(うん。怒ってないよ)
赤ペンはコトコトと音を立てた。珠のキーホルダーと、マコのキーホルダーが、机の上で寄り添っていた。
その光は淡いが、二つ重なって真珠色に輝いていた。
(珠ちゃん?)
『うん?』
ノートに書かれた珠の返事を見て、マコはベッドに潜り込んだ。
病院で診察を受けた。
大山が診察を終えると、
「北条君、いるかね? 少し来たまえ」
北条はマコを見ると、少し驚いた様子だった。
「北条君。君はどう思う」
北条は頷くと、優しくマコに問いかけてきた。
「いつも通りには、うまくいかないんだね」
マコはこくんと頷いた。
「大山先生は僕の指導医だからね。研修の一環で、僕が引き継いで診るんだ」
こほん、と北条は咳払いをすると、
「それでは、聞くんだけど」
慎重にカルテを読み返して、しばらくの間、考え込んでいた。
「そうだ。何か思い当たる節はないかな? こうなる以前と、それ以後で変わった点?」
マコは、この前お風呂に入っていた時、シャンプーの匂いを嗅いで、ふと頭をよぎった疑問を思い出した。
(珠ちゃんは悪くない)
マコは、北条の顔をまともに見られなくなった。
顔を隠すようにして伏せると、沈黙の間ができた。慌てて、
「何も、思い当たることはありません」
「そうか、仕方ないな」
マコは、謝ろうとも思ったが、俯いてしまい、言葉が出なかった。
北条は、マコを見つめ、
「今は様子を見ましょう」
大山と同じく、「安心しなさい」と言っているような気がした。
マコは「はい」と返事した。
「無理は禁物だよ」
もう一度、マコは頷くと、
「勉強、頑張ってください」
「ははは」
北条は、か細く笑った。
マコもつられて笑った。看護師さんが先導して、マコは診察室から出た。
マコは家には帰らず、そのまま学校に向かった。
お昼ご飯を売店で買って済ませると、後ろめたさが心に引っかかった。
――北条に嘘をついた。
今度会った時、北条にどんな顔をすればいいだろう。それだけをマコは考え続けた。
第七章
秘密の重さ
〔高二の夏〕
「マコちゃん、起きなさい」
ううん。
小さく声を上げると、マコは気だるげに起き上がった。パジャマ姿で階段を降りて、洗面台に向かった。
部屋に戻ると、マコはぼんやり、珠とのやり取りを思い出した。
マコは、思い切り伸びをした。
机の上には、赤ペンが転がり、ノートが広がっていた。
夏の制服に着替えている時、マコは体が強張っているのを感じていた。スカートを履く時、足を片方ずつ上げるのにすら時間がかかった。それは以前にはなかったことだ。
それから二週間経った。
マコと珠の深夜。
(珠ちゃん、味はどう?)
『なんとなく、おいしい』
マコが今日の夕方、近所のケーキ屋で買ったものを、二人同時に食べているのだった。
(あたしも、なんとなく)
冷蔵庫で冷やしてあったのがいけなかったのかな?
(もっとおいしいお菓子を、珠ちゃんと食べたいな)
マコは、今は考えても仕方ないと思った。
(なんか、違うことしてみない?)
マコが思うと、珠が少し考えているのを心で感じ取った。
(何をしようかな)
マコは、そうだ! と胸が躍った。
(二人で同時に漫画を読むとかはどう?)
『マコちゃん、楽しそうね』
心の中で、珠が笑った。
(珠ちゃんのせいにしている!)
あたしは、卑怯だ。マコはそう思った。
心のどこかで珠に八つ当たりして、珠のせいで体が重く、疲れが取れないと思っているんだ。
マコはそう思うと、
(珠ちゃんは悪くない)
誰のせいでもないんだ。これは、あたしの体の問題なんだ。
一日の授業が終わって、放課後。
部室で制服からユニフォームに着替えると、マコは、
「いける。大丈夫!」
と、声を上げた。
着替え中の他の部員が、マコを見たが、また何気ない様子に戻った。
体は、声とは正反対だったが、声だけ出すと、本当にいける感じがした。
グラウンドへゆっくりと歩いて行った。
部員たちは、すでにグラウンドに点在し、各々、キャッチボールをしていた。
あるいは、準備体操をする者もいた。
三年生は、夏の大会で引退になる。その最後の大会はもう間近に迫っていた。
「おう!」「よっし!」
掛け声も、緊迫感があっていい。
(みんなの元気がありがたい)
体はともかく、マコの気持ちが盛り上がった。
グラウンドのネット近くで、麻衣が捕手のプロテクターを付けていた。
もうマコは、立ってキャッチボールする段階ではない。練習試合をとっくに何度も経験していなければいけない段階だ。
(調整遅れは言い訳でしかないよね)
マウンドに立って、余裕のあるポーズをとってみせた。
マコは、腕をぶるぶると回転させた。
麻衣が座った。投げてこいと言わんばかりに、両腕を左右に広げてみせた。
麻衣が座ったからには、エースの球を見せなければならない。マコはそう思うと、第一球から、本気で投げた。
ステップは短めで、下半身だけに頼らず上半身もうまく使う。
珠からのアドバイス通り。
マコの狙い通りに決まる。ミットの快音に、部員たちが思わず振り返る。
――エース復活!
そう言わせたい。
マコは、復権した! そう思って、二球目、三球目を投げ込んだ。
四球目を前にして、息が苦しくて、座り込みたいのを我慢するだけで精いっぱいだ。
マコは、迷っているふりをして、時間稼ぎをした。
マコは呼吸を整えてから、四球目を投げた。
変化球がずばりと決まった。
「よっし!」
ガッツポーズを決めた。
麻衣が立ち上がり、マウンドに来た。
「ナイスピッチ」
マコは帽子を取り、汗を手で拭い、頷いた。
「投げる間隔が長い気がする? いい球だし、そこは文句ないよ」
顔を綻ばせる麻衣に、
「なんともないよ」
「そうだね」
「でも……」
食い下がる麻衣に、
「たった四球しか投げてないし、大会も近いしさ」
「マコ、すごい汗じゃない。とりあえず水飲もうよ」
麻衣は、汗なんてかいていない。それに気づいたんだ。マコはそう思うと、
「うん。そうしよう」
マコは、息も上がっていた。それでも、
「なんともないんだけどな」
と、また言った。
麻衣は、マコを見つめてきた。麻衣は微笑んでいた。それから厳しい目をした。
そんな麻衣に、
「ずっとさぼってたから」
マコが言うと、
「さぼってた? 何を」
「だって部活、出てなかったでしょ」
麻衣の言葉に、マコがそう答えると、
「違うでしょ? 体調が悪かったからじゃない?」
「それは、それで」
マコは、スポドリをまた飲むと、
「練習不足は、言い訳にはできないよ」
麻衣は、キャッチャーミットを撫でて、
「言い訳すればいいじゃない?」
麻衣の言葉に、返す言葉が出ないマコだった。
「うん。病院へは行ってるんだ」
「それで、どうなの?」
マコが、俯いていると、麻衣は不安げな顔で、身を乗り出した。
「別に、異常は今のところないって」
「はあ、そうなんだ。少し心配してた」
「あたし、勉強してるから? 疲れてるのかな」
「まさか!」
マコは、笑って、怒ったように、
「失礼しちゃうわ」
「ごめん」と麻衣は謝って、
「そうかあ」
続けて、
「深夜まで勉強してるんだ」
「そうだよ」
マコは、グラブを少し叩いて、
「特進への編入もかかってるしね」
「そうだね……」
麻衣は特別進学コース。マコは、普通コースだった。二年の夏を境にマコの特進への進路が決まる。
「特進に行って、勉強したいんだ」
麻衣は、黙ってしまった。ミットをずっと撫でていた。
「頑張んなよ」
しばらくの沈黙の後、麻衣は言った。
「うん」
スポドリの匂いだろうか、麻衣からレモンと蜂蜜の匂いがした。
麻衣をじっと見た。
「『頑張って』だけじゃないよ」
麻衣が、肩を寄せて、
「言葉だけじゃない」
「うん」
「頼りにならないかもだけど」
「そうじゃないよ」
マコは、首を横に振った。
「頼って! どんとね」
麻衣はそう言うと、ミットを手で掴んで、
「あたし、キャッチャーなんだよ。なんでも受け止めるからさ」
こくんと、マコは頷いて、
「それなら、あたしはピッチャーだ。どんどんいくよ」
「言ったね」
麻衣は笑顔で、えくぼを浮かべた。
マコは、立ち上がり、マウンドに戻った。
麻衣が、ミットを構えた。
投球フォームに入り、投げ込む。
麻衣が、両腕を上げた。なんとなくだが、いいらしい。
しばらく呼吸を整えるマコ。帽子を取って、空を見たりして、ゆったりしてみせる。
本当は、体に鉛が詰まっているようにすら、マコは感じていた。
二球目を投げた。また、麻衣は両腕を上げてみせた。
「大げさだなあ」
わざとマコはそう言うと、返球されたボールをまじまじと見つめた。
マコは、今は話せない。
誰にも話せない。麻衣にだってだ。
心の中にしまっておかないと。
数日が経った。
病院の待合室では、夕刻を過ぎて、人はまばらだった。
長椅子に座り、マコは北条にどういう顔で接すればいいか迷った。
マコは、診察室に入った。
入り口の隙間から、奥のほうが見えた。
北条の後ろ姿が見えた。嬉しい! と思うマコの気分はないまぜだった。
思わず顔を隠したいほど頬が熱いのに、医師からの問いかけに答えるマコの声は、キーが高くて仕方がない。それなのにマコは、同じくらい後ろめたいのだ。
大山医師が、何気ない感じで診察を進め、北条を呼ぶのもいつも通りだ。
詳しい診察は、研修医の北条が請け負うのだった。
「今のところ、特に異常は見当たらないね」
「そうですか。それならいいんだけど。あたし、特進クラスの試験受けるんです。といっても、一学期の期末試験なんですけどね」
北条は、驚いた顔をしながら、
「勉強好きになったって言ってたね」
「そう! 覚えていてくれてたんだ」
「もちろん!」と言いたげに、北条は頷いた。
「大会が近いんだ」
「ソフトボールの大会だね」
「うん。そうなんだけど、勉強もしないとね」
北条は、深く頷いて、
「部活と勉強、両方頑張ってるんだ。前にも聞いたけど、改めてすごいと思うよ」
「やった。褒められた」
マコは、両手を挙げて、手のひらを開いて、バンザイをしてみせた。
それを見て、北条は顔を綻ばせて笑った。
すると北条は、笑顔のまま、マコの目をじっと見つめてきた。
(えー? これってヤバいやつ?)
