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第7話:厳格なギルドマスターの陥落

「誰だ、ギルドの秩序を乱すふざけた奴は! このヴァン様が直々に叩き出してやる!!」


バンッ! と蝶番がひしゃげるほどの勢いでギルドマスター室の扉が蹴り開けられ、鼓膜をつんざくような怒声がギルド内に響き渡った。

静まり返っていた荒くれ者たちの肩が、一斉にビクッと跳ね上がる。彼らは床にひれ伏したまま、あるいは壁に張り付いたまま、絶望的な表情でその男の登場を見上げた。


現れたのは、城塞都市グランヴェール冒険者ギルドを束ねる男、ギルドマスターのヴァンである。

年齢は五十代半ば。しかし、その肉体は全盛期の鋼のような筋肉を未だ維持しており、身長も二メートル近い。顔の右半分には、かつて単身で凶悪な飛竜ワイバーンの巣に乗り込み、素手で首をねじ切った際についたとされる痛々しい巨大な刀傷が斜めに走っている。


元Sランク冒険者にして、泣く子も黙る「血塗れのヴァン」。

彼は極度の実力主義者であり、規律に厳しい男だった。貴族がコネでギルドに口出ししてこようものなら、相手が誰であろうと胸ぐらを掴んで窓から投げ捨てる。新人冒険者が少しでも甘えた態度を見せれば、愛用の大剣の腹で骨が折れるまで殴り飛ばし「実戦ならお前は今死んだぞ」と吐き捨てる。

良く言えば頼れる男、悪く言えば理不尽な鬼軍曹。それがヴァンという男の絶対的な評価だった。


普段なら、彼が一声怒鳴れば、喧嘩をしていた冒険者たちも震え上がって蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

しかし今日だけは違った。彼がギルドマスター室で書類仕事をしている最中、外の喧騒が不自然にピタリと止み、気味が悪いほどの静寂が訪れたのだ。「また馬鹿どもが何か厄介事を起こしやがったな」と判断したヴァンは、怒り心頭で飛び出してきたのである。


「おい、お前ら! どこの馬の骨にビビって土下座なんかしてやがる! 冒険者の誇りはどこに……」


怒鳴り散らしながら、ヴァンの鋭い鷹のような視線がギルド内をねめ回す。

そして、レッドカーペットのように道が開けられた中央の通路、その先の受付カウンターの前に立つ「それ」を視界に捉えた。


最初は、見間違えかと思った。

血と泥と酒の匂いが染み付いたこのむさ苦しいギルドに、なぜか、太陽の光を凝縮して紡いだような金髪を持つ、信じられないほど華奢で美しい少女が立っていたからだ。

麻布の粗末な服を着ているにもかかわらず、その立ち姿は大陸全土を統べる女帝よりも気高く見え、同時に、触れれば壊れてしまいそうなガラス細工のような儚さを持ち合わせている。


ヴァンと、シルヴィの視線が交差した。


「ひっ……!」


怒り狂って現れた顔に傷のある大男と目が合い、シルヴィは小さく悲鳴を上げて肩をすくめた。

怖い。めちゃくちゃ怖い。前世で裏社会の映画に出てきたような、本物の「ヤバい人」のオーラが漂っている。

シルヴィのステータスは、悲しいかな全て「1」である。ヴァンの放つSランク特有の強烈な殺気にあてられただけで、足の震えが止まらなくなってしまった。


(ど、どうしよう! 絶対に『お嬢ちゃんが来る場所じゃねぇ』って怒られるパターンだ! 殺される!)


シルヴィは怯え、無意識のうちにキュッと身を縮こまらせ、上目遣いでヴァンを見つめ返した。その大きな赤い瞳は、恐怖でうっすらと涙ぐんでいる。


その瞬間だった。

シルヴィの放つパッシブスキル『真祖の威光』と『絶対的庇護欲』が、致死量の濃度となってヴァンの脳天を直撃した。


『通知:対象【ギルドマスター・ヴァン】に対し、精神干渉を極大レベルで実行します。魅力・カリスマのカンスト値による強制力(絶対防衛・崇拝)が適用されました』


脳内でシステム音が鳴り響いたことなど、シルヴィには知る由もない。

ただ、彼女の目には、恐ろしい大男の様子が劇的に、あまりにも劇的に変化していくのがはっきりと見えた。


「あ……がっ……!?」


ヴァンは、まるで心臓を見えない巨大な手に鷲掴みにされたかのように、胸を抑えて立ち尽くした。

彼の歴戦の精神力、鋼鉄の意志、これまでの人生で培ってきた厳しい規律。それらが、たった一瞬の『視線の交差』によって、砂上の楼閣のごとくガラガラと音を立てて崩れ去っていく。


(な、なんだこの少女は……!? いや、少女などという陳腐な言葉で表現していい存在ではない! まるで……そう、まるで神がこの世界に直接創り出した、完璧なる美の結晶! 愛らしさの権化!)


