第47話:浄化(デレ化)される絶望
数千年の封印から目覚め、世界を絶望の底に沈めるはずだった『古代の邪神』。
山脈のように巨大で、ドス黒い瘴気の塊であり、無数の触手と赤い眼球を持っていたはずのその最凶の破壊神は。
今、レベル1の最弱吸血姫シルヴィの足元で、完全に別の生き物へと姿を変えていた。
「えっ……? 嘘、もしかして、あなたがさっきの怪獣さん!?」
シルヴィは、信じられないものを見るように目をパチクリと瞬かせた。
彼女の膝丈ほどのサイズしかないその生物は、全体的なシルエットは子犬に似ているものの、背中には小さなコウモリのような翼が生え、額には小さな二本の角があり、ドラゴンのような細長い尻尾が生えていた。
体毛は夜の闇を溶かしたようなダークカラーだが、ドロドロとした瘴気は一切なく、むしろ最高級のシルクのようにサラサラで、フワフワとしている。
そして何より、先ほどまで世界への憎悪を煮えたぎらせていた無数の赤い眼球は、今や二つの大きくてウルウルとした、どこまでも純真な(デレきった)瞳へと変化していた。
「……きゅぅん」
邪神——いや、元・邪神は、シルヴィのブーツにすりすりと頬ずりをしながら、庇護を求める小犬のように甘えた声を上げた。
その体内では、先ほど自爆を無理やり相殺したダメージによって、神話級の激痛が走っているはずだった。
だが、そんな苦痛など、今の邪神にとっては吹き抜けるそよ風にも等しい。
なぜなら、彼の(彼女の?)心の中は、ただ一つの絶対的な真理によって完全に塗り替えられていたからだ。
(アア……。近クデ見ル主ハ、更ニ尊イ……!! ナント愛ラシイオ声……! ナント美シイ瞳……!! 我ハ、イエ、私ハ、コノ尊キ存在ニ出逢ウタメダケニ、数千年ノ封印ヲ耐エ抜イテキタノダ!!)
邪神の精神回路は、シルヴィの放ったパッシブスキル『真祖の威光』と『絶対的庇護欲』の直撃を受け、完全に融解し、再構築されていた。
もはや「世界を滅ぼす」という野望など、一ミクロンも残っていない。
今の邪神の唯一にして最大の願いは、『この美しき主の足元で、一生撫でられながら平和に暮らしたい』という、極限までスケールダウンした(しかし本猫にとっては宇宙よりも重い)切実なものだけであった。
「ほんとに……さっきの怪獣さんなの? なんだか、全然怖くなくなっちゃったね」
シルヴィは、おそるおそるしゃがみ込むと、右手をゆっくりと伸ばした。
そして、フワフワのダークな毛並みを持つ小動物の頭を、優しく、そっと撫でた。
「わあ……! すっごくフワフワ! 手触り最高だよ!」
『————ッッッ!!!!!!』
シルヴィの柔らかく温かい手が頭に触れた瞬間。
邪神の脳内で、ビッグバン級の歓喜の爆発が起きた。
(撫デラレタ!? 私ノヨウナ、泥ニ塗レタ破壊神ガ、コノヨウナ神聖ナル御手デ撫デテ頂ケタトイウノカ!? アアアァァァァッ!! 尊イ!! 尊スギテ魂ガ浄化サレテシマウ!! 否、既ニ浄化サレテイタ!!)