マコは、胸がドキドキしだした。
「疲れているのかな? 目が充血している」
「そんなことないです」
マコの息が乱れた。北条が、悲しそうな目でマコを見た。
しばらく、沈黙が続いた。
マコの息遣いの音だけが、妙に響くように感じた。
「病院に行くって言って、部活をさぼってます」
うん? 北条の目がきつくなった。
「さぼりなの?」
「ち、違います。さぼりは、たとえで、そうしないと、そうでも言わないと、休めないから」
マコは、とっさに出た言葉で北条に叱られそうな気がして、慌てて、片手を左右に振った。
立ち上がっていたから、診察ベッドに座った。
マコは、北条が自分の思っていた以上に、ずっと医者の目をしていることに気づいた。
「北条さん。お医者さんなんですね」
「うん?」
何をいまさら? みたいな目で、北条はマコを見た。
きょとんとしているようで、笑った目だ。
(珠ちゃんは悪くない)
マコは、心の中で念じるように叫んだ。
つい、珠のことを話そうかと迷ってしまったが、マコの心は頑なだった。
〔亡くなった姉があたしに憑依するんです。あたしは嬉しくて、だから、病院に来るんです。どうして? 分からない?〕
嫌われてしまう。幽霊だの、お化けだのと言えば、北条は笑うか、ヘンな目で見るだろう。
マコはそう思うと、「ヘンな子」と自分を見る北条の目を思い浮かべるだけで、本当にヘンになりそうだった。
「所詮はお医者さんなんですね?」
北条は、きつく目を絞ってから緩め、それから少し浮かない顔で、マコを見た。うなだれているようにすら見えた。
傷ついたのかな? マコはそう思ったが、言ってから黙ってしまった。
北条は何か言いたげで、口をモゴモゴさせて、でもやめた。
マコも、何か言いかけたが、口を閉じて、それから、挑むような目で北条に、
「あたしは、北条さんには病気の患者でしょ? それだけですよね」
上半身を揺らして、北条はペンを持った手を左右に振った。
「北条さんは、北条さんです。あたしにとっては」
北条は、ふっと血色がよくなったように見えた。
「元気そうだね。僕のほうが元気を分けてほしいよ」
北条は、破顔して笑った。嬉しそうだ。
(珠ちゃんがいなくなったら、もう二度と珠ちゃんと会えなくなるんだ)
ふと、そう思うと、せっかくの奇跡を、マコは奪われたくなかった。もし、北条に話したら、憑依なんて、絶対やめろとか言うだろうな。
(珠ちゃんのことは、やっぱり内緒じゃないと)
マコは、顔を上げて北条をじっと見た。
北条も見つめ返してきた。
(北条さんとあたしでは、やっぱり、医者と患者)
沈黙が数秒流れた。マコは何か言おうか迷ったが、腕時計を見た。
「もう、こんな時間」
「ああ」
北条は力なく言った。
「今日の診察は、これくらいでいいですよね」
北条は、険しく眉根を寄せて、
「本当に、疲れたら言ってね」
そう言うと、カルテに打ち込んだ。
マコは、診察室から出ていった。看護師さんが何か言いたげだったが、無視した。
あたしは、怒っていないし、悲しんでもいない。むしろ悪いのはあたしなんだ。
それなのに、北条は……。
後ろを振り返ろうかとためらいつつ、今なら許される。そう思ったが、マコは振り返らなかった。
北条が、もしマコを見ていたとしたら、きっとマコは悲しくて、けれども、嬉しくて、泣いたかもしれなかった。
そんな北条が、本当にいまは遠いのだった。
会計を待っている間、マコは、珠のことを隠し通せたことに、ほっとしていた。気づいたら、体が重くて、座っているだけで、だるさがひどいのだった。
北条の前では、気持ちで持ちこたえていた分、今のぶり返しがひどい。
珠を守っているのか? 自分を守っているのか? マコは分からなくなった。
電車に揺られながら、窓の外を見た。時折、車窓から、ネオンに似た蛍光色の明かりが見えた。北条の横顔を思い起こすのと同時に、珠と話したい、と心から願った。
家の玄関を開けると、明るい光が、目の前からマコを包んだ。
(疲れた)
体をどさりと下ろした気がした。
「最近、飲まないんだね」
「あら」と母は笑い、玄関口で、
「何言ってるの? しばらくは飲まないわ」
「しばらく、なの?」
二階に上がったマコは、ドアを閉めると、机に向かい、椅子に座った。
鞄は机脇に置いた。ひとまず、マコは広げたノートを見つめた。
赤ペンには触れずに、マコは、
「珠ちゃん?」
冷気が部屋に降りて広がった。カーテンがはためいた。霧が立ち込め、一つの点にまとまると人型になった。
珠が姿を現した。
赤ペンが、ひとりでに動いた。
『なあに?』
腰から下が、重くてだるい。けれども、マコには、珠の返事が救いの言葉のように感じられた。
(あたしも、特進コースへ行きたいんだ)
『勉強にやる気出たもんね』
右手をぎゅっと握り、赤ペンを強く持って、
(そうだよ、やる気だよ。なんとなくだけど、目標できたかな)
『なあに? 目標?』
それは分かっているくせに。マコは口を幾分膨らませ、
(宇宙飛行士でしょ? 違った?)
『それはそうだけど。「そのくらい頑張りなさい」の意味だよ』
マコは、やっぱり楽しいと、口元が緩むのを感じた。
(分かってるよ。うん。でも、目標ができると、頑張れるんだって、そう思うんだ)
透けて見える珠が、ぼんやり笑って見えた。ピンクのパーカーに、草色のフレアスカートだ。服装はずっと変わらないままだった。
いなくなったら怖い。そう思うから、
(いつものやつ、やってみない? お菓子を用意するよ)
珠が首を横に振った。そんな様子を見せるのは初めてだ。
(どうして?)
赤ペンでは間に合わなくて、
「どうして?」
マコは、そう繰り返した。
珠は悲しそうな目で、マコを見ていた。
マコは、赤ペンの文字に違和感を覚えた。珠の文字が明らかにか細いのだった。
そのことを、マコは気にしないふりをした。
(珠ちゃんにも理由があって、なんとなくだけど、疲れているみたいな)
マコは、そう思うことにした。赤ペンでは、そのことを書かずにいた。
「本当? おいしいもの食べたくない? デザート用意したよ」
マコが言うと、珠は首を横に振った。
赤ペンが動かない。マコが何か言っても、珠は表情や身振りで返すだけで、言葉としてのやり取りができずにいた。
コトコト、ひとりでに赤ペンが動いた。しっかりした字で、
『憑依は少し休もう』
「え? 本気?」
うん。珠は頷いた。
『なんか、不安なの』
「不安って? なあに」
なぜだろう? どうしてだろう? マコには分からなかった。せっかくデザートにメロンを買って冷やしてあるのに。
マコは不満で、上半身を背もたれに預けた。
『不安なの。少しだけ、感覚的なほうのね』
「え!」
マコはドキッとした。繰り返された不安の言葉。それは、冗談ではないらしい。
「約束したでしょ」
マコがそう言うと、珠は、全身に電気が走ったように、飛びのくほど驚いた。
マコはその様子に、疑いが本当のことのように思えてきた。
「いなくなるの?」
珠は何も答えない。
じっとこちらを見つめてくる。
「まただ。またあたしを置いていくんだ」
わざと不貞腐れてみせたくて、顔をしかめてそう言うと、マコは珠の様子を見た。
マコの頭に、珠との楽しかった時間がありありと浮かび、今は苦しいとすら思った。
珠も、顔をしかめたようにしていた。何か考えているようだ。右手を頬に当てていた。
赤ペンが、コトコト音を立てた。勢いがいつもと違う。
書かれたのは、太い字だった。はっきり読める。
『マコちゃんが、心配なの』
そう書かれた。その文字は、悲しみでもあり、「どうして分からないの!」という叱責にも似ていた。
「分からない。なんともないよ」
マコは、立ち上がり、両腕を広げた。
「ね? なんともない」
『マコちゃん! 本気で言っているの!』
赤ペンが折れるんじゃないかと思えるような濃い文字を読むと、マコは椅子に座り込み、珠をじっと見た。
『一緒にいたいのは、あたしも同じだよ。でも、このままだと、マコちゃんが壊れちゃう』
珠の目は、怒っているふうで、それでいて、目の奥は、悲しんでいるようでもあった。
『ずっと一緒――』
赤ペンが途中まで書いて倒れた。力なく薄い文字だ。
何が? マコは思った。
「いなくなるんでしょ!」
それなのに、ずっと一緒?
