第9話:恐怖の薬草採取
「癒やし草、これで十本目! よーし、依頼達成だね!」
木漏れ日が優しく降り注ぐ『さざなみの森』で、シルヴィは麻袋の中に十本目の癒やし草をしまい込み、満足げに立ち上がった。
額にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭うと、隣に控えていたエランがすかさず杖を振り、極上の清涼な風をシルヴィの全身に纏わせる。ただの汗一つかくことすら、この過保護な従者たちにとっては「姫様に不快な思いをさせてしまった」という一大事なのだ。
「姫様、お疲れ様でございました! 初めてのクエスト、見事な手際で完了されましたね。このロアン、姫様の偉大なる第一歩を特等席で拝見でき、感無量でございます!」
ロアンはポーションがぎっしり詰まった巨大な木樽を肩に担いだまま、感動のあまりボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「あはは、大げさだなぁ。ただ草を摘んだだけだよ?」
シルヴィは苦笑しながら周囲を見渡した。
それにしても、本当に平和な森である。ギルドの依頼書には「スライムやゴブリンなどの低級魔物が出没するため、周囲の警戒を怠らないこと」と赤字で注意書きがされていたはずなのだが、魔物どころか、小動物の姿すら見当たらない。
聞こえるのは風が木々を揺らす音と、時折どこか遠くで「ガサッ……」と不自然に茂みが揺れる音くらいだ。
(……なんか、あの茂みの奥から、男の人たちの『おおぉ……尊い……』みたいな低い唸り声が聞こえる気がするんだけど、気のせいだよね?)
シルヴィはチラリと茂みの方を見たが、すぐに「気のせい気のせい」と首を振った。
彼女が知らない真実として、その茂みの奥では、ギルドマスター・ヴァンから「姫君の視界に魔物を絶対に入れるな」という裏クエストを受注した数十人の凄腕冒険者たちが、文字通り死に物狂いで隠潜していたのである。
彼らは昨夜から徹夜で森中の魔物を狩り尽くし、今はシルヴィの「お散歩」を邪魔しないよう、息を止め、体温すら魔法で偽装して木々に同化していた。シルヴィが草を摘むたびに尊さで昇天しかけ、声が出そうになるのを互いの口を塞ぎ合って耐え忍んでいるのだ。
「まだお昼前だし、お天気もいいから、もう少しだけ奥の方に行ってみようかな? もしかしたら、もっと珍しいお花とか、高く売れる薬草があるかもしれないし!」
シルヴィがウキウキとした声で提案すると、ロアンとエランは「姫様がそう仰るなら、世界の果てまでお供いたします!」と即答した。
一方、それを聞いた茂みの奥の冒険者たちは『ヤバい! 奥のエリアはまだ血糊の清掃が完全に終わってねえ!』『俺たちが先回りして全部隠すぞ!』と、音速のステルス移動を開始し、さらなる過労死ギリギリの任務へと身を投じていた。
シルヴィは鼻歌を歌いながら、森の少し奥へと足を踏み入れた。
木々が少し密集し始め、足元の草花も種類が変わってくる。
その時、巨大な古木の根元に、ひときわ目を引く美しい花が咲いているのをシルヴィは見つけた。
「わぁ……見て、エランさん! あの花、すごく綺麗!」
シルヴィが駆け寄った先には、透き通るような瑠璃色の花弁を持つ、星のような形をした花がひっそりと咲いていた。花びらの表面には朝露がつき、まるで本物の宝石のようにキラキラと輝いている。
