前編
姉妹の夢は真珠色
序章
真珠の欠片
〔高二の春〕
高二の春、校門の桜の木の下では、新入生たちの形だけきれいでどこかぎこちないリボンが、ひどく初々しく見えた。
新部員を獲得せよ!
キャプテンからの命令だ。
女子高でも、ソフトボール部の仮入部には毎年それなりの人数が集まる。
けれど一か月後に残るのは、たいてい一人いるかどうかだった。
新入生を部に引き込むため、真は、プラカードを持ったままグラウンドのほうへちらりと目をやった。
ネット越しに見ていた一年生が、あれが新エース? と声をひそめる。
小柄ではない。でも、肩の細さだけを見ると、まだフツーの女の子に見えた。
ついこの前のお葬式のことが、昨日のことみたいによみがえった。
ペアの真珠のキーホルダーは、マコが持っている。
二つとも鞄の中にしまってある。時々取り出して、柔らかい布で磨く。
光に照らすと、白く透き通る真珠の光沢が眩しい。
ずっと一緒、約束したのに……。
桜の花びらが一枚散ると、我先にと散る花びら。
絶対に散らない桜はないのに、どうしても、散るのを急ぐみたいに見えて心がざわめく。
涙を押し戻すと、悲しみとは別のざらついた感情が胸に残った。
マコはそれをごまかすように、新入部員たちを眺めた。
「練習きついかもよ」
「ほんとー」
黄色い声が飛び交う中、
「頑張んなよー」
と、軽く声をかけるマコ。
いろんな願いがあるなか、祈りは届くのだろうか。
願いは裏切られた。
珠のキーホルダーをぎゅっと握る。
珠の記憶が消えない限り、珠はまだどこかにいる気がする。
マコは姉の珠の出棺を見た。目を赤く染めながらも、手を胸に当て、思案げな様子を見せていて、周囲には奇異に映った。
「我慢しなくていいよ」
マコの先輩の秋華がそう言っても、マコは腫れた目から涙をこぼさなかった。
父が声を押し殺せずに喉の奥で唸るように泣いていた。
そんな泣き方をする父を、マコは初めて見た。
誰も理由は聞かなかった。
ただ、聞けないものを見る目だけがマコに集まっていた。
もう片方の手で、珠の遺言ノートを小脇に強く抱え込んでいるだけだった。
泣く場所で泣かないと、ただ変に見える。そうマコは思い知らされたのだ。
マコはお骨を拾うことはともかく、火葬場までは両親と霊柩車に乗るつもりだった。ところが、お骨拾いはダメだと言われた。
心が折れてしまうと、父と母はそう判断したんだろうな。マコはそう思った。
「最後の別れだよ」
と、親戚の叔母さんに言われて、お棺の中の珠の顔を覗いてみた。
珠の髪が長くて美しいのが、最後の慰めに見えた。
珠の本当の髪ではないから……。
「珠が先に逝くなんて思わなかった」
バカな、本当にバカなことだ。もっと生きたかったろうに。
父が、叫ぶように声を張り上げるのを聞いた。
「大事な娘が亡くなったんだもの」
母も泣いてばかりいて、これまでになく小さく見えた。
マコは最後に泣いていいよね。遺言には背くけど。
心の堰が壊れて、雫が頬を伝った。
「今日は、しょっぱい味の日だね」
涙の味が、舌に残っていた。
線香の匂いとともに、夢に出そうだった。
それから、
「もう泣かない」
そう言って、顔を上げた。
「おっはよー」
新学期が始まった。マコは新たな同級生と、教室を共にした。
マコはもう笑っていた。
新学期の教室で、昨日までのことなんかなかったみたいに。
同級生は、壊れ物みたいにマコを扱った。
声をかける時も、机の横を通る時も、
どこか遠慮があった。
それがかえって、珠の不在を教室じゅうに貼りつけているみたいで嫌だった。
家に帰ったマコは、母に怒られた。
「マコがソフトボールなんてするから。お母さんにだって、やりたいことがあるの」
「あたしには、学校があるし、部活動だってしたいわ」
「そんなの、お母さんには関係ないでしょ。お母さんに言っていいことと、悪いことくらい、分かる年でしょ」
酔って絡んでくる母を前に、マコの頬は涙で濡れた。
父の帰りが遅くなる。
母も半ば投げやりで、家事もマコ任せで、友達と遊びに出かけていた。
怒るのを通り越して、父は呆れていた。
マコが疲れてソファで眠りかけると、父と母の怒鳴り合う声が聞こえるのだった。
寝不足で迎えた朝、マコが学校に行くと、机の上にいたずら書きがされていた。
「いったい誰」
短い悲鳴が喉から漏れた。
机の上の赤い文字は、血みたいに見えた。
同級生はマコをちらりと見るが、すぐ関心がなさそうに、マコから視線をそらした。
赤い文字をティッシュで拭き取ろうとすると、ふと、マコは文字を読んでしまう。
赤い文字で、こう書かれていた。
≪勉強しろ 珠≫
「何よ。誰、こんないたずら」
声を上げるマコに、「えっ」と驚いたような顔をする同級生もいたが、周りは見て見ぬふりをした。
赤い、血のような文字には恐怖を感じ、珠と書かれた名前を見て
――姉を侮辱された気がした。
姉のことを忘れようとしていたから。
――それでも、心がざわついた。
犯人を見つけるか、先生に言うかで迷ったが、今は様子を見ようと思った。
(誰が書いたんだろう)
マコは授業中、そればかり考えていた。
一日の授業が終わり、部活へ向かおうと下足箱に手をかけた時、扉がひとりでに開いた。
まただ。
背中がすっと冷えた。
「珠じゃない」
泣きそうな声でそうつぶやくと、喉の奥がぎゅっと塞がって、息が苦しくなった。
部活の時間になっても、調子が上がらなかった。
「しっかりしてくれよ、エース」
「どんまい」
キャッチャーの麻衣が、マウンドまで来て、励ましてくれる。
麻衣だけは、ずっと隣にいた。
部活の帰り道、麻衣が、
「ほんと、大丈夫?」
やはり、気づいていたんだ。マコはそう思い、隠していても仕方がないと感じて、机の落書きのことを話した。
「誰よ」
麻衣は、マコのことを心配し、本気で怒ってくれた。
マコの中で、張りつめていたものが、ふっと緩んだ。
――泣きそうだった。
「絶対許せないから」
麻衣を、今度はマコがなだめながら、家に着いた。
母がソファで寝ているのを、ちらと見て、マコは二階へ上がった。
一日の疲れのせいか、いつの間にか眠りに落ちていた。
夢の中で、誰かに名を呼ばれた気がした。
珠だ、と思った。
悪霊なのか。
それとも誰かの悪ふざけか――そう思いかけて、マコは頭を振った。
姉に限って、そんなはずがない。
部屋の空気が急に冷え、キーホルダーがわずかに揺れた。
真珠色の光が、かすかに滲んだ。
揺れるキーホルダーを見て、マコは息を呑んだ。
体が動かない。
――珠だ。
そうとしか思えなかった。
真夜中、マコの眠りが浅くなりかけて、夢の世界のただ中にいるころ、廊下と階段から、きしきしと足音が漏れ聞こえた。
(誰?)
軽い足音だった。
大人のものではない。子どもみたいな足音だった。
「誰なの」
小さな声のはずなのに、部屋に大きく響いた。
足音はぷつりと消えた。
部屋を出て確認しようかとマコは思ったが、怖くて縮こまった。
だからといって、このまま眠りに落ちるには勇気がいる。
マコは、眠りに落ちることなく、ベッドに潜り、夢と現実の狭間でうとうとするのを繰り返した。
眠っているのか、起きているのか分からないまま、また階段でコトンと音がした。
誰かが、階段にいる。
マコは意を決して、部屋を飛び出した。
その足音は、怖いはずなのに――どこか懐かしかった。
音の正体を見極める。
階段を見た。
――誰もいない。
そう思って部屋に戻ると、風もないのに、緑のカーテンがばさりと両側に広がり、大きな窓ガラスから月光が差し込んでいた。
月の光があまりに美しい。それなのに窓は全く開いておらず、カーテンだけがはためいていた。
「いるんでしょ」
マコは呼びかけた。
亡くなった姉が、何か伝えようとしている。
すると、カーテンはぱたりと揺れるのをやめた。
マコは窓に近づき、施錠されていることを確認した。それでも、カーテンがぴくんと跳ねてみせた。
姉の珠が――帰ってきた。
部屋のカーテンが、不自然に開かれた日の朝。
部屋を出ると、小さな水たまりのような足跡が、階段から部屋まで続いていた。
部活から帰宅した時、時刻はもう二十時近かった。
いつも以上に疲れていたマコは、ソファで寝ている母の姿を見た。
ビールの空き缶がいくつも転がっていた。
つけっぱなしのテレビからは、虚しくバラエティが流れていた。
冷蔵庫を開けると、昨晩の残りにはラップが掛けられたままだった。
一人きりの食卓で、マコは味のしない夕飯を口に運んだ。
お風呂に入り、髪を乾かすころには、ようやく少しだけ自分を取り戻していた。部屋で宿題を始めた。
机の上の珠のキーホルダーを見た。
「珠ちゃん、今日は来ないよね」
何気なく口にしたつもりだった。けれど声にした瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
一人でいる夜は、少し油断するだけで涙がこぼれそうになった。
前日からの寝不足を抱えたまま、マコは学校へ向かった。
教室前に立つだけで、肩がすくむ。
同級生への挨拶さえ、喉につかえた。
無視されるかもしれない――そんな恐怖が、いつも先立つ。
「おはよー、マコ」
元気な挨拶に、全身がドクンと跳ねる。
「麻衣かー。おはよー」
朝の挨拶が、元気に交わせるなんて、いつ以来だろう。
自分の席に着くと、マコのものではない赤ペンが、ぽつんと置かれていた。
使い古されたその赤ペンには、細かな傷がついている。
手に取ると、マコの指先がかすかに震えた。
授業に集中しようとした時、机の上の赤ペンが不自然に揺れた。
もしかして、
(……珠?)