(珠ちゃんの言ってること分からないよ)
マコは、脱力感で気が抜けたみたいに、珠をぼんやり見た。
しばらく時間が過ぎた。また、赤ペンがゆっくり動き始めた。
『見ているからね。でも、マコちゃんは一人じゃないよ』
「どういう意味?」
認めたくないから。霧がかかっているのは、嘘だと思いたいから。マコは分かっているのに、珠に当たった。
「もういいよ。明かり消すね」
マコは、もう今日は珠とは話せない。そう思って、ベッドに潜り込んだ。
なぜか、胸騒ぎがして、もやもやした気分が抜けなくて、何か言うべきだったと気づいたが、どうしても口にはできなかった。
翌日の深夜。
昨夜、迷ったこと。言えなかった。
(ごめんなさい)
そう言いたくて、
「ねえ珠ちゃん?」
……? いつもなら、まず赤ペンくらいは動くのに、動かないし、部屋に冷気が立ち込めることもない。
風もなく、カーテンが揺れる気配は微塵もない。
いくら待っても、部屋はしんとしていた。台所のコトコトという音が聞こえるくらいだ。
「珠ちゃん?」
第八章
最後のお願い
〔高二の夏〕
ノートに、(ごめんなさい)
そう書き込んでから、二、三日が過ぎた。
夜になった。机の前に座り、開いたノートを横目にして、珠のことをマコは考えた。
この問い、珠ならどう解くだろう?
勉強に身が入らない時、決まってマコは、あの時、謝っておけば良かったと思った。また、珠と言葉を交わしたかった。
相も変わらず体は重いままだった。マコは、珠のせいではなかった気がした。
それなら、どうして?
スタンドの下の赤ペンを、マコは見つめた。
使い古した分、細かな傷が斜めに照り返していた。
勉強に戻ったマコは、数学の問題集を広げて格闘していた。
参考書の助けを借りつつ、自力で解く。
その時だ。赤ペンがくるりと回転し、小さくコトンと音を立てた。
コトンと、かすかに聞こえる程度の音を立てて、赤ペンは字をゆっくり書いた。
その一文字は、細くて薄い文字だった。
珠が、戻ってきた。たぶんそこにいるんだ。マコは、部屋の中を見回して、
「珠ちゃん? いるの」
赤ペンが、小さく動いた。
『許してあげようかな?』
薄い字だが、確かにそう読めた。
『宿題しているの?』
(宿題は終わったよ。今は苦手克服をしているよ)
マコが書き込むと、ずいぶん時間をかけて、
『そう。頑張ってるね』
赤ペンは、文字を書くのに時間がかかるだけでなく、途中で止まってしまうこともあった。
マコは、ノートに書かれている文字を見つめた。
(うん)
『勉強も、部活も頑張るだけじゃダメ』
(うん。分かる。どうしたらいい?)
マコは字を読んで深く考えた。答えが出なかった。
『考えるの』
(考えても分からないよ)
マコは首を傾げた。
次の日、マコはグラウンドに行った。
ユニフォーム姿ではなく、ジャージ姿だった。部員はみな、ひそひそ話したり、振り返ったりした。マコは気にせず、黙然とボールの片付けやグラウンドの整備をした。
体は重く、音を上げそうになったが、マコの気分そのものは軽かった。
沢田が、キャプテンとして、奥野監督の代わりに練習を仕切っていた。
奥野のいない間、沢田はマコに、「楽にしていていいよ」と言っていた。
疲れたマコが、ボールの入った箱を引きずっていた。
「どうした、今村。あたしが代わるよ」
沢田が言ってきた。
「ありがとう」
沢田がボールを運び終えると、
「無理なんかするな」
「はい」
マコは、しばらく手を休めた。
(あたし、邪魔しているのかな?)
周りを見回し、体の気だるさを感じていた。
沢田が、盛んに声を出してノックをしていた。控えの投手が何人か、グラウンド脇で麻衣と投球練習をしているのが見えた。
だが、マウンドには誰もいなかった。
「奥野先生!」
沢田が言うと、部員全員が、奥野監督に注目した。
監督が突然姿を見せたので、沢田が身を小さくしているように見えた。
グラウンドを一周してから、監督が、マコのジャージ姿を見て、
「今度は、マネージャーか?」
そう言って頬を緩める監督の前歯が、少し見えた。
「違います」
マコはそう言うと、もう何も言えなかった。
「今は休養だぞ」
マコは俯いてしまった。頷いたのではない。そう見せたくなくて顔を上げると、監督は笑顔ではなく、眉間に皺を寄せていた。
「分かったな」
語気は穏やかだが、はっきりしていた。
「はい……」
秋華が近寄ってきた。
「頼りない先輩かもしれないけど、これでも控えピッチャーやって三年目なんだから」
そう言って、マコの背中を優しく叩いた。
「うん」とマコはうなだれて答えた。
沢田と秋華にとって、もうじきあるソフトボール大会が、高校最後の大会になるのだった。
マコは、ロッカーで着替えると、部活からの帰り際、もう一度グラウンドに行った。練習中の部員を見て、ネット裏から麻衣の近くに寄った。秋華とマコの目が合った。秋華の小さい歯が見えた。それを見て麻衣がボールを受け取ると、マコのほうを見た。
目と目を合わせただけだった。互いに何も言えないでいた。
踵を返して、マコは自宅に帰った。
二階の自室に入ると、ベッドに倒れ込んだ。
マコは眠ろうとしたが、目が冴えているのか眠気は来ない。それなのに、体がだるく感じられるのだった。
ひとまず、お風呂に入ってからだ。マコは壁掛けの時計を見上げた。
深夜になった。
勉強があらかた進み、マコは両手を首の後ろで組み、それを外してから、コップの冷えたお茶を飲んだ。
赤ペンをじっと見つめ、手に取ると、
(大会がもうすぐあるんだ。それが終わると、期末試験だよ)
書き込んで赤ペンを置いた。少しだけ間が空いて、赤ペンは動いた。
『それは、頑張らないと。で、大会いつなの?』
マコはカレンダーを見た。日数を数えた。
(あと八日。土曜日だよ)
そうか……あと八日か。マコは深くため息を吐いた。
『――』
赤ペンは、何か書こうとして、止まってしまった。
様子を見ても、何も変化はない。
「疲れたのかな?」
マコはそうつぶやくと、自身もあくびをして、部屋の明かりを消した。
翌日の夜になった。
机の上に、ノートが開かれたままだった。
珠が何か書こうとして、点々と線が続いているだけだった。
冷気が部屋に満ちて、カーテンが揺れた。水蒸気が人型になって、ぼんやりと珠が現れた。
珠は前より薄く、ぼやけて見えた。
マコは、眉間に皺を寄せたが、やがて緩めてあくびをした。
珠はじっと、そんなマコを見ていた。赤ペンは少し動いた。しかし、止まった。
(ねえ、どうする?)
赤ペンが、再び動いた。
「さいご?」と、珠は書こうとしているのかな。マコは、赤ペンを見ながらそう思った。
ノートから目を背けた。何を言いたいんだろう。そう考えただけで、目の前が暗くなる。
「もう、これくらいにして終わりましょう」の意味だろうか?
マコの頭の中は、絡まった糸みたいだ。
息を一つ吐いてみた。
マコは、ノートに再び目を向けた。反射的にノートを閉じようとした。
――見たくないし、読みたくない!
赤ペンが、続きを書いていった。
『最後のお願い――』
珠の書いた続きを、マコは読んだ。
『ソフトボールの大会に出たいの』
え? 「誰が?」とは思わなかった。珠が大会に出たいんだと、マコは思った。
でも、マコは冗談と受け流したくて、
(見学ということかな?)
珠が、首を横に振る。
(どういうこと?)
