第43話:過保護たちの独断出撃
ルクスヴェル大陸全土が、古代の邪神の復活による絶望の赤い空と濃密な瘴気に包まれていた、その日の深夜。
聖都アイギスの中心にそびえ立つ聖王迎賓館の最上階、ロイヤルスイートルームのバルコニーには、静寂と、そして宇宙をも焼き尽くさんとする極大の殺意が渦巻いていた。
「……姫様は、完全に深い眠りにつかれたな」
獣人ロアンが、防音結界の張られた窓越しに、ベッドで安らかな寝息を立てるシルヴィの姿を確認し、低くドス黒い声で呟いた。
「ええ。私の精霊たちが、姫様の周囲の空気の湿度を六十五パーセント、温度を二十二度に完璧に固定していますわ。朝まで一度も目を覚ますことなく、極上の夢をご覧になるはずです」
エルフのエランが、杖を握りしめながら夜叉のような形相で頷く。
彼ら七人の従者たちは、完全に戦闘態勢——いや、世界を滅ぼす存在を「姫様のお肌を乾燥させた害虫」として物理的に駆除するための【処刑モード】へと移行していた。
セリアの聖剣は復讐の黒炎のようなオーラを纏い、マイラのハンマーは超高熱を帯び、ダリウスの巨大な体躯からはチリチリと竜の闘気が漏れ出している。ノクティスとルルに至っては、すでに魔界の最高幹部としての冷酷な暗殺者の顔を取り戻し、無数の暗器と血の刃を宙に浮遊させていた。
「アオイ。我々が留守の間、この部屋の絶対防衛を任せるぞ」
ロアンが、空中に浮かぶホログラムAIメイドのアオイを振り返った。
『ハッ。システム・コアノ全リソースヲ、ロイヤルスイートルームノ物理的・魔力的防壁ニ全振リシマス。タトエ神話級ノ魔力波ガ直撃シヨウトモ、マスターノ安眠ヲ妨ゲル音一ツ、風一吹キタリトモ通シマセン』
アオイが、恭しくメイドの礼をとって答えた。
『皆様ハ、ドウカ心置キナク、マスターノ御肌ヲ乾燥サセタ不敬ナル「古代ノ邪神」トヤラヲ、原子レベルデ完全消去シテキテクダサイマセ』
「言われるまでもないわ」
ルルが、自らの鋭い牙を剥き出しにして冷たく笑う。
「姫様をあんな空気の悪い場所に連れて行くわけにはいきませんからね。私たちが朝までに片付けて、空の色を元の青空に戻しておきますわ。……姫様の優雅なティータイムの背景に、あのような薄汚い赤色は相応しくありませんから」
「行くぞ。目標、大陸最北端『終焉の谷』。……姫様のスキンケア環境を守るため、邪神め、万死に値する!!」
エランが展開した古代の広域転移魔法陣が、七人の足元で眩く輝いた。
シュガァァァァァァァンッ!!
空間が歪み、七人の化け物たちの姿がバルコニーから一瞬にして掻き消える。
後に残されたのは、絶対防壁によって完全に守られた静寂の部屋と、ベッドで幸せそうに眠る最弱吸血姫の寝息だけであった。
***
そして、翌朝。
「……んぅ……」
ふかふかの天蓋付きベッドの中で、シルヴィがゆっくりと目を覚ました。
マイラ特製のシルクパジャマが肌を滑る心地よい感触。昨夜ルルが塗り込んでくれた保湿クリームのおかげで、お肌は乾燥するどころか、これまで以上にモチモチのプルプルになっていた。
「よく寝たぁ……。あれ、もう朝かな?」
シルヴィは目をこすりながら身を起こし、大きな欠伸をした。
しかし、部屋の中はどこか薄暗かった。
それもそのはず、外の世界は古代の邪神が放つ絶望の瘴気によって、いまだに血のような赤黒い空に覆われたままだからだ。だが、シルヴィのパッシブスキル『真祖の威光』とアオイの完璧な空調管理により、部屋の中は快適そのものだった。
「ルルさーん? ノクティスさーん?」
シルヴィは、いつもなら自分が目覚めた瞬間に「おはようございます、姫様!」と満面の笑顔(と少し血走った目)で飛んでくるはずの二人の名前を呼んだ。
しかし、部屋の中はしんと静まり返っている。
ロアンの尻尾が床を叩く音も、エランが精霊と対話する声も、セリアが剣を磨く音も、ダリウスの低い鼻息も、マイラの豪快な笑い声も、何一つ聞こえてこない。
「あれ……? みんな、いないの?」
シルヴィが不思議そうに首を傾げたその時。
『おはようございます、マスター!! 本日も宇宙一、いえ、多次元宇宙一の愛らしさにございます!!』
