第44話:終焉の谷の頂上決戦
大陸最北端、『終焉の谷』。
かつて神々が自らの手で世界を護るため、数万の犠牲を払い、天と地を縫い合わせるような巨大な封印を施したとされる、絶対禁忌の領域。
太陽の光すら届かぬその深く暗い谷底から、今、数千年の眠りを破って復活した『古代の邪神』が、世界を滅ぼすための黒き瘴気と絶望の魔力波を撒き散らしていた。
『オォォォ……我ガ眠リヲ妨ゲシ世界ヨ……今コソ、全テヲ無ニ帰サン……』
山脈のように巨大で不定形な、漆黒のコールタールのような邪神の巨体。
無数の赤い眼球が蠢き、空間そのものを腐らせる触手がうねり、そこから放たれる圧倒的な絶望のオーラは、近づく生命の魂を根こそぎ喰らい尽くす。
邪神の復活を察知し、本能的にその配下(先鋒)となった数万の凶悪な上位魔物たちが、邪神の周囲を取り囲むように谷底を埋め尽くしていた。
まさに、この世の終わりの光景である。
このまま邪神が谷底から這い出せば、ルクスヴェル大陸は数日のうちに生命の死絶した星へと変貌するだろう。
神話の再現。絶対的な滅びの運命。
——しかし。
その絶望の軍勢が、いざ地上へ向けて進軍を開始しようとした、まさにその時。
「……見つけたぞ。あの薄汚い泥の塊が、姫様のお肌を乾燥させた元凶だな」
地獄のような谷底の空中に、突如として七つの極小の点が出現した。
古代の広域転移魔法によって直接この『終焉の谷』の最深部へと空間跳躍してきた、七人の化け物たち——シルヴィを狂信的に崇拝する、怒れる過保護な従者たちである。
「アタシの徹夜のルーンを破った罪、その泥水を一滴残らず干上がらせて償わせるぜ」
ドワーフのマイラが、鼻息荒く百キロのオリハルコンハンマーを肩に担ぎ直す。
「姫様の優雅なティータイムを邪魔し、あまつさえ『くしゃみ』をさせた大罪……! 万死、いや、億死でも足りませんわ!!」
エルフのエランが、杖を掲げ、全身から夜叉のような殺気を放つ。
彼ら七人の目に映っているのは、「世界を滅ぼす邪神」ではない。
ただ純粋に、「愛しの姫様の平和な日常(とお肌の潤い)を脅かした、絶対に許しがたい巨大な害虫」であった。
『……何者ゾ。我ガ絶望ノ前ニ立チ塞ガル、愚カナル羽虫ドモハ……』
邪神が、空中に浮かぶ七つの小さな点に気づき、無数の赤い眼球で彼らを睨みつけた。
その瞬間、邪神の放つ【精神破壊の魔力波】が七人に直撃する。並の生命体なら、一瞬で狂い死ぬレベルの絶望の波。
だが。
「フン……下等な精神干渉だな。姫様を想う我らの【究極の愛(狂信)】の前に、そのような泥のような魔力波が通用すると思うなよ!」
聖騎士セリアが、聖剣を抜き放ち、純白の聖なるオーラで邪神の魔力波をあっさりと弾き飛ばした。
彼らの精神は、すでにシルヴィへの愛で完全に飽和状態(バグ状態)になっており、邪神の絶望などが入り込む隙間は一ミクロンも存在しなかったのだ。
『——グルルォォォォォォッ!!!!』
邪神の配下である数万の上位魔物たちが、主への不敬に怒り狂い、一斉に咆哮を上げて七人に向けて跳躍した。
空を覆い尽くすほどの、おぞましい魔物の大群。
「チッ、目障りな雑魚どもが。姫様の御前にお連れする価値もない」
暗殺者ノクティスが、冷酷な目で指を鳴らした。
「ルル、行くぞ。道を開けろ」
「言われるまでもありませんわ! 姫様の睡眠時間を一秒でも長く守るため、一瞬で掃除します!」
ノクティスの影が、谷底の空間全体へと爆発的に広がり、そこから数万の『不可視の刃』が射出された。
同時に、吸血鬼ルルの放った『真紅の血界』が、谷底の魔物たちを巨大な赤いドームに閉じ込める。
「「【極大暗殺領域・死の舞踏】!!」」
シャパパパパパパパパパパパンッ!!!!