珠はじっとマコを見つめてきた。分かっているくせに、と言いたげだ。
――まさか! 憑依したまま、大会に出るということだろうか?
マコの背筋がビクンと跳ねた。
ノートに目をやってから、突き放すように顔を背けると、
「分からないよ」
マコは珠に聞こえるように、そうつぶやいた。
マコは、何か言おうと、肩の力を抜いて、それから、赤ペンを手に取った。
(この前は、もう憑依はやめようって言ってたよね?)
ぼんやりと映る珠が、ありありとうろたえているのが見えた。
赤ペンが動いた。
『一度だけ。本当だから』
『マコちゃんと、一度だけ、同じ試合に出てみたいの』
珠は、マコを見つめ、手を祈るように組んでいた。目が今にも泣きそうに潤んでいるように見えた。赤ペンは止まったままだ。
そうだ。珠は、どうして現れたのだろう? それが分からずにいた。
あたしのためだ。珠は心配して現れたんだ。マコは純粋にそう思っていた。
在りし日のことだ――。
マウンドで麻衣めがけて投げた時、ネット裏では珠が様子を見ていたこと。その時、「マコ、すごいね」と言ってくれた。「あの球なら、誰も打てないよ」と、珠は言ってくれた。
珠も、投げたかったんだ。
マコは、目が覚めたと言わんばかりに、大きく頷いた。
珠の目は大きく見開かれていた。何か考えていて興味ありげだ。
『見届けてあげるよ』
(なにを?)
(でもね)
赤ペンを手に取り、
(監督は「今は休養」って言うの。大会に出してもらえるか、分からないわ)
マコは、大きく息を吸った。
珠の様子を見た。赤ペンから手を離しても、赤ペンはぴくりとも動かなかった。
「できない」
珠は、マコを見つめたままだった。
『無理なら、無理しなくてもいい』
――え? あれ?
『憑依は少し休もう。このままだと、マコちゃんが壊れちゃう』
そう言ってくれていたことを、マコは思い出していた。
マコは、俯いてしまった。膝頭に手のひらを乗せた。
もしかしたら?
マコは、珠の言葉を思い出した。
――一度だけ、本当に。
――見届けてあげるよ。
どうにも引っかかっていたマコは、珠の言葉の裏を考えた。
マコはそう思うと、珠の最後の願いは、叶えたくなかった。
珠の棺の中の顔を思い出した。
マコの視線がうろうろと机の上をさまよった。遺言ノートが目に入ったからだ。
マコの目に、表紙だけがとまった。
自由に生きて。
今村珠。
マコは、珠の残した言葉に応えたくなった。
マコは頭の中でぼんやりと、自分がマウンドに立ち麻衣に投げ込んでいる姿を想像してみた。もちろん大会でだ。
麻衣の笑顔と、すぐ傍には珠がいる。
そんな光景を思うと、あたし、出たい!
誰もいないマウンドに立つんだ。
――あたし、本気で、珠ちゃんとやりたい。
「一緒に出よう」
マコは立ち上がった。体の鈍重さを感じた。
珠は、目を見開いて驚いているみたいだ。
『いいの?』
赤ペンの文字は太かった。
「もちろんだよ」
マコは深く頷いた。珠の願いを叶えたかった。
(土曜日の試合だよ? 分かるよね)
珠は緊張した面持ちで頷いた。
『分かってるって。その試合でいいな』
マコは、珠と同じで、緊張し始めて、
(でもね。試合に出られるかは、やっぱり分からないよ)
珠はマコを見つめたまま黙り込んだ。
マコも赤ペンをノートに置いて、手を休めた。さっき立ち上がった後、すぐに椅子に座ったが、体の疲れに似た重みはいつも通りだった。
『分かった』
珠の答えに、マコは頷いた。珠の文字が、消えるように細かった。もし、試合に出場できなかったら、珠の願いは叶わないのだ。そうなったら……それでも? 試合に出たら?
――試合が終わったら、珠ちゃんはどうなるんだろう?
マコは、珠に聞きたくても聞けなかった。
――試合には出られないかもしれない。
〈無理なら、無理しなくてもいい〉という珠の言葉をマコは思い出した。
机の上には、真珠のキーホルダーが二つ並んでいた。
明かりを消そうと立ち上がった時、体の重さが身に染みた。この体で投げることになるのだ。マコは、奥歯を少し強く噛んでみた。
数日後。大会まで、あと三日と迫った水曜日。
マコは、午前中の授業を受けたのち、病院へ来た。
診察を受けたが、大山医師は、
「異常は特に見つからないな」
それだけだった。マコは、その言葉をもう当たり前にすら感じていた。
北条による詳しい問診へと続いた。
少しだけ、マコには、北条への後ろめたさがあった。「所詮はお医者さんなんですね?」と言ったこと。前の診察の出来事を思い出していた。すぐには、北条と顔を合わせられなかった。けれども、心より体が、顔を真正面にして北条を見つめた。
北条は、マコの様子をじっと見ていた。眉間をちょっときつめに絞ったようにも見えた。
「少しつらそうだね?」
「う、うん」
マコが返事をすると、
「歩くのが、だよ?」
マコが、イラッとした目で北条を見ると、緩んだ優しい目で、北条はマコを見つめてきた。
いら立ちが、急に薄れた。なんて言おう、どうしたらいい? 何もかも、全部打ち明けられたらいいのに。
マコの心は大きく揺れた。
体調のことを、いくつか北条に聞かれた。それらに答えてから、
「あたし、ソフトボールの大会に出たいと思っています」
北条は、マコを見つめて、ふと思案げな顔をして、目と目の間を指で擦った。
沈黙があった。北条は短く言った。
「無理は禁物だよ」
そう話すと、マコは、
「監督からは、休養するように言われているんです」
「だとしたら、僕の口から言えるのは、出たいか、出たくないかを決めるのはマコさんご自身だ、ということです。でも、本音としては監督さんと同じく、僕はマコさんの体が心配だな」
深く頷いて、北条はマコを見つめた。右手にボールペンを握り、左手が所在なげだ。マコはそれを聞いて、
「……」
すぐには、答えられなかった。北条が、
「大会の後、期末試験だね」
そう言うと、にっこり微笑んできた。
頬が緩んだままの北条が、
「今は、聞かないでいるよ。心配で、もやもやするけどね」
そこで言葉を区切り、黙ってマコを見つめてきた。
北条は、何か言いかけて、口を半開きにしてやめた。
マコは黙り込んだ。
北条は、ためらいがちに、
「今村珠さん。僕は覚えているよ」
「どうして、姉の名前を?」
マコの全身が固まった。
北条の笑顔も、マコの様子を見て、少し冷めていくようだった。
北条は、遠くを見るように目を細めると、表情を硬くした。頬が緊張したように思えた。それから、顔を明るくして、
「大会に出るのなら、見に行きたいな」
照れたように、言いにくそうに、
「いや、医者の本分を超えたかな?」
北条が言うので、しばらく、マコはどう答えればいいか分からなかったが、
「来てください。少しでも見てくれたら、あたし嬉しいです」
答えてから、やはり、はにかんでしまうマコだった。
診察が終わった。
そうだ。奥野監督に直訴してみよう。ダメならダメで、それでいい。
「出たい」
そう言うだけだ。
奥野監督に、明日……学校で。
第九章
真珠の光
〔高二の夏〕
翌日の木曜日。
授業中、どうにかして大会に出たいマコは、奥野監督にどう言えばいいかを考えていた。
ただ「出たいです」でいいんだろうか?