心の声が叫んだ。
そういえば、それは珠が最後に持っていた赤ペンによく似ていた。
放課後。
部活に行こうとすると、赤ペンが、意思を持つかのように机から床へ落ちる。
犬か猫がじゃれつくみたいに、マコの足元へ転がった。
ポケットにそっと入れて、マコは小さく呼んだ。
「珠ちゃん」
部活が早めに終わった。
家に着くと、リビングで、母が座って待っていた。
片手に缶ビールを持っていた。
「マコは、珠ちゃんのこと覚えているのかしら」
母の目はとろんとしているが、涙で潤んでいた。
マコは言葉を失う。
怒ることもできず、マコの体は小さく震えた。
ポケットの中の赤ペンを、思わずぎゅっと握った。手の中が汗ばんだ。
赤ペンはポケットから勝手に飛び出し、床に落ちた。
――コトン
という音を響かせて、傍にあったノートに赤いインクを滲ませた。
マコは、震えながら赤ペンを掴んだ。ペンは、ひどく熱を帯びていた。
母から逃げるように自室に戻ると、マコは机の上に赤ペンを置いた。
置いた瞬間、赤ペンのペン先が小刻みに揺れた。
「珠ちゃんなの……?」
赤ペンは、それきり何も反応しなかった。
マコは気持ちを切り替え、宿題を始めた。
けれど、いつもなら解ける数学の問題に、今日はなぜか手こずった。
ふと、机の奥のほうを見た。
白いものがぼんやり浮かんでいた。
ドキッとした。
誰かいるんだろうか。
マコが目を見張ると、白いものは消えた。
部屋を見回したが、もう誰もいない。
疲れているんだ。
マコはそう思った。
椅子から立ち上がって、背伸びをした。
それから、珠とよくやっていたように、ソフトボールの投球動作の真似をしてみせた。
「ナイスピッチ!」
頷くと、マコは気が晴れて机に戻った。
部屋の空気が揺れた。やっぱり、おかしい。
また、あの冷気だ。
霧のようなものが集まり、空気の流れに押し出されるように動いた。
やがて人影のようになり、白いワンピースをまとっているようにも見えた。
まだ、顔もはっきりしないし、輪郭がおぼろげだ。
こんなふうに現れるものを、マコは一人しか知らなかった。
「珠ちゃん」
思わず呼んでみると、返事はない。
白い霧は、何か答えようとするように、ゆらゆら揺れた。
マコには、それが返事のように思えた。
「やっぱりだ」
涙をこらえ、白い霧に手を伸ばして確かめようとすると、それは一瞬で消えた。
カーテンは風もないのに、小さく開いて揺れた。まるで、そこから逃げたように。
珠のキーホルダーが、真珠色に鈍く光っていた。
残った匂いは、確かに珠のものだった。
会いたかった。
ただ、それだけだった。
ベッドに潜り込むと、深い眠りに襲われた。
第一章
春の光(回想一)
〔高一の春〕
入学式、今日から高校生だ。
マコは、窓を開けて新しい朝を感じた。緑のカーテンが朝日を受け、薄く光を透かしていた。
「寒いじゃない」
珠が文句を言うと、目覚まし時計に目を凝らした。目をこすっている。
「まだ六時よお」
「もう六時だよ」
マコは、ジャージに着替えると、
「走りに行く」と、いつもの調子で部屋を出ていくのだった。
階段を降りると、母が、
「おはよう」
「おはよー」
挨拶を交わすと、
「走るの?」
「うん」
マコは気にしないで、顔を軽く洗って、歯磨きを手早く済ませると、外へ飛び出した。
四月の朝はまだ肌寒い。けれど汗をかくことで体を温めた。
いつものコースを意識しながら、最初は軽く足慣らしをし、それから徐々にペースを上げて、自宅でフィニッシュ!
靴を脱いで、きちんと揃える。丁寧に揃えないと、母がうるさい。それから、台所に行く。
冷蔵庫から、麦茶を取り出し、コップに注いで、飲み干すと、
「いい気分かしら?」
珠が、テーブルに着いて、パンをかじっている。珠は少食だから、まるでリスが食べているふうに見える。
「おはよー」
「あ、おはよーじゃないよ。今日くらいは、ゆっくり眠りたかったよ。ねえお母さん」
「そうねえ。今日は入学式だからね。珠ちゃんが怒るのもね」
母が、ため息をつくと、
「健康は貯金できないから、体力も貯金できないんだ」
「バカね。お金じゃあるまいし、貯金とかより、少しくらい勉強しなさいよ」
珠が、また、怒りだした。
「うん。分かってるけど。珠ちゃんは、勉強するでしょ。いつもなら、今日も勉強すれば良かったよね」
「まあ! あたしは、勉強していればいいわけ?」
「そうは言ってないよ。あたしも、パンがいいかな」
母が、四枚切りの食パンを二枚フライパンで焼き、卵二個をスクランブルエッグにする。トマトとレタスの簡単なサラダも用意して、マコはがっつり平らげる。
珠が食べ終わるかどうかという時に、
「ごちそうさま!」
と、マコが言うから、母も、
「よく噛んで食べなさい」
そう小言を言うのだ。もう少し、味わって食べなさいと。
マコが、自室に入って、学校へ行く準備をする。
「ようやくかあ」
制服に袖を通すのは、今日が初めてだ。念願が叶って、マコは、ソフトボールの名門校に入学できたのだ。嬉しさもひとしおだった。
進学校としても難関だったので、偶然珠も同じ学校なのだった。
地元でも名門の私立女子高で、マコと珠の家からもそう離れていなかった。
「珠ちゃん、今日くらいは仲良くしようよ」
「あたしは、仲良くしたいわ。マコが少し変なんじゃないの?」
「うん」とマコが頷くと、珠も制服に袖を通すのだった。
マコが階段を降りると、
「はいお弁当」
「え? 今日、弁当いるの?」
マコが驚くと、
「部活行くんでしょ?」
「珠ちゃんも、はい、お弁当」
珠は、思案げに、マコと自分の弁当箱を見つめると、
「お弁当よね? 今日って弁当いるの? それで、マコと中身同じなわけ?」
はいはい。母は、
「お楽しみですよ。けど、内緒だけど、マコちゃんはお肉モリモリ。珠ちゃんのは、ヘルシー弁当。お母さんの特製だよ」
「ふう。今日も、あたしのも用意してくれて、ありがとう」
珠は上品に頭を下げた。
「じゃあ、行ってくるね」
珠が言うと、
「待ってよ。一緒に行こうよ」
マコが、慌てて珠の後を追いかけた。
今日二度目に玄関を開けたマコは、駆け出したい気分で、入学式へ向かうのだった。
入学式を終えると、珠が、
「どうして、あんたと同じクラスなわけ?」
マコに食ってかかった。
「まあまあ」
にやにやしながら、麻衣が止めに入る。
マコと珠の共通の友人は麻衣くらいだ。ぽかんとした顔で、マコが、
「どうしてだろうね?」
そうつぶやくのだ。
「うんうん。分かるよ。一年生は、混合クラスで、二年生の春から、普通と特進に、成績で分けるらしいよ。みんな仲良くね」
麻衣が言うと、そっか、と珠が頷く。
入学式が終わると、ホームルームがあり、担任が軽く自己紹介をした。その日はそれで解散となり、
「もう帰るの?」
「うん」
マコの言葉に、珠が返事すると、
「部活は、今日はどうでもいいや。デパートでも行かない?」
逡巡した様子を見せた珠だったが、
「今日くらいはいいよね」
そう言って、珠は頷いた。
「高校って違うよね」
「何が?」
「うん、制服着て、デパートに行ける」
「いつも、行けるよ」
珠が、あくびをして、恨めしげにマコを睨むと、
「お母さんや、お父さんは行くよ。けど、子どもだけじゃ、ダメだよ」
「フン。校則ではね」
珠は校則に何か恨みでもあるのか、とマコが思うと、
「高校生で、晴れてデパートデビューか」
なんとなく、嫌味っぽく、珠が言うから、
「気になるんだけど、あたしのこと嫌いかな」
「ううん。好きだよ」
「本当に?」
くしゃりと、顔を潰して、珠が、
「今日のマコ、ヘンだよ? 熱あるんじゃない?」
デパートの入り口で、
「欲しいのがあるんだ」
マコが言って、宝石売り場に向かった。
「ここ、ジュエリーよ」
「うん、ここなんだ。これだよ」
マコが指さしたのは、真珠の付いた純銀製のキーホルダーだ。
値札を見ると、それ相応の値段がする。
「高いじゃない」
「二個で一つになるキーホルダーだよ」
「そうね。真珠が二個。まるであたしたちみたいね」
「欲しい」
珠の目がキラキラし始めた。
「入学祝いのお金、あるでしょ」
「うん」
その入学祝いのお金には、これといった使い道もなかったが、キーホルダーを買うのに使ってよいものか、珠も悩んでいる様子だ。
うん、とマコは頷いて、
「よし、分かった」
鞄から、封筒を出して、中から一枚出した。
「こんなに?」
珠も一枚出して、二枚でちょうどになった。