ヴァンの脳内で、けたたましい警報が鳴り響いていた。しかしそれは「敵襲」を知らせるものではない。「この尊き存在を、自らの命を投げ打ってでも保護せよ」という、生物としての本能を根底から書き換える致命的なエラー警報だった。


「マスター! 姫様に向かってそのように野蛮な声を上げるとは、たとえ貴様がかつての英雄であろうと容赦はせんぞ!」

「ええ、五秒数えます。その間に自らの声帯を潰して土下座しなければ、私が貴方の脳髄を直接凍結させますわ」


シルヴィの背後で、ロアンの大剣がギラリと抜かれ、エランの杖の先に極大の魔力が収束し始める。

このギルドの空間そのものを消し飛ばしかねない二人の殺意。並の冒険者ならそれだけで失神するプレッシャーだが、ヴァンはロアンとエランの存在など、もはや一ミリも視界に入っていなかった。


「お、おお、おおお……」


ヴァンの顔を斜めに走る恐ろしい刀傷が、ピクピクと痙攣した。

先ほどまでの鬼のような形相が、まるで春の雪解けのようにドロドロと崩れ、代わりに浮かび上がったのは、見ているこちらが恥ずかしくなるほどの『デレデレの笑顔』だった。赤黒く日焼けした顔面が、首の根元まで真っ赤に染まっている。


「お、お嬢ちゃん……いや違う、姫君! この薄汚い場所へ、ようこそおいでなすった!」


ヴァンは、強靭な太ももをモジモジと擦り合わせながら、両手を胸の前で揉み手にして、そろりそろりとシルヴィに近づいてきた。

その姿は、かつて飛竜の首をねじ切った英雄とは到底思えない、孫娘に小遣いをねだられてデレデレになっているただの好々爺にしか見えなかった。


「えっ……? あ、あの……?」

シルヴィは予想外の反応に目をパチクリと瞬かせた。


「マスター……」

受付嬢のリーザが、涙ぐんだ顔のまま呆然と呟く。

床に這いつくばっていた冒険者たちも、「あの鬼のマスターが、あんな気持ち悪い……いや、あんな優しい笑顔を浮かべるなんて……!」と恐怖と驚愕でガタガタと震えている。


「いやぁ、申し訳ない! 俺の声がデカくて驚かせちまったな! 今度からアリの足音くらいの声で話すから、どうかその美しい瞳から涙を引っ込めてくだせぇ!」

ヴァンはシルヴィの数メートル手前で立ち止まると、バタン! と勢いよく土下座に近いお辞儀をした。


「俺はこのギルドのマスターを務めとる、ヴァンと申すしがない爺でさぁ! 姫君、本日はどのようなご用件で!? ギルドの取り壊しですか!? それとも俺の首がお望みで!?」

「なんで首!? 取り壊しもしないよ!」


シルヴィは慌ててブンブンと首を横に振った。

「あの、私、冒険者の登録をしに来たんです。お仕事をして、お金を稼ぎたくて……」


「ぼ、冒険者の登録……?」

ヴァンはその言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたように顔を上げた。

「なんと……この世の全ての富を差し出されてもおかしくない姫君が、自らの手で仕事をし、日銭を稼ごうとなさっていると!? ああ、なんという健気さ、なんという気高さ! このヴァン、六十年の人生でこれほど魂を揺さぶられたことはございません!」


「そうでしょう! わかります、わかりますぞマスター殿!」

後ろにいたロアンが、なぜかヴァンと意気投合して力強く頷いた。

「姫様は、あえて泥にまみれることで下々の者たちの生活を理解しようとされているのです! 我らもそのお心に打たれ、お供をしている次第!」

「うおおぉぉっ! そういうことでしたか! さすがは我らが姫君!」

「勝手に『我らが』にしないでもらえますか、マスター。姫様は私とロアンのものですわ」

エランが冷たく睨みつけるが、もはやヴァンもロアンも感動の涙を流してガッチリと握手を交わしている。


(どうしよう、話がどんどん変な方向に転がっていく……!)

シルヴィは頭を抱えた。この世界の人たちは、どうしてこうも勝手な解釈で感動して泣き出してしまうのだろうか。


「えっと……それで、登録はできるんですか? なんか試験とかあるって聞いたんですけど……」

シルヴィが遠慮がちに尋ねると、ヴァンはハッと我に返ったように立ち上がった。


通常、グランヴェール冒険者ギルドの登録試験は過酷である。

体力テスト、魔力測定、そして何より「先輩冒険者との模擬戦」が必須となる。模擬戦でボロボロにされながらも、立ち上がるガッツを見せた者だけが、一番下のFランクとして登録を許されるのだ。