放課後になって、マコは、ジャージに着替えた。
秋華の投げる球を見た。ミットがビシッと音を立てた。リズムよく投球練習が繰り返されていた。
挨拶する声が聞こえた。マコも奥野監督に挨拶した。
「監督、あたし、試合に出たいです」
その言葉を聞いた奥野は、じっとマコを見つめた。顎に手を当て、思案げな様子だった。マコは、そんな奥野を見て、不安で焦れた。
「監督」
マコがそう言うと、奥野は、
「病院では、何か言われなかったのか」
「特に異常はないようです」
「そうか」
奥野は視線を下げ、マコの足元をじっと見ると、それから、視線を上へと向けた。
「歩き方を、さっきから見ているんだが、疲れているようにも見えるな」
マコは、ドキリとした。奥野はそんなところまで見てたんだ。
「ご家族はどう言っている」
俯いてしまったマコは、どう答えようか、言葉に詰まってしまった。お母さんには何も話していない。そう気づいていた。
沢田が少し離れて、マコを見ていた。
「身内の方で誰かいないのか」
「母に聞いてみます」
奥野はゆっくり頷くと、
「まず、お母さんに相談してから、もう一度来い。それからだ」
そう告げると、ぷいと奥野は行ってしまった。沢田のほうを見ると、マコと目が合ったのに、素知らぬふりをしていた。
部活から家に帰ると、時刻は七時を過ぎていた。マコは、着替え終わって台所に行った。
「お母さん、大会に出たいんだ」
「え?」
母は振り返ると、そう言った。
「マコちゃん? 本当に体は大丈夫なの」
明らかに、母は眉根を寄せた。それは、マコを思う母の恐れに見えた。
「うん」
「嘘でしょ。歩き方。気づいてないの」
「まあ。それは、疲れが出ただけだよ」
母が、深くため息を吐くと、頬を手のひらで押さえながら、呻くように、
「マコちゃん、大会に出たいのね」
「そうだよ」
マコは終始、平然と、なんともないふうを装っていた。
「ダメかな」
「いいかどうかじゃないでしょ。マコちゃんのことを思っているの」
台所で母と対峙していたマコが席に着くと、母も席に着いた。
「先輩には最後の大会になるんだ」
マコが言った。
珠も最後っていうしね、とぽつりマコは思うと、
「あたしには、来年があっても、先輩には来年はないんだよ」
「マコちゃん、頑張ってたしね」
母が嘆息した。思案げな顔をすると、
「どうしたらいい」
そう聞いてくるから、マコは、
「大会に出る許可だけ欲しいの。実際に出すかどうかは監督が決めるんだから」
視線をさまよわせたが、母は、マコをぎゅっと見つめると、
「監督さんに任せるとして、絶対無理しちゃダメ。途中退場とかも考えること」
念を押して、マコに言った。
大会を明日に控えた金曜日。グラウンドに行くと、部員たちは軽い調整をしていた。マコは、ジャージ姿で、所在なげに様子を見ていた。
奥野が現れたので、早速母の了承を伝えた。
意外そうな顔をした奥野は、遠くを見る目をしてから、
「先発でなく、ベンチ入り」
「そうですか」
マコは、とりあえず大会に参加できると喜んだが、珠との約束が果たせるとは限らない。そう思った。
「大会当日の、今村の様子を見て、起用を決める」
「それなら、出られるかも」
「使わないとは言ってない。出してもすぐ交代もあり得る」
奥野の冷めた言葉に、マコは半ば喜び、半ば落胆した。
「ただ、体調が悪い時に、隠したりしたら」
マコがきょとんとした目で、奥野を見るから、
「隠すなよ」
奥野は短くそう言った。
「分かりました」
マコは頭を下げ、頷いた。
奥野のもとから離れたマコは、麻衣のところに向かった。秋華と投球練習をしていた。今日はさすがに、秋華がマウンドで最終調整として投げ込んでいた。
マウンドから離れ、秋華がマコに近づくものだから、麻衣も立ち上がって、ミットを軽く叩いた。秋華が、マコの背中をポンと叩いて、
「マコ、待ってたよ」
軽口を言ってきた。
その日の夜。マコは、大会用のユニフォームを用意した。グラブはきれいにしてあったから、手を入れてぎゅっと絞ると、大会が待ち遠しくなった。
ユニフォームにも、袖を通してみた。体に沿うようにすると、グラブを片手に、
「試合に出たいな」
つぶやくと、マコは、机の上に視線を向けた。真珠のキーホルダーが二つ並んでいる。
じっと眺めていたが、キーホルダーを一つに合体させてみた。そのままキーホルダーを、マコは鞄に入れた。
「珠ちゃん」
赤ペンが、コトとだけ音を立てた。
もう一度、呼んでみても、またコトと音を立てて、それだけだ。
珠は姿を現さない。
どうしたんだろう。そう思うのと同時に、赤ペンの文字が、判読できないほど弱々しいのに気づいた。
マコは赤ペンを手に取り、何か書こうとして、やめた。
試合の後は?
何か言わなきゃ、書かなきゃ。そう思うのに、言葉にできない。
黙り込んだマコの頭に、謝らないと、そう浮かんだ。
けれども、言葉にできず、部屋の明かりを消すと、そのまま、マコはベッドに入った。しばらくは、頭の中が試合とそのあとのことでいっぱいだった。
目覚ましが鳴った。朝だ。マコは、ベッドから上半身を起こすと、時計の音を止めた。
部屋に戻って、確認作業をしていたマコは、鞄の中に、タオルや飲み物を詰め込むと、キーホルダーを入れたところのファスナーを開こうか一瞬迷った。
珠ちゃん。いる?
聞きたい気持ちに揺れた。
試合だけにマコは集中していた。
バスから降りて、大会のグラウンドに着くと、他校の生徒でぎっしりだ。いろんなユニフォームが辺り一面に散っていた。
金属バットの擦れる音や、誰かの投球練習らしき音が漏れ聞こえてくる。
ベンチ前の、割り当てられた場所に落ち着くと、沢田が全体を見渡していた。
秋華の背番号を見る。十番だ。マコは自分が一番だと思うと、にわかに秋華から顔を背けた。
麻衣を座らせ、秋華が投球練習を始めた。ウォームアップは済んでいるようだ。
開会式はなかった。試合優先のためだ。その試合まで間がないことにマコは気づいた。
チームがベンチに移動を始めた。三塁側だ。マコは遅れないように歩いた。
マコは、チームの荷物を運ぼうと手に取った。すると沢田が、マコから荷物を受け取った。唖然とするマコに、何も言わない沢田だった。
麻衣のほうを見ると、秋華の投球練習につきっきりだ。
先発は秋華だということか。マコは、麻衣が傍にいないのを寂しく感じた。
ベンチでは、控えということで、奥のほうに座った。秋華と麻衣が練習を終えて汗を拭きつつ、スポドリをおいしそうに飲んでいた。マコは、ベンチ裏に足を運んだ。
三塁側から、外野近くまで見回したが、北条の姿は見当たらなかった。
ベンチに戻ろうとすると、監督に見つかった。にっこり笑って近づいてきたので、意表を突かれた感じのマコは、お辞儀で返した。
ベンチに座ると、北条さん来てくれるかな、とマコは内心ドキドキしていた。
先発の秋華が、マウンドに向かった。
秋華の最後の大会なんだ。
けれど、マウンドに立ちたい。それは誰にも譲れない。
秋華がボールを投げた。相手チームのバッターは初球を見逃す。マコは、ベンチから固唾を飲んで見守っていた。
秋華を眺めた。バッターが打ち、守備が光って一つアウトを取った。
ひやりとしたシーンはまだない。
「マコ、待ってたよ」
その秋華の言葉を思い返していた。
待たなくてもいい。先輩は先輩だから。ずっと見てたんだから。マコは思った。
スリーアウトで、表の回が終わった。
マウンドで安堵した顔の秋華が爽やかだ。背中が自信ありげだった。
回は進んだ。五回の裏で一対一の同点だ。裏の攻撃で一点を返したその回が終わって、六回になった。秋華がマウンドに向かう。三回に一点を失っても、まだまだ球威は落ちていない。コントロールも悪くない。マコはこのまま呼ばれないかも。そう思うと、秋華が打たれるのを願っているのに気づいた。
――早く代わってほしい。
その気持ちだった。
卑怯だ。そう、自らを罵った。
秋華の背中の番号は誇らしげではなかった。背番号はエースの数字ではなかった。
マコは、人一倍叫んでいた。
「秋華先輩、頑張って!」
ベンチの選手がみんな驚いた顔をした。
監督に呼ばれた。
「肩を作っておけ」
控えの捕手と投球練習を始めた。
「投げるからね」
そう言葉をかけてから、マコは投げ始めた。
一球目。
二球目。
三球目。
数球投げてみて、息が上がった。
帽子を取って、ボールの握りを確かめ、時間を作った。
汗が額からこぼれ落ちた。
捕手はどんどん投げてこいと、ジェスチャーしていた。
カーン、金属バットの快音が響いた。秋華のほうを見ると、バッターランナーが二塁に向かっていた。返球が麻衣に届いて、三塁で走者はストップした。
「三塁ランナーは?」
マコは叫んでいた。
投球練習はもう、やめにしたかった。そんなマコの様子に、捕手が近づいてきて、
「三塁ランナーは四球で出た。秋華先輩がバテ始めている」
捕手はベンチに戻った。マコもベンチの席に着いた。
秋華が、マコのほうをちらりと見た。それからボールを投げると、球はストライクゾーンから大きく外れていた。
次の球はボール球だが、高めに浮いていて、バッターが手を出せば、長打になりかねない球だった。
奥野のほうを見た。奥野もマコを見た。
秋華が、最後の球を投げた。判定はボール。
奥野が、グラウンド、それから秋華を見つめ、再びマコを見た。
首を一度強く振り、部員を見回して意を決したようだ。
「できるか」
「はい」
マコは力強く頷いた。
奥野が頷き、グラウンドに向かって歩いていった。
審判にタイムを告げていた。
マコは、鞄のファスナーを開けて、真珠のキーホルダーを少しだけ握ってみた。それから、ズボンのポケットにキーホルダーを滑り込ませたのだった。
ベンチから立ち上がろうとした。ようやくの出番だ。マコは手すりみたいにベンチの背もたれにもたれた。それを、沢田が遠くから見ていた。目線が合うと、沢田は顔を伏せた。
「無理ならすぐ交代だぞ」
マウンドに向かうマコに、ベンチに戻る奥野が言った。もう控えには、一年生しかいないはずだ。
ゆっくり歩いた。
一歩。
また、一歩。
麻衣が立ち上がってマコを見ていた。鋭い目だった。
ボールを持ったまま、秋華は待っていた。
マコは、マウンドに着いた。早く投げたいという願いが現実になった後ろめたさで、秋華に顔をまともに向けられなかった。
二つの四球とツーベースヒットで、六回の表ツーアウト満塁。一対一の同点のままだ。
秋華からボールを手渡された。ボールから指が離れる瞬間、名残惜しそうに、秋華が目を細め、執念みたいにボールを眺めているのに気づいた。
マウンドから降りて、ベンチに向かう秋華を見送ると、マコは、ロジンバッグを摘まんで、よおし、と気合を込め、ランナーを見た。全ての塁を埋めているのが、急に怖くなった。
麻衣が立ち上がって、マウンドに歩み寄ってきた。
キャッチャーマスク越しに、
「やれる?」
「うん」
麻衣は、肩をこつんと叩いてきた。
それ以上何も聞かないのが麻衣らしいな。マコは、そう思いながら、息を吸って吐いて、汗を拭いた。麻衣はマコの様子をずっと見ていた。息がもう上がっているとか、そう気づいてるだろうな。
ホームへ麻衣は戻っていった。
ミットを麻衣は構えた。両手を広げ、どんと来いとジェスチャーしてきた。
マコは、黙ってボールを見つめた。縫い目みたいなデコボコを数えてみたりして、ボールを手のひらで回転させた。
審判のほうを見て、グラブにボールを挟むと、ズボンのポケットの真珠のキーホルダーを、布越しに右手でそっと撫でつけた。
(珠ちゃん!)