レジの人が、二人を見て、微笑んで言った。
「仲の良いお友達ね。思い出になるわ」
そう言って包装するから、
「いいえ、あたしたちは双子の姉妹です」
珠が怒りだして、レジの人が、
「申し訳ありません。気づきませんでした」
そう言って必死に頭を下げるものだから、
「いいじゃない。いこー」
マコは会計を済ませると、品物を受け取り、珠の手を引っ張って歩いた。
デパート内の飲食のできるテーブルに着いた。
「だって、ひどいじゃない」
「うん、あたしたち似てないからね」
マコは、頷いた。珠はうっすら涙をためていた。
双子なのに似ていないし、姉妹にも見えない。
「ずっと一緒でいよう」
マコはそう言って、包装をゆっくり剥がし、銀のキーホルダーを取り出して、二つに分けた。
「はい、どうぞ」
「うん、ありがと」
珠は、キーホルダーを受け取ると、生き生きとした目になった。
「落としたりしないかな」
マコが不安そうにして、
「あたしは、スマホに付けるよ」
学生鞄は、珠にとって大事なものなんだ。マコはそう思うと、
「失くさないか、それが心配なんだ」
珠は、うんうんと頷いて、
「あたしも、マコと同じだよ。ずっと一緒だよ」
二つの真珠のキーホルダーを一つにして見つめた。銀色に輝き、真珠も煌めいていた。
ずっと、キーホルダーみたいに、輝いていたい。マコは思った。
弁当箱を広げると、
「まだ少し早くない?」
珠が言うので、
「もう少し我慢する?」
「ちょうど今は空いているから、今にしましょう」
「それはいいけど、向き合って食べるより、並んで食べない?」
「うん? まだ空いているよ」
「違うの、キーホルダーって、反対を向いて見てるでしょ。正面を向いて、二人同時に見たいのよ」
マコがそう言うと、うん、と言って、珠が席を離れて、マコの隣に座った。
「うん。これでいい」
重ねたキーホルダーが、今の姉妹を思わせた。
「口では、ケンカしているみたいだけど」
「あたしは、ケンカなんかしてないわよ」
「うん。でも、周りからはそう思われているでしょ」
「そうね。本当の姉妹じゃないって」
はあ、そうだよね。信じてもらえないんだ。双子って、なかなか信じてもらえないね。マコは心の中でつぶやくと、珠の体温を制服越しに感じた。
「今日は、ありがと。念願叶ったよ」
珠は、まだ弁当を食べていた。
お箸を使う指先が、白くて細くて、珠の肌はマコの肌とは違って、透き通るくらい白い。
マコは日焼けしていて、浅黒いのだった。
「女子高で良かった」
「どうして」
「だって、珠ちゃん狙われちゃう」
「誰に?」と珠が言いかけて、
珠の体温が一瞬上がったみたいに感じた。
マコは、キーホルダーを二つに分けて、一つをスマホに付けた。
「あたしのも」
珠は、鞄にキーホルダーを付けた。
デパートを出ると、二人で肩を並べて歩いた。
珠の息遣いが、マコに聞こえるくらい、くっついて歩いた。
こんなに仲良くおしゃべりしながら歩くのは、いつ以来だろう。
マコは思った。
部活へは結局戻らず、デパートから直接家に帰った。
「何か、面白い漫画ないかな」
何気なく、マコがつぶやくと、
「あるわよ、とっておきなのが」
「え! なんなの? 教えてよ」
「いいわよ」
珠はそう言うと、少女漫画を数冊渡してきた。
少女漫画はちょっとなあ。内心マコが抵抗を感じていると、
「読んでみなさいよ。めちゃくちゃ感動するんだから。泣けるのよ」
なんとなく、冒頭のつかみから、マコはバカくさい、と感じてしまった。普通なら、そこで読むのをやめてしまうが、珠が見ているから読み進めた。
(ヒロインの気持ちが分かる、そうだよねえ)
相槌を打ちたくなるような場面が多くなるうちに、気持ちが昂ぶって、自然と涙が目に滲んできた。
珠が勝ち誇ったように、マコを見て、
「どう? この漫画」
「うん」
マコは、涙が止まらなくて、ティッシュで拭うと、鼻声で返事した。
「続きが早く読みたいわ」
「続きはね、マコが主人公」
「え!」
マコが思わず、鼻水をすすってみっともない音を立てると、珠は、口を大きく開けて笑って、
「あたしが、見つけてあげる。このままじゃ、マコ、嫁ぎ遅れになるからね」
盛んに頷いて、自分の意見に納得している様子の珠に、
「あたしって、結婚無理かな」
「そうじゃないの! 男が寄ってこないって意味」
「うー」
ゴミ箱に紙くずを捨てると、唸るように声を上げ、手鏡を見た。
「顔じゃないの」
「じゃあ、なんだろう?」
不敵に笑う珠は、
「任せなさいよ。マコの初恋は、あたしがプロデュースするからね」
夕食の時間だ。漫画を片付けて、珠に渡すと、珠は絵を描いていた。
「珠ちゃん、上手だね。やっぱ才能かな」
頷いて、珠は、
「描くのはできるようになったよ。でも漫画家は無理かな」
「漫画家かあ。頑張んなよ」
軽くマコが答えると、
「漫画家になるのはね、マコがオリンピック選手に選ばれるくらい、難しいのよ」
「うわ、それは無理そう」
ゲームに例えるなら、無理ゲーだ。
部屋から出て、階段を降りる。夕食ができているころだ。
「ご飯できているわよ」
珠が席に着くまでに、母も、席に着いた。
「お父さん、帰ってるの」
「帰っているわ。お風呂に入って出てくるはずよ」
それを合図に、
「いただきます」
マコが、率先して言うと、夕食が始まった。
「どうしたの?」
突然、母が言った。
「珠ちゃん、ご飯、おいしくない?」
マコはおいしいと言って、がっつり食べていたが、珠は食が進まないらしい。
「なんか、最近だるくて」
マコは、ご飯のお代わりをするべきか迷っていた。空の茶碗を手にしたままのマコだった。
夕ご飯が終わるころになると、父がビールを飲み始める。マコは、普段と違う父の様子を気にかけていた。
「うーん」
父は、考え込みながら、
「やっぱり少し控えることにするよ」
「それがいいですわ。お酒は体に悪いですしね」
母がそう答えた。母は、お酒をほとんど飲まない。飲んだところを見たことがない。
珠を見ると、母の話を聞いていたのか、聞いていないのか、ご飯にほとんど手をつけないままでいた。
ご飯を残すと父に叱られる。
珠は、黙り込んで何かに必死に耐えているみたいに見えた。
「こほん」
咳をした珠を見ると、珠は、
「ごめんなさい」
口元を手で隠して、食卓から離れていった。
「お父さん」
「うん」
マコは、がっくりと夕ご飯のおかずを見ながら、
「様子見てくる」
珠を追いかけて、階段を上がった。
珠は、けろりとして、少女漫画を読みふけっていた。
さっきの咳が気になっていたマコは、珠が何かを隠しているのではと、いつもと違う振る舞いに訝しさを覚えた。
第二章
赤ペンの手紙
〔高二の春〕
翌日の夜になった。マコは机の前に座り、古い赤ペンの細かな傷をじっと見ていた。
赤ペンの傷を、指でそっとなぞると、指先がぴくりと震えた。
そうだ。もし、本当に珠なら、返事の文字を見れば分かるはず。
珠の文字には、独特の癖があった。誰にでも分かるというわけではないが、マコには見分けがついた。はねと止めに丸みがあって、筆圧が弱かった。
押し入れから、珠が授業で使っていた古いノートを取り出した。
マコは机の上にノートを広げた。
珠の書いた字をざっと眺めた。懐かしさで胸が締め付けられそうだ。
泣いちゃだめだ。
思い出して泣くんじゃない! 赤ペンで書かれた文字と、筆跡が同じかどうかだ。
漫画家になるのが夢だった珠らしく、時々漫画みたいなイラストが描かれていた。
ノートをめくるうち、文字を見るのも忘れて、イラストに見入った。宇宙船がさまざまな角度で描かれている。宇宙船の傍に「夢」「未来」「希望」などを意味する英単語が添えられていた。
そして、珠によく似た少女が描かれていた。
涙が目に滲んだ。マコはそれをこらえて、今度は文字に目を凝らした。
ノートの「強」は、机に赤ペンで書かれた「勉強」の「強」と、線の丸みもはね方もよく似ていた。表紙の「珠」の字に至っては、ほとんど同じだった。
間違いない。
あの赤い文字は、珠の書いたものだ。
肩から力がすとんと抜けた。
「ふう……」
大きく息を吐いた。
昨夜の珠は答えてくれなかった。今夜こそは、珠から返事があればと、マコは赤ペンを走らせた。
(本当に、珠ちゃんなの?)
何も変わらない。赤ペンは黙り込んでいる。返事がないのは当たり前なのに、当たり前じゃないみたいに思える。
――助けて!
すがりつくみたいに、赤ペンを握って、祈るように力を込めて、
(珠ちゃん、答えて!)