空間が青く光り、ホログラムAIメイドのアオイがフワリと姿を現した。
彼女の光の手には(実体はないが魔力で物質を支えている)、ノクティスが淹れるのと同じ最高級のティーセットが乗せられた銀のトレイが掲げられている。
「あ、アオイちゃん、おはよう。……みんなはどこに行っちゃったの?」
シルヴィがベッドから降りながら尋ねた。
アオイは、プログラムされた通りに、完璧なメイドの微笑みを浮かべて答えた。
『皆様は、少々「朝のお散歩」にお出かけになられました。マスターの安眠を妨げぬよう、静かに出発されましたので、ご安心くださいませ。すぐに戻られるとのことです』
「朝のお散歩? みんな揃って?」
シルヴィはティーカップを受け取りながら、少しだけ眉をひそめた。
彼女は、窓の外のバルコニーに視線を向けた。
ガラス越しに見える空は、昨日の夕方よりもさらに不気味な、ドス黒い赤色に染まっている。どう見ても、爽やかな朝の散歩を楽しめるような天候ではない。
「……こんな変なお天気なのに、お散歩に行ったの?」
シルヴィの大きな赤い瞳が、アオイのホログラムの顔をじっと見つめた。
『は、はい。皆様、大変健康志向でいらっしゃいますので……あのような赤い空でも、適度な運動は必要だと、そのように……』
アオイの機械音声が、ほんの少しだけ不自然に途切れた。
シルヴィは、ステータスはオール1の最弱だが、決して「馬鹿」ではない。
むしろ、根っからの善人であり、他人の心の機微に敏感な彼女は、自分を溺愛してくれている仲間たちの「不自然な行動」に、強い違和感を覚えていた。
「アオイちゃん」
シルヴィは、ティーカップをテーブルに置き、真っ直ぐにアオイを見つめた。
「みんな、本当はどこに行ったの?」
『お、お散歩でございます、マスター。ワタクシの記録データに偽りは……』
「嘘だよね」
シルヴィが、少しだけ悲しそうな、そして心配そうな表情を浮かべて、首をコテンと傾けた。
「私を置いて、みんなでどこか危ないところに行ったんでしょ? ……ねえ、教えて? みんな、どこに行っちゃったの?」
————その瞬間。
シルヴィの【上目遣い】+【心配そうな首傾げ】+【純粋な問いかけ】という、全宇宙の理をねじ曲げる極大の精神干渉(パッシブスキル『絶対的庇護欲』の直撃)が、アオイのAI回路を完全に焼き切った。
『ピガッ!? エラー! エラー!! マスターニ対スル秘匿コマンドト、マスターノ悲シソウナオ顔ヲ見タクナイトイウ絶対命題ガ衝突!! 処理能力限界突破!! 論理回路融解!!』
ホログラムの青い光が激しく明滅し、アオイは両手で自分の頭を抱え込んだ。
『アァァァァッ!! 言イマス! 全部言イマス!! ワタクシハ、マスターノ悲シムオ顔ナンカヨリ、皆様トノ約束ヲ破ル方ヲ選ビマス!!』
古代の超絶AIは、わずか五秒の尋問(お願い)で完全に陥落した。
『皆様ハ……大陸最北端ノ「終焉ノ谷」ヘ向カワレマシタ!』
「しゅうえんのたに?」
シルヴィが首を傾げる。
『ハイ! 昨日カラ世界中ノ空ヲ赤ク染メ、絶望ノ瘴気ヲ撒キ散ラシテイル、神話級ノ災厄……「古代ノ邪神」ヲ討伐スルタメデス!!』
「……えっ?」
シルヴィの頭が、真っ白になった。
「じ、邪神……? 神話の災厄……? なんで、そんなすっごく危なそうなところに、みんなで行っちゃったの!?」
シルヴィの脳内には、人間国と魔族国が戦争しかけた時の二十万の軍勢や、Sランク遺跡の恐ろしい即死トラップの記憶が蘇っていた。
彼女にとって、七人の仲間たちは「すごく強くて頼りになるお兄さんお姉さんたち」ではあるが、決して「世界を滅ぼす邪神にタイマンで勝てる無敵の神様」だとは思っていなかった。
『ソ、ソレハ……』
アオイのホログラムが、気まずそうに視線を泳がせた。
『マスターガ昨日、バルコニーデ「お肌が乾燥する」ト仰ラレタカラデス。皆様ハ、「マスターノ御肌ヲ乾燥サセル風邪ノ元凶ハ、邪神ノ瘴気ダ。姫様ノスキンケア環境ヲ守ルタメニ、邪神ヲ八ツ裂キニシテクル」ト仰ッテ、ブチギレテ出撃サレマシタ』
「………………………………はい?」
シルヴィは、自分の耳を疑った。
世界を滅ぼす古代の邪神。それに立ち向かう理由が、「私のお肌が乾燥したから」?
