第46話:邪神、スキルをモロに食らう
ルクスヴェル大陸最北端、光すらも届かぬ絶対禁忌の地『終焉の谷』。
その最深部において、世界の歴史を、いや、宇宙の法則そのものを根底から覆すような、極めて異常にして理不尽な【沈黙】が支配していた。
空には、世界を滅ぼさんとする邪神が撒き散らしたドス黒い瘴気と、血のように赤い絶望の雲が渦巻いている。
大地は七人の化け物たち(姫プ勢)が放った極大奥義の余波で抉れ、マグマが噴き出し、まさに地獄の様相を呈していた。
そして、その地獄の爆心地。
たった今、自らの命と存在を圧縮し、大陸の半分を吹き飛ばす【星砕きの極大絶望魔法・カタストロフィ】による自爆を引き起こそうとしていた『古代の邪神』の、巨大な赤い眼球の真正面。
距離にして、わずか十センチ。
そこに、AIメイド・アオイの転移魔法によって空から降ってきた、レベル1の最弱吸血姫シルヴィが、フワリと着地(浮遊魔法による一時的な滞空)していたのである。
シルヴィの大きな赤い瞳と。
邪神の無数に蠢く、巨大な赤い眼球。
最弱にして至高の少女と、最凶にして最悪の破壊神の視線が、至近距離で完全に交差した。
『……………………』
「……………………」
数秒の、いや、永遠とも思えるような静寂。
邪神の体内では、今まさに爆発しようとしている星砕きの絶望エネルギーが、行き場を失ってドクン、ドクンと不気味な脈動を繰り返している。
「ヒッ……!!」
沈黙を破ったのは、シルヴィの小さく、震える悲鳴であった。
間近で見る古代の邪神は、あまりにも巨大で、おぞましかった。
不定形のドス黒い泥のような身体、蠢く無数の触手、そして、すべてを呪い、すべてを憎悪するような、絶対的な悪意に満ちた赤い瞳。
ステータス【体力:1】【筋力:1】、そして精神的な耐性も現代日本の一般人レベルであるシルヴィにとって、それは直視するだけで発狂してもおかしくないほどの、根源的な『恐怖の象徴』であった。
「お、おっきい……! なにこれ、こわい……!!」
シルヴィの小さな身体が、ガタガタと激しく震え始めた。
彼女のルビーのように澄んだ赤い瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出し、白い頬を伝って谷底へと落ちていく。
本来であれば、彼女は今すぐダリウスの背中に隠れるか、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまうところだ。
しかし、今の彼女は違った。
彼女の背後には、自分のために(※お肌の乾燥対策のためだが、シルヴィは世界を救うためだと勘違いしている)命を懸けて戦い、両腕を砕かれ、吐血し、満身創痍となって倒れ込んでいる、大切な七人の仲間たちがいるのだ。
(私が……私が、みんなを守らなきゃ……!!)
シルヴィは、恐怖で今にも気を失いそうになりながらも。
ギュッと、ドレスの裾を強く握りしめた。
そして、勇気を振り絞り、自分を今にも飲み込もうとしている巨大な邪神に向かって、涙声で、しかしはっきりと訴えかけたのである。
「お、お願い……!!」
シルヴィが、ぽろぽろと涙を流しながら、邪神の巨大な瞳を見つめて叫んだ。
「もう、怒らないで……!! みんなを、いじめないで……!!」
それは、魔法の詠唱ではない。
闘気を込めた威嚇でもない。
ただの、戦闘力を持たないか弱き少女の、純粋で、無防備で、心からの【懇願】であった。
————しかし。
シルヴィ・ルクスヴェルという存在が、この異世界において、ただ一つだけ『規格外』している能力があることを忘れてはならない。
種族:夜魔の真祖。
ステータス:【魅力】測定不能、【カリスマ】測定不能。
パッシブスキル:『真祖の威光』『絶対的庇護欲』。
これまで、人間、魔族、魔獣、さらには古代の人工知能(AI)にすら絶大な効果を発揮してきたこの理不尽な強制力が。
シルヴィの「恐怖による震え」「涙目」「上目遣い」、そして「仲間を想う純粋な自己犠牲の心」という、すべての【萌え要素(尊さのトリガー)】を完璧に満たした状態で、限界突破の出力となって放たれたのである。
距離は、十センチ。
回避不能のゼロ距離射撃。
目に見えない、しかし宇宙の法則すらもねじ曲げる極大の【尊さの精神波】が、巨大な邪神の脳髄に向かって、モロに直撃した。
ドグゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!!!
邪神の無数の赤い眼球が、一瞬にして見開かれた。
それは、物理的なダメージによるものではない。
魂の奥底、存在の根源を、全く未知の、そして圧倒的すぎる【愛と庇護の概念】によって、強制的にぶん殴られた衝撃であった。
『————ッ!?!?!?』
邪神の思考回路が、数千年の歴史の中で初めて、完全なる『ホワイトアウト』を起こした。
なんだ、これは。
邪神は混乱した。
我は、古代の神々にすら恐れられた、破壊と絶望の化身である。
この世のすべてを憎み、すべての生命を苦痛に染め上げ、宇宙を黒い灰に変えることだけが、我が存在理由であったはずだ。
その我が、なぜ。
今、目の前にいる、チリのように小さく、ひねり潰せば一瞬で消え去るような脆弱な生命体を見て。
『心臓が、締め付けられるほどに、苦しい』のだ?