マコは赤ペンで書き込んだ。
(珠ちゃん。覚えているよね? デパートの宝石店で、真珠の付いた純銀製のキーホルダーを買ったよね。それで、あたしは落とすからと、最初スマホに付けたんだ。簡単すぎる問題だけど、珠ちゃんが付けた場所は、どこでしょうか?)
目を閉じたり深呼吸をしたりして、しばらく待ってみたマコは、また、赤ペンを走らせた。
(デパートでお昼ご飯にお弁当を食べたよね。お母さんの弁当覚えてる? キーホルダーのこととか覚えていたら『はい』、覚えていなければ『いいえ』でも、なんでもいいから返事を書いてね)
息を詰めて、じっと待った。しばらくしても、何も変化がない。
あきらめて休もうかと、マコは、掛け時計を見ようと腰をよじった。
その時だ!
赤ペンが手のひらの中で、意思を持つようにプルプル震えだした。
何かを言いたげだ。
赤ペンが自由に動けるように、手のひらで優しく握った。
マコの意思によるものではなく、赤ペンの――つまり珠の意思によって、文字が一文字書かれた。
『は』
とだけ、まず書かれた。
しばらく待った。右手をリラックスさせているつもりだが、緊張で額に汗が浮かぶ。
また、プルプルしだして、文字が刻まれる。
『い、覚えているよ。あたしは鞄に付けたよ。デパートで食べたお弁当は、おいしかったね。マコちゃんはお肉モリモリ。あたしはヘルシー野菜弁当』
マコは、くすくす笑ってしまった。本当に珠だ。珠の記憶、珠だけの感情が、赤ペンからの文字に表れていた。
(珠ちゃんがいなくなって、家も学校もいろいろあってね。あたし、どうしたらいいか、悩んでいるんだ)
『うんうん。心配してたんだ』
(本当? 助けてくれる?)
赤ペンは、少し考え事をしているみたいに、しばらく止まると、
『いろいろなこと、助けられると思う』
(ありがとー!)
言葉が出そうで、慌てて口を閉じた。もう遅い時間だ。一人で喚いていたら、さすがの母も起き出すだろう。
『いいって。ありがとうは、結果が出たその後だよ』
(うんうん、なんて言えばいいのか、来てくれただけで、それだけでいいよ)
『もっと早いほうが良かったかな。驚かせたら、悪いじゃない。困っているのを喜んでいたわけじゃないよ』
マコは、知っているなら書かないでおこうか、それとも書いたほうがいいのか、ノートの前でしばらくためらった末、意を決して、
(お母さんが、珠ちゃんがいなくなって、ビールやお酒ばかりを飲みだして、遊んでばかりいるんだ。家事もろくにしないで、あたしを責めるんだ。お父さんも、残業だのなんだの、帰ってくるのが遅いんだ)
珠に愚痴をこぼしていると気づきつつ、本当の悩みを打ち明けた。
(学校はさ、麻衣だけが味方みたいで、みんなあたしを無視するんだ。もともと勉強は好きじゃないし、部活もなんだかやる気がなくなってきてね。何もかもが、嫌になってきちゃった)
マコは、心の中では珠ちゃんのところに行きたいと、そう思っていたのかもしれない。もし珠が『迎えに来た』とノートに書き込んだのなら、喜んでついて行ったのかもしれなかった。
『家のこと、学校のこと、心配だから。全力で助けるから! 少しだけ気を楽にして、マコちゃん』
追い詰められていたから、苦しんでいたから、珠の強い励ましは、マコにとって大きな心の支えになった。
珠がいるんだ。もう、一人じゃないんだ。
嬉しくて、椅子から崩れ落ちるくらいに力が抜けた。
机の上に置いてあった珠の大切なキーホルダーが、真珠色のまばゆい光を放った。
カーテンが風もないのに、はためいた。
冷気が流れ込み、部屋全体を包み込む。寒さでマコの腕に鳥肌が立った。
かすかに白い霧が浮かんで見えた。真珠の光に、何らかの力が込められているようにも見えた。
マコは、何か書こうかと迷った末、
(来るの? 姿を見せられるのかな)
ノートに書くと、白い霧の様子を窺った。
『うん。頑張ってみる。何とかなるかも』
コトコトと、赤ペンが動いた。
『うん。もうすぐ』
一段と冷気が強まった。
マコが、息を止める。
部屋が凍りつきそうだ。窓が白く曇っているのが、はためいたカーテン越しに見えた。
キーホルダーの光を吸い込むようにして、
人の姿ができあがった。
「珠ちゃん!」
椅子から立ち上がって、抱きつこうとして、マコの腕は空を切った。
珠だと分かる生前の姿だ。長い髪をストレートにおろして、ピンクのパーカーに草色のフレアスカート。おめかしして、これからどこかへ出かけるみたいな格好だ。
再会できたのが嬉しいのか、晴れやかな表情だ。マコもつられて嬉しそうな顔になった。
けれど、心の中は複雑だ。喜びよりも喪失した時の悲しみがよみがえってきそうだ。
泣いちゃだめだ。笑顔を見せないと。マコは引きつるように、笑顔を取り繕ってみせた。
珠に気づかれないようにしないと。心の中で、言い訳を考えた。
珠のほうに目を凝らして、もう一度見ると、珠の向こうのカーテンが透けて見えた。ピンクのパーカーに緑のカーテンが重なって、色が不自然に見えた。
手を伸ばしてみた。
指先で珠の肩のあたりに触れると、わずかに冷ややかな空気に当たった感触がしただけで、指先は通り抜けた。
珠が何か言いたげだ。口を動かしていた。
聞き取れないのか、声が出ていないのか、どちらかだろう。マコには珠の声が聞こえなかった。
「あたしのこと心配だった? まあ、元気ではいるけどね……」
珠に話しかけた。
(あたしの声が聞こえるのかな。どうだろう? あたしには、珠ちゃんの姿がはっきり見えるよ。透けているけどね。話しているようだけど、こちらに声は聞こえないな。珠ちゃんの着ている服、素敵なパーカーとスカートね。よく似合っているわ。たぶん押し入れに入っているのと同じね。珠ちゃんの、お気に入りの服だったわ。覚えているよ)
コツンと赤ペンが揺れ、
『見えているのか。これでいいみたいね。良かったわ、出られて。ちゃんと服を着て出られたようね。お気に入りの服を着て、また出かけたかったから。この服で出たのね』
珠を見ると、初めて見るみたいに、パーカーとスカートを指でつまんでしげしげと見ていた。珠は自分の姿に指で触れられるらしい。
(会いたかった。死んでほしくなかった。ずっと一緒って約束したのに、卑怯だわ)
『ごめんなさい、わざとじゃないよ。でも、約束したね。ずっと一緒って』
マコの目から、涙があふれた。ずっと我慢していた涙が止まらなくなった。
半ば透けた珠の表情を見て、マコは気づいた。珠も泣いている。
声が聞こえないから、泣いているのはあたし一人だと思っていた。
マコはそう思うと、手を伸ばした。じっとそのままでいた。
珠も気づいたのだろう。手を伸ばしてきた。
手の先が重なって、冷たい空気を感じた。
じっと見つめて、もう一方の手も伸ばした。マコがそうすると、珠も応じてきた。
抱きしめ合う形になって、マコはもう一度、顔をくしゃっとして、口をへの字にして泣いた。珠も、じっとマコを見て、涙を流していた。
見守るような、優しい珠の瞳を見上げて、安心したマコは、
「怖くない。幽霊でも珠ちゃんは珠ちゃんだ。怖くなんかない」
涙を手で拭うと、
「〈もう平気だから心配しないで〉って、言いたかったんだよ」
マコはそう言うと、笑顔に戻って、机に向かってノートに書き込んだ。
(お母さんには、内緒にしたほうがいいね。珠ちゃんが幽霊になって出てきた、なんて言ったら、怖がっちゃう)
『マコちゃんは、あたしが幽霊でも怖くないの? 怖がらせるつもりはないし、祟ったりしないよ』
うんうん。分かるよ。マコは、赤ペンをツンツンしてノートに赤い点々を付けると、
(あたし、全然怖くなかったって言うと、違うかもだけど。珠ちゃんは珠ちゃんだと思うと、何でも平気だよ)
それからさ、と続けてノートに書き込んだ。
(あたしでは、お母さんと話しても埒が明かないのよね。どうしたらいいのかな)
赤ペンが勢いよく動いた。
『それはとても心配だよ。ずっと気にしてた。あたしが出たら、お母さん驚いちゃうね。どうしたらいいのか考えようね』
そうだよ。(分かってくれているな、珠ちゃんは)とマコは頷いた。お母さんにも、寂しさを打ち明けられる人がいない。その寂しさがお母さんを苦しめているのかもしれない。けれど、今のマコには珠がいる。だからそれだけで、少し息ができた。
マコは、深呼吸してから、気持ちが落ち着いてきたことを感じ取った。
(もうどこへも行かないで。ずっといて)
赤ペンで走り書きした。マコの本音が出た。また、涙が出そうになった。
(〈ずっと一緒〉の約束を今度こそ守ってほしいよ)
今度はゆっくり書いてから、「恨みがましいな」と言って、にやりと笑った。
「どっちが幽霊か分からないわ」
『できることはする。それは約束する』
〈ずっと一緒〉は、守れないわけね。俯いてしまうマコだった。
涙をひとしずく、こぼした。
珠を見ると、微笑んでじっとこちらを見ていた。見守っているみたいだ。
マコは、自分でも幾分落ち着いたのを感じ取ると、もう一度珠を見て、赤ペンを掴んだ。
「もう大丈夫だよ、たぶんね。珠ちゃんもいるし、平気だね」
そう言ってから、
(珠ちゃんは、ずっと出ていられるのかな?)
