第45話:空から降ってきた吸血姫
ルクスヴェル大陸の最北端、世界を滅ぼす絶望の瘴気が渦巻く『終焉の谷』。
その最深部において、事態はルクスヴェル世界の歴史上、最も極限にして最も理不尽な膠着状態へと突入していた。
数千年の眠りから目覚め、世界を無に帰そうとした『古代の邪神』。
しかし、その野望は地上へ出る間もなく、最弱吸血姫シルヴィを狂信的に崇拝する七人の化け物たちによる「姫様のお肌を乾燥させた罪」という完全なる私怨(集団リンチ)によって、無惨にも打ち砕かれようとしていた。
ボロ雑巾のように叩きのめされた邪神は、最後の意地として自らの魂を圧縮し、大陸の半分を吹き飛ばす【星砕きの極大絶望魔法・カタストロフィ】による自爆を試みた。
対する七人の従者たちも、それを相殺すべく己の命を燃やし尽くす極大奥義を解放しようとしていた。
二つの、文字通り世界を終わらせるエネルギーが激突しようとした、まさに【コンマ0.0001秒前】の絶対的瞬間。
その両陣営の、真ん中。
爆心地となる空間の一点に、AIメイド・アオイが展開した広域転移魔法の光の柱が天を貫き。
そこから、マイラ特製のフリフリ絶対防御ドレスを着込み、右手に『ただの木の枝』を握りしめたレベル1の少女——シルヴィが、ポーンッと勢いよく飛び出してきたのである。
「みんなーーーーっ!! 喧嘩はダメーーーーっ!!」
シルヴィの、涙声の叫びが谷底に響いた。
転送の座標ズレ(邪神の莫大な魔力密度によって空間座標がわずかに歪んだため)により、彼女が出現したのは、なんと邪神の巨大な赤い眼球の【真正面・距離十センチ】という、超至近距離の空中であった。
「「「「「「「ひ、姫様ァァァァァァァァァァァァッッ!!!!????」」」」」」」
七人の猛者たちの喉から、本日何度目か分からない、絶望と驚愕の絶叫が轟いた。
時間が、極限まで引き伸ばされたスローモーションの世界。
七人の化け物たちの脳内では、宇宙の崩壊を目の当たりにしたかのような、凄まじいパニック演算が処理されていた。
(な、なぜ!? なぜ姫様がここにいらっしゃる!? ロイヤルスイートルームで、温かい毛布に包まれてスヤスヤと眠っておられたはずでは!?)
ロアンの獣の瞳孔が、極限まで収縮する。
彼の両腕は、すでに山脈を両断する『獣王・天破両断』の極大剣圧を振り下ろす軌道に入っていた。このまま振り抜けば、邪神ごと、その真正面にいるシルヴィまで両断してしまう。
(アオイ!! あのポンコツAI、姫様をこんな最前線に転送するとはどういう了見ですの!! いや、それよりも!!)
エランの顔面からすべての血の気が失せる。
彼女の杖からは、邪神を原子レベルで融解させる『星屑の殲滅雨』がすでに射出されかけている。
セリアの『神罰十字』の極大オーラ。
マイラの『メテオスマッシュ』の超高熱。
ダリウスの『滅竜ブレス』の劫火。
ノクティスの無数の『暗殺刃』。
ルルの『真紅の血界』。
七人が放とうとしていた、ルクスヴェル大陸を物理的に消し飛ばすレベルのオーバースペックな破壊エネルギー。
そのすべての射線上に、あろうことか、彼らが命に代えても守り抜くべき絶対の主・シルヴィが、無防備な姿で浮かんでいるのである。
(((((((このままでは……我々の手で、姫様を消し飛ばしてしまうッッ!!!!)))))))