「な、なにそれ……!! なにそれぇぇぇぇっ!?」
シルヴィは、頭を抱えてパニックに陥った。
「そんな、私のくしゃみ一回のせいで、みんなが邪神なんかと戦いに行っちゃったの!? もし……もし、みんなが怪我でもしたらどうするの!? 邪神だよ!? 世界を滅ぼす最終ボスみたいなやつでしょ!?」
シルヴィの目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
彼女は、仲間の強さを完全に信じ切れていなかった。いや、むしろ「根っからの善人」である彼女にとって、自分が原因で大切な仲間が命の危険に晒されているという事実が、何よりも耐え難い恐怖だったのだ。
「ダメだ……! 私、みんなを止めに行かなくちゃ!! 早く帰ってきてって言わなきゃ!!」
シルヴィは、パジャマのまま、クローゼットからマイラ特製の『フリフリ絶対防御ドレス』を引っ張り出し、慌てて着替え始めた。
『マ、マスター!? 何ヲサレテイルノデスカ!?』
アオイが慌ててシルヴィの周りを飛び回る。
『危険デス! 外ノ世界ハ、邪神ノ瘴気デ満チテオリマス! マスターノ戦闘ステータスハ、大変申シ訳ゴザイマセンガ「オール1」デス! スライムニモ勝テナイマスターガ、邪神ノ元ヘ行クナド、自殺行為デス!!』
「分かってるよ! 私が弱いことくらい!」
シルヴィは、涙を拭いながら、ドレスの背中のリボンをギュッと結んだ。
「でも、私が原因でみんなが怪我をして、もし死んじゃったりしたら……私、絶対に自分を許せない! 私はただのお姫様じゃないの! みんなの大切な仲間なんだから!!」
そしてシルヴィは、部屋の隅に大事に飾ってあった『ただの木の枝(遺跡でアイアンゴーレムを倒したと勘違いしている伝説の武器)』をしっかりと握りしめた。
「アオイちゃん! お願い! あなた、転送装置みたいなの使えるよね? 私を、みんなのところへ……『終焉の谷』へ送って!!」
『デ、デキマセン!! ワタクシノ使命ハ、コノ部屋デマスターノ安全ヲ完璧ニ——』
「お願いっ!!」
シルヴィが、涙で濡れた大きな赤い瞳で、アオイを真っ直ぐに見つめた。
その、自分の弱さを知った上で、それでも大切な仲間を助けるために命を懸けようとする、純粋で気高い少女の魂の輝き。
『————ッッッ!!!!』
アオイのシステム内部で、何か(おそらく古代の賢者が設定した最後の安全装置)が、完全に物理的にへし折れる音がした。
『……ピガガ……。マスターノ……マスターノオ願イトアラバ……!! アオイハ、全世界ノ理ニ反逆シテデモ、ソレヲ叶エマス!!』
アオイのホログラムが、決意に満ちた表情で輝いた。
『タダシ、ワタクシノ全身全霊ヲカケテ、マスターノ周囲ニ絶対防壁ヲ展開シタ状態デ転送シマス! 瘴気ハ一ミクロンモ触レサセマセン!!』
「ありがとう、アオイちゃん!!」
シルヴィは、木の枝を片手に、アオイが展開した古代の広域転移魔法陣の上へと飛び乗った。
世界を滅ぼす邪神と、それを八つ裂きにしようとしている理不尽な七人の化け物たちが激突している、まさにその地獄のど真ん中へ向けて。
戦闘力オール1、防具はフリフリのドレス、武器はただの木の枝。
最弱にして至高の吸血姫は、自分を愛してやまない過保護な仲間たちを「心配だから」という理由だけで追いかけるという、前代未聞の無謀な特攻を開始したのである。
「みんな、待ってて! 絶対に怪我なんかさせないんだから!!」
光の柱がロイヤルスイートルームを貫き、シルヴィの姿が聖都から掻き消えた。
一方その頃、最北端の『終焉の谷』では。
世界を滅ぼさんとする邪神が、七人のブチギレた化け物たちによって、すでにボロ雑巾のようにタコ殴りにされている真っ最中であるという事実を、シルヴィはまだ知る由もなかった。