『一日中は出られないよ。今のところ、夜だけかな。今くらいの時間帯だね』
珠が笑っているように見えた。ずっと出られるのかというマコの質問に、無理だと言いたいのだろう。大笑いというより、くすくす笑いだ。
(お母さんに知られたらマズいね)
珠はうんうんと頷いて、
『分かってるって』
そうだな。珠が戻ってきた。また帰ってきた。幽霊になって。マジそんなこと言ったら、おかしなことを、って思われるな。
しばらくだけなら、大目に見られても、絶対ヤバいやつって思われるな。
(うん。約束する。他の人には、絶対言わない。お母さんにも、お父さんにも内緒にする)
珠を見ると、うん、と深く頷いたのが見えた。
「しばらくは、こうやって赤ペンで、会話するみたいになるんだね」
珠を見た。微笑んでマコを見つめている。懐かしそうに、愛おしそうに、マコも珠を見つめる。
(どうして? 幽霊になってまで、戻ってきたの?)
幽霊という言葉を書いたことを後悔した。赤ペンはびっくりして、飛び跳ねた後、ぱったり動かなくなった。珠は、俯いてしまって、急に元気を失ったみたいだ。
『まだ、理由は言えない。ごめんなさい……』
赤ペンは、弱々しく途切れ途切れに、そう綴って、最後に線が途切れた。
マコは、部屋の中央に佇む珠を見た。珠の匂いが漂っていることに気づいた。珠の好きなシャンプーの匂いだ。
赤ペンが、勢いよく動いた。
もはや、手に握る必要もない。マコは、呆然とノートを見つめた。
『それで、マコちゃん。学校でさ、好きな人がいないのかな? 一人くらいはいるんじゃないの? 誰か教えて?』
赤ペンは明らかに勢いが強い分、字も太く濃くなった。
マコは、「珠ちゃんってさ」と言いかけて、
『初恋ってまだなのかな? だったらねえ! あたしがプロデュースするんだ』
なんか少女漫画の見すぎだね。マコは思った。生前と変わらないな、珠ちゃんは……と。笑っている顔のまま、涙がこぼれるのだった。
(いないよ。いないな。いくら考えても好きな人いない。だって女子高だもの)
にやりと笑って、マコが書くと、
『そうじゃないよ、学校の行き帰りとか、どっか出かけた時とか、出会いってあるでしょ』
うん、少し考えて、
(いないな。出会いなんてないよ)
マコは正直に答えた。嘘はついていない、と思って書いたつもりだが、
『つまらないの! なんのための学校なの!』
およそ珠の言葉とは思えない言葉が出た。
(そりゃあ、勉強でしょ)
マコが笑いをこらえ、書き込むと、
『それは、学生の本分でしょ。あたしがマコちゃんに望むのは別なの! 恋をしなさい』
(あたしは、恋はまだいいよ。しばらくかな、もう少しだけ先かな?)
マコが赤ペンを置くと、
『もう!』
短い言葉が珠の声として、ひときわ濃い字で書かれたのだった。
第三章
影が落ちる(回想二)
〔高一の秋〕
入学式から五か月ほどが過ぎた。
夏休みをほぼ家で過ごした珠と比べて、マコはソフトボールの練習に明け暮れた。
マコは日焼けした。それにひきかえ、珠は色白に見えた。透き通るような肌と長い黒髪の珠が、美しい姉であることは内心では誇らしい。
珠は、机に向かっているか、ベッドに横たわっているかだった。
珠は二学期を迎えてから、学校を休みがちだった。一週間まるまる休む時もあった。
珠には、たびたび発熱があった。熱が続き、咳が多く出て、喉元を押さえ、苦しそうにしていた。
姉妹の部屋に、母が入ってきた。
「珠ちゃん、病院へ行こう」
「昨日行ったばかりじゃない?」
母は顔を曇らせると、
「病院から電話があってね。金曜日の検査結果に引っかかる点があったって。今日、臨時に先生に診てもらえるの。だから行きましょう?」
「今日、土曜日だよ」
母は声を押し殺すようにして、
「〈今日が大事なんだ〉って、そう言うの」
マコは、なあんだ、と軽く考え、
「ぱっぱっと治してもらおう」
「まさか、機械じゃあるまいし」
母は笑ったが、珠は咳をして俯いた。
母の運転で、マコは珠と一緒に大学附属病院に向かった。いつも行く病院から紹介状をもらって、行くことになったのだ。
「もう、大げさなんだから」
珠は不満そうに言った。
車の中で、珠はつまらなそうに外を眺めていた。バックミラー越しに母の視線を確かめつつ、マコは珠の容態を見ていた。
今は咳もしないし、熱も大したことないのかな? と、マコは思いつつ、病院に着いた。
マコは先に歩を進めて病院内に入り、後ろを振り返ると、珠はよろよろとしか歩けていなかった。
驚いて、短く「え!」とマコは声を上げ、珠に手を貸した。
「気づかなくて」
「いいのよ」
母は黙っていた。ムスッとしていて、どこか悲しそうだ。
マコは、珠の鞄を持とうと、
「持ってあげる」
「いいよお」
珠は、やんわり断ると、
「大したことないんだから、本当に」
そう言うので、マコも、
「そうだよ。薬飲んだら、すぐよくなるよ」
母も納得したのか、
「検査で原因が分かりさえすればね」
そう言葉を継いだ。
母がマコに答えている間に、珠は歩き疲れたのか、冷たい長椅子にぺたんと座って、漫画を広げて読み始めた。いつも机に向かっている珠が、少女漫画を真っ先に広げて読んでいるのを、マコは入学式以来、久しぶりに見た気がした。
珠のほうが落ち着いていて、母は、受付を済ませると、そわそわとして落ち着かない様子だ。
母は席に着いたかと思えば、また席を離れて、お手洗いに行く。そのたびにマコが荷物の見張り役だ。
荷物と同様に、受付番号の出るモニターも睨みつけていないといけない。
「宿題たまってるんだ」
漫画を読みながら、珠が言う。
「気にしないでいいよ」
マコが言うと、
「そんなわけにもいかないよ。もうすぐ中間だし」
髪の毛を指に巻き付けて、珠はいら立った目でマコを眺めてくる。
怒っているのか? マコはそう思うと、
「喉が渇いたな」
「うん、買ってきてあげる」
マコは、「荷物見ていてね」と軽く言うと、頷く珠を置いて、自販機に向かった。
母がスマホで誰かと話していた。会話からすると、お父さんだ。目に涙をためて、ハンカチで目元を押さえていた。
「ううん、心配してないの。大丈夫だと思う。でも……」
「ほい」
マコがジュースを珠に渡すと、
「良かった、冷たいほうで」
「当たり前じゃない」
ふっふっと、珠が笑った。
「おごりだから。でも、治ったら返しなさいよ」
「うん」
珠は深く頷く。いつもの様子とは、そこが違うんだ。マコは、少しイラッときた。
番号がモニターに映し出され、診察室に行くのかと思ったら、マコだけ残りなさいと、母に告げられた。
マコがそのまま待合室で待っていると、しばらくしてから、珠と母が出てきた。
「今度は検査室よ」
黙ってついていくと、珠が左腕の袖をまくっていた。三人とも無言のままだった。
マコは、待合の数少ない椅子に座り込んだ。やはり珠がなんともないという確信を、早く得たかった。
スマホを取り出して、麻衣に送ったメールの返事を見た。
【珠ちゃん、なんともないといいね。こっちは大丈夫。むしろ、みんなマコのお姉さんが大丈夫かなって言ってるよ】
マコは、メールを読んで頷いた。部活を一日休むのは仕方ない。返信はあとにして、また採血室の入り口を見つめた。
珠が暗い顔をして出てきた。腕には、丸めたガーゼがはみ出し、テープで貼られていた。
珠がマコに寄りかかってきた。疲れたんだな。こっちも疲れたよ、と内心苦笑しながら、今だけだぞ、と肩を貸した。
診察室へまた歩き出すと、
「もうお昼を過ぎてるよ。なんかおいしいの食べようよ」
マコが言うと、
「ごめんなさい。お母さん、今はいいわ」
「……」
珠は黙って俯いた。
「薬さえ出て、それを飲んでたら、そのうちよくなるよ」
マコが言うと、母の眉が吊り上がったかと思えば、すぐ下がってしまった。
「大丈夫だよ」
マコはわざとそう言い放った。何か言わないと、心の船が沈没しそうだった。
「珠ちゃん、疲れているみたいだから、ご飯より飲み物のほうがいいかもね」
おぼつかない足取りの珠を、転倒しないよう慎重に見守りながら、マコは診察室を目指した。
長い廊下だった。行きはそれほど長く感じなかったが、今は長く感じた。鼻から小さく息を吐いた。
土曜の正午を過ぎていたので、病院には人の気配が極端に少なく、明かりも節電で少し暗めに感じられた。
足元に注意しないと、マコは思った。少しの段差でも、今の珠には危険だ。
ふと見ると、廊下の先で、白衣の男性が老婆と何かのやり取りをしていた。
老婆が何かを言っていた。マコが近づいて見ると、白衣の男性はまだ若い青年で、名札からすると、医学生らしかった。
老婆の感謝の言葉を聞くと、青年は手をゆっくり振って応えていた。
名札の名前は北条で、きたじょうとルビが振られていた。マコが珍しい読みだなと思い、歩を進めると、
遠くから、
「北条!」
と呼ぶ声がした。どたどたと青年が大股で走りだした。その姿に、マコも笑えてしまう。母も笑っていた。
車椅子の少年が、勢いよく通りかかって、珠がよろけて転びそうになった。
「危ない」
北条が声を上げ、走り寄ってきた。珠を抱えようとしたが、マコのほうが一足早かった。
「大丈夫ですか?」
珠は軽く咳き込んで、
「平気です」
と答えるのだった。
北条は眉根を寄せ、心配そうに珠を見ていた。
「早く診察を受けないと」
マコが焦り気味に言うと、母が、
「まだ急がなくてもいいけど」
「でも」