「あれは『星屑の涙』と呼ばれる珍しい花ですわね。夜になると淡く発光し、微量ですが魔力を回復させる効果があります。姫様の美しさには遠く及びませんが、観賞用としては悪くありませんわ」
エランが優雅に解説する。
「へえー、星屑の涙かぁ。名前も素敵だね! せっかくだから、一本だけ摘んでお部屋に飾ろうかな」
シルヴィは何の気なしに手を伸ばし、その美しい花の茎に指をかけた。
しかし、彼女は気づいていなかった。その花の茎の裏側に、身を守るための『ごく小さな、透明なトゲ』が密集して生えていることに。
シルヴィが茎を摘み取ろうと少し力を込めた、その瞬間。
「あ……」
チクリ、と。
本当に、針の先がほんの少しだけ皮膚に触れたような、微かな痛みがシルヴィの右手の人差し指に走った。
「痛っ……」
シルヴィは思わず手を引っ込め、自分の指先を見つめた。
透き通るように白い彼女の指先に、ぷっくりと、赤い血の雫がたった一滴だけ滲み出していた。
痛みとしては、紙で指先を切った程度の、数分もすれば忘れてしまうようなごくごく些細なものだ。シルヴィ自身も「あ、トゲがあったんだ。気をつけなきゃ」と軽く思っただけだった。
しかし。
シルヴィのその「痛っ」という小さな声。
そして、彼女の指先から滲み出た、たった一滴の血。
それが、この場にいる(隠れている者も含めた)すべての狂信者たちにとって、どれほどの絶望と世界の終わりを意味する出来事であったか、彼女は理解していなかった。
「————ぁ、」
最初に反応したのは、ロアンだった。
彼にとって、シルヴィの身体から赤い血が流れるという光景は、太陽が西から昇り、大地が天と入れ替わる以上の『あり得ない異常事態』であり、『絶対にあってはならない光景』だった。
獣人の超感覚が、シルヴィの指先の傷を克明に捉える。彼の頭の中で、何かがブチッと千切れる音がした。
「ひ、姫、様……? 血が……姫様の玉肌から、血が……?」
ロアンが担いでいた数百本のポーション入りの巨大木樽が、ドスンと地面に落ちた。
彼の顔面から一瞬にして血の気が引き、次の瞬間、その瞳に狂乱と極大の殺意が宿った。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」
森の木々を薙ぎ倒さんばかりの、絶望の咆哮。
ロアンの全身から、黄金色の凄まじい闘気が火山の大噴火のように立ち昇り、周囲の空間がビリビリと悲鳴を上げて歪み始めた。
「俺はっ! このロアンは、なんという失態を!! 姫様の御前を歩きながら、あのような邪悪な植物の存在に気づかず、あまつさえ姫様の御身を傷つけるなど!! 万死! 億死!! 俺はこの世界で最も罪深い愚か者だ!! 許さん……姫様を傷つけたこの森のすべてを、俺は絶対に許さんッ!!」
ロアンが背中の大剣『滅山』を抜いた。その剣圧だけで、周囲十メートルの地面がクレーターのように陥没し、凄まじい突風が吹き荒れる。
「ロ、ロアンさん!? ちょ、ちょっとトゲが刺さっただけだから! 痛くないから!」
シルヴィが慌てて制止しようとするが、ロアンの耳にはもはや何も届いていない。
そして、狂乱したのはロアンだけではなかった。
「…………姫様の、神聖なる血が、地に落ちた……?」
エランの様子が、ロアン以上に異常だった。
彼女は白目を剥きかけ、カタカタと全身を震わせながら、両手で自らの顔を掻きむしらんばかりに抱え込んでいる。
「あり得ません……あり得ませんわ。この世界の法則が狂っている。姫様のお身体に傷がつくなど、創造神が許してもこの私が許しません!! すぐに……すぐに治癒を!!」
