第10話:伝説の幕開け
「ひぃっ……!」
シルヴィの口から、悲鳴とも呼べないような小さな声が漏れた。
足の力が完全に抜け、尻餅をついた状態から動くことすらできない。
見上げる先には、樹齢数百年はあろうかという巨木を根っこごと引っこ抜き、それを爪楊枝のように軽々と振り回す五メートル超えの怪物——オーガキングの姿があった。
赤黒く隆起した岩のような筋肉。太く捻じれた二本の角。そして、シルヴィという『極上の獲物』を見つけて凶悪に歪む、涎にまみれた口元。
ステータス「1」のシルヴィにとって、それは死神そのものだった。
オーガキングがわずかに息を吐き出すだけで、突風が巻き起こり、周囲の草花が根本から千切れて飛んでいく。
(お、おしまいだ……。あんなのが本気で暴れたら、私なんて一瞬でミンチになっちゃう……!)
大きな赤い瞳から、ポロポロと恐怖の涙がとめどなく溢れ落ちる。
「いやだ、こわいよぉ……」と小さく震えながら、シルヴィは身をすくめてギュッと目を瞑った。
しかし、シルヴィは気づいていなかった。
彼女のその『涙』が、この場にいる過保護な狂信者たちにとって、オーガキングの存在など消し飛ぶほどの【超特大の地雷】であったことに。
「……おい」
地の底から這い上がってきた悪鬼のような、低く、冷たく、そしてドス黒い殺意を孕んだ声が響いた。
獣人戦士ロアンの声だった。
彼が背中の大剣『滅山』を構えた瞬間、森の空気が「ピキッ」と凍りついたような錯覚に陥った。ロアンの全身から立ち昇る闘気は、もはや黄金色ではなく、赤黒い血のような色に染まっている。
「貴様。今、なんという目をした?」
ロアンの瞳孔は完全に獣のそれへと細く割れ、オーガキングを射抜いていた。
「俺たちの……俺たちの魂の主である姫様を、その薄汚い目で『餌』として見たな? あまつさえ、その清らかなる瞳から、恐怖の涙を流させた……!」
「あり得ません……ええ、断じてあり得ませんわ」
エランの声もまた、絶対零度の冷酷さを帯びていた。
彼女の杖の先には、先ほどの超極大回復魔法とは完全に真逆の、空間そのものを削り取るような漆黒の魔力の渦が形成され始めている。
「姫様のお心を微塵でも波立たせたという事実。それは、この世界の法則に対する重大な反逆。私たちが姫様の御前に立つ資格すら失いかねない、大失態ですわ……!」
そして、狂乱したのは二人だけではない。
周囲の茂みから飛び出してきた数十人のギルド精鋭冒険者たちも、完全に理性を失っていた。
「姫君を怯えさせただとォォッ!?」「俺たちの落ち度だ! マスターに腹を切って詫びる前に、あの肉ダルマをミンチにするぞ!!」「姫君の涙一滴につき、奴の細胞を千回刻めェェッ!!」
「グォ……?」
知能の低いオーガキングでさえ、目の前の状況が『おかしい』ことに気がついた。
目の前には美味しそうな小さな人間が一人いるだけのはずだった。
しかし、その周囲を取り囲む他の小さな人間たちから発せられるプレッシャーが、異常すぎる。
オーガキングがこれまで生きてきた中で感じたことのない、山脈が丸ごと落ちてくるような強烈な殺意。本能が「これ以上踏み込めば確実に死ぬ」と警鐘を鳴らし、オーガキングは巨体を震わせて一歩後ずさった。
しかし、遅すぎた。
彼らはもはや、オーガキングを逃がすつもりなど一ミリもなかった。
「「「万死に値するッッ!!!!!」」」
数十人の怒号が完全に重なり合った瞬間。
オーガキングの巨体が、文字通り『塵』へと帰る惨劇が幕を開けた。
「【極大獣王剣・天壊】ッ!!!」
ロアンが大剣を真上から振り下ろす。物理法則を無視した極太の剣圧が、オーガキングの巨体を縦に真っ二つに両断しようと迫る。
「【古代滅絶魔術・虚無の抱擁】ッ!!!」
同時に、エランの杖から放たれた漆黒の魔力がオーガキングの周囲の空間そのものを切り取り、ブラックホールのように全てを圧縮し始める。
「「ウオオォォォォォッ!!」」
さらに、Aランク冒険者たちの全力の魔法、剣技、矢の雨が、オーガキングの全身の急所目掛けて一斉に殺到する。
オーガキングの視点からすれば、理不尽極まりない0.1秒だった。
「あれ? なんかヤバくね?」と本能が警告を発した次の瞬間には、世界最高峰の物理攻撃と魔法攻撃が、文字通り全方位から一切の隙間なく着弾していたのである。
カッ……!!!