マコは反論した。何か気まずくなって、
「珠ちゃん、飲み物ほしいんだよね」
そうまくし立てると、
「うん、行こう」
珠が言ってくれて、ほっとして、マコは歩き出した。
ちらりと後ろを振り返ると、北条はこちらを心配げに見ていて、マコと目が合うと、軽く会釈してきた。それから、また偉い先生から何かを言われているのが見えた。
「マコ、ああいう人がいいんじゃない?」
「だから、別に」
珠が言ってきたので、言い返した。
「しつこいよ」
マコはじれったくなって、そう答えた。
「何がしつこいの」
母がそう言ってきた。診察室前の長椅子に珠が座ると、
「長い廊下が、しつこいの」
そう言った。
「今は、それより検査結果が心配だ」
マコがそう言うと、
母は、前と同じように呼び出しモニターを見上げた。
珠は、長椅子の背もたれに体を預けた。鞄を見つめたが、もう漫画を読む気にはなれないらしい。
空になった紙パックをマコがゴミ箱に捨ててくると、珠はだらしなく横になっていた。相当疲れているらしい。
「ゴホッ」
珠は、さっきまでの軽い咳とは違い、口元を押さえて、苦しそうに激しく咳き込んだ。母が珠の背中をさすった。
横たわるほど疲れているのか、咳がひどいのはそのせいではないかと、マコには感じられた。
あたしに何かできることは? と、マコは周りを見回した。
うろたえたりはしていない。そうマコは思うのだが、
「落ち着いて、マコちゃん」
そう母が言ってきたので、
「う、うん。お母さん、あたしにできることない?」
母は、じっとマコを見てから、
「とにかく、落ち着こうね」
「ふふっ」
珠が笑った。けれど、声はか弱い。特に最後の笑い声は、蚊の鳴くようなか細い声だった。
モニターに番号が映った。
「行きましょう」
母が言って立ち上がった。マコが珠を支える役なので、今度はマコも診察室に入れそうだ。
丸椅子が三つ用意されていた。珠と母がまず座った。それから、マコは少しでも医師の話が聞きたくて、椅子を半歩ほど前にずらした。
机の前に座っていた医師が、椅子を回転させて振り向いた。
気楽な顔ならいいのに、と期待していたマコだったが、何やら小難しい顔をしていた。
「検査結果から申し上げると、昨日の血液検査で異常な数値が出たため、今日は精密検査に来ていただきました。その結果ですが、やはり数値に異常が見られました」
マコは慌てた。珠を見ると顔が青い。手から鞄がずり落ちた。
「異常ってなんですか? 治りますよね」
医師は、また難しい顔をした。眉間に皺を寄せていた。
医師が重く口を開くと、
「今日の入院を勧めます。明日から治療計画の作成と、投薬の準備などを進めます」
「それで、治るんですよね」
マコは、本気になって聞いた。珠は黙っている。
「大変言いづらいんですが、今村珠さんは、急性白血病の疑いが強いです」
白血病と聞いて、全身から血の気が引いた。珠も母も、意外なほど落ち着き払っていた。
珠は、唇をぎゅっと噛み締め、落ちた鞄を拾い上げ、左腕の絆創膏を手で押さえた。怖いだろうに、青い顔のまま、かえってマコに、にこっと笑顔を見せた。
「あたし、入院だね」
珠が言うと、母は、こくんと頷いた。
「薬で、もし治らない場合はどうなるんですか」
珠が、口元を押さえて声を出した。
「投薬――この場合は、抗がん剤になります。治療の反応によっては骨髄移植を検討します」
こ、骨髄移植? マコは目の前が真っ暗になった。小説やドラマの中の話だ。
「骨髄移植、正確には造血幹細胞移植は、最後の手段ですね」
医師がためらいがちに言うと、
「あたし、珠ちゃんとは双子なんですけど、血液型が違うんです」
マコが言うと、医師は、顔を一瞬明るくして、
「血液型が違う場合でも、骨髄の型が合うことがあります。可能性はあります」
マコは、ふう、とため息をつくと、母も、
「わたしでも、合うということでしょうか」
「ご家族にも検査を受けていただきたいです」
医師が言うと、珠が、
「まず入院ね。治療はお薬からよ」
そう言ってくるから、マコは薬で治るんだろうか、と半ば泣きたいのをこらえて珠を見つめた。
医師の説明が終わり、珠は看護師さんに連れられて、別の部屋へ行った。母は、父に電話しに行った。
待合室で待つ間、マコは、
(あたしだって、骨髄の型さえ合えば、珠ちゃんを救えるんだから)
そう強く思った。マコはメールで麻衣に、「珠ちゃん入院」と短く打ち込んだ。
珠が入院してから、十日程度が過ぎた。マコはその間、綿棒で口の中をこすられ、ドナー検査を受けたのだった。父も母も別の日に病院で受けたようだ。
移植は、やはり選択肢の一つらしい。
再び病院で、医師の診察を受け、経過報告を聞いた。今度は父もいる。家族そろって集まった。
丸椅子が四つ並んでいた。一つだけ空いていた。
机に向かって座っていた医師が、くるりとこちらを向いた。
しばらく待っていたら、別室から、珠が現れた。
「珠ちゃん」
母がまずそう叫んだ。マコと父も息を呑んだ。少しやつれて、顔色が青く見えたが、入院患者らしい格好を差し引けば、元気そうに見えた。
珠が椅子に座ると、医師はまた、テストみたいな紙をボードに載せ、モニターに映し出して、
「HLA検査の結果ですが、マコさんと、お母さまと、お父さま、いずれも、十分な一致が得られませんでした。現時点では、最も適したドナー候補とはいえません。他の候補を探します」
さすがに言いにくそうに、眉間に皺を寄せた。
「だったら、うちの娘はどうなるんですか」
まず、父が言った。マコも、
「あたしじゃダメなんですか? 血液型のせいでしょ?」
医師が、ゆるく首を振った。
「治療を続けながら、骨髄バンクなどで他のドナーを探します。私たち病院スタッフも一丸となって探します。それと、骨髄の型は血液型だけでは決まりません」
「じゃあ、何かの間違いでは? もう一度検査してみたら」
マコはまくし立てると、珠の手を握った。少し冷えていた指先が、本当にか細くて、小さく震えていた。珠も、マコの骨髄が合うことを本気で願っていた。そのことに、マコは初めて気づいた。
珠は、マコの手を握り返そうとして、マコの顔をじっと見つめてきた。
珠の顔は、ほっそりとしていた。髪は少し短めにしたのか、ほんの少しだが、カットされたようにも見えた。
何もできない自分に気づき、マコの体が固まってしまった。
父が突然、
「骨髄バンクで、他のドナーを探せるんですか?」
そう言った。診察室が水底に沈んだように静まり返った。
マコは、珠を見つめ返した。珠の指先の震えは収まらないままだった。顔では平静を装っていても、珠は強がっていた。マコはそれに気づくと、今度は目頭が熱くなって、涙があふれて頬を伝った。
首を何度も横に振った。泣くもんか! マコは強く願った。
「マコ、泣かないでね」
第四章
ふたりで生きる日々
〔高二の春〕
チャイムが鳴った。ようやく温水プールでの授業が終わった。
マコが、更衣室で着替えを終えると、急に目の前が白くかすみ、足元がふらついた。壁にもたれて持ちこたえた。
「マコ?」
麻衣が心配そうに声をかけてきた。
「う、うん、大丈夫」
そういえば、今日は朝から何も食べていない。頭痛がしてきた。たぶん寝不足のせいだ。
お腹をさすりながら、更衣室を出ると、すぐに次の授業だ。
駆け出したいのに、今日は走れない。
マコがいつになく、のろのろ歩いていると、
麻衣が、怪訝そうに、
「本当に、大丈夫?」
と、また声をかけてきた。少し煩わしさすら感じたが、
「今日は、朝ご飯抜いちゃってね」
マコは泣き笑いのように顔をくしゃっとさせた。
昨晩の珠との会話を思い出し、うっすらと、口元が緩んだ。
珠の書いた、赤い文字の一つ一つを思い出した。『つまらないの! なんのための学校なの!』『もう!』いかにも、珠らしい言葉だった。周りを見渡した。もう何も怖くないんだ。そう思い、マコは歩く速度を速めようとした。
教室の戸口で、転びそうになった。
「マコさん? どうしたの」
同級生の何人かが声をかけてきた。
「なんともないよ」
マコは、ふらふらと歩いて、そう何度も答えながら、机に手をついて席に着いた。
「寝不足でね。宿題やるの大変でさ」
笑ってごまかそうとするが、周りは心配そうにマコを見ていた。
作り笑いをしながら授業を受けていたが、周囲を気にするせいか、内容が入ってこない。ますます眠気がひどくなる。眠いというより、意識が遠のいていく。
マコは、保健室へ行こうかと、少しだけ考えたが、お昼を摂れば大丈夫だと思った。
授業が終わってお昼になった。お弁当はぎりぎりで用意したので、中身はがっかりだ。けれど、何もないよりマシだ。
マコが、一人で弁当を片付けると、
「もう、終わったの?」
聞かれて、頷いた。
「お母さんの体調が悪くてね」
言い訳してみて、本当は……。
マコが、俯いているから、
「今度、お母さんの体調がよくなったら、一緒にお昼しよう」
麻衣と、友達の高木さん、吉富さんだ。三人がマコを囲んでいた。
「うん」
返事をしてから、マコは足元から急に力が抜け落ちた気がした。
「い、今村さん!」
高木さんの声だろうか。どこか遠くで叫んでいたようだ。
きゅきゅ、と靴音が耳元でする。
最近になって再びスマホに付けたキーホルダーが、制服のポケットからはみ出て、白い光が漏れているのに気づいた。
(あれ? 珠ちゃんだ。どうしたの? 心配してるの?)