もし、体力1のシルヴィが模擬戦など行えば、木剣がかすっただけで即死する自信がある。


「し、試験だと……!? 冗談じゃねえ!!」

ヴァンは顔を真っ赤にして、ギルド内に響き渡る声で怒鳴った。

「姫君のような繊細で尊いお方に、野蛮な試験を受けさせるなど言語道断! もし姫君の玉肌に傷でもついたら、俺はこの街ごと腹を切らなきゃならねぇ! 誰だ、姫君にそんなつまらねぇ常識を吹き込んだのは!」


「えっ、でも試験しないと実力が……」

「実力など関係ねえ! 姫君がそこに存在してくださっているだけで、このギルドはもう大赤字を取り戻したようなもんだ! リーザ!!」


ヴァンが受付嬢を怒鳴りつける。

「は、はいぃっ!」

「今すぐ『アレ』を持ってこい! 一番奥の金庫に入ってる、特別なヤツだ!」

「ア、アレですね! かしこまりましたぁっ!」


リーザは弾かれたように立ち上がると、カウンターの奥の部屋へと転がるように走っていった。

数分後、リーザが恭しく両手で掲げるようにして持ってきたのは、ビロードの布に包まれた一枚のカードだった。


「姫君、これをお受け取りくだせぇ」

ヴァンが震える手で布を解き、中から現れたカードをシルヴィに差し出す。

それは、普通の冒険者が持つ木製や銅製のギルドカードとは全く異なっていた。漆黒の未知の金属をベースに、純金でギルドの紋章が刻み込まれ、さらには魔力を帯びた虹色の宝石が散りばめられている。

一目見ただけで、それが国宝級の代物であることがわかる。


「えっ……なにこれ、すごくキラキラしてる……」

「これは『特級VIPカード(ブラックゴールド)』でさぁ」

ヴァンが揉み手をしながら解説する。


「本来なら、国を救った大英雄か、あるいは王族クラスの要人にしか発行されない特別な身分証です。これを提示すれば、ギルドの施設はすべて永久に無料! 依頼の斡旋手数料もゼロ! ギルドに併設された最高級レストランも貸し切り放題! どんな国境の関所も顔パスで通れます!」


「ええっ!? そんなすごいもの、貰えないよ!」

シルヴィは慌てて両手を振った。

「私、ただの新人だし……それに、Fランクから地道に頑張りたいの!」


シルヴィの『地道に頑張りたい』という純粋な願い。しかし、それすらもヴァンの脳内では『大英雄の謙虚な振る舞い』として美化されてしまう。


「おおおぉぉ……! どこまでお労しい……! 権力に胡座をかくことなく、あくまで下積みから経験を積もうとなさるその姿勢! お受け取りくだせぇ、これはただのカードです! 姫君のその素晴らしいお心意気に、ギルドからのほんのささやかなプレゼントだと思ってくだせぇ!」


ヴァンは無理やりシルヴィの小さな手に、漆黒のVIPカードを押し付けた。

さらに、カードの隅には小さく「Fランク(ただし権限はSSランク級)」という、ギルドの規則を根底からへし折るような特例の文字が刻まれていた。


「あ、ありがとう……? なんだか悪いなぁ」

シルヴィが困惑しながらもカードを握りしめ、「ふふっ」と控えめに微笑んだ瞬間。


「ブフォァッ!!」

ヴァンは鼻から盛大に血を噴き出し、白目を剥いて後ろに倒れ込んだ。

「マ、マスターー!!」

「大丈夫だ、マスターの顔は今まで見たこともないくらい幸せそうに笑ってるぞ!!」

「女神様の微笑みを受けて死ねるなら、マスターも本望だろう!!」


床に倒れたヴァンを囲んで、荒くれ者たちがなぜか感動の涙を流しながら万歳三唱を始める。

冒険者ギルドという厳しい実力主義の牙城は、シルヴィがただ「登録したい」とお願いして首を傾げただけで、完全に機能不全に陥り陥落してしまったのである。


「……なんか、冒険者のギルドマスターって、すごくフレンドリーで優しい人なんだね」

シルヴィは漆黒のVIPカードをまじまじと見つめながら、心底感心したように呟いた。

「これなら、私でも安全にお仕事ができそう! よーし、頑張って薬草をたくさん摘むぞー!」


その純真な言葉を聞いて、倒れていたヴァンがむくりと起き上がり、鼻血を垂らしたまま叫んだ。


「野郎ども!! 姫君が薬草採取をご所望だ!! 今日からこのギルドの全戦力を挙げて、周辺の森の治安を完全掌握しろ! 姫君の視界に、凶暴な虫一匹たりとも入れるんじゃねえぞォォッ!!」


「「「ウオオォォォォォッッ!! 女神様のためにィィィッ!!」」」


地鳴りのような怒号がギルドを揺るがす。

シルヴィの「地道で安全なFランク冒険者ライフ」は、国家の総力戦レベルの厳戒態勢の中で、華々しく(そして壮大な勘違いと共に)幕を開けようとしていた。

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