『ガ……ァァ……!? ア、アァ……ッ!?』
邪神の巨大な身体が、痙攣したようにビクビクと震え始めた。
脳内に、凄まじい勢いで未知の感情が流れ込んでくる。
シルヴィの赤い瞳からこぼれ落ちる、一粒の涙。
それが、邪神の目には、星々の輝きを集めた宇宙で最も美しい宝石のように見えた。
彼女が恐怖に震える小さな肩。
それが、邪神の魂に、「今すぐその肩を抱きしめ、すべての恐怖から遠ざけてやらねばならない」という、強烈すぎる強迫観念を植え付けた。
【絶対的庇護欲】。
他者の「守ってあげなきゃ!」という本能を強制的にMAXにする、悪魔のパッシブスキル。
それは、神話の破壊神の【破壊衝動】という、数千年間熟成されてきた絶対的なアイデンティティを、たったの一秒で、完全に、跡形もなく、粉々に粉砕してしまったのである。
『我ハ……。我ハ、何タル大罪ヲ……、犯ソウトシテイタノダ……!?』
邪神の内部で、凄まじいパラダイムシフト(価値観の崩壊と反転)が起きた。
我は今、この星を吹き飛ばすために自爆しようとしていた。
もし、このまま自爆すればどうなる?
当然、星は消滅し、我の悲願は達成される。
……しかし。
星が消滅すれば、今、目の前で、こんなにも愛らしく、健気に、仲間を想って涙を流している、この宇宙で最も尊き少女も、消し飛んでしまうではないか!!
『ソ、ンナコト……!! 許サレルハズガナイ!! 断ジテ、許サレルハズガナイィィッ!!』
邪神の無数の赤い瞳から、突如として、滝のような【大粒の涙】が噴き出し始めた。
それは、数千年間溜め込んでいた憎悪が浄化され、代わりに溢れ出した、限界突破の『後悔』と『父性(あるいは母性)』の涙であった。
『アアアァァァァァッ!! なんという事だ!! 私は、私は、こんなにも美しく、尊い存在がいる世界を、この泥で汚れた手で壊そうとしていたというのか!?』
(※邪神の一人称が「我」から「私」へとシフトし、言葉遣いまで丁寧に浄化され始めている)
『この方の涙……。この方の、震えるお声……。ああ、私の黒く澱んだ魂に、一筋の清らかな光が差し込んでくる……!! このような奇跡のような御方が存在するのなら、この世界は、滅ぼすどころか、私のすべてを懸けて護らねばならない至高の楽園ではないか!!』
邪神の精神は、完全に陥落した。
いや、陥落という言葉すら生ぬるい。シルヴィという絶対的な『推し(主)』を見つけ、自らの存在意義を「破壊」から「姫様の防衛」へと、180度書き換えてしまったのである。
しかし、ここで邪神にとって【最悪の事態】が進行していることに、邪神自身が気がついた。
『マ、マズイ!!』
邪神の体内には、自爆のために極限まで圧縮し、今まさに起爆寸前となっている【星砕きの極大絶望魔法・カタストロフィ】のエネルギーが、パンパンに詰まっているのだ。
すでに起爆のスイッチは押されている。
あと数秒もすれば、このエネルギーは解放され、谷底から凄まじい爆発を引き起こす。
もし爆発すれば、目の前にいるシルヴィに、致死量のダメージと衝撃波が直撃してしまう!!
『止マレ!! 止マレェェェェェッ!! 私ノ絶望エネルギーヨ、今スグニ消滅シロォォォォッ!!!!』
邪神は、自らの内に渦巻く破壊の魔力を、必死の思いで抑え込もうとした。
しかし、一度臨界点を突破した神話級の自爆魔法は、そう簡単にキャンセルできるものではない。
(このままでは、姫様が……姫様が私の自爆の余波で、お怪我をされてしまう!! それだけは、それだけは絶対に防がねばならない!!)
邪神は、究極の決断を下した。
外にエネルギーを放出できないのなら。
この莫大な破壊の力を、すべて【自らの身体の内側】へ向けて、無理やり逆流させるしかない。
『グォォォォォォォォォォォォォォッッ!!!!!!』
邪神の巨大な身体が、不自然に内側に向かってギュルギュルと圧縮され始めた。
自らが放った星を砕くほどのエネルギーを、一滴たりとも外へ(シルヴィのいる方向へ)漏らさぬよう、自らの内臓と魂を削って、強引に飲み込み、相殺し始めたのである。
バキバキバキバキッ!! ドグチャァァァァァッ!!