担架に乗せられ、体が揺れているのを感じた。どこへ行くんだろう。あたし、どこかへ行くんだ。
マコは、キーホルダーを握りしめた。手のひらから、薄く光が漏れ出ていく。それは珠の温もりのようにも感じられた。
なんだか、珠が近くで見ているようだ。マコは、安心したのか意識を失った。
目を覚ますと、白い天井が見えた。カーテンに囲われたベッドで寝ていた。
消毒液の匂いがする。病院だと気づいた。
「マコ、泣かないでね」
珠の細い顎が頭に浮かんだ。
ぶるぶると顔を振った。ひょいと、看護師さんが顔を出した。
「今村さん? 体調どうですか」
「ええ、今はいいようです」
「もうしばらくしたら、先生の診察があります。その結果次第では、点滴が終わったら帰れますよ」
看護師さんはにこっとしてから、カーテンを開けて病室から出ていった。
マコは、キーホルダーをぎゅっと握りしめた。
「今村マコさん?」
そう声がした。
「診察ですよ」
意外と早いな。マコは、顔を持ち上げ、カーテンの向こうを見ると、マコより少し年上の青年が、カーテンを開けて入ってきた。
「きゃ」
「うわ」
マコが、悲鳴みたいな声を上げたものだから、青年も驚いたようだ。
「どうしました?」
「いきなりで驚いただけです。すみません」
マコが謝ると、年配の医師が、
「元気があってよろしい」
そう言ってきて、
「北条君は少し不躾なところがあるから、きっとそれで驚いたんだろう」
笑顔で言ってくれたから、マコも素直に笑顔になれた。
「北条君」
「はい」
うん? 声に聞き覚えがあるな。マコは思った。
また名札を見た。北条も、なんとなくマコを見ていた。
年配の医師が二人の不自然な様子を見て、咳払いをした。
「あ、はい、脈を診ますね」
北条は、手首を優しく掴んできて、血圧も同時に測った。
「うん、いい値だね」
北条が言うと、指導医らしい年配の医師が、
「血糖値が少し低くて、脱水気味で、睡眠不足。それだけ重なればね、まあ、めまいがしたんじゃないかな。どれ、北条君、聴診してみなさい」
北条に診られるのかと、マコは、顔から火が出そうになった。
マコの様子を見て、
「制服の上からでもいいよ」
「あ、はい」
マコは、仰向けになりながら、聴診を受けた。
「問題ないようだね。特に、貧血もないようだし」
「処置は頼む」
と、年配の医師は次の患者のところへ向かうのか、急ぎ足で行ってしまった。
そうだ、まだ去年のことだ。珠の血液検査の時だ。そこで見かけたんだ。
マコは、北条の横顔をまじまじと見た。珠の言葉を思い出し、そんなんじゃないと、首を大きく横に振った。
「どうしました? どこか痛いですか」
「いえいえ、そんなんじゃありません」
首を傾げて、北条はマコを見つめてきた。
「失礼ですが、僕とどこかで会いました? あ、記憶違いかもしれません」
ぺこりと、頭を下げてきた。
両手を左右に振って、マコは照れ笑いをしながら、
「去年の秋口に、ちらりとお見かけしただけです」
「へえ、どこだろう」
「この病院の長い廊下です」
北条は思い出そうと、腕を組みながら、
「なんとなく覚えてはいるんだ。二人の女性が、姉妹かな? 片方が疲れていてね。もう一人が支えていたんだ」
眉間に皺を寄せて、半分程度しか思い出せないようだ。
「えーと、問診に移るね」
カーテンの外に人の気配がした。それを気にしたのだろうか、北条は急に医師の顔をした。
「血糖値が低かったんだけど、朝食はちゃんと召し上がっていますか」
マコは、迷いながらも、
「朝はいつものように走って、それで水を飲んで、そのまま学校へ行きました」
本当のことを話した。
「前の日の夜、眠れなくて、夜更かししたんです。それで、朝食の支度までできなくて」
言い訳みたいに聞こえるかなと思いながらも、追加で話した。
北条は、何か言いたげで、けれども、思い直したかのような顔をして、
「無理はしていませんか?」
「大丈夫です。無理はしていません」
即答するマコに、北条は何やら考え込むように眉根を寄せて、
「検査とかは特に必要ないみたいだね。朝食を抜いて朝走るのは、死ぬようなもんだよ」
心配そうに、目が少し血走った感じで言ってきた。
「点滴が終わりそうだね。終わったら帰宅してもいいよ。ご家族と連絡は取れたのかな」
北条が、腕時計を見て、怪訝そうな顔になった。
「もう、いらしてもいいころなのにな」
そうつぶやくのだった。
「母に連絡ですか」
「そうだと思う」
マコは、悲しくなった。母は、やっぱりあたしのことなんてどうでもいいんだ。そう思った。
マコが黙っているので、なんとなく察したのか、
「しばらくは、病院にいていいから、心配しなくてもいいよ」
そう言うと、
「ゆっくり休んで、お大事に」
北条は、カーテンの向こうに行ってしまった。白衣の裾が揺れた。
迎えに来た母が、車の中で、
「二日酔いでね」
と言うので、
「お酒飲んでるの?」
「飲んでないわよ。飲んだのは昨日」
「冗談やめて」
家に着いてから、家事の手伝いをしようとしたら、
「ご褒美」
そう言って、母はノンアルコール飲料の缶を開けて飲みだした。
「あー」
マコは怒るのを通り越して、呆れてしまった。
「ビールじゃないわよ」
「もう!」
えへへ、と笑う母が憎たらしい。
「その言葉、珠ちゃんみたいね」
少し、目を潤ませて、
「姉妹だもの、似ているわよね」
そう言ってきた。母はぐったりとソファに寝転んだ。
「心配したんだよ。マコちゃんのこと。疲れが出た」
そう言うと、またノンアルコールを飲んだ。
「いつもビールばかり飲んでいて、よく言えるね?」
手をひらひら動かして、母は、
「いつもの缶ビールは関係ないわよ」
「はあ」
マコは深くため息をついた。
今夜は早く休もう。マコはそう思うのだが、課題の範囲を麻衣から聞いて、高木さんと他の生徒にも、メールで感謝の言葉を送ると、赤ペンがやけに目についた。
冷気が流れ、赤ペンがくるりと回転してみせた。
スマホのキーホルダーと、珠のキーホルダーが並んで、ほのかにスタンドの光を照り返していた。
マコは軽く頷いた。珠が話したいらしい。
そう思ったから、ノートに赤ペンで書き込んだ。
(やほー。珠ちゃん。今日ね、あたし、倒れちゃってね。病院に行ったの。点滴打ったのよ)
『見ていたわ。傍にいたの』
(へえ、見てたんだね。姿は見えなかったな)
『なかなか、姿を出すのは難しいみたい』
部屋をキョロキョロ見回すと、確かに珠の姿は今夜は見えないままだった。
(そうか、そうなんだね)
『なんともなくて、良かったね。見ていてびっくりしたよ。朝食はモリモリ食べてね』
くくく、マコは口元を歪めて、思わず笑ってしまった。モリモリか……。
ぼんやりしていると、珠の姿が滲み出してきた。
『病院で、出会ったでしょ? どうだった?』
え? 誰のことだろう? 突然の珠の質問に、マコが逡巡していると、
『えー? 覚えてないの?』
なんとなく分からなくもないが、マコはしばらく黙ったあと、書き込んだ。
(研修医の北条さんのことかな)
珠が激しく、うんうんと頷いた。こちらを見ていた。昨晩と同じ服装だ。カーテンが揺れた。
(どうだろう? 前に会ったことがあるかな、って程度だし。お医者さんでしょ。もう病院へ行くことはないよ)
北条楓馬の顔を思い返した。じっと見たわけではないが、色の白い細い顎が、珠のそれと似ていた。ひょろりと長身に見えた。とりわけ太い眉が印象的だ。目が精悍そうで意志が強く見えた。
なんとなく、思い返していると、
『なんか、思い出していたでしょ』
珠がにやにや笑ってこっちを見ていた。
知らない! マコはそう思うと、もう何も言いたくないとノートを閉じようとした。
『ごめん、怒らないで、あたしは覚えているよ』
ほー、珠は覚えていたのか、マコはそう思うと、
『だってカッコいいし、王子様っぽいでしょ。背も高いしね』
ふんふん、マコは思わず鼻が鳴るのを感じながら、
(そうだね。珠ちゃんの好みかもね)
壁掛けの時計を見た。午前零時を回っていた。
「今日は、早めに休みたいの」とマコがつぶやくと、珠は静かに頷いた。
(また明日)
「おやすみ」とマコが言うと、
『また明日』