心の中で叫んだ。空を見上げた。
しばらく、待った。けれど、何も起こらない。
もう一度、珠ちゃんと言おうとして、
(いないのかな)
右往左往していたのに気づいて、マコは、麻衣のほうに顔の向きを変えた。
ボールを握った。ぴくん。指先が勝手に動いたかのように見えた。マコの意識とは別の、もう一つの体が同居している感覚。
手首の返し、呼吸の間隔、麻衣への視線。
ボールを握った。プレートに足を置いた。呼吸が苦しくなった。足を上げようと前に踏み出した。重く感じた。
珠ちゃんがいる。別の感覚だ。
――来てくれたんだ!
マコの顔に笑みがこぼれた。
踏み出そうとする前に、足は前へ動いた。右腕を上げると回旋して、投げ込む動作に移る。
一つ一つが、マコの描く動きより一瞬早いのだった。
(あたしじゃない)
マコは、自分が投げている感覚が乏しいと感じた。
珠が、また投球動作に入った。
審判が試合再開を合図した。
投げた。打者は見送った。ストライク!
一連の動作は後付けみたいだ。マコが後に動いている感覚だ。
投げる。どんな球? 変化球で引っかけさせる。麻衣のリードとサインは、マコと珠とで同じだ。
うん、と頷く。その前に頷いた。
投げるのと同時に、バットから打球が出た。
セカンドが捕って、ファーストへ投げた。
――アウト!
審判の声に、体を跳ねさせたくなった。
(やったあ)
マコは思うのに、体はベンチにすぐ戻ろうとした。
(珠ちゃん?)
もっと喜びなよ、とか、そう思うのに、周りを見ると、マコは、他の選手よりも歩くのが遅いのだった。
呼吸も荒くなって、汗が額から雫になって落ちていた。
ベンチに座ると、背もたれに寄りかかった。
(疲れているんだ? あたし?)
自分なのに自分でない感覚は、どこか絵空事に見えていた。
味方は、三者凡退だった。四番からだったのに!
マコはマウンドへ向かおうとした。
足が先に出る感じ。さっきよりマウンドが遠く感じられた。
歩くバランスが悪いんだ。頭で感じた。よろけているのかな?
どこか遠くで思った。
(やれる? 珠ちゃん?)
返事は、何も返ってこない。
マウンドにマコは立っていた。回は七回表、最終回だ。スコアボードを眺めて、汗を拭う。マコが思う前に右腕が動いていた。
プレートに軸足をかける。右腕を上げるまでの動作がさっきまでより遅く感じられる。
ぼんやり、立ったままマコは様子を窺った。少しだけ待ってみた。
マコは動いた。さっきより一拍遅れた感じ。それでいて珠が先に動いていた。
心は晴れていた。また空を見ようとした。しかし、目線は麻衣に向けられた。
キーンと音がした。ライト方向に打球がいった。ポテンと落ちたボールを、ライトが処理した。
一塁にはもう投げられなかった。
ライトが走者をちらりと見て、返球してきた。麻衣が立ち上がって、ボールを受け取ると、内野を鼓舞していた。
一塁のランナーを走らせない。
マコは一塁を見て、麻衣も見た。
肩が少し落ちていた。姿勢を直した。ホームの麻衣のほうを見た。
ランナーを見た。
バッターへ、投げた。
カーンと音がして、ショートがライナーを捕球した。
ワンアウトを取ると、肩で息をしていた。上下に揺れていた。
投げた。また投げた。
今度は浅くセンターに飛んだ。
ツーアウト。
投げる間隔は延びていった。マコが投球練習で投げていた時と同じくらいだ。
麻衣も、もう首をひねったりはしなかった。変わった。目つきが険しくなっていたから。
マスク越しに麻衣はマコを見ていた。
しんどい? 珠に聞いてみた。
疲れているのがあたしなんだ? マコには、よく分からないままだ。
ツーアウト。一塁のランナーを見た。
投げた。
ストライク。
また、投げた。
ストライク。
麻衣のサインで、一度外した。判定はボール。
再度同じところに投げ込んだ。ボールをリリースした。
バッターがバットを出しかけて止めたが、ボールは麻衣のミットに収まった。際どいところだ。判定はストライク。
三振!
やった!
スリーアウト。チェンジ!
七回表が終了して、ベンチに戻ろうと、足を前に出そうと意識するのに前に出ない。
ようやく、一歩が出た。遅れて、もう一歩。
珠ちゃんがいる。前に行く。
息遣いのつらさと、足の重みがどさっときた。たぶん? もう長くは続かないな。
ベンチまでがやけに遠く感じられた。
音がするくらいの勢いで座った。背もたれにもたれた。
奥野がマコの傍に行き、じっくり観察していた。
マコは、平気ですと言いたかった。
七番バッターが打席に向かう準備をしていた。
「もう、投げなくていい」
マコが何か言いかけると、奥野は、座ったままでいいと手で制した。
八番バッターも準備を終えていた。
マコは、まだ座ったままだ。そうだ、あたし、九番バッターのはずだ。
七番バッターを見て、そう気づいた。
奥野の顔を見た。マコをじっと見ていた。
打席に立った七番バッターが、ベンチに戻ってきた。アウトが一つ増えたんだな。背もたれに沈んでいるマコの脳裏に、そう刻まれた。
八番バッターが打席に立ったのが見えた。ネクストバッターとして行かなくてはいけない。
行かなくてもいいのかも?
マコは、ぼんやり見ていた。すると、八番バッターは、ファウルフライを捕球されて倒れた。
九番バッターはあたしだ。マコは奥野を見た。
延長なら、あたし投げないんでしょ?
それでも、最後に打席に立てるのかな?
周囲を見回すマコ。スコアボードは、一対一で同点の最終回。七回裏ツーアウトだった。
マコは、立ち上がろうとした。まず背もたれから上半身を起こした。
立ち上がった。呼吸が乱れていたが、次第に整った。姿勢もしっかりしてきた。沢田が傍に来た。何も言わないで、手を握ってきた。マコは、目をキョロキョロさせ、首を横に振った。足を一歩前に出した。
バットを持った。
急に全身に力が入った気がした。
そんなマコを奥野が見ていた。視線がさまよっていた。その目がマコの目とぶつかった。おや? 奥野のマコを見る目が変わった感じがした。
マコと、控え選手とを交互に見ていた。
まだ、審判に申告する気配はなかった。
マコは、奥野の前に行き、
「打ちたいです!」
奥野の迷いに、割り込むように言った。
言葉には、ただ勢いだけでなくて、願いも込めた。珠ちゃんの最後だもの。
ただ沈黙があった。奥野は何も言わないでいた。なぜか、不思議なものを感じた。
マコの呼吸は落ち着いていた。それを、奥野はじっと見ている様子だ。
「バットをしっかり持て!」
奥野はそう言うと、マコを見た。足元にふらつきがないか見ているのだろう。マコの足元は安定していた。
「肩の力を抜け!」
奥野は顔を上げて、短く言った。
それから、しばらく間があって、奥野は深く頷いた。
部員たちは、託す視線を集中して向けた。
マコは打席に向かった。
一番バッターのほうが先にネクストバッターサークルにいた。麻衣だ。
目と目が合った。穏やかなのに、底では鋭くマコを見ている気がした。
ベンチを眺めた。それから、スローモーションで周りの景色が見えた。
マコは思った。別のあたし、そこではあたしも観客な気がする。
(観客?)