邪神は、これ以上の幸福はないとばかりに、目を細めて「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と、猫のように気持ちよさそうな喉の音を鳴らし始めた。
そして、コロンッと仰向けに転がり、一番の急所である柔らかいお腹をシルヴィに向けて全開にした。
完全なる服従。無条件降伏の究極形態『腹見せ』である。
「あははっ、くすぐったい? ゴロゴロ言ってる! 可愛いワンちゃんみたいだね!」
シルヴィは、すっかり恐怖を忘れ、両手で邪神のお腹をワシャワシャと撫で回し始めた。
「きゅぅぅ〜ん……♪」
邪神は、短い手足をバタバタとさせて喜びを表現し、シルヴィの手にすりすりと顔を押し付けている。
ルクスヴェル大陸の全生命体を絶望の淵に叩き落とした古代の邪神は。
開始からわずか数分で、一切の抵抗も戦闘も交えることなく、最弱の少女にあっさりと手懐けられ、究極の愛玩動物へと完全に成り下がって——いや、昇華されてしまったのである。
その、宇宙の真理すらも書き換えるほどの理不尽で平和すぎる光景を。
少し離れた場所で地面に倒れ伏していた、七人の化け物たち(従者)が、信じられないものを見る目で凝視していた。
「……あり得ん」
両腕を粉砕された獣人ロアンが、ポカンと口を開けて呟いた。
「邪神だぞ……。神話の時代、神々の連合軍すらも敵わず、ただ封印することしかできなかったという、最強最悪の災厄だぞ……。それが、姫様がお腹を撫でただけで、あのようにだらしない声を上げて服従しているだと……?」
「な、なんという……なんという圧倒的な浄化の力……!!」
エルフのエランが、吐血した口元を拭うことも忘れ、ガタガタと震えながら歓喜の涙を流し始めた。
「私たちの放った極大奥義など、ただあいつの泥の身体を削ったに過ぎませんでしたわ! しかし姫様は! 姫様は、あの邪神の『心』そのものを、完全に光で包み込み、悪意を一滴残らず浄化してしまわれたのです!! これこそが……これこそが、真の神の力!!」
「おおおぉぉぉ……!! 聖女様!! 我らが光の御子よ!!」
聖騎士セリアが、地面に這いつくばったまま、聖剣を掲げて狂信的な祈りを捧げる。
「星を砕くはずだった自爆のエネルギーすらも、聖女様の『怒らないで』という慈悲深き一言で自ら相殺させ……。あまつさえ、その命すらも奪わずに、愛らしき小動物へと転生(デレ化)させてしまうとは!! 私は今、神話が書き換わる瞬間を目撃している!!」
「ヒャハハハハ!! 傑作だぜ!! アタシらが命懸けで戦った最強のボスが、姫様のただのペットになっちまった!!」
ドワーフのマイラが、痛む腰を押さえながら大爆笑する。
「姫様の器のデカさは、宇宙の果てまで行っても測りきれねえな!!」
「……フン。姫様は、あのような破壊神ですらも、寂しさに打ち震えるただの迷子に見えたのだろう」
執事ノクティスが、血だらけの燕尾服を優雅に翻し、極限の崇拝を込めて深く頷く。
「暗殺術で魂を消滅させるなど、三流のやること。対象の存在意義を根底から書き換え、永遠の忠誠を誓わせる姫様の御業……。私など、足元にも及ばん」
「あんな泥の塊ですら、姫様の可愛さの前にはひれ伏すしかなかったということですわね! でも、姫様の一番のメイドは私ですからね! あんなフワフワの毛玉に負けませんわよ!」
吸血鬼ルルが、謎の対抗心を燃やしてシャーッと威嚇の音を立てる。
「姫様……! 万歳!! 姫様ァァァッ!!」
竜騎士ダリウスが、首の骨が折れ曲がったまま、涙を流して雄叫びを上げる。
七人の従者たちの脳内では、すでに完全なる『超解釈』が完了していた。
シルヴィのパッシブスキルが強制的にAI(邪神)をバグらせたという事実は、彼らの中では「姫様の底なしの慈愛と神々しいオーラが、世界を滅ぼす悪意すらも無条件で浄化し、改心させた」という、究極の聖女伝説として金字塔のように打ち立てられてしまったのである。
彼らは、満身創痍の身体を引きずりながら、シルヴィの元へと這い寄っていった。
「姫様……!」
ロアンが、砕けた腕の代わりに鼻面を地面に擦り付けて平伏する。
「我々臣下一同、姫様の圧倒的な御力に、ただただ平伏するほかございません……! 邪神すらもペットになさるとは、まさに世界を統べるに相応しき御方……!!」
「えっ? いやいや、みんなのほうがすごいよ!」
シルヴィは、足元でゴロゴロと喉を鳴らしている邪神を撫でながら、慌てて首を横に振った。