凄まじい閃光がさざなみの森を包み込んだ。
轟音すら遅れてやってくるほどの圧倒的なエネルギーの衝突。
「きゃああっ!?」
シルヴィは目を瞑ったまま悲鳴を上げ、飛んでくる土砂や爆風に備えて体を丸めた。
しかし、待てど暮らせど、シルヴィの元にはそよ風一つ吹いてこなかった。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
シルヴィの周囲一メートルには、エランが即座に展開した『完全防音・完全防爆の絶対守護結界』が張られており、シルヴィ自身は指一本、髪の毛一本すら乱れていなかった。
しかし、結界の外、先ほどまでオーガキングが立っていた場所は——綺麗さっぱり消滅し、巨大なすり鉢状のクレーターが出来上がっていたのだ。
「えっ……? オーガキング……さんは?」
シルヴィがきょとんと首を傾げる。
「ご安心ください、姫様」
ロアンが、何事もなかったかのように(大剣からまだチリチリと煙を上げながら)シルヴィの前に跪いた。
「姫様の御心を煩わせていた目障りな虫は、我々がすべて『処理』いたしました。跡形もなく、塵一つ残さず、この世界から消去してご覧に入れましたので」
「ええ、姫様。お怪我はございませんね?」
エランもまた、先ほどの狂気に満ちた顔から一転、聖母のような慈愛の笑みを浮かべてシルヴィの手をとった。
「私たちの不手際で、あのような醜悪なものを視界に入れてしまい、本当に申し訳ございませんでした。二度と、二度とこのような思いはさせませんわ」
その後ろでは、ギルドの冒険者たちが「おおお……姫君のご尊顔が元に戻られた……」「良かった、良かった……!」と抱き合って男泣きしている。
「あ、ありがとう……? なんだかよく分からないけど、みんなが助けてくれたんだね……」
シルヴィはポカンとしながらも、とりあえずお礼を言った。
自分がどれほどのオーバーキル(過剰防衛)の恩恵を受けているのか、彼女には到底理解できなかったが、みんなが無事ならそれでいいか、という持ち前のお人好し精神が発動した。
「おお、そうだ! あれを回収しろ!」
ギルドの冒険者の一人が、クレーターの底を指差して叫んだ。
オーガキングの肉体は完全に消滅していたが、その莫大なエネルギーの衝突の痕跡に、奇跡的に焼け残った部位があったのだ。
それは、オーガキングの『捻じれた二本の角』と、心臓部分にあったとされる『超高純度の巨大魔石』だった。
「すげえ! Aランクエリアボスの完全な魔石だ! これだけで国が一つ買えるレベルのレア素材だぞ!」
「角も無傷だ! これをマスターへの手土産にすれば、俺たちの護衛の落ち度も許してもらえるかもしれねえ!」
「よし、姫君! これはお祝いの品です! どうぞお持ち帰りくだせえ!」
泥だらけの冒険者たちが、満面の笑みで巨大な角と魔石を担ぎ上げ、シルヴィの前に差し出した。
「えっ!? そんな高価なもの、私のもんじゃないよ! みんなが倒したんだから!」
「いえいえ! 姫君の放つ圧倒的なオーラ(怯えていただけ)のおかげで、あの怪物は完全に戦意を喪失しておりました! 姫君が討伐したも同然です!」
「そうですわ、姫様。これらは姫様の偉大なる初クエストの『記念品』として、ギルドに持ち帰りましょう」
エランがニコリと笑い、冒険者たちがウンウンと力強く頷く。
「う、うーん……それじゃあ、ギルドの皆で山分けってことで……」
シルヴィが渋々了承すると、ロアンが軽々とその超重量のレア素材を木樽の上に括り付けた。
こうして、さざなみの森での狂乱の宴は幕を閉じた。
シルヴィの袋の中には、当初の目的である『癒やし草十本』がしっかりと入っている。
しかし、その背後には数百本の高級ポーションの樽と、Aランクエリアボスの超絶レア素材が積み上げられ、数十人の血まみれの精鋭冒険者たちがズラリと護衛についているという、異常すぎる大名行列が形成されていた。
数時間後。