三塁側の内野席に、偶然か、気づいたら北条が見えた。マコのほうを見ていた。
打席に立ったマコは、立っているだけで足が重い。息が苦しい。なおかつ、バットを持つだけでも腕が重く感じられた。
マコは、奥歯を噛み、バットを握った。ほぼ同時に珠も握った。
二人の意識が、一つに重なっていた。
二人で一本のバットを握った。
相手ピッチャーが投げた。
初球はコントロールのいい球だ。
バットを振ろうとするのに、体がついていかない。振り遅れて、ストライクを取られてしまった。
意識が先に行くのに、ダメだ。
――珠ちゃん!
祈りに近いくらい、心の中で叫んだ。
二球目。バットを振った。ボールは高く上がって、ファウルネットを越えた。
よし! 当たるぞ!
ボールがバットに当たった衝撃で、手がバットから離れた。
マコは、バットを握り直した。
握力が怪しい。いくら握っても、力が抜けていく気がした。
ツーストライクに追い込まれた。息が上がる。バットがさらに重くなった気がした。足元がふにゃふにゃする。ぐらりと膝からも力が抜けそうだ。
振り返り、マコは麻衣のほうを見た。
目線を戻して、相手投手を見る。
マコは右の手のひらを広げた。また右手を握りしめた。
マコの意識のほうが、珠より先に力が入った。
バットを持つ手が汗で濡れていた。
もう、あたし疲れているんだ。珠ちゃん? 心の中でマコはつぶやいた。
指先に力を込めた。遅れて、珠の力が指先に入った。
相手投手のほうを見た。ボールが投げられた。
ボールの軌道をイメージした。足を踏み出し、バットを持つ腕を出した。マコは思い切り振った。
ボールが当たった瞬間、マコは、珠と一体になった気がした。
よろけるような体勢だったが、ジャストミートしたようだ。手ごたえでそう感じた。
打球の方向を見ていた。
センター方向へボールが思った以上に飛んでいく。いけ! よりも、当たったのすら奇跡? みたいな感覚だった。
外野手がバックしていっても、ボールが遥かに遠いように見えた。
走らなきゃ! とにかくそう思うのに、一歩目が出ない。
わーという声がした。
遠くで歓声がしている。
どこで?
一塁は遠い。
マコの膝が、がくんと崩れた。
まだ持っていたバットを手放した。
地面に右手をついた。それでも立とうと、両手で地面を押して体を起こした。
「走らなくてもいい!」
え? 思わず、声のしたほうを見た。
「歩いていいんだ。マコ! ホームランだ!」
サークル内から、麻衣がそう叫んだ。
マコは、走ろうとするのをやめた。歩いた。歩き出した。一歩ずつ。
足がもつれそうだ。体が重い。ここへ来て、日差しが堪えた。
マコは足に力を込めた。前に出さないと、そう思った。一塁が近づいていた。
マコは、自分の呼吸音と足音が妙に響いているのを感じた。
一塁を回り、二塁に着いた。
歓声が聞こえてきた。一人一人の声は分からない。
どこか遠くからの声に思えた。
チームの仲間の声も混じっていることに気づいた。
選手がみんなベンチから出ていた。マコを迎えようと待っていた。
それらが、ぼんやりと目に入った。
沢田や、秋華や、麻衣の声が入り混じって聞こえた。
顔は見えないままだった。
二塁ベースを回り、三塁ベースが近づいた。顔がはっきり見えた。
奥野、沢田がいた。一年生の間に秋華がいた。
秋華はマコを頑なな感じで見ていた。
そっと観客席を見た。立ち上がっている北条の姿が見えた。
大きな歓声が聞こえてきた。
ホームベースが見えた。
麻衣が待っていて、こちらを見ていた。
マコが麻衣に近づいていった。
ゆっくり、着実にベースに向かう。
もうすぐだね。終わるね……。
一歩、また一歩。それから、ベースを踏んだ。
わーと音がした。
ベースの上、そこで足を止めた。歓声に包まれ、チームメンバーがこちらに集まろうとしていた。
どこか遠いところで声がしているようだ。
試合に勝ったことより、マコは自分の中にいるはずの珠に意識を向けた。
いる? 違和感?
さっきまでと違うな。マコは胸に手を当てた。
すぐ傍には麻衣がいた。秋華も走り寄ろうとしていた。
(珠ちゃん!)
心の中でマコは叫んだ。
空を見ようと意識した。顎を上げた。空が見えた。青い空に、太陽が強く輝いていた。眩しい。
(珠ちゃん?)
息をする。吐いて吸うのを繰り返した。珠との重なりがもうない。
息苦しいのは、マコだけだ。
手首を曲げてみても何の反応もない。指先をピンと伸ばしてみた。遅れて入った珠の分の力はもうなかった。
ポケットに手を向けた。布越しにキーホルダーに触った。
少し待った。もう珠との重なりが起こらない。もう一度、今度は……何もない。
力が入るのはマコの分だけだ。
グラウンドの土埃とマコ自身の汗に混じって、一瞬、柑橘系のシャンプーの匂いがした。甘い匂いだ。
マコが周りを見ても、誰も気づいていない。匂いを感じているのは、あたしだけだ。そう思った。
珠はどこかにいる。匂いがするのだから。
匂いのもとを探した。見つけた。すぐ傍には、淡い光が灯っていた。
白でも黄色でもなかった。わずかに虹色を含んだ真珠色。
柔らかくて優しい色。
それは、丸い形をしていた。
口から、言葉を出そうとした。
けれど、言葉が出ない。
ごめんなさい、と言いたいのに。
珠ちゃん。そう言いたいのに、その言葉すら出ない。
光を前にして、マコは黙り込んでしまった。
「マコちゃん」
澄んだ声。懐かしい声。
声?
マコは、反応が遅れた。
珠の声だ! そう気づいた。
「珠ちゃん」
真珠色の光が、空へと昇っていった。
キラキラ光る丸い光は吸い込まれていくようにも見えた。
マコは空を見上げた。
珠ちゃん、行くんだね。
そう思った。この時ほど、太陽を眩しく感じたことはなかった。その分、空は澄み渡って青かった。目頭に涙が滲んだのは、眩しいからだ。マコは誰にでもなく言い訳していた。
空の色に混ざり、だんだん真珠色の光は小さくなって、消えていくようだ。
珠の声はもう聞こえない。柑橘系の匂いももうない。
ポケットに手を入れた。キーホルダーに触ってみた。
二つで一つになっている。今もあった。けれど、何の変哲もない。
何の返事も答えもない。ただのキーホルダーだ。
遠い音が戻ってきた。珠ばかりを見ていたマコも、周りに目を戻した。チームメンバーが何か叫んで、マコを中心に輪ができていた。
麻衣や秋華の喜んでいる顔が見えた。
マコも、周囲と同じく顔が少し綻んだ。けれど、体はもう限界だった。緊張の糸が切れたのか、まず足の力が抜けて、マコは崩れるように倒れていった。
すかさず、麻衣が支えてくれた。ありがとう。マコは言いたかった。が、言葉にできたかどうか。空が目に入った。周りが暗い。その中に、青く澄んでいたところがあった。そこは真珠色の光が消えたところだ。
暗い周りの部分に、押しつぶされるようにして、視界がぼやけていく。
誰だろうか?
あたしを呼んでいるんだ。
うん。答えようとしているのに、声が出ないようだ。
瞼を閉じた。すとんと暗いところに落ちた。
第十章
空を見上げて
〔高二の夏〕
足音が聞こえた。パタパタという靴音。ワゴンだろうか、どこかでガラガラという音もした。
カーテンを引いたようだ。シャーという音が聞こえた。
パサという衣擦れに紛れて、消毒薬の匂いと、辺りの布団の匂いが混ざり合うのを、マコは感じ取った。
うっすら目を開けた。喉が渇いていた。首を動かそうとするが、それ以上に肩から下が重くて、うまく動かせない。
白い天井が見えて、消灯しているLED灯が見えた。まだ昼間のようだ。
(珠ちゃん)
呼ぼうとしたが、声が掠れて言葉にならない。
試合の後? どうなったんだろう?