それは、彼らにとって邪神の自爆などよりも数万倍恐ろしい、絶対の禁忌。
ステータス【体力:1】のシルヴィに、あのような極大奥義の余波がほんの数ミリでも触れれば、絶対防御ドレスの性能を限界突破し、彼女の清らかな身体は一瞬で塵となってしまうだろう。
「「「「「「「逸らせェェェェェェェェェェェェッッ!!!!!!!!」」」」」」」
七人の狂信者たちは、己の肉体がどうなろうと知ったことかと言わんばかりに、限界を突破した超反応で【攻撃軌道の強制変更】を強行した。
「ぐおおおおぉぉぉぉっ!!」
ロアンが、全身の筋肉を千切れるほどに軋ませ、振り下ろしかけていた大剣『滅山』の軌道を、強引に真上(天)へと捻じ曲げた。
バキバキバキッ!! と、彼自身の両腕の骨が自らの尋常ならざる腕力と慣性の法則に耐えきれず、悲鳴を上げて砕け散る。しかし、ロアンは痛みに顔を歪めるどころか、姫様を傷つけずに済んだ安堵の笑みを浮かべた。
「ガハッ……!! 精霊よ、軌道を、天へ……!!」
エランが、すでに放たれていた数万のプラズマ弾の座標を、自らの魂(寿命)を削る強制魔力操作によって、九十度上空へと捻じ曲げた。その凄まじい魔力逆流により、彼女の口から大量の鮮血が吐き出される。
「軌道修正!! 天の彼方へェェッ!!」
セリアが、自らの腕の筋肉を破裂させながら、巨大な光の十字架の射角を真上へと強引にカチ上げる。
「アタシの腕がもげようが関係ねえ!! 飛んでけ鉄クズゥゥゥゥッ!!」
マイラが、振り下ろしていた百キロのハンマーの遠心力を、自らの腰の骨を砕きながら上空へのアッパースイングへと変換する。
「燃え尽きろ俺の喉笛ェェェッ!!」
ダリウスが、放ちかけていた極大ブレスを、自らの首の骨をへし折る勢いで天を仰ぎ、上空へと吐き出す。
ノクティスとルルも同様に、自らの魔力回路を焼き切る覚悟で、すべての刃と血界の攻撃ベクトルを、完全に【真上の宇宙空間】へと向け直した。
七人の化け物たちが、己の肉体を破壊するほどの致命的な代償を支払いながら、無理やり射線を変更した究極のエネルギーの束。
それらはすべて一本の巨大な【破壊の光柱】へと融合し。
邪神とシルヴィの数メートル手前を掠めるようにして、終焉の谷の底から、空を覆っていた赤黒い絶望の雲に向かって、真っ直ぐに撃ち出されたのである。
ドッ、ズガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!!!
ルクスヴェル大陸の全土が、激しい地震に見舞われたかのように大きく揺れた。
七人の極大奥義を束ねたその光の柱は、邪神が展開していた分厚い瘴気の雲を、まるで熱したナイフでバターを切るかのように一瞬で蒸発させた。
それだけではない。
光の柱はそのまま成層圏を突き抜け、宇宙空間にまで到達し、そこで巨大な第二の太陽が生まれたかのような、目も眩むような超新星爆発を引き起こしたのである。
カァァァァァァァァ……ッ!!