エランは杖を天空へと高く掲げた。
その瞬間、森の上空の雲が異常な速度で渦を巻き、天が真っ二つに割れた。
空から、七色に輝く極光のような魔力の柱が、エランの杖に向かって降り注ぐ。それは、現代の魔法体系からは完全に失われたとされる、エルフの王族のみが口伝で受け継ぐ『国宝級の古代秘伝回復魔法』の詠唱準備であった。
「悠久なる星々の導きよ、大地の脈動よ! 今ここに次元の理を捻じ曲げ、我が女神の御身に刻まれた不条理(トゲの刺し傷)を、因果の彼方へと消し去りたまえ!!」
「えっ、なになになに!? エランさん、魔法の規模がおかしいよ!? 空の色が変わってるんだけど!?」
「【古代神聖魔術・創世の息吹】ッ!!!」
エランが杖を振り下ろした瞬間。
シルヴィの身体を、温かくも圧倒的な密度の光の奔流が包み込んだ。
それは本来、死後数分以内の人間を蘇生させたり、失われた四肢を瞬時に再生させたりするための、国家の全魔力を結集してようやく発動できるレベルの超極大回復魔法である。
それが、シルヴィの指先の「一ミリの擦り傷」に向かって全力で注ぎ込まれたのだ。
傷は治るどころの騒ぎではない。シルヴィの細胞という細胞が活性化し、体力は完全に全快(といっても最大値1なのだが)、疲労感は吹き飛び、肌のツヤすらも異次元のレベルに到達した。
しかし、その魔法の『余波』は凄まじかった。
強大な生命エネルギーの波動が森全体に広がり、枯れ木からは一瞬で花が咲き乱れ、周囲の草木が異常な速度で成長して密林と化していく。
さらに、この事態に最もパニックに陥っていたのは、茂みの奥で息を潜めていたギルドの凄腕冒険者たちだった。
『(おい嘘だろ!? 姫君が怪我をされた!?)』
『(俺たちの責任だ! マスターに殺される!!)』
『(ロアンの旦那の殺気で息ができねえ! エランの姉御の魔法の余波で俺たちの偽装結界が吹き飛んだぞ!!)』
『(あああ姫君の血が! 俺が舐め取って浄化しなければ!)』
隠れていた冒険者たちもまた、シルヴィの魅力による狂信者である。彼らはもはや隠れることを放棄し、涙と鼻水を垂らしながら一斉に茂みから飛び出してきた。
「姫君ーーーッ!! お助けに上がりましたぞーーッ!!」
「その邪悪なる植物は俺が八つ裂きにします!!」
「俺の治癒ポーションを!! いや俺の命を使ってくだせぇ!!」
「えええええ!? なんでこんなに人がいるの!? どこから湧いてきたの!?」
シルヴィの目の前に、突然数十人の重武装した男たちが土下座で滑り込んでくる。ロアンは大剣を振り回して森を更地にしようとし、エランはまだ足りないとばかりに追加の回復魔法を詠唱し始め、空からは虹色の光が降り注ぐ。
たった一滴の血が流れただけで、さざなみの森は世界大戦の最終局面のようなカオス空間へと変貌してしまった。
「みんな落ち着いて! ただのトゲだから! もう傷も塞がってるし!!」
シルヴィが必死に叫ぶが、狂乱の渦にある彼らの耳には届かない。
その時だった。
ズズズズズズズ……ッ!!
突如として、森全体を揺るがすような、巨大な地震が起きた。
ロアンの剣圧でも、エランの魔法の余波でもない。大地の遥か底から、何か途方もなく巨大で凶悪な「質量」が押し上がってくるような、不気味な地鳴り。
「……ッ!? なんだ!?」
狂乱していたロアンが、ピタリと動きを止めて地面を見下ろした。
エランも詠唱を中断し、ギルドの冒険者たちも一斉に武器を構え直す。
ドッゴォォォォォォォォンッ!!!