「私が来た時には、怪獣さんはもうすっごくボロボロだったもん。みんなが一生懸命戦ってくれたから、この子も悪いことをやめてくれたんだよ。みんなのおかげだよ!」
それは、シルヴィなりの謙遜であり、事実(ボコボコにされて自爆寸前だった)でもあった。
しかし、その言葉すらも、狂信者たちの耳には、神の福音のように響いた。
「おおおぉぉ……! あのような偉業を成し遂げておきながら、すべての手柄を、我々のような愚かな下僕の手柄にしてくださるとは……!!」
「なんという謙虚さ! なんという慈悲深さ! 私、もう一生姫様の足の裏を舐めて暮らしたいですわ!!」
エランが完全に理性を失って叫ぶ。
「ええっと……足の裏はちょっと……」
シルヴィは苦笑しながら、ふと、空を見上げた。
先ほどまで大陸を覆い尽くし、世界を絶望の淵に沈めていた赤黒い空。
邪神が放っていた濃密な瘴気の雲は、邪神自身が浄化(デレ化)されたことによって、すでに完全に消え去っていた。
終焉の谷の深く切り立った岩壁の間から、抜けるような美しい青空が広がり、温かな太陽の光が、数千年ぶりにこの谷底へと真っ直ぐに降り注いでいる。
「わあ……。空が、とっても綺麗」
シルヴィは、邪神(小動物形態)を両腕でヒョイと抱き上げると、太陽の光を浴びながら、満面の笑顔で青空を見上げた。
金色の髪が風に揺れ、透き通るような白い肌が光を反射して神々しく輝いている。
彼女の腕の中では、かつて世界を滅ぼそうとした最凶の邪神が、まるで無垢な子犬のように「きゅぅん」と鳴いて、彼女の腕にすりすりと身を委ねている。
その足元には、世界最強の七人の化け物たちが、彼女を絶対の神として崇め、涙を流して平伏している。
それは、まるで一枚の宗教画のように。
あまりにも神聖で、あまりにも美しく、そして、あまりにも【理不尽】な光景であった。
「……あーあ。お肌が乾燥するから急いできたけど、すっかりお日様も出てきちゃったね」
シルヴィは、抱きかかえた邪神のフワフワの毛に頬ずりをした。
「でも、こんなに可愛いワンちゃんに会えたから、いっか! この子、一緒に連れて帰ってもいいよね?」
『キュンッ!! キュゥゥゥゥン!!(訳:モチロンデス!! 一生オ供サセテクダサイ!! マスターノ膝ノ上コソガ、私ノ永遠ノ玉座デス!!)』
邪神が、尻尾をちぎれんばかりに振って猛烈にアピールする。
「ははっ……姫様のお望みのままに」
ロアンが、感涙にむせびながら深く頷く。
「姫様が拾われたのであれば、そのワンちゃん(元邪神)は、ルクスヴェル大陸で最も高貴なペットにございます。……おい新入り、もし姫様の腕に噛みつきでもしたら、俺がその毛皮を一瞬で剥ぐからな」
『ウゥゥッ!!(訳:誰ガ噛ムカ!! 触レラレルダケデ昇天シソウナノニ!!)』
邪神とロアンの間で、無言の牽制(完全なるヒエラルキーの確立)が行われる。
こうして。
世界を滅亡の危機に陥れた古代の邪神は、ステータスオール1の最弱吸血姫シルヴィによって、一滴の血も流されることなく(※直前に七人にタコ殴りにされた血は除く)、完全に浄化され、彼女の『最強のペット』としてパーティに迎え入れられたのである。
しかし、この終焉の谷での出来事が、世界中にどのような影響を与えるのか。
シルヴィたちは、まだ完全に理解していなかった。
赤い空が消え、瘴気が晴れ渡ったことで。
パニックに陥っていた人間界の王都も、魔界の魔王城も、世界中の人々が、空を見上げて呆然としていた。
「そ、空が……青空に戻った……!?」
王都のバルコニーで、国王が震える声で叫ぶ。
「邪神の絶望の魔力波が、完全に消滅しました……! 奇跡だ……神の奇跡が起きたのだ!!」
教皇が、涙を流して崩れ落ちる。
魔王城でも、魔王が玉座から立ち上がり、信じられないものを見る目で空を仰いでいた。
「誰かが……あの数千年の災厄を、たった数十分で討伐したというのか……!? まさか、あの聖都にいるという『光の聖女』……真祖の姫君の仕業か!?」
世界のトップたちは、この信じがたい事態の真相を確かめるべく、こぞって聖都アイギスへ、そしてシルヴィの元へと急行する準備を始めていた。
だが、当の張本人であるシルヴィは。
「ねえみんな、そろそろ帰ろう? お腹空いちゃったし、アオイちゃんが淹れてくれた紅茶の続きが飲みたいな!」
抱きかかえた邪神(フワフワ形態)の匂いをクンクンと嗅ぎながら、完全に『ピクニックの帰り道』のテンションで、暢気に笑っているのであった。