夜の闇と赤い瘴気に包まれていた世界が、一瞬にして真昼のような純白の光に照らし出された。
爆発の衝撃波によって、大陸中を覆っていた絶望の雲は跡形もなく吹き飛ばされ、ぽっかりと開いた空の穴から、美しい満天の星空が顔を覗かせる。
国家殲滅などというレベルではない。星の自転軸すらもわずかに揺るがすほどの、完全なるオーバースペックの暴力。
「……ゲホッ、ガハッ……。ひ、姫様に……傷は……」
両腕を完全に粉砕され、血まみれになったロアンが、膝をつきながらも必死に顔を上げる。
「……ええ。私の結界が……完璧に機能しましたわ……」
口から血を流し、白目を剥きかけているエランが、震える杖でシルヴィを指差した。
彼らが命懸けで軌道を逸らしたおかげで。
爆心地のど真ん中にいたシルヴィは、髪の毛一本、ドレスのフリル一片たりとも焦げることなく、完全に無傷であった。
しかし、無傷とはいえ、彼女は今、転送の勢いのまま【空中に放り出されている】状態である。
転移魔法の出口は空中に設定されており、重力に従って、シルヴィの小さな身体は谷底に向けて落下を開始していた。
「ひゃああっ!?」
足場のない空中に放り出され、シルヴィが短い悲鳴を上げる。
ステータス【敏捷:1】の彼女には、空中で体勢を立て直すことなど不可能だ。このまま谷底の硬い岩盤に激突すれば、ただでは済まない。
『——マスターノ落下ヲ確認! 衝撃吸収プロセス、起動!!』
ロイヤルスイートルームからシルヴィの服に付与されていた通信用魔術回路を通じて、アオイの切羽詰まった声が響く。
「させるかァァァァァァァァッ!!!!」
その時。
自らの首の骨をへし折る勢いでブレスを上空に放ったはずの、竜騎士ダリウスが動いた。
彼は、首が不自然な方向に曲がり、口から黒煙を吐き出しながらも、自らの全身の筋肉を強制的に竜化させ、凄まじい脚力で大地を蹴った。
ドゴォォォォンッ!!
音の壁を突破し、ダリウスの巨大な身体が弾丸のように空中へと射出される。
(俺の腕は、俺の背中は、俺の竜の鱗は!! すべて、姫様を優しく受け止めるためだけに存在しているのだ!!)
ダリウスは、空中で落下していくシルヴィの下へと滑り込むと、自らの両腕の鱗を極限まで柔らかく変質させ、最高級の羽毛布団のような弾力を持たせた。
そして。
フワッ……。
「きゃっ!」
シルヴィの身体が、ダリウスの巨大で、信じられないほど柔らかい両腕の中に、一片の衝撃も与えられることなく、優しく、完璧にキャッチされた。
「スライディング・お姫様抱っこ」の空中バージョンである。
「……お怪我はありませんか、姫様」
ダリウスが、首から血を流し、全身から煙を上げながらも、完璧な紳士の(竜の)微笑みを浮かべて尋ねた。
「ダ、ダリウスさん! すごい血! 大丈夫なの!?」
シルヴィが、自分を受け止めてくれたダリウスの惨状を見て、涙目になって叫ぶ。
「フッ……姫様の温もりを感じられるこの両腕さえ無事ならば、首の骨の三本や四本、些末な問題に過ぎません。それよりも、姫様こそ、このような危険な場所に……」
ダリウスはシルヴィを抱きかかえたまま、ゆっくりと安全な地面へと着地した。
そこへ、ボロボロになったロアン、エラン、セリア、マイラ、ノクティス、ルルが、這うようにして集まってきた。
全員が、シルヴィに攻撃を当てないように軌道を逸らした代償として、両腕が折れていたり、魔力逆流で吐血していたりと、文字通りの満身創痍であった。
先ほどまで世界を滅ぼす邪神をタコ殴りにしていた最強の化け物たちが、今や死にかけの重傷者の集団と化している。
「みんな……! みんな!!」
シルヴィは、ダリウスの腕から降りると、血だらけになって倒れ込んでいる仲間たちの元へ駆け寄った。
「なんでこんなにボロボロになってるの!? だから言ったじゃない! 喧嘩はダメだって!!」