そう返事が返ってきた。珠のキーホルダーが白く閃いた。
ノートを見て、赤ペンを中央に寄せる。
しばらく佇んでいたマコは、キーホルダーを、手のひらで優しく包み込んで、部屋の明かりを消した。
常夜灯だけを残したまま、ベッドに潜り込むと、マコはキーホルダーを見つめた。眠気がどっと押し寄せてきた。
ああ、そうだ、ノートが開いたままだ。意識が遠のいていく。芯まで疲れていたんだ。そう思ったマコだった。
数日が経った。
放課後のグラウンド。西日の射すなか、マコはエースらしく、キャッチャーミットに鋭くボールを投げ込んだ。
ソフトボールの球が何度も行き来するうち、倒れてからのブランクをマコはもう感じなくなった。
「よおし」
帽子を取って汗を手で拭うと、夕日を見つめた。
おそるおそる投げているからだ。思い切って投げるぞ! マコは自信を取り戻すかのように、投げてみた。
「おーし」
いい球みたいだ。麻衣がマスクを外して、こちらを見て叫んだ。汗を拭っていた。
マコも、グラブを手で叩いて、
「おーし」
そう叫んだ。
変化球を投げてみた。切れ味よく、ボールは浮くようにホップした。麻衣がボールを受けきれず、体で受け止めた。
「おー! すごい」
麻衣は感嘆して、こちらに来て、
「すごい! これなら大会でも通用するね」
うんうん、とマコが頷いた。麻衣は、にこっと笑って、また戻ってミットを構えた。
何度か、変化球を投げてみる。麻衣が捕り損ねる時がある。それくらいにキレが出た。でも、直球と変化球とで、コントロールに差が出てしまう。
「少し休憩」
キャプテンの沢田がそう言った。グラウンドから部員が一斉に集まってきて、水筒やペットボトルで喉を潤す。ひそひそ話タイムだ。
「やけに、調子いいね」
麻衣が、近づいてきて言った。
「うん、まあね」
マコも自然に笑顔になった。
「うん、笑顔も出てきた」
「そうかな。そんなに暗い顔してたかな」
「してた!」
麻衣は笑って、
「この!」
などと言ってきて、
「いいの見つかったんだろ」
いきなり、そう続けてきて、
「そんなんじゃないよ」
部員みんなが見てきたので、マコは首を大きく横に振った。
麻衣は、
「でも、元気になって嬉しい。倒れた時はびっくりしたよ」
少し、涙目になって、マコを見つめてきた。
「心配かけてごめんね。寝不足だったんだ」
うんうん、目を潤ませて、麻衣は頷いた。
キャッチャーミットをバンバン叩くと、麻衣は、
「もう一押し、投げ込むぞ」
部員たちが「おー」と声を上げると、さすが大会が近いだけあってやる気十分だ。マコも、
「よおし」
そう叫んで、グラブを掴んだ。
「頼みのエース!」
麻衣は、そう言って、マコの肩を優しく撫でてきた。
その日の夜。マコは眠い目をこすりながら宿題をしていた。英語の構文と文法について、珠から教えてもらっていた。ポイントをかいつまみ、あとは自分で考えろ、という教え方だ。
今日は姿を現しているな。マコはそう思いながら、珠を眺めた。
珠は眠くないのに、あくびの真似をしてみせた。
(眠くないよね)
『眠くない。お腹も空かない』
(勉強はしてるのね)
『うん。やることないからね。もっと体を動かしたいな』
(漫画とかは読むの)
『時々読むかもね。でも、やることないから、いつでもいいんだ』
そうか、やることがないのか。それじゃ退屈なのかな。
眠れないし、お腹が空かないのは、楽なようで、きついかもな。マコはそう思うと、赤ペンが動いた。
『マコちゃん、本当は勉強よりも、ソフトボール大会のほうが気にかかるんじゃない』
(うん、ピッチャーのフォームがもう一歩なんだ)
『もしかしたら、動かそうとしたら、手くらいは動かせるかも。そうしたら教えられるのに』
珠が思案げな顔をしていた。マコは、そうだ、と閃いた。
「あたしの体、動かせる? 動かしてみてよ。そうしたら、ピッチャーのアドバイスってできるのかな?」
マコは、いたずらっぽく聞いてみた。真珠のキーホルダーがキラリと白く光った。
マコは、指先が自分の意思とは違う何かによってぴくんと跳ねたのに気づいた。驚きだが喜びでもあった。
「珠ちゃんだよね」
驚きで、思わず声が出た。
今度は手首が上のほうに軽く反った。二本の指先はピースみたいになり、手首から先は麻痺していて、自分の意思ではうまく動かないのだ。
呼吸も、吐いて、さらに吐いて、吸うのが一回という微妙な息遣いになった。
前を見ていて、冷気がだんだん強くなっていくのを感じた。いつの間にか、部屋の中央に見えていた珠の姿がなくなっていた。
珠のいた方向に視線を向けたいのに、体が自由に動かない。
緑のカーテンが大きく跳ねて開いた。
マコは、足が勝手に窓へ向かって歩いていくのを、自分の視界の中で見届けた。
窓を開けた。外の空気を吸った。珠の意識だ。『いつもマコちゃんがする物まね』と、机のノートに赤ペンで書かれたのを見た。
(珠ちゃんがあたしの中にいる)
『うん、そうだよ』
今度は、心の中で声がした。もう一つの意識となって心の中で話をしたのは、珠だ。
(できるの? 知ってたの)
『ううん。自分でもびっくり』
珠は生きている実感を取り戻せたのが、本当に嬉しそうなので、マコも嬉しくなった。
(嬉しい?)
赤ペンで書かなくても、今なら心の中だけで珠と会話ができた。
キョロキョロと辺りを見回すと、マコのお気に入りの石鹸の香りがした。
『ソフトボールのアドバイス、しようか』
(うん)
内心マコは、できるのかな? と思ったが、珠はタオルを見つけ、
『汗拭きタオルね』
(そうだよ。髪を拭いたりしたからね)
『ドライヤーでちゃんと乾かさないと、髪が傷むわよ』
(うん、そうだね)
『こうね、プレートがあるとするでしょ』
珠が言うと、視界が足元に落ちた。
『そこからね、心持ち、足をこれくらい踏み出して投げる。スローする時、ボールが手から離れていく感覚』
どれも、珠がマコの体で、しかもマコの感覚を再現していた。
(すごい、珠ちゃん才能あるよ)
『うん、何度も見ているからね』
『頭で考えてもピンとこないと思う。こうするの』
珠は、構えてからステップして、ボールを投げるように、タオルをボンと振った。
一連の動作は一瞬だったが、マコは気づいた。
(そうか!)
『うん。分かるよね。あとは、正確に反復するだけ』
マコは膝から力が抜けて崩れそうになるのを感じた。姿勢を正して、伸びをするようにして立ってみた。とっさにそうしたことで、転ぶのを防げたようだ。
目の前に、珠がぼんやり立っていた。
「成功したね。すごい」
マコが言うと、
うんうんと、珠が満面の笑みで何度も頷いているのが見えた。
椅子に座って、マコは机に向かう。
(今日の成功は、小さいけど大きな一歩だね)
『人類にとってかもね』
珠の冗談にマコが笑うと、
(もしもだよ、これは世紀の発見かもね)
珠が、まだ笑顔のままだから、マコもつられて笑ってしまった。
もう少しだけ、さっきの体験を続けたかったな。マコがそう思うと、全身が気だるく感じられた。
キーホルダーは、冷めてこちらを見ているようだ。
気分よく眠り、そのまま朝を迎えた。
清々しい朝のはずが、目覚めが悪く、起きられない。マコは珍しく朝寝坊して、日課の走り込みができなかった。
「もう、ダメなあたしだ」
ばたばたと着替えて、階段を降りた。
「朝ご飯だ」
マコは、いつも以上にがっつり食べた。
「あら、おはよう」
「うん、おはよ」
母が珍しく、起きてきたのだ。
「ちゃんと食べてるのね」
「お弁当も作ったよ」
うん、と母は頷いて、どこか遠い目で、マコを見つめてきた。
「大丈夫だよ」
「そうね」
母は、どこか寂しそうな目をしていた。
洗面台で、身だしなみを整えると、マコはもう一度部屋に入った。
「珠ちゃん、昨晩のこと覚えてる?」
マコ自身も、なんとなくしか覚えていない。なんだろう? この感覚。
時計を見ると、遅刻ぎりぎりだ。
赤ペンが、少し動いては止まり、また動くのを繰り返す。
『分からない、でも大丈夫だよ』
「うん、大丈夫だと思う」
マコはそう頷くと、窓を見た。
カーテンがふわりと揺れると、机の上の珠のキーホルダーが、真珠色に、ぼんやりとかすかに光るのだった。