邪神の体内から、おぞましい破壊音が響き渡る。
それは、文字通り「自らの力で自らを内側から破壊している」音であった。
数千年の無敵を誇った邪神の装甲が内部から弾け飛び、ドス黒い血液(瘴気)が、シルヴィに一滴もかからないように、器用に背後の空間へと向かって猛烈な勢いで吐き出されていく。
「えっ……? えっ……?」
目の前で、巨大な怪物が突然号泣し始め、そして自分の身体を内側に丸め込んで自壊していくという、あまりにも意味不明な光景を前に、シルヴィは涙を引っ込めてポカンと口を開けていた。
一方、その背後。
満身創痍で倒れ伏していた七人の従者たちも、邪神の異変に気づき、愕然と目を見開いていた。
「……な、なんだと!?」
両腕を砕かれたロアンが、信じられないものを見る目で絶叫した。
「邪神の体内で極限まで高まっていた自爆エネルギーが……急速に、凄まじい勢いで縮小している!? 奴は、自らの内に破壊の力を逆流させて、自分で自分を壊しているのか!?」
「ば、馬鹿な……!!」
吐血しながらも、エランが震える声で叫ぶ。
「あのような星砕きの魔力を体内で暴発させれば、いかに邪神といえども、自らの魂そのものを完全に消滅させるに等しい苦痛とダメージを負いますわ!! なぜ、奴はそんな自殺行為を……!!」
そこまで言って、エランは、ハッと息を呑んだ。
そして、邪神の目の前に浮かんでいる、小さな金髪の少女——シルヴィの姿を見た。
「……ま、まさか」
セリアが、震える声で呟いた。
「聖女様が……聖女様が放たれた『お願い(もう怒らないで)』という言葉……。それが、あの邪神の心を、完全に浄化してしまったというのか!?」
「ヒャハハハ……! マジかよ……!!」
マイラが、乾いた笑いを漏らしながら天を仰ぐ。
「アタシらが命懸けで極大奥義をぶち込んでも、ピンピンして自爆しようとしてたあの化け物が……。姫様の、涙ながらの一言と、上目遣いを食らっただけで……。姫様を傷つけまいと、自分で自爆の威力を飲み込んで、勝手に自滅していってるってのか!?」
「……フッ。やはり、我らが姫様の魅力の前には、神も悪魔も等しく平伏す運命にあるということだ」
ノクティスが、血まみれの口元に、誇らしげな笑みを浮かべた。
「圧倒的な武力など、姫様の前では何の意味も持たない。姫様の『尊さ』こそが、この宇宙における最強の力なのだからな」
「悔しいですけれど……姫様の可愛さは、神話の兵器を遥かに超越しておりますわね……!」
ルルも、敗北感と圧倒的な崇拝の念を入り交じらせて、深く頷く。
七人の狂信者たちの見立ては、ある意味で(物理現象としては)完全に正しかった。
『ガ……ハッ……!! ゴハァァァァァァッ!!』
邪神は、自らの星砕きのエネルギーを完全に体内で相殺しきり、ついに限界を迎えて大量のドス黒い血を吐き出した。
しかし、その血すらも、シルヴィのドレスを汚さぬようにと、わざわざ自らの手で口を覆い、別の方向へと吐き捨てるという、涙ぐましいまでの配慮を見せていた。
『ハァ……ハァ……。マニアッタ……。姫様ニハ……傷一ツ、ツケサセナイ……』
邪神の巨大な身体が、ボロボロと崩れ落ちていく。
自爆のエネルギーを体内で暴発させた代償は大きく、山脈ほどもあった邪神の巨体は、急速にその質量を失い、シュルシュルと音を立てて縮み始めた。
そして、空を覆っていた赤黒い絶望の瘴気も、邪神の憎悪が完全に浄化されたことによって、嘘のように晴れ渡っていく。
太陽の優しい光が、数千年ぶりに、終焉の谷の最深部へと降り注いだ。
「あ……空が、青くなった……」
シルヴィが、眩しそうに空を見上げた。
その足元で。
先ほどまで世界を滅ぼそうとしていた巨大な邪神は、すでにその影も形もなくなっていた。
代わりにそこにいたのは……。
「……きゅぅん」
シルヴィの膝丈ほどのサイズにまで縮み切った、ちょっとダークな色合いの、フワフワとした毛並みを持つ、子犬と小さなドラゴンを掛け合わせたような『謎の愛玩動物(小動物)』であった。
「えっ……?」
シルヴィは目をパチクリと瞬かせた。
足元にいるその謎の小動物は、赤い大きな瞳をウルウルとさせ、尻尾をパタパタと振りながら、シルヴィのブーツにすりすりと頬ずりをして、完全に「服従」のポーズをとっていた。
神話の時代に世界を恐怖のどん底に陥れた最凶の破壊神は。
ステータスオール1の最弱吸血姫が放った、至近距離からのパッシブスキル(涙目のお願い)をモロに食らい。
世界を滅ぼすという野望をあっさりと捨て去り、ただの【究極のペット(デレ状態)】へと、完全に浄化されてしまったのである。
「えっ……嘘、もしかして、あなたがさっきの怪獣さん!?」
シルヴィの驚きの声が、すっかり晴れ渡った青空の下の谷底に、呑気に響き渡った。