シルヴィの大きな赤い瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「私、アオイちゃんから聞いてびっくりしたんだよ! 私がお肌が乾燥するって言ったから、みんながこの『邪神』さんと戦いに来たって! そんなの、大げさすぎるよ! 私はただ、ちょっとくしゃみが出ただけなのに!」
シルヴィは、拾った『ただの木の枝』を地面に投げ捨て、両手で顔を覆ってしゃくり上げた。
「みんなが怪我するくらいなら……みんなが死んじゃうくらいなら、私、お肌カサカサのままでもよかったのに……! うわあああぁぁぁん!!」
それは、己の身を呈して戦ってくれた仲間たちへの感謝と、無茶をしたことへの本気の怒り、そして心からの心配が入り交じった、純度百パーセントの善意の涙であった。
「「「「「「「ひ、姫様ァァァァァァァァァァァッッ!!!!」」」」」」」
その、世界で最も気高く、愛らしい少女の涙を見た瞬間。
七人の従者たちは、己の肉体の痛みなど完全に忘れ去り、地面に這いつくばったまま、シルヴィ以上の大音量で号泣し始めた。
「あああぁぁぁ……! なんという慈悲深きお心!! 我々のような下賎な者の命を、ご自身の玉肌の潤いよりも重く見てくださるとは!!」
ロアンが砕けた両腕で地面を叩き、血の涙を流す。
「姫様が泣いておられる……! 私たちの無茶を心配して、涙を流してくださっている!! ああ、この温かい涙を一滴残らずフラスコに集めて家宝にしたいですわ!!」
エランが吐血しながら歓喜に打ち震える。
「我らが聖女様!! このセリア、貴女様のその優しさに触れられただけで、今ここで命を落としても本望にございます!!」
「ヒャハハハ!! 姫様、泣かないでくれよ! アタシらはこれっぽっちも痛くねえからよ!」
「姫様……! 姫様ァァァッ!!」
ボロボロの七人は、シルヴィの涙(叱責)を【究極のデレ】として完全に超解釈し、謎の感動と連帯感に包まれて、谷底で大号泣の渦を巻き起こしていた。
——そして。
その、あまりにもカオスで、理不尽で、意味不明な光景を、たった一人(一柱)、完全に置いてけぼりにされた状態で、ぽかんと見下ろしている存在がいた。
『………………………………ハ?』
古代の邪神である。
邪神は、自らを極限まで圧縮し、世界を滅ぼすための【星砕きのカタストロフィ】を起爆させようとしていた、まさにその瞬間に。
目の前に突然金髪の小娘が降ってきて、七人の化け物たちがパニックを起こして自らの極大奥義を宇宙に向けて誤射し。
その結果、邪神の自爆エネルギーは行き場を失い、さらに七人が勝手に自爆ダメージでボロボロになり、今は小娘を囲んで全員で号泣しているという。
この、あまりにもシュールすぎる状況展開に、邪神の【絶望と憎悪】で構成された思考回路は完全にショート(フリーズ)してしまっていた。
『……エ? ナ、ナンダコレハ……?』
邪神は、自爆のために圧縮していたエネルギーを、不発弾のように体内に抱え込んだまま、無数の赤い眼球をパチクリと瞬かせた。
『我ハ……今、世界ヲ滅ボソウトシテ……自爆シヨウトシテイタハズ……ダガ……。コイツラハ、我ヲ無視シテ……何ヲ泣イテイルノダ……?』
邪神の存在意義そのものが、強烈な肩透かしによってグラグラと揺らいでいた。
世界を滅ぼすための圧倒的な悪意が、少女の「お肌が乾燥する」という理由でボコボコにされ、自爆しようとしたら「喧嘩はダメ」という一言でうやむやにされる。
これはもはや、神話の戦いではない。ただの狂ったコメディ劇である。
そして、その完全にフリーズしてしまった邪神の無数の赤い瞳と。
涙を拭いながら立ち上がった、レベル1の最弱吸血姫シルヴィの、ルビーのように赤い大きな瞳が。
再び、至近距離で、バッチリと交差した。
「……あっ」
シルヴィが、巨大なドス黒い泥の塊(邪神)を見上げて、小さく声を漏らした。
この、最弱の少女と、最凶の邪神の【二度目の見つめ合い】。
これが、邪神の精神構造に致命的なバグを引き起こし、世界の歴史を最高に平和で狂った形へと書き換える決定的な瞬間となるのである。