コンマ一秒の出来事であった。
空を覆い尽くしていた数万の上位魔物たちは、一切の悲鳴を上げる間もなく、空中で原子レベルにまで細切れに裁断され、血の一滴すら残さずに完全消滅した。
魔王軍の正規軍でも数ヶ月はかかるであろう殲滅戦が、魔界最高幹部の二人によって、ただの「指パッチン一回(お掃除)」で片付けられてしまったのである。
『……ナニ!? 我ガ眷属ドモヲ、一瞬ニシテ……!?』
邪神の無数の赤い瞳に、初めて「驚愕」の色が浮かんだ。
「雑魚の掃除は終わったぞ! 次は俺だァァァッ!!」
獣人ロアンが、黄金の闘気を爆発させ、空から真っ逆さまに邪神の巨大な頭部(不定形だが)に向けて落下していく。
「姫様を冷たい風に晒した罪ィ!! その腐った泥の身体で、骨の髄まで思い知れェェェッ!! 【獣王・天破両断】!!!!」
ズガァァァァァァァァァァァンッ!!!!
ロアンの大剣『滅山』が、邪神の巨体を真っ二つに両断した。
山脈をも切り裂くその一撃は、邪神の放つ絶対防御の瘴気を紙切れのように引き裂き、谷底の大地そのものを数百メートルにわたって粉砕した。
『ギ、ギャアアアアアアアァァァァァッ!?!?』
神話の時代以来、一度もダメージを負ったことのない邪神が、ルクスヴェル世界で初めての痛絶な悲鳴を上げた。
「まだ終わらんぞ!! 姫様のティータイムの空を赤く染めた罪、その泥ごと蒸発させてやる!!」
ダリウスが巨大な竜の姿となり、空を覆うほどの巨大な翼を広げた。
「俺の炎で、貴様の存在ごとこの谷を火葬してやる!! 【滅竜の極大紅蓮ブレス】!!!!」
ゴォォォォォォォォォォォォッ!!!!
太陽の表面温度に匹敵する超高熱のブレスが、両断された邪神の半身を包み込み、ジュウジュウと不気味な音を立ててその漆黒の身体を蒸発させていく。
『グオォォォォォッ!? バカ、バカナ……!! 我ハ、我ハ全テヲ滅ボス邪神……!! コンナ、コンナ人間ヤ獣風情ニ……!!』
邪神は狂乱し、残った半身から数千本の漆黒の触手を放ち、七人を空間ごと串刺しにしようとした。
「遅いですわ! 姫様の御肌の潤いに比べれば、貴様の触手など枯れ木も同然!!」
エランが杖を天に掲げる。
「【古代精霊・星屑の殲滅雨】!!」
空から降り注ぐ数万の超高熱プラズマ弾が、邪神の放った数千の触手を、根元から一本残らず消し炭に変えていく。
「アタシのハンマーで、その腐った脳天をペシャンコにしてやるぜェェッ!! 【オリハルコン・メテオスマッシュ】!!」
「聖女様の御前だ!! 塵一つ残さず浄化されよ!! 【聖絶・神罰十字】!!」
マイラの百キロのハンマーが邪神の顔面(と思われる部分)を陥没させ、セリアの巨大な光の十字架が邪神の心臓部を深々と貫き、浄化の炎で焼き尽くす。
『ギ……ギギギギギ……ッ!!』
復活してわずか数分。
世界を滅ぼすはずだった古代の邪神は、一歩も谷から出ることなく、七人の理不尽すぎる化け物たちによって、文字通り【タコ殴りのボロ雑巾】状態へと追い込まれていた。
その戦いは、もはや「神話の激突」ではなく、完全に「ブチギレた過保護な親(7人)による、近所の不良(邪神)への集団リンチ」の様相を呈していた。
「ハァ……ハァ……。どうだ、薄汚い泥人形め。姫様にくしゃみをさせた罪の重さ、少しは理解したか」
ロアンが大剣を肩に担ぎ、息を乱しながらも、ドス黒い笑みを浮かべて邪神を見下ろす。
他の六人も、全身に返り血(泥)を浴びながら、全く手を緩めることなく、邪神を完全に消滅させるための最後の一撃の準備に入っていた。
『……ユルサン。ユルサンゾォォォォォォォォッ!!!!』
ズゴゴゴゴゴゴォォォォォォォンッ!!!!