重い肩の下を探るようにして、右手に意識を集中してみた。
指を曲げてみようと、指先に力を込めた。曲がってから、ほっと安心して、手首も曲げてみた。ピンと伸びた指先。体は動かせるようだ。自分の分は自分だけで、当たり前だ。
けれども、試合中に感じた、もう一人分の力、珠の力はもう入らないのだった。
マコは、首を左右に振って様子を窺った。左手で掛け布団を押しのけてみると、服装は試合の時のまま、ユニフォーム姿だった。
左の手のひらを持ち上げると、土が付いていた。指先を見ると爪の間にも。
ベースを踏んだ時の感触を思い出した。あの時も、重くてだるく、今も同じままだ。
そうだ、試合の後、キーホルダーに触って、それからどうなったんだろう? マコはズボンのポケットを探った。ない! 一瞬焦った。視線を枕元のラックの上に向け、二つが一つになったまま、キーホルダーが置いてあるのを見て、ほっとした。母だろうか? ズボンから取り出して置いてくれたようだ。
しばらく、ぼんやりしながら、マコはキーホルダーを眺めた。
胸が詰まって、目をぎゅっとつむった。
おや? 目を開けて、視線を巡らせると、窓とは反対側、点滴に隠れて母が座っていた。
「起きた?」
母の顔には、泣いた跡みたいなところがあって、そこだけ化粧が崩れていた。
うんという声が掠れて出ないことに、母は気づいた。水差しを用意してくれて、マコは、水を飲ませてもらった。
体を起こしたい。そう思ったマコは、上半身を起こそうとしたが、手に力を込めても、体が重いのだった。足にもやはり力が入らない。
「入院の手続きを済ませてくるから」
ぽつりと、母が言った。席から立ち上がった。
入院は、しばらくだけかな? マコは言いかけて黙った。
カーテンを開けて、マコを見て、
「試合勝ったんですって!」
「そっか」
小さく答えた。
「さっきまでいたのにね、麻衣ちゃん」
母がさりげなくつぶやいた。
母がいなくなり、一人だけになった。病室は静かだった。
カーテンが開かれた。
わ! 思わず声が出た。
北条だった。
「驚かせてごめん」
開口一番、北条は言った。白衣でなくて、普段着らしい私服姿だ。カジュアルで、学生みたいにも見えるけど、それもいいかな。マコはそれとなく観察した。
「今日は当番でなくてね」
うんうん、マコは頷いた。ただ今は……。
本当は、嬉しいはずなのにね。
マコは、一瞬迷ったが、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「どうして、あたしの姉のこと、今村珠のこと知っていたんですか」
北条は、頷いて丸椅子に腰を下ろすと、実習生のころのことを話した。
長期入院していた珠を、病棟で見かけて、それで名前を覚えた。そう話してくれた。
「あの長い廊下で今村さん姉妹を見かけたんだ。車椅子を避けた時、珠さんがよろけて、僕は『危ない』って声を上げたんだ」
「覚えています。その時ですね。駆け寄ってくれましたね?」
「僕は駆け寄ったけど、すぐに、マコさんが支えたんだ」
じゃあ、珠ちゃんはもうその時、とマコは言おうとしたが、
「それ以上は、僕からは言えない」
それから北条は、循環器を志望していたけど、血液内科も候補に考えていると語った。
「まだ決めてないだけ」
北条は、そう言うが、悩んでいるようにも見えた。笑っているけどね。そう思うと、つられて、マコの頬も少し緩んだ。
それだけ言うと、北条は、
「じゃあ」
と言って病室から出ていった。
時計を見た。いつの間にか、天井の明かりが点いていた。
静かな病室で、マコはラックの上の真珠のキーホルダーに手を伸ばした。
もう、光らない。でも、ライトが反射してきれいに映った。
握ってみた。
入院していた珠ちゃんを覚えてくれていた人がいたんだよ。
マコは、心が少し救われた気がした。
入院から一週間後、マコは退院した。
まず、机の上の参考書が目に入った。
それから、遺言の書かれたノートが、机の上の端に置かれていた。赤ペンも一緒に。
赤ペン? 思わず目が釘付けになった。
マコは、待ってみた。ふと気づいた。何か起こるのを待っている自分にだ。
静かな部屋だ。台所の音が小さく聞こえる。包丁で、まな板を叩く音だ。コツコツ。
しばらく、時間が流れていった。
「珠ちゃん」
赤ペンの様子を窺った。
何も起こらない。赤ペンをいくら見ても、変化はなかった。
赤ペンから視線を外すと、一緒に置かれていた遺言ノートを見た。
ノートのページをゆっくり開いた。紙をめくる音が静かな部屋に響いた。
珠の小言が、懐かしい。
【運動もいいけどさ、勉強くらい少しはしなさい】
【ご飯とお肉だけでなくて、お野菜も食べなさい】
珠が描いた、マコのイラストがあった。ソフトボールの投球姿だ。
口元が思わず緩んだ。漫画風のイラストに見入っていた。
夕日は沈んで、部屋が暗くなった。マコは立ち上がり、部屋の明かりを点けた。
次の絵を見た。山盛りのご飯を、マコと思われる女の子が、ばくばく食べていた。
マコは思わず、くすっと少し息を漏らして、笑ってしまった。
あ、とマコは思った。
笑っている、あたし。あれから、どのくらい笑ってなかったんだろう。
さらにページをめくると、太陽系と星々と宇宙ロケットが描かれていた。
文章も添えられていた。
【自由に行きなさい。自由に生きなさい。でもね、自由になるには、勉強して頑張って、宇宙飛行士になる! くらいの夢を持ちなさい】
そう書かれた下には、英語で【希望】を意味するロゴが描かれていた。
マコは、机の上の参考書に目を向けた。けれど、またノートに目を戻すのだった。
マコはノートを読み進めていくうちに、珠が入院していたころを思い出した。病室で珠が話した言葉が記憶から鮮やかによみがえっていく。
「マコちゃんを好きになってくれる人、きっといると思う」
珠は続けて、
「その人は、あたしより、ずっと傍にいてくれるよ」
珠の言葉から、マコは北条を思い浮かべた。カジュアルな私服で丸椅子に座り、まだ決めてない、そう笑顔で話す姿。少しだけ頬が熱くなった。
さらに、ページをめくった。
【泣かないで】
赤い字でそう書かれていた。
ずっとマコは見入っていた。
強がるマコの目が、熱くなって、涙が滲んだ。
マコは目を閉じて、一呼吸した。
一つ息を吐いて、それから、目を開けた。ノートを閉じて、机の中央に置いた。その上にそっと赤ペン。
真珠のキーホルダーが、机の上で、部屋の照明を照り返していた。
廊下の向こう、階段の下から、台所の音がする。
お鍋の蓋を閉める音だ。
母が何か、独り言を言っているのが聞こえた。
マコは、机から顔を上げて時計を見た。
椅子からゆっくり立ち上がり、部屋から階段に向かった。手すりを握りながら、一段ずつ降りた。
台所に近づくと、鍋や食器の音がして、夕食のおかずと、炊いたご飯のいい匂いがした。
母が、マコには気づかないで、ごにょごにょ言っていた。
「お砂糖は、小さじ、お醤油は大さじ」
なんかそんなような言葉だ。
母は、マコに気づくと、
「もうすぐできるよお」
と、いつもと同じように、元気に言ってきた。
夕食は、鶏の唐揚げなど、マコが好きなものが中心だった。食事が終わると、母は、
「デザートに、クレープなんてどうかしら」
マコが頷くと、
「退院おめでとうね」
そう、母は言って、ホットプレートを用意して、薄く生地を流して、クレープを焼いた。
「練習したんだけどな。上手にできるかな」
一枚目は、生地をうまく流せたようで、けれど、厚みがバラバラで、途中で破れたりして、格好が悪かった。
マコより料理の上手な母が、クレープには苦戦していた。
「やっぱりダメねえ、最初の一枚だから仕方ないかな」
母が、悔しそうだけど、どこか笑ってみせた。クレープの焼けた生地とバターの甘い匂い。そのクレープを見て、
『食べてみたいな。そのクレープ』
という珠の言葉と、マコが返した
『退院したら、一緒にね。行こうよ』
その言葉が、よみがえった。
そうか……退院したのはあたしか。
「あら、アイス買うの忘れちゃった」
小皿が二枚、テーブルに用意してあるのを、マコは眺めた。
きれいに焼き上がった二枚目と、最初の一枚をそれぞれ半分ずつにして、小皿に分けてあった。ホイップクリームと、粒チョコ、スライスバナナで彩られていた。母はナイフで、少し刻んで、摘まんで口に入れた。
「どう? おいしい?」
母が聞いてきた。母のナイフを持った手が、かすかに震えていた。
「おいしいね」
マコも食べてみて、そう言った。
すると、雨の音が聞こえてきた。
最初は弱かった雨音が、だんだん強くなっていく。窓ガラスにも水滴が付いた。
テーブルに向かったまま、窓のほうを、マコはぼんやり眺めていた。
雨でも雨とは認めない。そう言ったことがあった。
一呼吸してから、
「雨だったね」
涙が頬を伝った。
もう、眩しさのせいにはしなかった。
母が席を立って、マコに近づいて、背中をやんわり撫でた。静かに抱き寄せてくれる。
母は、無言だった。母の体温を感じると、マコの涙がとめどなくあふれてきた。
失いたくなかった。
思い出になんて、したくなかった。
マコは母に抱きついた。
それから、翌朝だった。
雨音はもうしない。体は重いが、窓際まで歩いた。
マコがカーテンを開けた。外を見ると、雨は上がっていた。
窓越しに空を見た。
雨上がりの雲。太陽が柔らかい光を放ち、輝いていた。
薄い雲が、朝の光を受けて真珠色に見えた。
机の上には、参考書と遺言ノート。その上に赤ペンがあった。
マコは空を見上げた。