シルヴィたちが立っていた場所から数十メートル離れた地面が、火山の噴火のように大爆発を起こして吹き飛んだ。
土砂と大木が空高く舞い上がり、ぽっかりと開いた巨大なクレーターの底から、もうもうと立ち込める土埃とともに『それ』は姿を現した。
「グォォォォォォォォォォォォッッ!!!!」
空気をビリビリと震わせる、耳を劈くような咆哮。
土埃を晴らして現れたのは、身の丈五メートルは優に超える、赤黒い筋肉の塊のような巨体。
頭部には太く捻じれた二本の角が生え、その口には剣のように鋭い牙が並んでいる。右の巨大な手には、根っこごと引き抜かれた大木が棍棒代わりに握られていた。
その姿を見たギルドの冒険者の一人が、絶望的な声を上げた。
「ば、馬鹿な……オーガキングだと……!? なぜこんな低級の森に、Aランク指定のエリアボスが!!」
そう、彼らギルドの精鋭部隊は、森中の魔物を徹夜で殲滅したはずだった。
しかし、このオーガキングだけは別格だったのだ。この個体は数日前に大量の獲物を食い殺し、消化のために森の地下深くにある隠し洞窟で深い眠り(冬眠状態)についていた。そのため、冒険者たちの索敵網から完全に漏れていたのである。
だが、シルヴィの指先の傷を発端とした、ロアンの殺気の爆発、エランの国宝級魔法による地脈の乱れ、そして数十人の冒険者たちの騒乱。
その尋常ではないエネルギーの奔流が、地中深くで眠っていたオーガキングを強制的に叩き起こしてしまったのだ。
「グルルルルッ……! ガァァァッ!!」
安眠を妨害されたオーガキングの目は、激しい怒りで血走り、赤く発光している。
その鼻がヒクヒクと動き、オーガキングの視線が、一直線にシルヴィへと向けられた。
極上の魔力を浴び、甘く芳醇な血の匂い(※一滴だけだが)を漂わせる、最高級の餌。オーガキングの凶悪な口元から、ダラリと粘着質な涎が垂れ落ちる。
「ひぃっ……!」
シルヴィは完全に腰を抜かし、その場にへたり込んでしまった。
スライムですら死の恐怖を感じた彼女にとって、目の前の五メートルの怪物は、まさに歩く絶望そのものだった。
その圧倒的な巨体。腐った血と獣の悪臭。そして、自分を捕食しようとする明確な殺意。
ステータス「1」の彼女の脳細胞は恐怖で完全にフリーズし、声を出して逃げることすらできなくなってしまった。
「あ、ああ……っ」
シルヴィの大きな赤い瞳から、ポロポロと恐怖の涙がこぼれ落ちる。
その涙が地面に落ちた瞬間。
森の空気が、完全に『凍結』した。
「……おい」
地の底から響くような、絶対零度の声。
ロアンだった。
彼の大剣から立ち昇る闘気は、先ほどの黄金色から、どす黒い赤黒いオーラへと変貌していた。
その瞳孔は縦に細く割れ、完全に『獣』のそれになっている。
「貴様。今、なんという目をした?」
ロアンの声に呼応するように、エランの全身からも、周囲の空間そのものを崩壊させるようなドス黒い魔力が噴出し始めた。
「私たちの……私たちの崇拝する女神様を……その薄汚い目で『餌』として見た。あまつさえ、その清らかなる瞳から、恐怖の涙を流させた……!」
ギルドの数十人の精鋭冒険者たちも同じだった。
彼らの顔からは一切の表情が消え失せ、ただ純粋な『殺戮マシーン』としてのオーラだけが立ち昇っている。
「姫君を怯えさせた」「姫君を泣かせた」。
その事実は、この場にいる過保護な狂信者たちにとって、世界が滅亡するよりも重い大罪であった。
「グォ……?」
知能の低いオーガキングでさえ、目の前の小さな人間たちから発せられる『異常すぎる殺気』に本能的な死の恐怖を感じ、思わず一歩後ずさった。
「「「万死に値するッッ!!!!!」」」
森全体を吹き飛ばすほどの、狂信者たちの極大の怒号が轟いた。
シルヴィの初めてのクエストは、恐怖の涙とともに、伝説(物理的な虐殺)の幕開けへと突入しようとしていた。