城塞都市グランヴェールの冒険者ギルドは、爆発するような熱狂の渦に包み込まれていた。
「お帰りなさいませぇぇぇぇっ!! 姫君ぃぃぃっ!!」
ギルドの扉が開いた瞬間、受付のリーザをはじめとするギルド中の人間が、割れんばかりの拍手と歓声でシルヴィ一行を出迎えた。
ギルドの床には赤い絨毯が敷き直され、どこから手配したのか、楽器を持った吟遊詩人たちが壮大なファンファーレを演奏している。
「はははっ! さすがは俺たちの姫君だ!!」
ギルドマスターのヴァンが、顔の傷をくしゃくしゃにして大笑いしながら駆け寄ってきた。
「初クエストの薬草採取、無事に完了されたようで何よりでさぁ! 森のお散歩は楽しかったですか!?」
「あ、うん。ヴァンさん、ただいま! 癒やし草、ちゃんと十本採ってきたよ!」
シルヴィがニコニコと笑いながら麻袋を差し出すと、ヴァンは震える手でそれを受け取り、まるで国宝でも扱うかのように高く掲げた。
「見ろお前ら! 姫君が御自ら摘まれた、神聖なる癒やし草だ! これはこのギルドの家宝として、防腐魔法をかけて永久保存するぞ!!」
「「「ウオオォォォッ!! 万歳! 姫君万歳!!」」」
(いや、保存しないで薬にして!?)
シルヴィの心の中のツッコミは、熱狂の渦にかき消されてしまう。
さらに、ヴァンの視線がロアンの背負っている巨大な荷物に向けられた。
「おい、そっちのデカい角と魔石は……まさか!」
「はっ! マスター殿にご報告いたします!」
ロアンが一歩前に出て、誇らしげに胸を張った。
「さざなみの森にて、想定外のAランクエリアボス『オーガキング』が出現いたしました! しかし、姫様がその圧倒的な威光(恐怖の涙)を放たれた瞬間、怪物は完全に戦意を喪失! 我々はその隙を突き、無傷で討伐を完了いたしました! これは、姫様がもたらした偉大なる戦果であります!」
「なっ……なんだとォォォッ!?」
ヴァンの目が見開かれ、ギルド内の冒険者たちも一斉に息を呑んだ。
「ほ、本当かお前ら!?」
「本当ですマスター! 俺たち、姫君の放つ神々しいオーラに、マジでちびりそうになりました!」
「オーガキングが、姫君と目が合っただけで後ずさったんです! 完全に圧倒してました!」
同行していた精鋭たちが、誇張に誇張を重ねた報告を口々に叫ぶ。
「おおおぉぉ……!!」
ヴァンはその場に両膝をつき、滝のような涙を流して天を仰いだ。
「なんという……なんという恐ろしい姫君だ……! 初日でFランクの薬草採取に行きながら、ついでにAランクのエリアボスを無傷で討伐して帰ってくるとは……! 伝説だ! これは、我がグランヴェール冒険者ギルドが誇る、新たな伝説の幕開けだァァァッ!!」
「「「姫君最強!! 姫君最強!! 姫君最強!!」」」
ギルド内は、もはやお祭り騒ぎというレベルを超え、一種の宗教的な狂乱状態へと突入していた。
屈強な男たちが互いに肩を組み、シルヴィの偉業(ただ怯えてへたり込んでいただけ)を讃える歌を即興で歌い始めている。
エランは「ふふっ、当然の結果ですわね」と誇らしげに微笑み、ロアンは「姫様、次はドラゴンでも狩りに参りましょうか!」と鼻息を荒くしている。
その狂騒の中心で。
『最強の冒険者』として盛大に祭り上げられてしまったシルヴィは、一人だけ完全に状況から置いてけぼりになっていた。
(……おかしい。私、薬草を十本摘んだだけなのに。どうしてこうなっちゃったの!?)
ステータスは全て最低値の「1」。
レベルも「1」のまま。
ただのハリボテ吸血姫である彼女の、平和で地道な自立生活の夢は、初日にして見事に打ち砕かれた。
しかし、彼女を慕い、彼女のすべてを過大評価する『過保護な狂信者たち』がいる限り、彼女の破天荒な伝説は、この先も世界を巻き込んでどこまでも加速していくのであった。
「みんな、あのね……私、本当にスライムより弱いんだよ……?」
シルヴィの虚しい呟きは、誰の耳にも届くことなく、歓喜のファンファーレの中へと溶けていった。