瀕死の重傷を負い、ボロボロになった邪神が、最後の力を振り絞って咆哮を上げた。
「……む?」
ノクティスが眉をひそめる。
『我ハ、世界ヲ終ワラセル者!! 貴様ラノヨウナ羽虫ドモニ、コノ誇リヲ汚サレテタマルモノカァァァッ!! 貴様ラモロトモ、コノ星ヲ、宇宙ノ塵ニ変エテクレヨウ!!』
邪神の残された泥の身体が、極限まで圧縮され、一点に集束し始めた。
それは、邪神が自らの存在(魂)そのものを崩壊させ、その莫大なエネルギーを爆発させるという、究極の自爆攻撃。
【星砕きの極大絶望魔法・カタストロフィ】。
「なっ……!? 自爆する気か!!」
セリアが顔色を変えた。
「まずいですわ! 邪神の全魔力が圧縮されています! あの爆発が起これば、この谷どころか、ルクスヴェル大陸の半分が吹き飛びますわ!!」
エランが血相を変えて叫ぶ。
「チッ! 姫様のお休みになっている聖都まで吹き飛ぶってのか!? 冗談じゃねえ!!」
マイラが慌てて絶対防壁のルーンを刻もうとするが、邪神のエネルギーの膨張速度が速すぎる。
『死ネェェェェッ!! 全テノ生命ヨ、絶望ト共ニ灰ト化セェェェェェェッ!!!!』
邪神の身体が、太陽のように激しく明滅し、今まさに、世界を真っ二つに割るほどの極大の爆発を引き起こそうとした。
七人の化け物たちも、この至近距離での星砕きの爆発を完全に防ぎ切ることは不可能だと悟った。
「クソッ……! 姫様の安眠を、守り切れないというのか……!!」
ロアンが絶望の表情で大剣を構え、自らの命を盾にして爆発を少しでも相殺しようと覚悟を決めた、まさにその時。
————シュガァァァァァァァンッ!!
古代の邪神と、七人の化け物たちの【ド真ん中】。
まさに爆発の中心地となろうとしている、空中のその一点に。
突如として、アオイが展開した『古代の広域転移魔法陣』の光の柱が、天を貫くように出現したのである。
「「「「「「「……えっ?」」」」」」」
七人の従者たちの時間が、停止した。
邪神の爆発のカウントダウンも、コンマ一秒のところでピタリと止まったように錯覚した。
光の柱の中から。
マイラ特製のフリフリ絶対防御ドレス(パジャマの上に無理やり着たため少し着崩れている)を身に纏い、右手には遺跡で拾った『ただの木の枝』をしっかりと握りしめた。
ステータスオール1の、最弱にして至高の吸血姫シルヴィが、ポーンッと勢いよく飛び出してきたのである。
「みんなーーーーっ!! 喧嘩はダメーーーーっ!!」
シルヴィの、涙目で、必死の叫び声が、地獄の底に響き渡った。
「「「「「「「ひ、姫様ァァァァァァァァァァァァッッ!!!!????」」」」」」」
七人の猛者たちの喉から、本日何度目か分からない、そして過去最大級の、鼓膜が破れんばかりの絶叫が轟いた。
なぜ。
なぜ、世界で最も安全なロイヤルスイートルームで、ふかふかのベッドで眠っているはずの姫様が。
世界が吹き飛ぶ1秒前の、邪神の自爆の【中心点】に、パジャマ姿(ドレス着用)で空から降ってきたのか。
「ひ、姫様!? なぜここに!? アオイの奴は何をしている!!」
ロアンが、爆発の危機も忘れて、空中でジタバタとパニックに陥る。
「危険ですわ姫様!! 今すぐ離れてください!!」
エランが悲鳴を上げる。
しかし、シルヴィは転送の座標ズレにより、あろうことか、極限までエネルギーを圧縮して今にも爆発しようとしている邪神の、巨大な赤い眼球の【真正面(距離十センチ)】に、フワリと着地(浮遊)してしまったのである。
「えっ……?」
シルヴィは、目の前にそびえ立つ、ビルよりも巨大なドス黒い泥の塊と、無数に蠢く赤い眼球を見て、完全にフリーズした。
「ヒッ……!? お、おっきい……!! 怖っ!!」
シルヴィの大きな赤い瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、全身がガタガタと震え始めた。
そして、古代の邪神もまた。
自爆のスイッチを押そうとしていたまさにその瞬間に、目の前に突然現れた【謎の金髪の少女】と、バッチリと目を合わせてしまったのである。
『……ハ? 何ダ、コノ脆弱ナ小娘ハ……?』
邪神の無数の赤い瞳が、シルヴィを捉えた。
この、最弱の少女と、最凶の邪神の【至近距離での見つめ合い】。
それが、世界を滅ぼす絶望の歴史を、根底から、そして最も理不尽な形で覆す【究極のバグのトリガー】となることを。
パニックに陥っている七人の従者たちは、まだ知る由もなかったのである。




